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28.大切な人の名前
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教育実習期間も半ばを過ぎた。最初から緊張した素振りのなかった神谷の実習は、少しの問題点もあるものの総じて順調と言えるものだった。
最初に注意した距離感。僕に対しては少しばかり改善したが、生徒達とは宣言通り密接な関係を築いていた。それが生徒達から慕われる現状に結びついていると言っても過言ではない。
授業の後に質問に来る生徒も多く、この調子なら彼女はきっと良い先生になれるだろうと思わずにはいられなかった。
順風満帆と思われる彼女だったが、何故か小春ちゃんとだけはウマが合わなかった様だ。
小春ちゃんは事あるごとに神谷に突っかかっているし、彼女もそんな小春ちゃんに対してだけは大人気ない対応をしている。どちらにも非があるのでお互い改めて欲しいと思っているが、とりあえず今は様子を見ている……と言えば聞こえが良い。
家で小春ちゃんに理由を尋ねてみたが『瓜生先生には関係ない』の一点張り。
神谷にも注意したのだが『あの子への接し方を改める気はありません』との事だった。
裏では既に手を尽くしており、実際にはお手上げ……が正しい表現となる。
他にも気になったのは、そんな2人のいがみ合いを周りの生徒達が生暖かい目で見守っている事だった。
文句の1つでも言ってもらえれば、僕もやりやすいのに……。
そんな事を考えていると、教壇に誰かが近づいてくる気配がした。
「瓜生先生、授業に使った教材を職員室に運ぶの手伝います」
その正体は小春ちゃんだった。
「これは私と優先生で運べるから大丈夫。それより名取さんは次の授業の準備を優先した方が良いんじゃないかしら」
僕が答える間もなく、すぐさま小春ちゃんの申し出を神谷が断る。2人は睨み合い、教室内には一瞬即発の空気が流れ始める。
またか。このやり取りを見るのは一体何度目になるだろうか……。
僕は額に手を当てて、これ見よがしに溜息を吐いた。
小春ちゃんとしては、夏休みに友達を家に呼んだ分の借りを返しておきたいのだろう。だけど、神谷の言う通り手が足りているのも事実。
客観的に見れば神谷の言い分が正しいので、僕からも小春ちゃんに断りを入れて場を収めた。
すんなり引き下がってくれたので、とりあえず神谷を連れて職員室へ戻る事にした。
帰ったら小春ちゃんの機嫌が悪いんだろうな。
『神谷先生の肩ばかり持って』と言われるのは分かりきっているので、その足取りは知らず知らずのうちに重くなっていた。
「優先生、名取さんって昔の私に似てますね」
僕はその質問に何も答えず、苦笑いを浮かべる。本当の事を言う訳にもいかず、心の中で違うとだけツッコミを入れておいた。
ただ、最近の小春ちゃんは変わってきた部分もある。その最たるものが、僕に甘えてくれる様になった事だ。
先日、『友達と遊びに行きたいのでお小遣いが欲しいです』と相談された時は嬉しさの余り思わず1万円札を財布から取り出した。
その様子を見ていた雪さんに、僕が割と強めに怒られてしまうというオチがついてしまったのは未だに納得がいってない。
娘に甘えられる父親というのがどんなものか分からないが、僕があの時感じた気持ちはそれに近いものだったと思う。
「優先生は大丈夫だと思いますが、くれぐれも間違いを犯さないで下さいね」
神谷に声を掛けられ我に返る。それを君が言うとはな……。僕と小春ちゃんは親子の愛情といったもので神谷が心配する様なものではない。
ただ本当の事は言えないし、自虐して力なく笑う彼女に掛ける言葉も上手く見つからない。
気まずい空気を払拭したいのに、気の利いた話題も思い浮かばない。こういう時に己の無力さを否でも痛感してしまう。
「優先生、私の話ちゃんと聞いてますか?」
「ああ、聞いてるよ」
考えている事を悟られまいと、出来るだけ感情を込めずに返事をするだけで精一杯。
職員室までの道中、僕達の間にそれ以上の会話はなかった。
「瓜生先生、少し宜しいでしょうか?」
職員室に戻ると、益田先生に声をかけられた。
「益田先生どうかされましたか?もちろん大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。この後お話させてもらえませんか?ここでは何ですので、隣の休憩室でどうでしょう」
