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フレンチでリッチな夜でした
その30
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正にその時リウドルフは数人の胸甲騎兵に伴われ、修道院の扉を潜った所であった。
剣と銃で完全武装した屈強そうな男達に周囲を固められたまま、痩身の冴えない風貌の男が建物正面のすぐ先に広がる聖堂を歩いて行く。程度の差こそあれ、それぞれに緊張の色を浮かばせた胸甲騎兵達とは対照的に、さながら手間賃無しでお使いに出された子供のような不貞腐れた様子でリウドルフは再度訪れた修道院内を見回した。
聖堂を始めとして、通路の各所や扉の前を胸甲騎兵達が固めている。静謐な祈りの場とはまるで釣り合わない武装した男達が、院内に監視の眼差しを絶えず放っていた。
紛れも無い臨戦態勢が森の奥の修道院に既に出来上がっているのである。
その様子を、自身を取り巻く剣呑な集団を、だがリウドルフはつまらなそうに見遣るのみであった。
間も無くリウドルフは聖堂の奥まで案内された。
壁に設えられた薔薇窓の直下、朗読台の足元に下へと続く大きな階段が口を開けていた。明かりも灯されず、ただ黒々とした翳りを湛える地下への入口をリウドルフは静かに凝視する。
その彼へと向け、先導して来た胸甲騎兵が厳かに促す。
「……この先にて我らの尊師がお待ちです。どうか……」
この際舌打ちの一つでも漏らしてやろうかとリウドルフは一瞬考えたが、それこそ全くの徒労に過ぎぬと途中で思い直し、言われるままに黙って階段を下り始めた。
石段を下りた先には、クールベの教会と同じく地下墓地が広がっていた。
嘗てこの修道院で慎ましく暮らしていたのだろう先代の修道士達が無数の棺に納められ、壁や床に安置されている。そこを、全き寂蒔の支配する地下空間をランタンを掲げた騎士に先導されて、ただ一人の来客は歩を進めた。
周囲の石壁や柱の脇に置かれた小さな篝火が、真っ青な炎を音も無く揺らめかせる。
外へと通じる通路が何処かにあるのだろうか。辺りには微かな空気の流れが存在した。
それでも辺りに動くものの気配は無く、無表情な闇が遠巻きにこちらを環視するのみである。あたかも冥府へと続く果てし無い回廊の如くに。
沈黙のみを供とする行軍がどれ程続いた末での事であったろうか。
前方に光が見え始めた。
鯨油の炎が放つ光とは異なる翡翠色の、それは地下を煌々と照らす光であった。
その光に吸い寄せられるようにして、地下墓地へ下りた一行は広々とした空間へ足を踏み入れたのだった。
地下墓地の中心に位置する場所なのであろうか。
石畳の床に一際大きな篝火が置かれ、そこより輝く翠の炎がやはり音も立てずに立ち現れている。まるで光の泉のように、或いは立ち昇る冷気が形を得たように朧な炎が辺りを冷たく照らし出していた。
しかし、リウドルフの意識の裾を引いたのは、目の前の不思議な光よりもむしろその周囲に浮かび上がった諸々の物であった。
夥しい数と種類の実験器具が巨大な篝火の周囲に並べられていた。薬品を調合し、薬剤を作り出す為に用いられるおよそありとあらゆる機材が、地下墓地の闇の中に据え置かれていたのである。
絶えず湧き立つ冷たい光を取り囲むようにして。
「……ここで何を作った? いや……何を産み出した……?」
リウドルフが険しい面持ちで独語したその時、翡翠色の輝きを挟んだ正面から辺りの暗がりを掻き分けるようにして一個の人影が不意に現れた。
白濁した片方の瞳に目前に揺れる翡翠の炎が煌々と照り返る。
この修道院の長である老修道士オーギュスト・ファビウスが、リウドルフの真正面に現れ出でたのであった。
相手の出現を認めてもリウドルフは表情を特段に変化させなかった。
対して、翠の炎を挟んで立つオーギュストは、黒い修道服のフードより覗かせた顔に笑みを浮かべて見せた。地金を露わにした、翳りを帯びた老獪さを最早隠そうともしない、禍々しさすら纏わせた笑顔であった。
「斯様な夜分に急遽お呼び立てして申し訳無い。今晩は、先生」
