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今宵もリッチな夜でした

その21

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 テーブルの席の一つに腰を下ろして夜半のニュースを眺めていた青柳里穂は、湯呑の緑茶を一口すすり、しかる後やおら口を開いたのであった。
「……何だか物騒な世の中ねぇ」
 洗面所で歯を磨いていた美香は、流れて来た母の呟きを受けてリビングの方へと顔をのぞかせる。
「え? 何? 何か言った?」
 その美香へと向け、里穂は窓辺のテレビに視線は据えたまま背中越しに答える。
御簾嘉戸みすかと市内で殺人事件ですって。あれってあんたの学校の近くじゃないの?」
 言われて、美香は今もニュースの映るテレビ画面へと目をらす。
 学校近くと言われた所で細かい地区の映像から住所が察せられる程の土地勘が育まれている訳でもなかったが、画面右上のテロップには確かに聞き覚えのある町名が記されていた。
 同じ画面を眺めつつ、里穂は鼻息をついた。
「繁華街にあるビルの一つが襲撃を受けたんだそうよ。表向きは風俗業者の事務所って事になってたけど、実際には暴力団の資金調達を請け負うフロント企業だったんだって。そこで今日の夕方頃、事件が発生したという訳よ」
「ふーん」
「死者より行方不明者の方が多いみたいなんですって。嫌ねぇ。近場で抗争でも起こしてるのかしら」
 美香が大して気にも留めずに相槌を打つ前で里穂は茶をまたすすり、次いでその美香の方へと首を巡らせた。
「あんたも気を付けなさいよ。あの辺りの商店街は盛り場も規模が大きいんだからね。眩しい場所程日陰も濃いって奴よ。特に帰り道では怪しげなスカウトなんかが絶えず目を光らせてるかも知れないんだから」
「大丈夫だよ、私だって子供じゃないから」
 歯ブラシを止めて美香は不服そうに反発した。
「学校からもくどいくらい言われてるし、そんなヤバそうな所にわざわざ立ち寄らないって」
「そうね、まずそれが一番ね」
 美香の前で、里穂は首を少し傾いだ。
 陽介も達也も夕飯後は早々に自室に引き上げ、居間に残っているのは美香と里穂の二人のみである。それぞれにスマホなりパソコンなりに熱中しているのだろう男性陣を置いて、窓辺に置かれたテレビは地域のニュースを流し続けている。
 そのニュースを見ながら、里穂は後ろにたたずむ娘へと語り掛ける。
「けど、だからと言って、安心し切るのも良くないわよ。日常の落とし穴なんてのは、何処に口を広げてるか判らないんだから。特にふらっと一人でいる時に限って、予期せぬ事態ってのにあっさりとまってしまったりするものよ」
 ニュースが一旦途切れ、テレビ画面にCMが流れ始めた。
 歯ブラシを口に咥えたまま、美香は母の背に呼び掛ける。
「……それって皮肉で言ってんの?」
「あらあら何を言い出すのかしらね、この子は」
 それまでより少し高い声を、里穂は上げた。
 不意の一言に驚いたとも、単におどけて見せたとも取れる物言いであったが、その後、首を少し上へと向けて里穂は言葉を続ける。
「別に、私に何か不満がある訳じゃないわよ。確かにクラブ活動の付き合いで大勢で群れてれば悪い虫が付き難くなるってのも事実ではあるでしょうし、私もその方が楽なんだけど、結局はあんたが下した選択だもの。私がどうこう言うような事じゃないから。ただ単に、今は保護者として心配を寄せてるってだけ」
 さばさばと言う母の後ろで、美香は歯ブラシを依然咥えたまま、下唇を徐々に持ち上げた。
「ま、今のままで成績が下がるようなら話は別だけどね。そう言えばもうすぐ高校最初のテストだけど、準備の方ははかどってるのかしら?」
