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弐書:封花印

挿話:渓谷を渡る船

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鋭利な三角錐を何本も突き刺した川は、歴史を重ねたむき出しの岩肌を縫うように張り巡らされ、ふたつの帝国を結んでいる。山岳地帯に設けられた建造物は岩肌に面して存在感を放ち、朱塗りの柱や黒い瓦屋根、石壁の合間からこぼれ落ちていく滝が見事な景観を生み出していた。


「で、ジン。第壱帝国に何の用だよ?」

人々は船で往来するのが当然として、日よけの布で覆った籠で運ばれる。
遡ること、十日ほど前のこと。
船頭が川に差した棒で流れを操作するのを横目に、アベニは目の前で書物に目を通すジンの背中に声をかけた。


「ふぁあ。こっちは活動時間が朝だから苦手なんだよな」


大きな欠伸をこぼすのは、夜明け前に出発した理由以外に、直前まで邪獣退治に明け暮れていたせい。物騒な世の中。人々の生活を守るためとはいえ、広大な領地を見回るのも容易ではない。


「お偉方に会うならコウラかヒスイにでも頼めばいいじゃねぇか」

「なんだ、不服か?」

「不服はねぇけど、あるだろ、こう、適材適所ってやつが」

「それならば、問題ない。そなたがうってつけだ」


読んでいた本を閉じて、静かに振り返ったジンの眼差しにアベニは怠惰な姿勢をあらためる。いや、実際には欠伸を止めてジンを見下ろしただけだが、聞く姿勢を見せたという点では変わりないだろう。
金色のジンの髪や瞳が、普段よりも眩しく見えるのは朝陽が大河の表面を照らし始めたせいかもしれない。


「てか、こっちくんのに他に従者は連れてねぇのかよ。物騒だぞ?」

「そなたがいれば問題ない」

「いやいや。四獣信仰があるっつっても、自分一人に守れる範囲なんか限られてるからな」


四獣となって二十年。
今さら、気をつかう間柄ではないが、護衛があまりにも少なすぎるとアベニは首をかしげる。そのとき、ジンが読んでいたらしい書物の表紙が視界に映って「ああ」と察したように苦笑した。


「熱心に何か読んでると思ったら、天女伝説か」

「ああ。わたしが知りたい内容に一番近いことが書かれている」

「だけどそれ、作者不明の民間書物なんだろ?」


他の誰でもなくヒスイが用意したのだから「ただの本」ではないと、アベニは手を伸ばしてジンから本を受け取る。紙は汚れて、ところどころ破れているだけならまだしも、染みや欠けもひどい。保存状態が悪かったのか、それとも意図的に隠されていたのかは定かではないが、作者不明の書物は三百年ほど前に作られ、現在に残るたった一冊でもある。
数か月前、ジンがアザミの元から帰ってくるなり「天女にまつわる本を手に入れろ」とヒスイに依頼して、数日前にようやく手に入れた代物。「古ければ古いほどいい、作者は問わない」と、珍しく真剣な依頼だったこともあり、ヒスイも国中を探す羽目になったとぼやいていた。


「で、わざわざなんで第壱帝国に行くんだよ。こっちは兄貴に任せてるんだろ。統王会議はまだ先だよな?」


興味なさそうに本をぱらぱらとめくっていたアベニは、その途中にある絵に目を止めて一瞬何かを考えこむ。けれど、すぐに顔をあげてジンの方を見て、それから口角を引きつらせて固まった。


「は……ジン、なにしてる?」


普段は高い位置でひとつに結ぶ長い金髪を団子状にまとめ、ひもで結んだジンは、そのうえに庶民がかぶる帽子を取り付けている。さらに、高級の衣を脱ぎ始め、代わりに簡素な庶民の服を着ているのだから理解に苦しむ。


