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渚のリッチな夜でした

その38

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 小さな窓の外で、赤味を増した太陽が滑走路の向こうへいよいよ接しようとしている。
 シャルル・ド・ゴール国際空港行きの大型旅客機、その中程に位置する窓際の席にリウドルフは腰を下ろした。ビジネスクラスの席は中々に快適であり、元々の体躯の細さも手伝ってリウドルフは余裕を持って席に寄り掛かった。
 その右隣の席に百目鬼が遅れて腰を落ち着ける。
 整えた口髭を嫌味にならない程度の所作でさり気無く正しながら、百目鬼は隣に座った旅の伴侶へと問い掛ける。
「んで結局、例の海での一件てなどうなったんだ? つってもお前さんの様子を見る限り、あんま面白い結末を迎えたとも思えねえけども」
「そうだな……」
 イヤホンを始めとする備品をチェックしながら、リウドルフは気勢をいちじるしく欠いた口調で答えた。
「前々から限界間際にあった集落が一つ、廃村になった。後は寂れた神社が一つ、やっぱり廃社が決まった。口に出してしまえば何の変哲も無い、ただそれだけの締め括りだった」
 さばさばと言い捨てながらも、一方でリウドルフは眉間にしわを寄せたのだった。
 潮騒の音は、その日も変わらずに岸辺へと寄せた。
 たとえ近くの浜から海へと漕ぎ出す者が、もう二度と現れないのだとしても。
 たたずむリウドルフの前で、防護服を着た男達が複数の担架を黙々と運んで行く。その上に寝かされているのは、院須磨いんすま村の民家に残されたわずかな数の住民達であった。
 住人のほとんどが夜の祭事へと向かった中、それでも持病や怪我などの理由から、る意味では運良く住まいに残った村人達が続々と屋外に連れ出されて行く。政府の主導で進められる一連の処置を、リウドルフは村の外れから静かに見届けていたのであった。
 前途は決して明るいものとは言えなかった。
 昨夜、彼女を追って海の奥へと消えた住民達は全体の半数にも上った。その中には、村落の事実上の管理者であった沼津新吉も含まれる。祭事を取り仕切る者もまつられる御神体共々波の彼方へと消え失せ、残されたのは様々な意味で打ちのめされた村人達だけとなった。
 取り分けアレグラの捕らえた重症者達は朝の訪れと共に急激な衰弱を見せ始め、国の医療施設へと速やかに搬送されて行ったのだった。彼らの脳や脊髄に、すでに重篤な病変が現れていた事をリウドルフは後日通知された。
 程度の差こそあれ、残された住民の状態は皆同じであろう。
 たとえ薬と毒の入り混じる劇薬紛いの代物であったにせよ、唯一の『適合者』たる『彼女』が提供してくれた血液や体組織による延命措置も不可能となった今、彼らを待ち受けるのがどのような未来であるのか誰にも予測が付けられなかった。
 しばらくは、様々な抗生物質の投与を繰り返しての地道な治療が続けられるのだろう。
 しかるにそれで彼ら全員が快方へと向かった所で、その先にどんな人生を歩むのか、そもそも再び歩み出す事が出来るのかどうか、事態は正に五里霧中の有様であった。
 本来は唯一にして絶対的な平等となるはずの、『時の経過』と言う事象を無理矢理に押し留め続けた、これは『報い』であるのかも知れない。
 それでも血の呪いが関与した全てに、後ろ向きの慣性が掛けられた訳ではなかった。
『その……色々とお世話になりました』
 荷造りを整えた晴人が最後の挨拶に訪れた時の事を、リウドルフは思い返した。
 少し前の昼過ぎの事であった。
 今や主人のいなくなった旅館から『彼』も発つ決意を固めたのである。
 感染防止の観点から、当該村落をしばし封鎖する決定が政府によって下された。隣の部洲一ぶすいち町でも朝方はそこそこの騒ぎとなったようだったが、以前より人の往来に乏しい小さな集落での事である。外部の者が滅多に近付かない狭い地域で奇病が発生したらしいとの知らせは、周辺地区にそこまでの混乱を招かなかったようであった。
 こんな事だろうと思った、と訴える諦観にも似た冷ややかな眼差しが、村へと繋がる封鎖された道に集まった野次馬からは発散されていた。