 言いながら、里穂はまた美香をかえりみた。
 これには美香も心底居心地の悪そうな表情を浮かべ、相手の冷ややかな眼差しから思わず目を逸らしたのであった。
「……そりゃまあ、努力は続けてるよ」
「結構。やれば出来る、為せば成るってね。逆に言えば、何かしなけりゃ何も始まらない。何も実を結びはしない。そういう事よ」
 実にさっぱりと、そしてきっぱりとした口調で評すると里穂は顔を前へと戻した。
 そうして二秒程の間を空けてから、彼女は娘へと背中越しに話し掛ける。
「……でもね、どんな些細な事であれ、目標を掲げて何かをしようとすればしくじりやつまずきは必ず付いて回るものでもあるから。誰にしたってそれは同じ。別にあんた一人が思い悩んでる訳じゃない」
 いつしか歯ブラシを口の外へと出して、美香はリビングの端の方でたたずんでいた。
 CMも終わり、またニュースに画面が切り替わるとキャスターと気象予報士が明日の天気を報じ始めた。と同時に、テレビからは明るく穏やかな曲調のBGMが流れ始める。
 リビングに沈黙が居座る中でそんな音楽は空気をして震わせる事も無く、さながら風に吹き流される糸くずのように、何の関心も呼ばないままただ通り過ぎて行くのみであった。
「まあ何にせよ、あまり引き摺り過ぎない事ね」
 やはり顔は前に向けたまま、里穂は話をまとめた。
 美香は何を言い返すでもなく、その場に立ったまま眉根を寄せていた。
 明日からの天気は、しばらく良いようである事を、女の気象予報士が朗らかに告げていた。

 同時刻、ロシアン・マフィアの男達は彼らの根城の広間に集合していた。
 訪れる者も無いホテルのロビーには今夜も明かりは灯されておらず、薄暗い広々とした空間に集まった屈強な男達は、だがいずれも困惑気味の表情を浮かべてたたずんでいる。
 この数日で、彼らは憔悴しょうすいの度合いを加速度的に色濃くしつつあった。
 元より異国の奥深くに侵入しての事である。補給の断絶と情報の途絶という全く以って好ましからざる状況が、彼らの士気に重く圧し掛かっていたのであった。
 そうした中でも尚集団が瓦解しないでいるのは、皮肉にも見知らぬ国の内陸に孤立しているという、どうしようもない状況に置かれたあきらめからであった。正に所在無いという言葉がそのまま当てまる流浪も叶わぬ流浪者達を、廃屋のあちこちに淀む陰だけが物言わずに凝視していた。
 と、そこへ、建物の奥から新たに人影が現れる。
「本部からまた連絡があった。増援は予定通り今夜、つまりもう間も無く到着するそうだ」
 仲間達の方へと歩きながら、サーシャは大して嬉しくもなさそうに告げた。
 薄暗いロビーに集った男達も同様に喜ぶ気配も見せず、その通達を受けていぶかる視線を互いに交錯させた。
 その中からワーニャは歩み出ると、近付くサーシャへと問う。
「そりゃまた随分と急な話ですね。何日も連絡も入れずにいきなり増援を遣すったって……そもそもどれぐらいの人数を回してくれたんです?」
「判らん。今さっき届いた通知は薄気味悪い程事務的だった。詳細はその増援が到着次第説明してくれるそうだ。俺達はただ先方の到着を待てばいいらしい」
 サーシャの説明を聞いて、ワーニャを始めとして一同は尚更怪訝けげんな表情を浮かべた。
 それでも、足を止めたサーシャの横でミーシャが強引に笑顔を作って見せる。
「しかし、まあ何だな、金も食料も少なくなって来てた所だ。その増援てのが補給物資も一緒に運んで来てくれりゃ、反撃の機会もまだまだ作れるって訳だ。本当、手土産に国元のピロシキでも持って来てくれんかな」
 大らかな物言いに、仲間達も表情を少しは和らげた。
