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またもリッチな夜でした

その23

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 花壇の草木がざわざわと梢を騒がせた。
 夜になって気温が下がるにつれ風が出て来たのか、屋上に降り掛かる雨は勢いを増したかのようであった。
 時折斜めに吹き付けて来る雨の只中、病院の真っ暗な屋上にあって、居合わせた六つの人影はしばしの間それぞれに不動を保っていた。
 それでも、やがての末に一人がよろよろと前へ足を踏み出した。
 亮一はすでに全身を雨に濡らしながら、前方の妹へと近付いて行く。
 顔一面をずぶ濡れにしながら、少年は一人懸命に訴える。
めろ……なあ、めてくれ……前にも何度か言ったじゃないか。どうしても肉体が必要だと言うのであれば、俺のをやる。だから叔子を返してくれ。この上、その子の体にまで取り憑く必要は無いじゃないか。俺が、俺が代わるから……」
 雨音の中に吐き出された苦しげな、古傷の疼きに耐えているかのような声は、だが異形の声によってさえぎ断される。
『この肉肉肉体は、すすでに限界だ』
『生気を行き渡らせ渡らせながら潜伏を続けるにも、げげ限限度がある』
『こここのままでは、こここの肉体共々、わわ我らも朽ちる一方だ、だだだ』
 夜の底知れぬ暗闇を背後に置いて、『叔子』の全身から黄色の光が再び立ち昇った。内包する無数の人格が並列して意思を発するが故に、その発言は常に複数の声から成り、互いに重なり合って支離滅裂ですらある響きを生じさせるのだった。
『それにそれそれに』
『それは何の何の何の意味味ももも成成成さぬ取引だ、だだ』
『土台お前なぞににに、大し大した値打ちは無無無い』
 『群体死霊ワイト・レギオン』は亮一を始め、雨を隔ててたたずむ人間達へと叔子の肉体を通して侮蔑を込めた眼差しを送る。
『わわわわ我我らがよよ憑代よりしろたるにはには』
『これこれこれぐらいのううつ器が相応しい』
『これこれこれこれぐらい歳若いおおお女子おなごがな』
「何……?」
 亮一が、雨の中で狼狽した表情を浮かべた。
 彼の後ろで、美香も眉をぴくりと動かす。
 『群体死霊ワイト・レギオン』は片腕に美里を抱いたまま、叔子の体から本体たる黄色い光をあふれ出させた。
『おまお前お前達は、ちち小さき者共をを常に寵愛の対象とする』
『時に時に時に、わわわ我々が予想した以上の献身すら平然とと行なう』
『見てくれが幼ければおお幼い程、そそその傾向は顕著となるる』
 そう述べた直後、『叔子』の瞳に出し抜けに光が宿った。
「兄さん!! 私の事はもう気にしないでいいから!!」
 亮一の、そして美香の目が反射的に見開かれた。
 しかし次の瞬間、雨の間に死霊の声が再び流れ出す。
『こうこうこう言わせておけばけば、おまおまお前達は喜んで全てを差し出す』
『おののおの己の無様な醜態にすすら気付く事無く、自らのの望んで全てを投げ打つ』
『この姿を取り取取り続ける限り、我らに進んでかしずくのだ』
『常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に常に』
永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわ永遠とわに』
 そこまで告げた後、『叔子』は瞳に確たる意思の光を宿したまま、宮沢叔子としての面影をはっきりと現したまま、雨の中で不意ににたりと笑ったのだった。
『あわ、あわあわ、あわわあわ』
『あわわわわわわわわわわわ』