 晴人と美香の両名は、午前中は採血を始めとする各種検査を人員と共に派遣された医療防疫車内で受ける次第となった。大元の細菌の持つ感染力が高いものではないとは言え、念の為の予防処置であった。
 結果は双方共に陰性であり、活動の自由は程無く当人に戻された。
 美香はアレグラと共に家路に付く事となり、そして晴人もまた故郷の地を一先ひとまず後にする事に決めたのだった。
 急な決定ではあるが妥当な選択であるのかも知れない。
 洋上の捜索も今後数日は続行される運びとなっていたが、その結果が揺るがないであろう事を青年もすでに察していたようだった。
 帽子を脱いで一礼した晴人へと、リウドルフは穏やかにかぶりを振った。
『いや、そうしてきちんと礼を述べられる程の事はこちらも出来なかった。せめてあのひとだけは救いたかったんだが、こんな結果となってしまったのは本当に残念だ』
『そうですね……』
 そう答えて、晴人は寂しげな面持ちを遥かな海原へと向けたのだった。
 波頭を飛び越えて吹き抜ける強い風が両者の頭髪を搔き乱した。
 やがて晴人は顔を前に戻してリウドルフへと告げる。
格好カッコ付けるような事言うのも何ですけど、まずは真面目に生きてみようと思います。変に格好カッコなんか付けないで』
『そうだな。人の気持ちを代弁するような事を言うのをおごりと呼ぶんだが、この場合は「彼女」もそれを望んでいるだろう』
『そうですよね、きっと……』
 リウドルフの言葉に晴人はうなずいた。
 『残された』者にとって、せめてこれが新たな門出となるように。
 昼の日差しに波は眩いきらめきを返し続けた。
 それからしばらくして、リウドルフは己の前にそびえる物へと改めて目を向けた。
 潮騒を背にしてたたずむ彼の前には、朱塗りの社殿が建っていた。今やこの場所を預かる神主も消え、訪れる者も永く失うであろう神社は境内に蝉の鳴き声と波の音だけを満たしていたのであった。
 拝殿はいでんも本殿も扉こそ閉ざしていたが、その内部にはじつとなるものがすでに無い事を只一人の参拝客は察していた。
 かつて、神域たるこの場所も間違い無く人の営みの一部であった。
 この場所に最初に集まったのは、日々の生活の中で絶えず生まれるささやかな『望み』や一途な『願い』であったはずなのに、それがいつしか度を越えて、大海をも飲み干す巨大な亀裂の如き際限の無い『妄執』へと変質して行ったのである。
 起点となったのは実に些細な、至極ありふれた希望であったはずなのに。
 夏の蒸し暑い空気の中、建材の各所がすでに干乾び始めているかのような様相を晒す古びた社殿をリウドルフは物憂げに見上げた。
 本坪鈴ほんつぼすずの鳴る乾いた音が広々とした境内に響き、柏手の音が残響の間に差し挟まれた。
 それから、リウドルフは虚ろなる社殿に背を向けたのだった。
 今も防疫及び隔離作業の続けられる小さな集落を横手に配して、西へと傾き始めた太陽の下、細身の孤影は人気ひとけの失せた参道を歩き続ける。
 周囲の木立から発せられる蝉時雨が去り行く小さな背中に降り掛かった。
 しかるに少しして、彼は行く手にたたずむ人影がある事に気付いて顔を上げた。
 リウドルフの前方に、月影司が立っていた。
 鳥居を背にして平然とたたずむ長身の姿を認めるなり、リウドルフはまぶたをぴくりと震わせた。今朝方より政府から派遣された専門の職員が村落を捜索、封鎖し始めた処置の裏にはこの男の暗躍があっただろう事は想像に難くなかった。急な要請であったろうにもかかわらず混乱も起こさず整然と進められる一連の作業は、前々から陰で綿密な折衝が繰り返されて来た事実をも暗に示唆していたのである。
 神域の境で相対した二つの影は、互いに何の言葉を遣す事もしなかった。
 それでも司のかたわらを通り過ぎる瞬間、リウドルフは緩やかに口を開く。
「……これで満足か?」
 その一言だけを残して、リウドルフは司の横を素通りして行った。
 他方、鳥居の前に残された司は口の端をゆっくりと吊り上げる。
「……そんな訳が無いじゃないですか」
 何処か愉快げな響きさえ含ませたその返答は、潮騒にすぐさま呑み込まれた。
 廃墟と化しつつある神社を前にして、司はしばし参道に立ち続けた。
 沖から寄せた強い潮風が境内の木々をざわめかせた。
 次第に遠ざかる二つの影を真夏の太陽だけが俯瞰ふかんしていた。

