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本編

No,21 【備屋珈琲店】

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本当なら、夕景にそまる富士山を見たい。
だが、この江ノ島に来たからには、真唯にはもう一つ、とっておきのお楽しみがあるのだ。名残りはつきないが、【江ノ島】自体には別れを告げねばなるまい。

以前は、えっちらおっちらアップダウンを繰り返してきた行程を、そのまま引き返していた。しかし、一度味わってしまうと、あの楽チンさかげんはクセになる。
江ノ島には、【弁天丸】なる遊覧船が出ているのだ。真唯の足だと二時間はかかる江ノ島行きが、たった十五分ほどで行けてしまうのだ。真唯は行きには利用した事はないが、船着き場が岩屋である事もあいまって、帰りはいつものこの船を利用する事にしている。
帰りの時間を確認しておこうと思って船着き場に行ってみると、既に船は来ていてもうすぐ出てしまうらしい。慌ててチケットを買い、少し揺れる船に乗り込んだ。その際、中に入ろうか迷ったが、すぐに外の席に決めて座った。

この季節にそんな酔狂な者はあまりいまいと思ったのだが、それでも外には数人の人間ひとがいて、あるアベックの女性の服装に真唯は驚かされた。真唯には信じられないような薄着だ。しかもハイヒール。この岩屋まで、こける事はなかったかと余計な心配までしてしまう。 ……きっと、男性に縋りついて歩いていたのだろう。

(あ、アタシには出来ね~~~)

真唯は早々にそのカップルから視線を外した。


やがて、船が出る。

江ノ島が遠ざかって行く。
今回も素敵な思い出をくれた大好きな土地に、感謝の念が湧きあがる。


(弁財天さま、ありがとうございました!
 ありがとう、江ノ島~!また来るからね~~♪)


真唯は反対側に眼を転じて、富士山を仰ぎ見た。
何回見ても、江ノ島から見る富士山は最高だが、海の上から見る富士山も格別だ。


(木花開耶姫様、今回は御姿を拝するご縁を頂きまして、ありがとうございました!)


そー云えば浅間大社にもまた行きたいな~~と、もう新たな旅に心を躍らせる真唯であった。

船の旅はアッと云う間だ。
もう弁天橋の半分ほどまで来てしまっている。

真唯は船を降りて、少し歩いた処で立ち止まり、そして振り返った。


眼前には江ノ島が。

右側には、富士山が。

その御姿を見せて下さっている。


都会の日常に帰ってしまえば、この雄大な自然とはしばらく縁がなくなってしまうだろう。

の奥に、精神こころの奥底に、その神秘なるパワーを宿した二つの聖地を焼きつかせるように、その場にしばし佇んで。

深い一礼をした真唯は、再び歩き出した。


常なら何度も振り返って見てしまうのだが、今日はなぜか振り返る気にはならなかった。



日常に戻る前に。
この江ノ島には、もう一つの“非日常”がある。

【備屋珈琲店】だ。

ブログでも何回も紹介させて頂いている、真唯の中では喫茶店TOP10に入る名店だ。コーヒー党の真唯が持参のポットに紅茶を用意したのも、すべてはここで味わう珈琲がお目当てだったのだ。


「いらっしゃいませ」
心地良い落ち着いた女性の声に出迎えられる。

お好きな席にどうぞと言われ、真唯は迷わずカウンターの席を選ぶ。
一人で四人掛けのテーブルを占領する勇気はないし。何より。
カウンターの中には、真唯が狂喜乱舞しそうなものが並んでいるのだ。
カップ&ソーサーだ。WEDGWOODを始め、マイセン、ジノリetc
棚の上にはアンティークらしい絵皿などが綺麗に飾られている。
いや、ここは店内全体がアンティーク調なのだ。
ランプはアール・ヌーヴォー風で、時計は今時珍しい振り子時計だ。
“セルヴーズ”と呼びたくなるような品の良い笑顔の女性が、お冷とメニューを差し出してくれる。

真唯は、今日のお薦め珈琲をコロンビアと聞いて、それにする事にした。
しかも、ここはカップを自分でチョイス出来るのだ。だが、「WEDGWOODなら何でも良いです」とセルヴーズのお姉さまに任せる事にしている。今日は、どんなカップと出逢えるのか毎回楽しみなのだ。

そして、出て来たのは【アレクサンドラ】だった。クラシックな趣きが嬉しい。
チョコでコーティングされた珈琲豆が付いて来るのは、この喫茶店の独自オリジナルのサーヴィスなのだ。

「いただきます」
カップを近付けると、豊かな薫りが鼻腔をくすぐる。今日の珈琲も期待出来そうだ。

一口含むと、丸い酸味と円やかなコクが口いっぱいに広がる。
さすがだと思う。
豆の特性をここまで引き出せるのは。


「いつ来ても、美味しいですね。カップのセレクトも私好みです。
 ありがとうございます。」
にっこり笑えば、

「こちらこそ。久し振りのご来店、ありがとうございます」
と微笑み返してくれる。

それからは、互いに無言になった。


真唯は、一人で珈琲を楽しむ。

他に何人かいる客も、余計な無駄話はしない。
勿論、カウンターの中の二人のセルヴーズも黙々と仕事をこなし、会話はごく最低限にしている。常に無駄に騒がしいサテンとは、明らかに一線を画するのだ。

ここは明らかに、外界そととは時間ときの流れが違う……



―――また、ここに一条さんと来たいな…―――



真唯はごく自然にそう想い……それからは、優雅で贅沢な時間ときを慈しむように味わった。



珈琲一杯であんまり粘るのも悪いと思っていたところ、喫煙者が近くに座った事で、そろそろの撤退を決意する。だが、その前に、ここにはもう一つ見るべきものがある。

お手洗いに立った真唯は、今日も綺麗なそこに満足し。
そして、ガラスケースに飾られているセーヴルの天使の壺と再会を果たした。
こんな豪勢な喫茶店は、ちょっとないと思う(笑)。


でも……

一条さんの実家は、こんな物が普通に飾られているようだったら、ちょっと怖いな……チクンと一条さんの事でまた少し胸が痛んだ。




「ごちそうさまでした。美味しかったです」
一条さんへのお土産に、珈琲豆を買って。
お勘定の時、にっこり笑えば、

「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
と微笑みが返って来て。真唯が出ていくために、わざわざ扉を開け、おさえていてくれる。

「ありがとうございます。」一礼すると、「お気をつけてお帰り下さいませ」と気持ちの良い返事が返って来る。

真唯は、こんなココロの遣り取りが出来るお店が大好きだ。


今日の事は、是非、アップしなければ!

でもその際、一条さんへの想いをどうやって削って、この【江ノ島散策記】を構築すべきか、真剣に悩んでしまう真唯であった。







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