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去年のリッチな夜でした

その28

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 辺りは、相も変わらず静かであった。
 夜の更け行くにつれ、通りを歩く人の姿は益々ますます数を減らし、街灯の光だけが几帳面にそこを照らしていた。
 そんな人音ひとおとの絶えた夜辻のすぐ近くに、『それ』はうごめいていた。
 光を通さぬ水底の如き、青黒い闇をまとわせた巨大な『蜘蛛』が。
「何なんだ、こいつは? 何かの使い魔なのか?」
 油断無く銃を構えながら、鬼塚が揺らいだ声を漏らした。
 その『蜘蛛』を挟んだ向かいで、薬師寺も険しい面持ちを浮かべる。
「何処かのペットが逃げ出した、ってんじゃなさそうだな」
 両者の視線の交わる先で、『蜘蛛』は今や全身を青黒い糸で覆われた田子に覆い被さるように脚を広げる。闇の中でも赤く輝く八つの目から、おびただしい敵意があふれ出ていた。
 数秒の静寂が間を満たした。
 然るに、その静けさに溶け込むようにして、『蜘蛛』は糸に絡めた獲物を八本の脚で抱き抱えると、矢庭に腹部を高く掲げる。その腹部の突端から、青黒い糸が勢い良く飛び出した。
「うおッ!?」
 横手に飛び退いた鬼塚の脇を掠めて、直線状に打ち出された糸は、道の反対側にそびえる建物の壁に貼り付いた。次いで間髪を入れず、『蜘蛛』は打ち出した糸を体内に引き戻すのと一緒に、獲物を抱えたまま、道の向こうへと飛び退ずさって行ったのだった。
「逃がすか!」
 暗い路面を蹴って、薬師寺がその後を猛追した。
 壁義に辿たどり着いた『蜘蛛』は、今度は腹部を垂直に掲げ、近場の家の屋根へと糸を飛ばした。そのままするすると、自身を巻き上げながら高みへと昇る『蜘蛛』を、薬師寺はにらみ据えた。
 直後、鬼塚のリボルバーが火を吹いた。
 発射された弾丸は、糸の塊を抱えて壁面をじ登ろうとする『蜘蛛』の命綱をあやまたず撃ち抜き、逃走を図った敵を見事地べたに転落させたのであった。
 『蜘蛛』そのものは兎も角、田子をすっぽり包んだ糸の塊は相応の重量を有していたようで、夜の路上に重々しい響きが伝わった。
 その音の方向へと、薬師寺と鬼塚が揃って駆け寄る。
 しかし、その二人の向かう先では『蜘蛛』が速やかに身を起こし、近付く人影へと赤く輝く目を据えたのだった。
 この時、『それ』も、この『二人』を『敵』であると認めたのやも知れぬ。
 とまれ、『蜘蛛』は再び腹部を持ち上げると、その先端から青黒い糸を放出した。
 今度の糸は、それまでよりも細く、長く、何よりも放射線状に拡散するたぐいの代物であった。まるで投網のように、『蜘蛛』の糸壺から放射された青黒い糸は、駆け寄る薬師寺と鬼塚の前方をたちまち塞いだのであった。
「こん畜生! 捕物やってんのはこっちだぞ!」
 銃を片手に、鬼塚は足を止めるのと一緒に悪態をいた。
 然るに、その隣で、薬師寺は表情を歪める。
「気を付けろ! この糸には毒が混ざってる!」
 促しながら、薬師寺は自分の両手を今一度見遣った。先程、糸に触れた箇所から広がった痺れは両手全体に達し、指先の動きをいちじるしく鈍らせていた。
「拳も握れないんじゃな……」
 ぼやいた薬師寺の面前で、『蜘蛛』の放つ糸は勢いと厚みを増して行った。さながら海月クラゲの触手のように、触れた者へ即座に毒を付与する糸は、獲物を求めて不気味に波打つのだった。
参考人マルサン身柄ガラだきゃ、何としても返してもらわねえと」
 鬼塚が呟いた横で、薬師寺も首肯しゅこうする。
「ああ。それもなるべく急いだ方がいい」
 未だ痺れの残る両手を一瞥して、薬師寺は苦い面持ちを浮かべた。先程、ほんの数秒、あの糸に触れただけでこの有様である。あんな物に長時間皮膚を密着させていたら、一体何処まで毒の影響が及ぶか知れたものではない。
 その時、鬼塚が眼光鋭く相棒を垣間見る。
「だったら、いつも通り……」
「俺が上から、お前が下から、か……!」
 薬師寺もまた、挑発的な眼差しを相方へと返した。
 そして、二人は同時に動き出した。
 街灯の横手に陣取り、腹部から尚も糸を撒き散らす『蜘蛛』へ向け、二つの影が同時に接近する。