 目を大きく見開き口も大きく吊り上げた、それは哄笑の顔であった。
「哀れだな……!」
 吐き付けるように放たれた肉声を追うようにして、少女の体表を覆う不気味な光がはやし立てるように躍動した。
 突風に煽られた雨粒が、屋上の床に激しく打ち付けた。
 一言も発する事も出来ぬまま、亮一は雨の中に立ち尽くしていた。
「……言い残す事はそれだけか?」
 漂白されたように脱力した亮一の横から、今度はリウドルフが前へと進み出た。その手に赤と白の細剣を握り、闇色の衣を雨の中にはためかせて、黒い頭骨から蒼白い眼光を放ちながら。
 眼前の『群体死霊ワイト・レギオン』から眼差しを外さず、リウドルフは剣をゆっくりと持ち上げる。
「ならば消え去れ! 跡形も無く!」
「でも、センセ……」
 その背中へと、美香は及び腰に呼び掛けた。
「本当にもう手遅れなの? 叔ちゃんを助ける事は出来ないの?」
 美香の問いに、リウドルフは背中越しに答える。
「……今のお前なら判るはずだ。あれの実態が。あの肉体に何が宿っているのかが」
 促されて、美香は前方にたたずむ少女へと目を凝らした。今も全身から黄色い光を揺らめかせている『叔子』へと、美香は全神経を集中する。
 双眸そうぼうが、再び赤く輝いた。
 その時、美香の意識に運ばれたのは、絶え間無く流動する膨大な数の意思の奔流であった。
 果たして、どれ程の数の意識があそこに集約されているのであろうか。
 百か、千か、それ以上か。
 ともすれば容易たやすく圧倒されそうな巨大な存在感を、美香は意識で感じ取った。
 だが一方で、それは決して個々が明確な代物ではない。
 くらよどみ確たる輪郭すら失われた、只々おぞましく脈動する際限無き衝動と欲求の塊であった。
 実体として『それら』を表現するならば、正に肉塊とでも呼ぶのが相応しいだろう。
 『死』に対する恐怖と『生』への渇望。それらが集束し過ぎた結果、諸々の怨念は個々の意志や記憶すらすでに喪失しており、ひたぶるに現世に留まると言う盲目的衝動に支配されたうごめく肉塊に等しい存在と化していたのだった。
 その中には最早一片の光明も見出せない。
 生者としての望みなど欠片もうかがえはしない。日差しの下を溌溂はつらつと駆け回りたいと欲する願望も、大切な誰かにもう一度会いたいと願う希望すらも、『それら』の中にはわずかたりとも漂ってはいなかった。
 在るのはただ、他の全てを貪り食ってでも現世うつしよに踏みとどまらんとする底無しで身勝手な欲求のみである。
 軽い立ちくらみすら起こして、美香は雨の中をよろよろと後退した。
「駄目……」
 悲しげな呟きが、その唇から漏れ出た。
「……駄目なんだね、もう……」
 答える代わりに、リウドルフは目の前の死霊へと剣先を突き付けた。
 そのリウドルフを、近しい種族を、『群体死霊ワイト・レギオン』は忌々しげに睨み付ける。
『なな何故だ?』
『こここうこうまでして、何故お前は我らををを妨げようとする?』
 叔子の体からあふれる黄色い光が、もどかしげにうねった。
『我我々はただ「器」を満たしてやっているいるだけだ』
『空っぽのうつうつ器を、ををを』
「ふん、『盗人にも三分の理』か。実に下らん」
 一笑に付したリウドルフを、叔子の体を動かす死霊はじっと見据える。
『わわわ我々は、つつつ束束の間とは言え言え』
『おお多くの虚ろなる器をみみ満たしてややった』
『そいつのよよようにに』
 言って、『叔子』は雨の向こうに立ち尽くす亮一を指し示した。
『事実、多くの者者者が、わわ我らに感謝したぞぞ、ぞ』
『だだ誰もが、空っぽ空っぽだった』
『親しい者がが生き延びる事とととだけを、只々願ってていた』
『それだけだった。奴らにはそれしかしか無かった』
