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今宵もリッチな夜でした

その12

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 催涙ガスのもやの中から半ばうの体で抜け出した美香は、視界がようやく開けた所で後ろをかえりみる。校庭を囲う塀伝いに歩道を進んだその足取りは随分と重いものであったが、未だ淡々と降り続く雨に前髪を濡らしたまま少女は背後に淀む白いもやへ充血した目を向けた。
 美香には見通せぬ先で、司は丸眼鏡を直しつつやおら辺りを見回す。
「ふむ……どうやらしたる負傷はされていないようだ。急いで駆け付けた甲斐がありました」
 にこやかに評した司に、リウドルフは右の義眼からいささか以上冷めた眼差しを送る。
「よく言うよ。どうせ初めから一部始終を眺めてたんだろ? 恩を売れる格好の好機と思って、今頃になって割って入って来たんだろうに」
 リウドルフの皮肉とも取れる発言を受けても尚、司は柔和な面持ちを崩さずに白濁した煙の未だ立ち込める中で平然とたたずむ。その細長い体躯の輪郭を覆うようにして、淡い燐光が彼の全身を包んでいた。
 それから司は眼前で身を起こした、ガスマスクを付けた男達の方へと向き直る。不意の乱入者の横槍を受けて彼らも動揺はしているようだったが、程無くして身を起こすと銘々にスタンガンを取り出し、標的へと改めて距離を詰めて行った。
「随分とややこしい状況になっているようですが、私も特別手当の分は働かないといけないもので……まあ、要は綺麗に片付ければいいだけの話でしょうかね」
 周りを取り囲む屈強な男達を前にして、司は通勤途中の店へ朝食を取りに行くかのように実に気楽に言い放ったのであった。
 次いで、司はスーツの懐から数枚の札を素早く取り出す。どれもが表に優美な筆致で複雑な漢字の書き込まれた、長方形の札であった。
「臨兵闘者、皆陣列前行!!」
 凛とした叫びが、雨降る路地の一画に木霊した。
 直後、司を覆う白い靄の中に長大にして異様なものの影がうっすらと浮かび上がる。今正に司へ詰め寄ろうとしたガスマスク姿の男達は、目の前に唐突に現れた何かを認めて急遽きゅうきょ足を止めた。
 自身の真横へと水平に伸ばした手に、司は札を握り締めている。そうして毅然とたたずむ彼のすぐ背後から四匹の巨大な蛇がゆっくりと鎌首をもたげて現れ、主を取り囲む敵を静かに威圧したのであった。
 全身が毒々しいまでに黄色く、それでいて両眼の備わっていない異様な蛇であった。
 『異形』と呼んで、それは差し支え無かったやも知れぬ。
 誰かがガスマスクの奥から、引きった呻き声を漏れ出させた。
 そしてほとんど間髪を入れず、宅地の真ん中に突如として姿を現した四匹の大蛇は宙を滑って男達へとおどり掛かったのであった。
 男達も、これは幻ではないかと咄嗟とっさ勘繰かんぐったかも知れない。
 しかし、先頭に立った一人が人の胴回りを優に超える太さの巨大な蛇に弾き飛ばされるという現実を目の当たりにして、彼らの胸中で混乱へと繋がる導火線は急速に緊張の火を走らせたようであった。
 襲い来る奇怪な大蛇から、中村の部下達は濡れた路面に靴を滑らせるようにしてきびすを返し、元来た車の方へと一目散に逃げ帰る。
 他方、その様子を眺めていたリウドルフは、ぼそりと言葉を漏らした。
「……誰も死なすなよ」
 背後から遣された低い声に、司はうつむき加減で一笑した。
「……あなたはいつもそうだ」
 その後、司は肩越しにリウドルフへ振り返る。
「ご心配なく。すでに地域の公安に連絡を入れておきました。前回程の締まらない結末とはならないでしょう」