 膝を一瞬屈め、薬師寺は地を蹴った。
 助走もほぼ無しに跳躍した彼の体躯は、大人の背丈を優に超える高さまで達し、『蜘蛛』の撒き散らす糸の上を飛び越えて、その源へ肉迫する。
 それに気付いた『蜘蛛』も、八つの目から激しい敵意をほとばしらせると、腹部の先端から今一度糸を噴出させた。
 対象を押し潰すように噴き出した毒々しい色の糸を、薬師寺は空中で身を捻る事で何とかかわす。しかし、同時に大きく体勢を崩した彼へと、『蜘蛛』は獰猛な眼差しを据えて追撃の手を加えるべく身構えた。
 と、そこに生じた一瞬の隙を認めるなり、鬼塚はリボルバーの弾倉を幾度か回転させると、前方を覆う糸の隙間を縫って『蜘蛛』へと銃口を向けた。
 乾いた銃声が、夜道に鳴り響いた。
 狙いをたがえず、鬼塚の放った弾は『蜘蛛』の大きな腹部に命中する。
 しかるに、撃たれた当の『蜘蛛』は、若干わずらわしげに身を振るわせたのみで、大した痛痒つうようを表に出す事は無かったのであった。
 直後、鬼塚は両手で幾通りもの印を結んで行く。
水剋火すいこくか!! 『水気』を以て『火気』を剋す!! 『血脈』司るは即ち『火気』!! 『水気』よ、これを鎮め給え!!」
 果たして間を置かず、『蜘蛛』はその動きに俄然がぜんぎこちなさをのぞかせ始めたのだった。空中を落下するばかりの薬師寺に追い打ちを仕掛ける事もままならず、ついには彼が前方に着地し、肉迫しようとする最中も満足に身動きが取れぬようであった。
 敵の有様を認めて、鬼塚は会心の笑みを浮かべた。
「どうだ? 元々最低限の水分で活動してる節足動物てめえらにゃ、体液の循環を阻害されんのが何より効くだろ? もうまともに動けると思うなよ!」
 そう吠えた鬼塚の前方で、薬師寺は『蜘蛛』の下まで辿たどり着くと、その頭部に強烈な肘打ちを見舞った。
「ボクシングじゃ反則だが……」
 いささか不本意そうに、しかし躊躇ちゅうちょ微塵みじんも垣間見せず、薬師寺は動きの鈍った『蜘蛛』へ追撃を加えて行く。その後、腹部を蹴り飛ばされた『蜘蛛』は、暗い路面をごろごろと転がった。
 そこへ、薬師寺と鬼塚がこぞって駆け寄る。新たな糸がき散らされない中では、先に放った糸も、今や大半が路面に沈んで行く手から消えていた。
 だが、両者が標的に近付くより先に、当の『蜘蛛』の腹の下から、おびただしい数の小さな影が出し抜けにい出したのであった。
 大きさとしては、胡麻粒程度の代物であったろうか。
 しかし、小さいながらも確たる意思を備えた動きを見せる、それらは『子蜘蛛』の群であった。
 はっとして足を止めた薬師寺と鬼塚に、『子蜘蛛』の一群は、何ら恐れる様子ものぞかせずに一斉に押し寄せた。余りの小ささ故に咄嗟とっさに払いける事も出来ず、薬師寺と鬼塚は百を優に超えるであろう数の『子蜘蛛』に取り付かれた。
てッ!」
 鬼塚が、首筋を叩きながらうめいた。
「こいつらッ……!」
 薬師寺もまた、手首や喉元など、皮膚の露出した部分に集中的に群がって来る『子蜘蛛』を、どうにかして振り払おうと足掻あがく。しかるに、たとえ首尾良く振り落としたとしても、足元から続々と昇って来る『子蜘蛛』の数と勢いは衰える気配を微塵も見せずにいた。
 鬼塚が、不意に姿勢を傾かせた。
「うぐっ……!」
 苦しげな声を漏らして、それでもどうにか足を踏ん張ったが、彼は憔悴しょうすいの色を濃くにじませる。
「こいつら、一端いっぱしに毒まで持ってやがんのか……!」
 揺らいだ声で呟いた鬼塚の前で、それまで地べたにうずくまっていた『親蜘蛛』が、むっくりと身を起こす。最早、新たに糸を吹き付ける程の余力は携えていないようであったが、代わりに、『それ』は頭部の前方に突き出した両の牙をゆっくりと開いたのであった。
 闇に光る八つの赤い目が、獰猛どうもうな輝きを発した。
 開かれた牙の先端から、消化酵素とおぼしき液体が路面にしたたり落ちて行く。
 顔を強張らせた鬼塚の前で、『親蜘蛛』は動きを鈍らせるばかりの獲物へと、じわじわと距離を詰めて行ったのだった。
「この……!」
 次第に全身の感覚が鈍って行く中で、鬼塚はそれでもどうにか気力を振り絞る。
 その時、彼の隣から、荒々しい息遣いが不意に上がった。
「いい加減にしとけ……!」