 サーシャもまた息を一つつくと、ロビーに集まった仲間達へと語り掛ける。
「そうだな……兎にも角にも、人員も物資も不足しているのが現状だ。ヤクザ共の動きも気に掛かる。ここは大人しく指示に従って、必要なら……」
 サーシャがそこまで言った時、ロビーにうっすらと影が差した。
 一転して緊張した面持ちをたたえた一同が首を巡らせた先、ホテルの入口に一つの人影が立っていた。
 わずかな月明かりに照らされて引き伸ばされた、だがそれは随分と小柄な人影であった。
 詳細を見通す事は叶わなかったが黒い衣装を身に着けた、さながら誰かの下から独り歩きを始めた影法師のような、それは何処か質量に乏しい孤影であった。
「……誰だ?」
 腰の後ろに差した拳銃へ手を伸ばしつつ、サーシャが鋭く呼び掛けた。ロビーにつどった男達の間に緊張と殺気がさっと走って間も無く、甲高い声がホテルの入口から遣される。
「よくもまあ、貧相なツラばかり並べたもんだな、能無しの役立たず共。そうして群れて傷の舐め合いでもしてるのか? 折角の気持ちいい月夜だと言うのに」
 実に冷然と言い捨てて薄暗い建物の中へと足を踏み入れて来たのは、栗色の髪を持つ一人の少年であった。
「……何だァ、このガキ?」
 ワーニャがいぶかる面持ちを浮かべる前で、サーシャが近付いて来る子供へと問い掛ける。
「ロシア語を話せるって事は仲間か? 国元からの伝令か?」
「馬鹿抜かしてんじゃないよ、三下。お前達がまるで使い物にならないから僕がこうして出向いて来てやったんだ。お前らこそ取次ぎ程度の役にも立たないじゃないか。標的がこの街に潜伏しているという確認以上の事を何一つ報告出来なかった癖に。雁首がんくびそろえて一体何をしてた? ん?」
 傲岸不遜そのものの言い草にサーシャも眉根を寄せたが、感情的な事は一先ひとまず置いて、彼は不意の闖入者ちんにゅうしゃへと念を押す。
「……すると、お前も増援で遣された内の一人なのか。他の連中はどうした?」
 問われた少年は、陰になった顔の中で口の端を吊り上げた。
「何を言ってる。他の連中なんて必要あるか。僕が来たんだ。それで全てで、それが全てだ」
 悠然と言い放つと少年は足を止めて、薄暗い廃屋の広間に並ぶロシアン・マフィアの構成員達を見回した。
「さて、言い付けもろくに守れない役立たずのお前らでも、最低限の情報収集ぐらいは出来てるんだろう? まずはこの国に来てからの事を知らせて貰おうか。もちろん細大漏らさずにだ。あまり手間取らせるなよ、鈍間トゥガドゥン
 先程から平然と悪態ばかりをつく得体の知れない相手に対し、マフィアの男達の間に漂う疑念と不快感は刻々と濃度を増して行ったのだが、その中でもサーシャの横に立ったワーニャが一際険悪な目を年端も行かない少年へと向けるなり、相手の胸倉を掴んで力任せに引き寄せたのだった。
「何だ、てめえ、その言い草はよォ!? ざけんなよ、ガキィ!! 俺らはてめえの使い走りじゃ……」
 そこで言葉は途切れた。
 啖呵たんかを切ろうとしたワーニャの体は何の前触れも無く横様に吹き飛ばされ、猛烈な速度で空中を突き進んだ挙句、そのままロビーの壁にまともに激突したのであった。
 重々しく、それでいて粘り付くような濁った音が、陰の多いロビーに反響した。
 床と平行に、さながら宙を滑るように弾き飛ばされたワーニャの体は減速の一切されぬまま剥き出しのコンクリートの壁に叩き付けられ、一溜りも無く押し潰されたのだった。
 断末魔の呻きを漏らすいとますら設けられなかったようであった。
 潰れた体の節々から鮮血が吹き出して壁に広がり、床にも流れ落ちて血溜まりを作った。後頭部の半分が壁に埋もれたように押し潰され、眼窩がんかからゆっくりとこぼれ落ちた眼球がその血溜まりの中に浸かってぴちゃりと音を立てる。