「アベニ、そなたも着替えろ」


いつの間に用意されていたのか。ジンはアベニにも庶民の格好になれと命じてくる。
もしかしなくても、もしかするのだろう。


「……お忍びなら、最初からそう言えよ」


文句を言いながらもアベニはジンの用意した服に着替え始めた。
変装するのは珍しいことではない。統王として陰禍払いに国中を巡るジンは、ときどき変装をして各地に赴く。保身のためであり、悪目立ちを避ける目的もあるが、本家本元の第壱帝国に足を運ぶときには珍しい。
特に、身分がものをいう第壱帝国で庶民の格好は安全とはいいがたい。


「ヒスイはこの本を第壱帝国の南雲で入手したと言っていた」

「よりにもよって帝国一番の貧民街かよ。魔窟だぞ、あそこは」

「統王では足が運べない場所だ」


ふふんと得意気なジンを見て、アベニは急に肩の力が重くなってきたと溜息を吐き出す。
南雲は帝国の外れに位置する暗黒の都。犯罪も横行し、この上なく治安が悪い。今は改革が行われ、徐々に犯罪件数は減っているものの、他と比較すれば圧倒的に多い。
昔は上位階級たちのゴミ捨て場として機能していたが、ゴミを拾って生活していた者たちが、地下深くに向かって掘られた穴に沿って居住区を形成してできた街といわれているだけあって、環境的にも問題視されている。


「待てよ。ヒスイが南雲だと口を割るか?」


ひょうひょうと見えて、意外と口が堅いヒスイが、好奇心旺盛なジンに危険地帯を教えるわけがない。アベニは自分にしては冴えた観点だと、ジンに真相を求めた。


「……イヤな予感がする」


爽やかに微笑むジンの顔。こういう顔をするときは、ヒスイ以上に厄介なことが待ち受けている。長年の経験則から背筋を駆け抜ける悪寒を思えば、その予感は当たっているのだろう。


「教える代わりに、大変な思いをして入手した褒美が欲しいと言われてな」

「ちょっと待て、何も聞いてねぇぞ」

「諦めろ、アベニ。そなたの番は持ち越しだ。安心してわたしに同行しろ」

「嘘だろ。おい。ヒスイがもう七日、アザミと過ごすってのか?」

「南雲は治安改革が難航している。わたしが自ら足を運んで現状を把握するべきだと再三申し立ててきたのに、上の連中は首を縦に振って許可しない。だが、私用として足を運ぶのだ。文句は言わせん。朱雀信仰のある土地だしな」


それで白羽の矢が立ったのかと、アベニは自分が朝からジンと大河を揺れる船の上にいる現実を呪っていた。何もかもがうまく重なり過ぎている。ヒスイの策略が見える気もするが、すでに敗北者は決まり、船は山岳の入り江にたどり着こうとしている。


「ずっと不思議に思っていた」


先に着替え終えたジンが、身分証や護身用の刀、貴重品をまとめるアベニを横目に口火を切る。アベニは「なにが?」と緊張感のない声で話の先を促していた。


「三百年前、元はひとつだった帝国は天女により二つに分かれた。時の帝は災厄をもたらす天女を地上に封じ、四獣にその監視を命じた。天女を封じる器である花魁を監視する風習が今も受け継がれているのは、これが始まりだとされている。天女を封じた黄宝館を中心に麒麟を築き、四獣も周囲に拠点を構えた。それが今の第弐本帝国、燈郷(とうきょう)の成り立ちで建国史にもそう記されている」

「それの何が不思議なんだよ?」

「第壱帝国は三百年以上前から存在している。四獣信仰は花魁信仰よりも古く、山岳には四獣を祀る多くの神社仏閣が存在する。それなのに、今の四獣を表す言葉は天女と同じ三百年前からしか登場しない。第壱帝国は朝を第弐本帝国は夜を司り、各々に活動時間帯も異なる。これは、第壱帝国に邪獣が出没しないからだ。では、なぜ邪獣が現れるのか。邪獣は人々の負の感情である陰禍の集合体が具現化したもの。統王が第弐本帝国に配置されるのは、陰禍を払う力があるからといわれているが。負の感情など、どこでも沸く」


