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第拾章:あるべき姿へ

06:チョコレート

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「胡涅、腹は減ってないか?」

「……うん」


炉伯に聞かれて胡涅はうなずく。
彼らはどんなときでも、常備する癖がついているのだろう。
ひとくち型のチョコレート。
一般的に流通しているそれは、栄養価が高く、胡涅が口にできる数少ない「美味しい」もの。食べればすぐに眠ってしまうため、あまり多くは食べられない。
だから、ご褒美には高級チョコを一粒だけ。今は気分ではないが、炉伯が見せてくれたのは数少ない大好きな高級チョコなのだから、食べたくなる。


「やっぱり、食べる」


ちょうだいと口を開ければ、すぐに炉伯はそれを口のなかに入れてくれた。


「ぅえ……なに、これ…まずい」

「身体のほうも完全に夜叉化してるな」


朱禅が布をめくって、キスをしてくる。
まずいものを代わりに食べてくれるのかと思ったが、舌が混ざりあって、熱で溶けていくチョコレートはいつも通り美味しく感じた。


「……ん…っ…ぅ?」


交わす口付けの合間から、胡涅は疑問符を吐き出しては、どういうことかと問いかける。それにはチョコレートをくれた炉伯が答えてくれた。


「夜叉の食事は体液だからな。混ぜなきゃ旨味はねぇよ」

「ぬ……ぅ、にゅ…ッ」

「特に胡涅は身児神としての血を持っている。人間の食べ物を栄養価に変えられないせいもあるだろう。夜叉として満たされれば、それほどまでマズく感じることはない」

「で、でも、朱禅と炉伯が作ってくれる料理はいつもおいしかった」

「人間だったときのはなしだ」

「え……じゃあ、もう……二人が作ったご飯は食べれないの?」


そこで見た朱禅の赤い瞳が、優しく揺らめくのを見て胸が高鳴る。


「いつでも作ろう」

「胡涅が望むならば」


離れようとする朱禅の唇についていけば、今度は入れ替わるように炉伯が布をあげて口付けて来る。


「愛しいな、胡涅。ただ、受け付けないほどマズく感じるときは足りないのと同じ。人前で犯されたくなけりゃ、発情する前にキスをねだれ」


覚えておけと、炉伯が口内を蹂躙する舌の厚みに、ふわふわと思考が歪んでくる。身体を浮かせ、甘えるようにすり寄ってしまうのも身体が夜叉化したせいなのだろうか。


「……ッ…」


炉伯の手が腰を抱く代わりに、そっと下腹を押してきた。


「早く腹一杯食わせてやりてぇ」


その言葉の意味を認識したとたん、ぞくぞくと電流が駆け巡り、立っていられなくなる。
漏らさなかっただけ偉いといいたい。
炉伯の手のひらから何か波のようなものがきて、子宮付近が熱くなって、それから甘い絶頂みたいな余韻が続いている。
毘貴姫のときと全然違う。優しいのに、深い部分まで刺激されて、内部が勝手に痙攣している。


「……ぁ……ふっ」


くてっと、炉伯の腕の中で崩れた胡涅は、そのまま身体を姫抱きにされて運ばれる他ない。
毘貴姫といい、炉伯といい、不意打ちで与える刺激にしては強烈だと叱りたい。こんな弱点を付加されては、これから何度同じ方法で強制絶頂させられるのかわからない。


「愛らしい顔を我ら以外に見せるな」


バサッと頭の上から、朱禅が羽織っていた着物をかぶせられたが、発情して真っ赤になった顔を見られずに済むならありがたいと、胡涅は素直にそれにくるまる。


「せやけど、将充とやらも大概な才能を開花させたな」

「夜叉殺しではなく生かす才か」

「将門之助殿は夜叉を殺す才能しか咲かず、棋綱に丸め込まれましたからね。果たして将充殿は、どう相対していることやら」


瀨尾、紘宇、吟慈の声が少し遠くに聞こえるのは、朱禅の羽織りと炉伯の腕のせい。それでも、興味のある話題となってはいつまでも隠れているわけにもいかず、胡涅はそっと顔を覗かせた。


「……ッ!?」


時空が切り取られたみたいに、それは忽然と現れる。


「胡涅、まだ早ぇよ」


炉伯にくすりと笑われて、朱禅の羽織りごと抱き直されたが、隙間から見えた光景は想像をはるかに超えていた。
まず、自分は八束山のハイキングコースを歩いていると思っていた。夜の暗がりでも整備された道は見通しがよく、左右を挟む木々は枯れ葉を落としてそこにあった。
全員、ゆるやかに、なごやかな雰囲気でピクニック気分でそこにいた。
それなのに、今はそちらの方が夢だと思う。
胡涅が見たものは、草ひとつはえない荒野に無数の屍。愚叉がまるで白夜みたいな明るい空に向かって灰色の塵となって昇っていく光景。
見覚えのある狗墨の背中。
炉伯以外の全員が抜刀して、そこにいた。
いつ、どこで、誰が、なにを。状況把握につとめる思考回路が、ぐるぐると炉伯の腕の中で朱禅の匂いに守られる。


「……ろ、はく?」


とても静かで、静かすぎて、耳が痛い。
音も風も感じない静寂が、耳鳴りを連れてくる。


「しゅ……ぜん?」


ぎゅっと、包まれる中で息を潜めてみた。
感覚的に、今いる場所は狭間路と呼ばれる空間に違いない。人間の世界と夜叉の世界の狭間にある道。
夜叉の血を持つものだけが立ち入ることを許される場所。


「胡涅、いいぜ」


恐怖と不安から、朱禅の羽織りを押し上げて顔を覗かせた炉伯の首に抱きついてしまった。
よしよしと頭を撫でてくれる大きな手が、いつもの炉伯で心地いい。


「邪魔物は片付いた。胡涅、けじめをつけろ」


そう告げられて、なにのけじめをつけるのかと、胡涅はゆっくりと顔をあげる。


「…………え」


そこには何かを取り囲む全員の姿。
狗墨をはじめ、朱禅はもちろん、吟慈、紘宇、瀬尾が輪になって、中心に日本刀の刃先を向けている。輪の中心には、気絶してうつ伏せに倒れた将充と、崩れ落ちたみたいな黒くて小さな物体。


「堂胡と最後の別れだ。人間として、やり残したことを成せ」


炉伯が連れていってくれた。
そして、教えてくれた。
その物体と名前が、自分の知っている人物とリンクするまで随分時間がかかってしまったのは、あまりにも原型をとどめていない姿のせいかもしれない。


「………おじい、さま?」


炉伯の腕から降りた胡涅は、朱禅の羽織りを炉伯に預けて、その物体に近付いていく。
起立した人間を上から手のひらで潰したみたいに、身長が三分の一ほどしかなく、全身の皮膚がたるんで、シミやシワにおおわれている。
うつろな瞳、抜けた歯のせいで、本来の年齢は何歳だったかと、思わずそんな感想が浮かんだ。


「ぉ゛…ォ…ふ、じ……み…づ」

「お祖父様……胡涅、です」

「藤蜜、わ゛じ……の゛ふ……じ…蜜」


人間の言葉が通じないのか。
通じたとしても、おそらくもう会話することはできないだろう。


「……っ…おじいさま」


近づいて触れようとするのを誰も止めない。
危険はないと八束の衆が判断したなら大丈夫だと、なぜかそんな気がして、気づけば胡涅は堂胡の前に膝をついて、その両手をのばしていた。
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