益田先生は用件を告げると、一瞬だけ神谷の方に視線を向けた。
その行動で、僕と2人きりで話がしたいという趣旨なのだと理解した。
僕が居ない間にやっておいて欲しい事を神谷に伝え、益田先生と一緒に隣の休憩室へ向かった。
「神谷先生はいかがですか?」
益田先生の話というのは、教育実習についてだった。
「授業に向けての準備も毎日しっかりやって来てます。生徒達との距離感が少し近い気もしますが、彼らからの評判はかなり良いです。まるで……いえ、何でもありません」
「瓜生先生。最後何か言い掛けましたね?遠慮せずに仰って下さい」
きっと僕の言いたい事が分かっているのだろう……話の先を促す益田先生は真剣な顔をしていた。
「彼女は、きっと稲葉先生の背中を追っているのだと思います。生徒への接し方が彼とよく似ています」
「なるほど。そうではないかと思っていました」
「特定の生徒と仲が悪い点さえなければ、文句のつけようがなかったのですが……。とは言っても本気でいがみ合っている訳でなく戯れている感じなのでご心配なさらないで下さい。そういう意味では改善すべき点が無い訳でもありません」
「そうでしたか。そういう点も含めて、この実習で色々学び成長に結びつけて欲しいものです。瓜生先生、引き続き宜しくお願い致します」
そう言い残し、益田先生は去って行った。彼が出て行った後、色々な考えが頭を巡る。
そのせいで動き出すまでに時間がかかってしまい職員室に戻るのが遅くなってしまった。
戻って来るのが遅いと神谷から文句を言われたが、指導教員に対するこの当たりの強さは、もう少し何とかして欲しいと思った。
ようやく長かった仕事も終わり帰宅した。最近は精神的な負担が多いせいか、疲れが溜まりやすくなった気がする。
「ただいま」
いつも出迎えてくれる雪さんから返事がない。彼女は家に居るはずなのだが……。
今朝、小春ちゃんは友達の家に寄るから遅くなると言っていた。まだ帰っていないのは靴が見当たらない事からも明らかだ。
「ただいま」
水を出していて聞こえてなかったのかもしれないと思い、もう1度声を掛けてみる。やはり返事はない。
電気も点いているので明らかに様子がおかしい。
そこで雪さんが倒れているかもしれないと思い至り、急いで靴を脱ぎリビングへと駆け込む。
するとそこにはテーブルに突っ伏している雪さんが居た。
「雪さんっ!?」
慌てて彼女の元に駆け寄り、安否確認をする。どうやら居眠りをしているだけの様だった。
ホッと胸を撫で下ろしている僕の耳に彼女の寝言が聞こえてきた。
「夏月……」
知らない男の名前を呟き、閉じた瞳から涙が零れ落ちる。そんな雪さんの姿を目撃した僕の心がさざめいた。
『カズキ』
それが君の大切な人なんだね。
知りたくなかった事実の一端をこんな形で知ってしまうとは……不運としか言い様がない。
僕はそんな彼女をこれ以上見ていられなくて、その場から逃げ出した。
どれくらい経っただろうか?部屋に篭っていた僕の耳に玄関の開く音と小春ちゃんの声が聞こえてきた。
「あれ?お母さんそんなところで寝てたら風邪ひくよ」
「んん……あら?いつの間にか寝ちゃってたのかしら?小春、帰ってきたのね。お帰りなさい」
「ただいま。瓜生先生の靴もあったからもう帰ってると思うんだけど……。気を遣って起こさなかったのかな?」
「優君も帰ってるのね。ってもうこんな時間じゃない。急いでご飯の支度をしないと」
何食わぬ顔をしてリビングに向かえば良かったのだけど、簡単に気持ちを切り替える事が出来ずにいた僕は、食事の準備が終わるまで部屋で過ごした。
食事中、普段とどこか違うと感じた2人が心配そうに僕を見ていた。
心配を掛けたくなくて『体調が悪い』と嘘を言い、急いで食事と風呂を済ませ部屋に戻った。
すぐに寝てしまおうと思っているのに、涙を流しながら男の名前を呼ぶ雪さんの姿が頭に浮かびなかなか寝付けない。
まだ愛しているのだろうな……。見た事もない男への嫉妬心で気が狂いそうだった。
その人との関係はまだ修復出来るのだろうか?いや、僕と一緒に居る事がバレたらそれも難しいかもしれない。
いつまでもこのままではお互いにとって良くないのは分かっていた事だ。
僕はどうすべきなのだろうか……。
そんな事を考えていると、結局一睡も出来ず朝を迎えた。
雪さんから仕事を休んだ方が良いと心配されてしまう程に僕の顔色は悪いみたいだ。
体調は悪くない事を伝え、実習生の指導があるからと逃げる様に家を出た。