オーギュストは軽やかに会釈してそこまで言うと、白濁していない右の瞳に強い眼光を立ち昇らせる。
「そして改めて宜しく、ムッシュ・ホーエンハイム……!」
翡翠色の篝火の向こうから遣された挨拶に、リウドルフは冷め切った眼差しを返したのみであった。
数秒の沈黙を経てから、本名を呼ばれた医師にして魔術師にして錬金術師は至極億劫そうに口を開く。
「大して期待はしていないが最低限の釈明ぐらい遣して欲しいものだな、院長」
「勿論ですとも」
フードの内側でオーギュストは首肯した。
「我が『Vera Domini canis』の庵へようこそお出で下さった。偉大なる先達よ」
「……『真なる主の犬』?」
眉根を寄せたリウドルフの見つめる先で、オーギュストは恍惚とした響きすら滲ませた口調で相対する細身の男へ語り掛ける。
「灯台下暗しとはよくぞ言ったもので、まさか彼の高名な錬金術師が、このような身近におられたとは思いも寄りませんでした。是非直接に教えを請いたいと兼々願っておりましたが、こうして現実のものとなるとは、いやはや……」
「別に吹聴して回る程の経歴も携えてはいないのでね」
リウドルフは不愛想に言い返した後、鋭い眼差しを老修道士へ据える。
「……それで、そっちはどんな手を使って管区の大司教を焚き付けたのだ? 尤もらしい令状を認めさせてまでこちらを呼び付けるなど、隠居を気取る割には随分と思い切った真似をしたようだが」
「そこは要するに、地獄の沙汰も金次第と言った所でありますか。教会に金品を差し出す事によって諸々の罪が免れるのであれば逆もまた然り。社会的な『地位』や『信用』と言ったものも『道徳』や『倫理』と同様、結局は『信仰』に近い代物なのです。形の無いもの程、一度突き崩されれば脆く儚く消えてしまう」
オーギュストは穏やかな口調で答えると、物悲しげな目をリウドルフへとふと向けた。
「何とも虚しい話だとは思いませんか、先生? 個々から集団組織、果ては国家に至るまで、そんな危うい約款によって辛うじて成り立っているのが我々の暮らす人の世の実態なのですから」
「……だとしても、こうして平然と人を陥れるような手合いに指摘出来る話でもあるまい」
リウドルフが冷ややかに切り返した直後、向かいの暗がりの奥より新たな声が発せられる。
「斯様な強硬手段に訴えた非礼はお詫び致そう。どうか尊師を責めぬよう願いたい」
通りの良い太い声が篝火の光越しにリウドルフへ送られた。
目の前で燃え立つ翡翠の炎の輝きを胸当てに反射させて、ヴァンサンがオーギュストの隣へと歩み出た。壮年の騎士団長は剣とマスケット銃の武装はそのままに兜だけを脱いで、自らが異端の宣告を下した魔術師へと太い眼光を注いだ。
相対するリウドルフは目の前に並ぶ二人を視界に収めるなり、眼差しを冷めたものへと徐々に変えて行く。
「……成程、そちらが御老人の高弟であり、同時に忠実な手足でもあると言う次第か。御老人は確か一度は何処かで司教の座に就いた経験もあったと聞いたが、その頃からの付き合いなのかね?」
「如何にも」
大きく頷いたヴァンサンの隣で、オーギュストは真正面に立つリウドルフの周囲を覆う闇へ遠い目を向けた。
「全て、『真の神』の導きによるものでしょう。嘗て私が未熟であった折、下卑た派閥抗争の上に根差した密告や訴訟が絶え間無く繰り返された、あの悪夢のような忌まわしき時期に共に歩む事の出来る同志と巡り合えたのは……」
「何もかも至高なる神の思し召しであった。即ち、『偽りの神』によって支配された欺瞞満ち溢るる世を刷新せよと、『御使い』が一筋の光を差し込んで下さったのだ」
オーギュストの後を受けてヴァンサンが誇らしげに語る中、リウドルフは細い顎先に手を当てて黙考していたが、程無くしてその双眸に目前の翡翠色の炎と通ずる所を持つ朧にして鮮烈な蒼白い光を立ち昇らせたのであった。
「そう、か……」
細くも強い異形の眼差しを嫌うようにして篝火の炎が揺らめいた。
「……『真の神』と『偽りの神』、そして『神的存在』……およそ読めたぞ、そちらの正体」
そう言うとリウドルフは徐に顔を上げ、眼前の二人を鋭く見据える。