『だから満たしてややったのだ。奴らの願いをを、望みををを』
『たととえ短い間の事であろうともとも』
『多くの空虚な胸の内内を満たしてややったのだ』
「その代価として、お前達はどれだけの数の人間を憑り殺して来た? 宿主しゅくしゅを変える度、その関係者もことごとく生気を奪い尽くして殺して行ったのではないのか? 今こうして勝手気儘きままに振る舞っている点からも容易に察せられる。追手が付くのを防ぐ為に、只々自分達が生き延びる為だけにどれ程多くの人間を踏みにじって来たのかがな」
 髑髏どくろの面持ちを全く変化させずリウドルフが冷ややかに指摘すると、『群体死霊ワイト・レギオン』は悪びれもせずに切り返す。
『それれれれの何処が悪いいいい?』
『土土土台台、生きると言う事にには、だだ代代代償が付き物ではなないか』
『己が生きるる為にに、他者者をを糧とする」
『あらあらあらゆる危機を回避する為為に知恵を働かせる』
『誰誰しもが日々行なっている事とだ』
『まましてや、相手手は手は』
『身内内の事にしか意意識の向か向かなくなった虚ろなる者共』
『つつ束の間のじゅ充足を得得得た末に』
『身身内共共々我らの一部となれれば本望であろ?』
『何何処に不自然な点がある、ああるあるある?』
「……確かに人間だけが他の種族から糧とされず、脅威と無縁で繁栄を謳歌している事実は、天然自然の在りようとしてはいびつであるかも知れんがな」
 リウドルフは独白するように言うと髑髏どくろわずかに上に向け、星の望めぬ暗い夜空を見上げた。
「特に現代のように大半の地域で食糧供給が安定し、防疫を含めた様々な医療措置が当たり前に行なわれている中では、ただ『生きている』事、『生き続ける』事それ自体にはあるいは大した値打ちは無いのかも知れん。最早わざわざ評価するにも値しない、当たり前の事柄であるのかも知れん。何かの拍子に足元を揺すられた際に初めてその有難味が判るのだとしても、結局は喉元を過ぎればすぐに忘れてしまう程度の些細な事柄なのかも知れん」
 何処か寂しげな、何処かに悔恨をにじませたような、それは膨大な数の生死を目の当たりにして来た不死者ならではの独白であった。
 雨が闇色の衣に降り掛かった。
「……しかし、だからと言って、現実に『空っぽ』の人間など何処にもいない。無論、その子にしてもだ」
 そこで口調をいく分改めリウドルフは顔を前へと戻すと、『群体死霊ワイト・レギオン』が今も我が物のように抱える難病の少女を剣先で指し示した。降りしきる雨に顔を濡らした美里は尚も目覚める様子は無かったが、その表情は苦しげであり、見えざる何かに抗しているようでもあった。
「『不安』に向き合い、『恐怖』に抗い、尚も懸命に生きようとする者を、そしてそれを支える者達を空虚さばかりが占める訳が無い。絶えずこぼれ落ちて行く、すでこぼれ落ちた『何か』を埋めようと精一杯努力するのが、即ち『生きる』と言う事だからだ。そんな当たり前の事さえも忘れたか、惨めな死に損ない」
 巽が唇をきつく結んだ前で、リウドルフはおごそかに言葉を続ける。
「『生きる』事には『代償』が付き物だとか抜かしたな。正にその通り。何ものもただ『生かされる』のみに『生きる』にあらず。一度ひとたび授かった『命』を抱え、燃やし続ける為に『代価』の如く何事かを伝え残して行くものだ。『しゅ』を存続させようと試みるのは無論の事、おのが『足跡』を記し、たとえわずかでも世界に『記憶』を刻もうと無自覚の内に奮励ふんれい努力する。故にこそ、ただ『生き続け』ようと藻掻もがく姿そのものもまた美しいのだ」
 赤と白の細剣を構え直しつつ、黒きむくろ眼窩がんかに灯した蒼い光を強く輝かせた。