第壱帝国が負の感情がわかないほど平和かと言われると、そうでもない。
古くからの伝統と格式を重んじ、身分や出自がすべて。王族や華族以外は価値がない。格差は大きく、才能や能力が秀でていようと、それを誇示できるのはほんの一部であり、貧困や病気に苦しむ民衆はどちらも同じだけいる。
人身売買は法律で禁止されていても行われている。
実際、第壱帝国でさらわれた女が第弐本帝国の遊郭に売られるのも珍しい話ではない。


「これはひとつの仮説だが」


ジンにつられて考え込んでいたアベニは、さらに追加される情報に耳を傾ける。


「邪獣は天女を封印から解き放とうとしているのではないだろうか」


陰禍払いに人生を注いでいたジンだからこそ、気付いたこともあるのだろう。もしかすると邪獣を退治していた四獣はもっと前から気付いていたのかもしれない。


「麒麟に近い場所に出没する邪獣ほど、強靭で獰猛なものが多い」

「それは、まあ。そうだが」

「邪獣は町や人を襲い、あてもなく暴れるといわれているが、あの夜、わたしを襲った邪獣は、明らかに意志をもってわたしを狙っていた。それにアザミの左手首に刻まれた封花印が、わたしの怪我を治癒させたのも疑問が残る」


天女を封じる器である証拠。左手首の封花印は代々継承されるものではなく、統王の交代と同時に新たに選別される。それは四獣も同じであり、三百年たった今でもその成り立ちや方法は解明されていない。
謎は多く、けれど、その謎を当然として世界は受け入れている。


「難しいことはコウラかヒスイと話してくれ。頭が痛くなってきた」


自分には専門外だとアベニは頭を抱えて、ジンに本を返却した。
ジンは本を受け取りながら「書物にはこうある」と暗記したのだろう一説を口にする。


男は女の大事なものを隠した。
魔那は女の命であると知っていたのに、男は女を我が物にするため、自己の権力をもってそれを沈めた。
魔那を失った女は天に帰れず、地上は荒れた。
女は四獣と共に地上の穢れを払う役目を負っていたが、魔那を失った女にその価値はなく、男は嬉々として地上に留まるしかなくなった女を慰めた。
それでも女は悲しみに暮れた。魔那を返却するように男に求め続けた。
男は魔那以外のすべてを与えた。四獣を傍に置くことも許した。
それが何の慰みになるだろう。金色に輝く天に近い場所で、女は今も魔那を探している。


「以前、アザミに欲しいものを尋ねたときに」


必死に理解しようと頭を働かせていたアベニは、ジンの口からアザミの名前が出てきたことに驚いて、まじまじとその顔を眺める。
朝の陽光が端正なジンの顔を普段よりも輝かせて見せるのか。
どこか遠く。差し込む光の中に見える何かに向かって、ジンは静かに言葉を落としていた。


「自由が欲しいと言われたのだ」

「………ジン」

「わかっている。アザミに自由を与えるには、わたしが死ぬ他ない」


どこまでも寂しく、それ以上に優しい声で話すジンに、かける言葉が見つからない。
アザミは本当にそんなことを言ったのだろうか。
ジンが来るのを待っていたアザミが、あれほど毎日願い、祈っていたアザミが、ジンの死を望むはずがないと信じたい。


「安心しろ。わたしは死なぬ」

「だ……だよな」

「だが、アザミに自由をやりたいとは思う」


だから手伝ってほしいと続けるジンを無下にできるほど、アベニも気持ちがわからないわけではない。できることなら、アザミを自由な空の下に出してやりたいと思う。それはジンの死で得られるものではなく、ジンと一緒に生きる空の下であってほしいとも思う。


「ったく、どいつもこいつも不器用だな。ジン、このアベニ様が手伝うからには中途半端に終わんなよ」

「ああ、そのつもりだ」

「んじゃ、久しぶりに友人として、いっちょ派手に遊びますか」


たどり着いた橋場で、ジンとアベニは庶民として降り立つ。
向かう先は南雲。旅路の空だけが晴れた青を映していた。
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