教育実習が終わるまでは余計な事を考えずに集中しよう。一晩考えたのに、僕は何も変わらないままだった。
自己嫌悪に陥りながら、僕は駅に向かって歩き始めた……。
最初に注意した距離感。僕に対しては少しばかり改善したが、生徒達とは宣言通り密接な関係を築いていた。それが生徒達から慕われる現状に結びついていると言っても過言ではない。
授業の後に質問に来る生徒も多く、この調子なら彼女はきっと良い先生になれるだろうと思わずにはいられなかった。
順風満帆と思われる彼女だったが、何故か小春ちゃんとだけはウマが合わなかった様だ。
小春ちゃんは事あるごとに神谷に突っかかっているし、彼女もそんな小春ちゃんに対してだけは大人気ない対応をしている。どちらにも非があるのでお互い改めて欲しいと思っているが、とりあえず今は様子を見ている……と言えば聞こえが良い。
家で小春ちゃんに理由を尋ねてみたが『瓜生先生には関係ない』の一点張り。
神谷にも注意したのだが『あの子への接し方を改める気はありません』との事だった。
裏では既に手を尽くしており、実際にはお手上げ……が正しい表現となる。
他にも気になったのは、そんな2人のいがみ合いを周りの生徒達が生暖かい目で見守っている事だった。
文句の1つでも言ってもらえれば、僕もやりやすいのに……。
そんな事を考えていると、教壇に誰かが近づいてくる気配がした。
「瓜生先生、授業に使った教材を職員室に運ぶの手伝います」
その正体は小春ちゃんだった。
「これは私と優先生で運べるから大丈夫。それより名取さんは次の授業の準備を優先した方が良いんじゃないかしら」
僕が答える間もなく、すぐさま小春ちゃんの申し出を神谷が断る。2人は睨み合い、教室内には一瞬即発の空気が流れ始める。
またか。このやり取りを見るのは一体何度目になるだろうか……。
僕は額に手を当てて、これ見よがしに溜息を吐いた。
小春ちゃんとしては、夏休みに友達を家に呼んだ分の借りを返しておきたいのだろう。だけど、神谷の言う通り手が足りているのも事実。
客観的に見れば神谷の言い分が正しいので、僕からも小春ちゃんに断りを入れて場を収めた。
すんなり引き下がってくれたので、とりあえず神谷を連れて職員室へ戻る事にした。
帰ったら小春ちゃんの機嫌が悪いんだろうな。
『神谷先生の肩ばかり持って』と言われるのは分かりきっているので、その足取りは知らず知らずのうちに重くなっていた。
「優先生、名取さんって昔の私に似てますね」
僕はその質問に何も答えず、苦笑いを浮かべる。本当の事を言う訳にもいかず、心の中で違うとだけツッコミを入れておいた。
ただ、最近の小春ちゃんは変わってきた部分もある。その最たるものが、僕に甘えてくれる様になった事だ。
先日、『友達と遊びに行きたいのでお小遣いが欲しいです』と相談された時は嬉しさの余り思わず1万円札を財布から取り出した。
その様子を見ていた雪さんに、僕が割と強めに怒られてしまうというオチがついてしまったのは未だに納得がいってない。
娘に甘えられる父親というのがどんなものか分からないが、僕があの時感じた気持ちはそれに近いものだったと思う。
「優先生は大丈夫だと思いますが、くれぐれも間違いを犯さないで下さいね」
神谷に声を掛けられ我に返る。それを君が言うとはな……。僕と小春ちゃんは親子の愛情といったもので神谷が心配する様なものではない。
ただ本当の事は言えないし、自虐して力なく笑う彼女に掛ける言葉も上手く見つからない。
気まずい空気を払拭したいのに、気の利いた話題も思い浮かばない。こういう時に己の無力さを否でも痛感してしまう。
「優先生、私の話ちゃんと聞いてますか?」
「ああ、聞いてるよ」
考えている事を悟られまいと、出来るだけ感情を込めずに返事をするだけで精一杯。
職員室までの道中、僕達の間にそれ以上の会話はなかった。
「瓜生先生、少し宜しいでしょうか?」
職員室に戻ると、益田先生に声をかけられた。
「益田先生どうかされましたか?もちろん大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。この後お話させてもらえませんか?ここでは何ですので、隣の休憩室でどうでしょう」
益田先生は用件を告げると、一瞬だけ神谷の方に視線を向けた。
その行動で、僕と2人きりで話がしたいという趣旨なのだと理解した。
僕が居ない間にやっておいて欲しい事を神谷に伝え、益田先生と一緒に隣の休憩室へ向かった。