 そして今、リウドルフと百目鬼を乗せた旅客機は滑走路へと移動を開始したのだった。
 斜陽の光を照り返す幅広の路面を、リウドルフは冴えない面持ちで見下ろしていた。
 お盆休みも過ぎた今の時期に長距離国際線を利用する乗客は多くないようで、機内にずらりと配されたシートには空席が目立った。その中でも取り分け目立たず、冴えない風貌を周囲に溶け込ませた男は窓辺の席に腰を落ち着けていたのであった。
 そんなリウドルフの隣で、百目鬼が思い出したように声を上げる。
「そう言やぁ発見した例の細菌だがよ、一通りの検査結果をまとめて今度学会へ報告する事んなったんだわ。勿論もちろん帰ってからの話だがな」
「そうか」
 特に感慨も無さそうに相槌を打ったリウドルフへ、百目鬼は尚も話し掛ける。
「ついては何かしらの仮名かめいを添えときたいんだよな。何か適当な名前があったら今の内に教えてくれ。学名として正式に採用されるかどうかは保証出来ねえが、報告書には一応載っけとくから」
 促されたリウドルフは小さな窓の外を見つめながら、首の角度をわずかに変えた。
「……『Lacrimaラクリマエe syreni・シーレン』」
「何だって?」
 聞き返した百目鬼へ、リウドルフは顔を向けて再度答えた。
「『人魚Lacrimaの涙e syreni』、てのはどうだ?」
 百目鬼は意外そうに目を丸くした。
「おいおい、アンデルセンか? えらく変わった趣味だな、また」
 ややあって評した百目鬼の言葉に、リウドルフはつまらなそうに鼻息をついた。
「……まあ、どっちの人魚でも良いけどな。おかの男に恋い焦がれて泡と化すのも、孤独の果てに人知れず最期を迎えるのも、恐らく大した違いは無いんだろうさ……」
 そう言うと、リウドルフはまた窓の方へ顔を戻したのであった。
 何やら取り残された体を晒して、百目鬼は口先を尖らせる。
「いや、それならそれで良いけどよ、別に……」
 百目鬼がぼやくように呟いた時、旅客機は加速を始めた。
 明星がぽつんと顔をのぞかせる紺色の空へと向けて、二人の乗った飛行機はいよいよ飛び立とうとしていた。離陸に際し後方へと急速に流れ行く景色を見ながら、リウドルフは物憂げな表情をたたえた。
 失う事に慣れて行ける人間などいない。
 少し前、海の懐より流れ出でた言葉を彼はふと思い返した。
 それと一緒に、斜陽に染められた黄金色の空に一個の面影がやおら浮かび上がったのだった。
 臙脂えんじ色のフードの隙間から栗色の髪をのぞかせた、溌溂はつらつとした若い女の顔が。
 こちらの眼差しに気付いたかのように、空の彼方に浮かぶ『彼女』は明るく微笑んだ。
 遠景を望んでいたリウドルフの目が更に一層細められる。
 紛れも無い悲しみの色が、その時、死をも超越した賢人の瞳を隈なく覆い尽くしたのであった。
 そして二人を乗せた大型旅客機は、夜の彩りが広まりつつある空へと速やかに吸い込まれて行った。

                    〈渚のリッチな夜でした 了〉

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