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去年のリッチな夜でした
その11
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こちらを取り囲んで囃し立てるように鳴り響く蝉の声までもが、今や随分と遠くのもののように聞こえる。
夏の突き刺すような日差しが、グラウンドの荒い砂粒をきらきらと輝かせていた。
マウンドで只一人、康介は前方へ揺るぎの無い眼差しを注いだ。
即ち、こちらの行く手を遮るようにバットを構え、僅かな隙も見逃さぬ冷徹そのものの眼光を湛えた打者へと。
頬を顎先へと伝い落ちる汗が、実に冷えたものに感じられた。
硬い面持ちを保つ康介の足元で、スパイクが砂利を噛む音が冷めた響きを生み出す。
マウンドの周りに走者はおらず、全ての塁が空いていた。
一対一である。
じりじりと詰め寄られるような緊張感の中で、キャッチャーがサインを出した。
康介が、静かに頷く。
そして彼はやおら体勢を変え、大きく振り被ったのだった。
白球が、宙を割いて飛んだ。
歓声が上がった。
澄んだ夏空を左右に割るようにして、打たれたボールは宙を進む。
表情を強張らせ、康介が後方を仰ぎ見た。
マウンドに立つ彼の遥か遠くを、打球はスコアボードの向こうへ吸い込まれるように飛んで行く。黙して顎先から汗を滴らせる康介の見つめる先で、打球はその勢いを最後まで衰えさせる事なく、フェンスの向こうに消えたのだった。
歓声が上がった。
立ち尽くす康介を遠巻きにして、打者が塁を回って行く。
誇るでも責めるでもなく、ただありのままの事実だけを突き付けるように淡々と。
それから程無くして、マウンドには人集りが出来ていた。
その輪の中心で、初老の監督が康介の肩を叩いた。
「……ま、打たれたもんはしょうがない。ここまでよく投げた」
「はい……」
俯き加減に頷いた康介は、ゆっくりとマウンドを後にする。
その道すがら、彼は自身の右手に目を遣った。
白い粉に塗れた己の指先、それを康介は束の間凝視する。
ほんの僅かの違いだった。
数値にも表わせないような、ほんの僅かの誤差。
それが、相手にとって会心の、こちらにとっては痛恨の事態を招いてしまった。
この指先からボールが離れる瞬間、微かな違和感が湧いて出たのは勘違いではなかった。その『予感』を、『結果』は裏切ってはくれなかったのである。
何故。
どうしてなのだろうか。
こちらが過ちを認めた時には、最早遣り直す事が叶わないというのは。
他の誰よりも、自分自身が後悔に苛まれているというのに。
重い足取りでベンチへと向かう最中、康介はふと顔を上げる。
ブルペンの方から小走りになって、中継ぎの投手が今正にマウンドへ向かおうとしていた。肩を落としてベンチに戻るこちらとは対照的に、実に小気味良く塁の間を駆けて行くのは、康介も日頃から良く見知った相手である。
チームメイト。
昔からの仲間。
単なる腐れ縁。
口に出してしまえば何の変哲も無い、たった一言で片付けられる『相手』である。
然るに、その『相手』は気落ちするこちらの横を溌剌と駆け抜けて、何の憂いも滲ませぬ足取りでマウンドへと向かって行く。
そんな『相手』の背中を、康介は肩越しに見送ったのだった。
その瞳に、幾つもの感慨を過ぎらせながら。
夏の突き刺すような日差しが、グラウンドの荒い砂粒をきらきらと輝かせていた。
マウンドで只一人、康介は前方へ揺るぎの無い眼差しを注いだ。
即ち、こちらの行く手を遮るようにバットを構え、僅かな隙も見逃さぬ冷徹そのものの眼光を湛えた打者へと。
頬を顎先へと伝い落ちる汗が、実に冷えたものに感じられた。
硬い面持ちを保つ康介の足元で、スパイクが砂利を噛む音が冷めた響きを生み出す。
マウンドの周りに走者はおらず、全ての塁が空いていた。
一対一である。
じりじりと詰め寄られるような緊張感の中で、キャッチャーがサインを出した。
康介が、静かに頷く。
そして彼はやおら体勢を変え、大きく振り被ったのだった。
白球が、宙を割いて飛んだ。
歓声が上がった。
澄んだ夏空を左右に割るようにして、打たれたボールは宙を進む。
表情を強張らせ、康介が後方を仰ぎ見た。
マウンドに立つ彼の遥か遠くを、打球はスコアボードの向こうへ吸い込まれるように飛んで行く。黙して顎先から汗を滴らせる康介の見つめる先で、打球はその勢いを最後まで衰えさせる事なく、フェンスの向こうに消えたのだった。
歓声が上がった。
立ち尽くす康介を遠巻きにして、打者が塁を回って行く。
誇るでも責めるでもなく、ただありのままの事実だけを突き付けるように淡々と。
それから程無くして、マウンドには人集りが出来ていた。
その輪の中心で、初老の監督が康介の肩を叩いた。
「……ま、打たれたもんはしょうがない。ここまでよく投げた」
「はい……」
俯き加減に頷いた康介は、ゆっくりとマウンドを後にする。
その道すがら、彼は自身の右手に目を遣った。
白い粉に塗れた己の指先、それを康介は束の間凝視する。
ほんの僅かの違いだった。
数値にも表わせないような、ほんの僅かの誤差。
それが、相手にとって会心の、こちらにとっては痛恨の事態を招いてしまった。
この指先からボールが離れる瞬間、微かな違和感が湧いて出たのは勘違いではなかった。その『予感』を、『結果』は裏切ってはくれなかったのである。
何故。
どうしてなのだろうか。
こちらが過ちを認めた時には、最早遣り直す事が叶わないというのは。
他の誰よりも、自分自身が後悔に苛まれているというのに。
重い足取りでベンチへと向かう最中、康介はふと顔を上げる。
ブルペンの方から小走りになって、中継ぎの投手が今正にマウンドへ向かおうとしていた。肩を落としてベンチに戻るこちらとは対照的に、実に小気味良く塁の間を駆けて行くのは、康介も日頃から良く見知った相手である。
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然るに、その『相手』は気落ちするこちらの横を溌剌と駆け抜けて、何の憂いも滲ませぬ足取りでマウンドへと向かって行く。
そんな『相手』の背中を、康介は肩越しに見送ったのだった。
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