「口の利き方を知らん奴だな、呆れたもんだ」
 平然と言い捨てた少年の前で、他の男達は呆然自失の体で立ち尽くした。
 咄嗟とっさに声を上げられた者は、一同の中で誰一人としていなかった。
 目の前で仲間の一人が死んだ事、無惨に殺された事をも上書きしてしまうまでの驚愕と戦慄が一行を覆っていたのである。少年の前に立ったサーシャも、その後ろに控えていたミーシャもまた抗議や憤慨の声を上げる事も叶わず、ただただ眼前で起きた異常事態をそのまま視界に収めるだけで精一杯であった。
 そんな彼らの前で少年の足元に赤黒い影が淀み、間も無く床をうように伸びて、壁に貼り付いたワーニャの死体の方へ辿り着く。
「しかし、今日は何だか掃除ばかりしてるなぁ。腹が膨れる分には構わないが……」
 少年がつまらなそうに呟いた先でワーニャの遺骸は絶えずうごめく赤黒い影に覆われ、程無く壁や床に染み付いた血糊を残して消滅した。その様子を目の当たりにして、ロシアン・マフィアの構成員達も改めて心胆を寒からしめたようであった。
 他方、他者の胸の内など初めから気にする様子ものぞかせず、少年は居並ぶ男達へと丸い顔を向ける。
「さて、ここからは僕の指示に従え。まだ何か不満のある奴はいるか?」
 重苦しい沈黙が、それに応えた。
 そこで少年は、初めて満足そうに笑みを浮かべる。
「では早速仕事に取り掛かるとするか。標的が他所よそへ移らない内に事態を進めないといけないからな」
「……わ、判ったパ、パニマーユ……」
 半ば呻くように、サーシャは詰まった声を漏らした。
 その横を少年は通り過ぎ、明かりの消された建物の奥へと一人歩き出す。
「じゃあ、さっき言った通り、まずは今日までの活動記録を遣せ。どうせ大した内容も無かろうが、目を通すだけ通しておいてやる」
 そう言ってから少年はふと足を止めると、急に精気を失くしたように今も立ち尽くす男達を肩越しにかえりみた。
「……ああそうだ、僕の事は『フェドセイ』と呼べよ。取りえずはそれでいい」
 言い捨てると、フェドセイは陰の濃くわだかまる廃屋の深くへと進んで行く。間も無く闇に溶け消えた小さな後ろ姿を、屈強な男達の一団は蒼めた顔で見つめたのだった。
 空気すら凍て付いたかの如く静まり返った廃屋を、その遥か上空から白い三日月だけが見下ろしていた。

 それよりしばらくの後、中天に掛かった三日月の端に小さな影が浮かび上がっていた。
 月のかすかな光源を背にして夜空に浮遊したフェドセイは、眼下に広がる街の灯を冷然と俯瞰ふかんする。
 その双眸そうぼうは深紅に輝き、全身の輪郭を覆うように体表から赤黒い影が絶えず湧き出してはうごめいている。あたかも夜空の裂け目から漏れ出る瘴気のように、月夜の孤影は形を一定させなかった。
「……さて、やっと追い付いたぞ、錬金術師アルヒミク……ここまで来るのに随分と掛かった……もう決して逃がすものかよ……!」
 興奮からか、それとも緊張からか、フェドセイは揺らいだ声を発していた。
 それから、フェドセイは自身の右手をおもむろに見遣る。宙に掲げた右手に赤黒い影が群がるように集まり、その内から間も無く現れ出でたのは人間の頭蓋骨であった。
 全体が灰色掛かった、随分と古びた頭蓋骨をフェドセイは懐かしげに見つめる。
「……今少しの御辛抱を、御屋形様……」
 血のように赤い異形の瞳に、その時、儚くも眩い光が一瞬ぎった。
 夜の闇の只中に浮かぶ赤黒い孤影を、三日月の白い光が照らす。
 その下方で息づく街の灯は、何に気付いた素振りものぞかせず静かに輝き続けた。
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