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またもリッチな夜でした

その5

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 その夜、大菅健次おおすげけんじはいつも通りに車で家路に付いていた。
 細かな雨が貼り付いたフロントガラスを、ワイパーがかすかな駆動音を小さな咳払いのように漏らしながら拭い続ける。カーラジオから流れる洋楽が、空調の冷気を追うように暗い車内に広がって行った。
 夜の十時を回った頃の幹線道路は往来する車の数も減り、大したもどかしさを抱く事も無く、大菅は自分の車を走らせる事が出来た。事実、大菅の乗った青いセダンは小雨の降りしきる中を、用水路を小魚が泳ぐように道路をよどみ無く進んで行ったのであった。
 今日も起伏に乏しい一日だったな、と思い返しながら大菅はハンドルをわずかに右に動かした。
 無数の小さな雨粒が、音も無くフロントガラスへこびり付いて行く。
 淡々と進む外界の様子を、大菅は漠然と眺めていた。
 丁度ちょうど今の空模様のように、物事の緩急に乏しい日々がしばらくは続くのだろうか。職場でも家庭でも、わずらわされるアクシデントが少なく済むのは好ましいが、一方では遣り甲斐や達成感もして生じない事実は寂しくもある。
 平坦な、ただ平淡な日々の繰り返し。
 しかるに、それでも給料が入って来るだけ結構な話ではあるのだが。
「人は自分で思う程、幸せでもなければ不幸でもない……」
 大菅が暗い車中でぽつりと呟いた時、前を走っていた車が左へと曲がった。
 道路に先行する車の姿は見えず、ルームミラーを垣間見る限り後続車もいないようである。フロントガラスの向こうには、街灯の点々と連なる夜の道が伸び行くばかりであった。
 道路に隣接する民家もすでに明かりを落としている所が多く、路肩の人通りは絶えて久しい。黙々と降り続く雨だけが変わらず大菅の車を囲っていた。
 それからどれ程の空白を挟んでの事であっただろうか。
 相変わらず無人の道路を進んでしばらく、大菅は路肩に奇妙な『もの』を認めて眉根を寄せた。
 男が一人、雨の中、傘も差さずに路肩にぽつんとたたずんでいた。
 実際の所、大菅が咄嗟とっさに『男』と勘繰ったのは、その孤影が長身であったからである。辺りは暗く、数メートル先にたたずむ人影にしても詳細をうかがう事は容易には出来ない。そしてその孤影は足元の暗がりが隆起したかのように、全身が真っ黒でのっぺりとしていた。
 ハンドルを握る手を少し強張らせながら、大菅はちらと思い起こしていた。
 この御簾嘉戸みすかと市内でいくつも目撃例が相次いでいると言う、或る都市伝説についてである。
 大抵はこうした夜の出来事であると言う。
 帰宅途中のOLや学生が、夜道の陰からい出た妙な『もの』と出くわすと言うのだ。すでに閉ざされた店の陰、あるいは古い電灯の途切れがちな光が漏れる雑居ビルの中から、真っ黒な骸骨が突如として姿を現すと言うのである。
 肉も皮も削げ落ち、漆黒の骨だけとなった亡者が眼窩がんか爛々らんらんと蒼い光を灯してこちらをじっと見つめて来る。底知れぬ怨嗟と妄執を全身からあふれさせて。
「まさかね……」
 大菅は小さく呟いた。
 世の中の大抵の人間がそうであるように、彼もまた社会と言う掴みどころの無い代物に組み込まれる中で、一つの信条のようなものをいつしか会得していたのであった。即ち、どれ程些細な事柄であれ、自分のような小さな一個人が騒乱の中心や発端に置かれるはずが無いと言う、暗黙の了解のような発想である。
 この場合も大菅は当初はそれを当てめようとした。
 噂は噂、現実は現実なのである。たとえどのような類の代物であるにせよ、都市伝説とは他人事として楽しむものだ。自分が巻き込まれるたぐいのものではないはずだ。
 視線を極力前方に据えたまま、大菅は雨中にたたずむ孤影の横を通り過ぎた。