「神谷先生はいかがですか?」
益田先生の話というのは、教育実習についてだった。
「授業に向けての準備も毎日しっかりやって来てます。生徒達との距離感が少し近い気もしますが、彼らからの評判はかなり良いです。まるで……いえ、何でもありません」
「瓜生先生。最後何か言い掛けましたね?遠慮せずに仰って下さい」
きっと僕の言いたい事が分かっているのだろう……話の先を促す益田先生は真剣な顔をしていた。
「彼女は、きっと稲葉先生の背中を追っているのだと思います。生徒への接し方が彼とよく似ています」
「なるほど。そうではないかと思っていました」
「特定の生徒と仲が悪い点さえなければ、文句のつけようがなかったのですが……。とは言っても本気でいがみ合っている訳でなく戯れている感じなのでご心配なさらないで下さい。そういう意味では改善すべき点が無い訳でもありません」
「そうでしたか。そういう点も含めて、この実習で色々学び成長に結びつけて欲しいものです。瓜生先生、引き続き宜しくお願い致します」
そう言い残し、益田先生は去って行った。彼が出て行った後、色々な考えが頭を巡る。
そのせいで動き出すまでに時間がかかってしまい職員室に戻るのが遅くなってしまった。
戻って来るのが遅いと神谷から文句を言われたが、指導教員に対するこの当たりの強さは、もう少し何とかして欲しいと思った。
ようやく長かった仕事も終わり帰宅した。最近は精神的な負担が多いせいか、疲れが溜まりやすくなった気がする。
「ただいま」
いつも出迎えてくれる雪さんから返事がない。彼女は家に居るはずなのだが……。
今朝、小春ちゃんは友達の家に寄るから遅くなると言っていた。まだ帰っていないのは靴が見当たらない事からも明らかだ。
「ただいま」
水を出していて聞こえてなかったのかもしれないと思い、もう1度声を掛けてみる。やはり返事はない。
電気も点いているので明らかに様子がおかしい。
そこで雪さんが倒れているかもしれないと思い至り、急いで靴を脱ぎリビングへと駆け込む。
するとそこにはテーブルに突っ伏している雪さんが居た。
「雪さんっ!?」
慌てて彼女の元に駆け寄り、安否確認をする。どうやら居眠りをしているだけの様だった。
ホッと胸を撫で下ろしている僕の耳に彼女の寝言が聞こえてきた。
「夏月……」
知らない男の名前を呟き、閉じた瞳から涙が零れ落ちる。そんな雪さんの姿を目撃した僕の心がさざめいた。
『カズキ』
それが君の大切な人なんだね。
知りたくなかった事実の一端をこんな形で知ってしまうとは……不運としか言い様がない。
僕はそんな彼女をこれ以上見ていられなくて、その場から逃げ出した。
どれくらい経っただろうか?部屋に篭っていた僕の耳に玄関の開く音と小春ちゃんの声が聞こえてきた。
「あれ?お母さんそんなところで寝てたら風邪ひくよ」
「んん……あら?いつの間にか寝ちゃってたのかしら?小春、帰ってきたのね。お帰りなさい」
「ただいま。瓜生先生の靴もあったからもう帰ってると思うんだけど……。気を遣って起こさなかったのかな?」
「優君も帰ってるのね。ってもうこんな時間じゃない。急いでご飯の支度をしないと」
何食わぬ顔をしてリビングに向かえば良かったのだけど、簡単に気持ちを切り替える事が出来ずにいた僕は、食事の準備が終わるまで部屋で過ごした。
食事中、普段とどこか違うと感じた2人が心配そうに僕を見ていた。
心配を掛けたくなくて『体調が悪い』と嘘を言い、急いで食事と風呂を済ませ部屋に戻った。
すぐに寝てしまおうと思っているのに、涙を流しながら男の名前を呼ぶ雪さんの姿が頭に浮かびなかなか寝付けない。
まだ愛しているのだろうな……。見た事もない男への嫉妬心で気が狂いそうだった。
その人との関係はまだ修復出来るのだろうか?いや、僕と一緒に居る事がバレたらそれも難しいかもしれない。
いつまでもこのままではお互いにとって良くないのは分かっていた事だ。
僕はどうすべきなのだろうか……。
そんな事を考えていると、結局一睡も出来ず朝を迎えた。
雪さんから仕事を休んだ方が良いと心配されてしまう程に僕の顔色は悪いみたいだ。
体調は悪くない事を伝え、実習生の指導があるからと逃げる様に家を出た。
教育実習が終わるまでは余計な事を考えずに集中しよう。一晩考えたのに、僕は何も変わらないままだった。
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