「『グノーシス主義者』か……!」
闇の中で立ち昇る翠の炎が身悶えするようにうねった。
一同の周囲を覆う闇は尚深く、微かな胎動すらも覗かせはしなかった。
剣と銃で完全武装した屈強そうな男達に周囲を固められたまま、痩身の冴えない風貌の男が建物正面のすぐ先に広がる聖堂を歩いて行く。程度の差こそあれ、それぞれに緊張の色を浮かばせた胸甲騎兵達とは対照的に、さながら手間賃無しでお使いに出された子供のような不貞腐れた様子でリウドルフは再度訪れた修道院内を見回した。
聖堂を始めとして、通路の各所や扉の前を胸甲騎兵達が固めている。静謐な祈りの場とはまるで釣り合わない武装した男達が、院内に監視の眼差しを絶えず放っていた。
紛れも無い臨戦態勢が森の奥の修道院に既に出来上がっているのである。
その様子を、自身を取り巻く剣呑な集団を、だがリウドルフはつまらなそうに見遣るのみであった。
間も無くリウドルフは聖堂の奥まで案内された。
壁に設えられた薔薇窓の直下、朗読台の足元に下へと続く大きな階段が口を開けていた。明かりも灯されず、ただ黒々とした翳りを湛える地下への入口をリウドルフは静かに凝視する。
その彼へと向け、先導して来た胸甲騎兵が厳かに促す。
「……この先にて我らの尊師がお待ちです。どうか……」
この際舌打ちの一つでも漏らしてやろうかとリウドルフは一瞬考えたが、それこそ全くの徒労に過ぎぬと途中で思い直し、言われるままに黙って階段を下り始めた。
石段を下りた先には、クールベの教会と同じく地下墓地が広がっていた。
嘗てこの修道院で慎ましく暮らしていたのだろう先代の修道士達が無数の棺に納められ、壁や床に安置されている。そこを、全き寂蒔の支配する地下空間をランタンを掲げた騎士に先導されて、ただ一人の来客は歩を進めた。
周囲の石壁や柱の脇に置かれた小さな篝火が、真っ青な炎を音も無く揺らめかせる。
外へと通じる通路が何処かにあるのだろうか。辺りには微かな空気の流れが存在した。
それでも辺りに動くものの気配は無く、無表情な闇が遠巻きにこちらを環視するのみである。あたかも冥府へと続く果てし無い回廊の如くに。
沈黙のみを供とする行軍がどれ程続いた末での事であったろうか。
前方に光が見え始めた。
鯨油の炎が放つ光とは異なる翡翠色の、それは地下を煌々と照らす光であった。
その光に吸い寄せられるようにして、地下墓地へ下りた一行は広々とした空間へ足を踏み入れたのだった。
地下墓地の中心に位置する場所なのであろうか。
石畳の床に一際大きな篝火が置かれ、そこより輝く翠の炎がやはり音も立てずに立ち現れている。まるで光の泉のように、或いは立ち昇る冷気が形を得たように朧な炎が辺りを冷たく照らし出していた。
しかし、リウドルフの意識の裾を引いたのは、目の前の不思議な光よりもむしろその周囲に浮かび上がった諸々の物であった。
夥しい数と種類の実験器具が巨大な篝火の周囲に並べられていた。薬品を調合し、薬剤を作り出す為に用いられるおよそありとあらゆる機材が、地下墓地の闇の中に据え置かれていたのである。
絶えず湧き立つ冷たい光を取り囲むようにして。
「……ここで何を作った? いや……何を産み出した……?」
リウドルフが険しい面持ちで独語したその時、翡翠色の輝きを挟んだ正面から辺りの暗がりを掻き分けるようにして一個の人影が不意に現れた。
白濁した片方の瞳に目前に揺れる翡翠の炎が煌々と照り返る。
この修道院の長である老修道士オーギュスト・ファビウスが、リウドルフの真正面に現れ出でたのであった。
相手の出現を認めてもリウドルフは表情を特段に変化させなかった。
対して、翠の炎を挟んで立つオーギュストは、黒い修道服のフードより覗かせた顔に笑みを浮かべて見せた。地金を露わにした、翳りを帯びた老獪さを最早隠そうともしない、禍々しさすら纏わせた笑顔であった。
「斯様な夜分に急遽お呼び立てして申し訳無い。今晩は、先生」
オーギュストは軽やかに会釈してそこまで言うと、白濁していない右の瞳に強い眼光を立ち昇らせる。
「そして改めて宜しく、ムッシュ・ホーエンハイム……!」