 それでも車が交差する一瞬に、大菅はその人物の様子をつい垣間見てしまう。
 路肩に植えられた街路樹のかたわらに立っていたのは、黒い衣装をすっぽり被った風体の何者かであった。身長は二メートルを優に超えるだろうか。細部は見通せないにもかかわらず、度を越した長身は存在感の塊である。
 頭も布で覆っているのか、顔形を察する事は叶わない。
 雨の中で微動だにせず、長身瘦躯の何者かはただ路肩にたたずんでいた。
 唾を無意識に飲み下し、それでも大菅はその奇異な人影の横を通過したのであった。
 ラジオからはドラムンベースの快活な曲が流れ出て、フロントガラスを流れ落ちる雨の雫にもリズムを与えているかのようであった。
 電子音の弾むような旋律は、だが、車内に唐突に鳴り響いた騒音によって乱された。
 大菅の頭上、車の屋根に何かがぶつかった。
 何か大きな物が、上から落下して来たようである。
「おいおい……!」
 顔を大きく引きらせながら、大菅はアクセルを踏み込んでいた。
 何かがおかしい。
 何かがまずい。
 直感的な不安に突き動かされるまま、濡れた路面で出すには危険な速度で大菅は車を走らせた。フロントガラスの外から、街灯の放つ光が以前より早い感覚で車内に飛び込んで来る。
 その光をさえぎって、『それ』は顔をのぞかせた。
 大菅が運転席で目を見張った。
 黒尽くめの何者かが車のフロントガラスに上体を逆様に貼り付かせて、内部の様子をじっとうかがっていた。恐らくは屋根ルーフに飛び移った何者かが上半身をフロントガラスへと垂らしているのだろう。
 大菅は呻き声を漏らす事も出来ぬまま、己の眼前を覆うものを見つめていた。
 黒衣に身を包んだ、それは『異形』であった。
 全身を黒い布で隈なく覆い隠し、さながら巨大な大山椒魚オオサンショウウオのように、『それ』は雨の中を暴走気味に突き進む青いセダンの屋根ルーフからフロントガラスに掛けてぴたりと張り付いている。
 そして、逆様になった『それ』の顔に当たる部分に、人の相貌は付いていなかった。
 屍衣のような黒い布の先端に在ったのは、仮面に覆われた異形のかおであった。
 いや、それが被った仮面そのものは大菅も何かの番組で見た事があった。遠くイタリアのカーニバルで用いられるベネチアンマスクの一つである。
 華美な彩色と装飾が施されたアイマスクだが、鼻を覆う部分が異様に長い。かつて欧州で黒死病が蔓延した際に活躍したと言う医師の装束を模した仮面であった。
 顔を大きく引きらせた大菅の見つめる先で、ペスト医師のマスクを付けた何者は、仮面ののぞき穴によどませた闇を眼前の生者へと据えていた。
 その時、大菅の耳の奥にかすかな声が浸透する。
『つ……』
『つかか……』
『つつかかか……』
 空気を震わせるのとは異なる、しかし確かに伝わる不可解な声が驚愕と恐怖に凝固した大菅の意識に木霊した。
 直後、異形の仮面で顔を隠した『何者か』は雨の中で身をくねらせた。
 あたかも獲物を前にして悦楽を隠せず、身悶えする毒蛇のように。
『捕まえた……!』
 車の前方に降り掛かる小雨が、一瞬、爆ぜるように四方へと飛び散った。
 同時にフロントガラスを隔てた先で怯える大菅の体に、異様な脱力感が前触れも無く圧し掛かって来た。ハンドルを握る両手から、ペダルを踏む脚から、シートに預けた背中からも、全身の力と言う力が止め無く抜け落ちて行く。何か、体の奥深くに蓄えられていた重要な要素が際限無く流失して行く。
 薄れ行く意識の中、どうにか車を減速させようと試みる大菅の前で異形の影は尚もこちらを凝視し続ける。相貌を隠す仮面の周囲から、黒衣に包まれた全身の輪郭から、その時、黄色い光がうっすらとにじみ出ていた。
 美しさとは無縁の禍々まがまがしくも不浄な光であった。
 そしてその光景を最後に、大菅の意識は底知れぬ闇の奥へと沈んで行ったのだった。

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