「貴様らとて元は当たり前の人間だったろうに、今やかつての思い出も失い、生き甲斐を見出そうともせず、他者の力になろうともせず、狭い器の中にただ閉じこもっては他者を陥れる事にばかり知恵を巡らせ、挙句『自分』というものが消えてしまう事に怯え続けるだけの矮小な存在に成り下がってしまった。真の『亡者』に成り果ててしまった。『生命』の原則をかえりみても『人』のみちに照らしても、最早不自然な問題点しか見当たらん。『空っぽ』なのは貴様らであり、『哀れ』なのも貴様らだけだ!」
『同同同同族嫌悪の積もりか、そそそれはは?』
『おおお前に、我らを卑下卑下出来る程の差差差異差異差異があるとは思えんな』
 叔子の体に顎先を引かせて上目遣いに、『群体死霊ワイト・レギオン』は同じ不死なる者を睨み付けた。
『お前とて自然の流れに反反する存在でであるに違いは無かろうに』
『先程から何ににを賢しげな物言いばかり遣す、すす?』
『ままるで自自分が「人」でであるかのように』
『気に食わん奴だ……!』
「それは何より。ようやく意見の一致を見たな」
 初めて明確な敵意を露わにした死霊へと、リウドルフは鼻先で一笑するように言い捨てた。
 そして、彼は手にした剣を頭上へと掲げる。
「ならば、これ以上の問答も無用だろう。跡形も無く消滅しろ」
『そ、そそ、それそれ』
『それはどちらにななるかな?』
 『群体死霊ワイト・レギオン』が挑発的な念を放ってすぐ、夜の屋上に雨音とは異なるざわめきが生じた。
「うわっ!?」
 リウドルフの後方で、巽が狼狽うろたえた声を上げた。
 それに促されるようにして美香も周囲を見回す。
 降り続く雨の向こうに、無数の小さな影がうごめていた。屋上庭園に植えられた灌木の陰から、芝生の奥から、いくつもの動く何かが引き寄せられるように四方より集まって来る。
 それぞれに黄色く濁った光をにじみ出させながら。
「これって……」
 雨が頬を伝う中、美香は唾を飲み下した。
 明かりの無い夜の屋上に集ったのは、無数の小動物の死骸であった。
 翼の折れた烏。
 首がおかしな角度に曲がった鳩。
 目玉の片方が抜け落ちた鼠。
 その他諸々の小さなむくろが木々の陰から姿をのぞかせ、居合わせた生者達を包囲している。
 美香は動揺した顔を四方へと巡らせた。
「これも、こいつらも……」
「怪人の撒き散らした『垢』だな。何かの拍子に群体から剥がれ落ちた死霊の一部が、手近の死骸に宿る事で自然消滅を免れた姿だ。かつての荒んだ時代であれば、行き倒れの人間の死体に憑り付いて『餓鬼』などと呼ばれもしたが」
 リウドルフは背中越しに説明すると、無数の小さな異形の発する眼差しの只中で尚も前方の少女へと蒼い眼光を据える。
「それで? 足が付いたにもかかわらず、すぐに行方をくらませるでもなく、こうして手下共までわざわざ呼び集めるとはどういう趣向だ? まさか数を頼みに、この場で俺達全員を亡き者にでもする積もりなのか?」
『そのそのその通り』
『だ、だだだが』
『数ににに押されるのはは』
 叔子の内に宿るものがそこまで答えた瞬間、リウドルフの足元から出し抜けに黄色い光が湧き上がった。
 『叔子』のたたえる異形の眼光が俄然鋭さを帯びた。
『お前一人だ!! 同類!!』
「ちょっ……センセ!」
 『群体死霊ワイト・レギオン』が嘲笑を放ち、美香が悲痛な叫びを上げた先で、リウドルフの体は足元のかげりから立ち昇るよどんだ光の奥へと呑み込まれた。
 身をかわいとまもあればこそ、闇より削り出されたかのような漆黒の体躯は禍々まがまがしい光の柱の中に瞬時にして消え果てたのであった。
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