翡翠色の篝火の向こうから遣された挨拶に、リウドルフは冷め切った眼差しを返したのみであった。
数秒の沈黙を経てから、本名を呼ばれた医師にして魔術師にして錬金術師は至極億劫そうに口を開く。
「大して期待はしていないが最低限の釈明ぐらい遣して欲しいものだな、院長」
「勿論ですとも」
フードの内側でオーギュストは首肯した。
「我が『Vera Domini canis』の庵へようこそお出で下さった。偉大なる先達よ」
「……『真なる主の犬』?」
眉根を寄せたリウドルフの見つめる先で、オーギュストは恍惚とした響きすら滲ませた口調で相対する細身の男へ語り掛ける。
「灯台下暗しとはよくぞ言ったもので、まさか彼の高名な錬金術師が、このような身近におられたとは思いも寄りませんでした。是非直接に教えを請いたいと兼々願っておりましたが、こうして現実のものとなるとは、いやはや……」
「別に吹聴して回る程の経歴も携えてはいないのでね」
リウドルフは不愛想に言い返した後、鋭い眼差しを老修道士へ据える。
「……それで、そっちはどんな手を使って管区の大司教を焚き付けたのだ? 尤もらしい令状を認めさせてまでこちらを呼び付けるなど、隠居を気取る割には随分と思い切った真似をしたようだが」
「そこは要するに、地獄の沙汰も金次第と言った所でありますか。教会に金品を差し出す事によって諸々の罪が免れるのであれば逆もまた然り。社会的な『地位』や『信用』と言ったものも『道徳』や『倫理』と同様、結局は『信仰』に近い代物なのです。形の無いもの程、一度突き崩されれば脆く儚く消えてしまう」
オーギュストは穏やかな口調で答えると、物悲しげな目をリウドルフへとふと向けた。
「何とも虚しい話だとは思いませんか、先生? 個々から集団組織、果ては国家に至るまで、そんな危うい約款によって辛うじて成り立っているのが我々の暮らす人の世の実態なのですから」
「……だとしても、こうして平然と人を陥れるような手合いに指摘出来る話でもあるまい」
リウドルフが冷ややかに切り返した直後、向かいの暗がりの奥より新たな声が発せられる。
「斯様な強硬手段に訴えた非礼はお詫び致そう。どうか尊師を責めぬよう願いたい」
通りの良い太い声が篝火の光越しにリウドルフへ送られた。
目の前で燃え立つ翡翠の炎の輝きを胸当てに反射させて、ヴァンサンがオーギュストの隣へと歩み出た。壮年の騎士団長は剣とマスケット銃の武装はそのままに兜だけを脱いで、自らが異端の宣告を下した魔術師へと太い眼光を注いだ。
相対するリウドルフは目の前に並ぶ二人を視界に収めるなり、眼差しを冷めたものへと徐々に変えて行く。
「……成程、そちらが御老人の高弟であり、同時に忠実な手足でもあると言う次第か。御老人は確か一度は何処かで司教の座に就いた経験もあったと聞いたが、その頃からの付き合いなのかね?」
「如何にも」
大きく頷いたヴァンサンの隣で、オーギュストは真正面に立つリウドルフの周囲を覆う闇へ遠い目を向けた。
「全て、『真の神』の導きによるものでしょう。嘗て私が未熟であった折、下卑た派閥抗争の上に根差した密告や訴訟が絶え間無く繰り返された、あの悪夢のような忌まわしき時期に共に歩む事の出来る同志と巡り合えたのは……」
「何もかも至高なる神の思し召しであった。即ち、『偽りの神』によって支配された欺瞞満ち溢るる世を刷新せよと、『御使い』が一筋の光を差し込んで下さったのだ」
オーギュストの後を受けてヴァンサンが誇らしげに語る中、リウドルフは細い顎先に手を当てて黙考していたが、程無くしてその双眸に目前の翡翠色の炎と通ずる所を持つ朧にして鮮烈な蒼白い光を立ち昇らせたのであった。
「そう、か……」
細くも強い異形の眼差しを嫌うようにして篝火の炎が揺らめいた。
「……『真の神』と『偽りの神』、そして『神的存在』……およそ読めたぞ、そちらの正体」
そう言うとリウドルフは徐に顔を上げ、眼前の二人を鋭く見据える。
「『グノーシス主義者』か……!」
闇の中で立ち昇る翠の炎が身悶えするようにうねった。
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