 闇の静寂しじまを、低い声が揺らした。
 鬼塚が首を巡らせた先、同じく『子蜘蛛』にたかられながらも、薬師寺が鋭い眼光を近付く『親蜘蛛』に据えていた。
「『虫』に『獣』がたおせるか!!」
 そう一喝した直後、薬師寺の双眸そうぼうが金色に輝いた。
 そして、彼は口を大きく押し開くと、鋭さを増した牙の並ぶ口腔の奥深くより、野太い咆哮を放ったのであった。
 さながら颶風ぐふうの如く、発せられた猛々しい野性の雄叫びは周辺の空気を打ち鳴らし、人気ひとけの無い夜の路地を震わせる。瞬間的には、吹き荒ぶ嵐にたとえてすら決して大袈裟ではないだろう圧力に震撼させられて、薬師寺と鬼塚に密集していた『子蜘蛛』達は、逆巻く暴風に蹂躙じゅうりんされる砂塵の如くに飛び散ったのであった。
「今だ!!」
 取り付いていた『子蜘蛛』達が残らず地べたに飛び散った事を確認した鬼塚は、その場に片膝を付いて、路面に両手を叩き付ける。
「五龍が長、『土行』の黄龍にこいねがう!! 御身の力て、諸々の『水行』に属する者共、『カラ持つ者共』の力を抑え給え!!」
 切迫した口調で祝詞のりとが発せられてすぐ、彼の両手から、黄色に輝く光の網の如きものが、アスファルトの表面を瞬時にして走った。網の目ようにも、あるいは巨大な蛇の体表のようにも見做みなせる光の線は、『土』の上に身を置く『水』に連なる者共の脚先に、一瞬にしてからみ付いた。
 直後、大地をう『蜘蛛』達は一様に体躯たいくを引きらせ、一切の動きを封じられたのであった。
「こっちも後がえ! これで決めろ!!」
 顔を持ち上げて苦しげに言った鬼塚の隣を、一陣の風が駆け抜けた。
 まるで金縛りにでもったかのように、光の網の上でぎこちなく身悶えを繰り返す『蜘蛛』達へ向け、輪郭の揺らいだ人影が猛然と突進する。居並ぶ無数の『子蜘蛛』を踏み潰しながら、猛々しく躍動する人影は、元凶たる『親蜘蛛』の正面まで一気に詰め寄った。
 『親蜘蛛』が、咄嗟とっさに頭部を持ち上げる。
 八つの赤い目に、上体を弓なりに反らし、左手を大きく振りかぶった『人らしき者』の姿が映り込んだ。
 黄金色の双眸そうぼうと深紅の目が、一瞬だけ眼差しを交差させた。
 そして間髪を入れず打ち下ろされた手刀が、その目諸共、『親蜘蛛』の頭部を叩き潰したのだった。
 渾身の一撃を浴びて、人の頭程もある『蜘蛛』は八本の脚を一度だけ痙攣けいれんさせた後、そのまま地面に崩れ落ちた。
 同時に、路面を走っていた光の網も薄れて消える。
 青黒い粘液に全身を包んだ『蜘蛛』が事切れると、残された『子蜘蛛』達も恐れを成してか、夜の路地の向こうへと相次いで消えて行った。
 自身がたおした敵の前で、薬師寺ががっくりと膝を付く。
 荒い吐息が、途端にその口元からあふれ出た。
 数秒の間を置いてから、彼は元の色に戻った瞳を後ろに向ける。
「……生きてるか?」
「……生きてるよ、生憎と。気分最悪過ぎて、お花畑も見えやしねえ」
 同様にあえぐように、鬼塚が答えた。
 道路にだらしなく座り込んだ鬼塚は、天を仰いで唾を呑み下す。
「……クソったれ……どうせ一服盛られんだったら、謎めいた美女と一杯やりながらが良かったのに、何だって虫刺されでヘバらなきゃなんねんだ……」
「……メスに絡まれたのに変わりは無いだろ。贅沢ぜいたく言わずに、ここらで妥協しとけ……」
 苦しげに言葉を返すかたわら、薬師寺は辺りを見回す。『蜘蛛』の死骸のすぐ横に、未だ糸に包まれた田子の姿があった。今も尚ぴくりとも動かず、声も上げないその有様を確認して、薬師寺はさらに面持ちを暗くする。
 そうして、彼もまた夜の路地の片隅で、空を見上げたのであった。
 建物の間に広がる小さな夜空に、小さな星が瞬いていた。
 全ては、春の夜の夢の如くに。
 しかれども、あらゆる『夢』には時折、前触れも無く『悪夢』が混ざり込むのも、誰にも無視出来ない『事実』ではある。
 その『事実』を、形となって現れた『現実』を前にして、二つの人影はすぐに身動きも取れずにいたのだった。
 先程からの騒ぎを聞き付けたのか、道の向こうから人の声が伝わって来る。
 深い宵は、明ける予兆を未だのぞかせなかった。
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