 丸眼鏡の奥で目元を和らげ、司は悠々と宣言した。
 事実、混乱の度を極めた襲撃者達はうねりながら突進を繰り出す黄色い大蛇によって相次いで昏倒させられ、大した抵抗も叶わぬまま路上にだらしなく伸びて行く。
 最初に襲撃を仕掛けたロシアン・マフィアの男達にしても、それは同じであった。元々催涙ガスによって視界を封じられていた彼らは状況の把握もままならぬ内に、もやを裂いて突進して来る異形の大蛇によってろくに成す術も無く路面に打ち倒されて行ったのであった。
 その間も雨は淡々と降り続き、一時は歩道を覆い尽くしていたガスを確実に打ち消して行った。
 路上に立ち込めていた白いもやが徐々に消失する様子を、商店街のビルの屋上からミーシャとワーニャは半ば困惑したていで眺めていた。
「何が起きてんだ、あすこで……ヤクザ共が乱入して来たらしいのは判ったが……」
「くそっ! 標的マトは何処だよ、標的マトは!? 何処行きやがった、あのクソったれ!」
 完全に想定を超えた事態を前にしてミーシャとワーニャがそれぞれに取り乱す先で、催涙ガスの作ったもやは刻々と薄れて行く。
 程無くして白濁した覆いの端にたたずむリウドルフの姿が浮かび上がるが早いか、ワーニャが口の端に牙を剥いた。
「いやがったな、おとぼけ野郎!! てめえの所為せいで、こちとらこのていたらくだ!! 涼しい顔して突っ立ってんじゃねえぞッ!!」
「おい……!」
 かたわらでミーシャが押し留めるよりも早く、完全に殺気立ったワーニャは狙撃銃の引き金を引いていた。もやの端の方で小雨を浴びていたリウドルフの下へ、撃ち出された弾丸は何の障害に出会う事も無く真っ直ぐに突き進む。
 突然、けたたましい音が鳴り響いた。
 それと同時に、プラスチック製の凶弾が標的の頭部に激突する間際、弾丸はさながら透明な樹脂板にでも激突したかのように唐突に軌道を歪め、リウドルフの頭を大きく逸れて暗い曇天へと跳弾したのだった。
「何っ!?」
 スコープ越しに見えた光景が信じられず、ワーニャは思わずライフルから顔を上げて遠方の様子を直接眺め遣った。
 一方、耳元で大きな音が鳴り響いたのを受け、リウドルフが辺りを見回す。
 その横で、司が遠く商店街の一角を指し示したのだった。
「あちらの方角に二名……武器を構えているのは一人のようですが」
 その説明にはすぐに答えず、リウドルフは自身の体を改めて見回す。
 と、彼は自分の腰の後ろに一枚の札が貼り付けられていた事を間も無く確認した。流麗な字体で紋様のように漢字が書き込まれたそれは、確たる力を有する呪符の一種であった。
「……矢返しの符か。相変わらず油断も隙も無い」
「貴方に緊張感が無さ過ぎるんですよ」
 何処か不貞腐れたように言うリウドルフへ、司は笑顔で指摘した。
 その後、リウドルフはふと鼻息をつくと司の指し示した方角を改めて凝視する。眼球の抜け落ちた左の眼窩がんかに、蒼白い光がぼうっと浮かび上がった。
「……成程なるほど、あいつか。さっきから人を景気良く弾いてくれたのは。ここはスターリングラードじゃないんだぞ、全く……」
 何やらぶつくさと愚痴をこぼすのと一緒に、リウドルフは右手をおもむろに掲げる。先程皮膚が吹き飛び黒い骨格のあらわになった腕を、リウドルフは顔の横まで持ち上げると自身の足元へと一息に突き入れたのだった。
 彼の足元には何も無かった。
 ただ、自身の作る影のよどみのみがそこに在った。
 辺りが宵闇に包まれる中、辛うじて朧な輪郭を成す影の塊へと、リウドルフは骨化した右手を差し込んだのであった。
 同時に、驚愕と共に遠方を眺めていたワーニャは、何やら手元に預かり知らぬ負荷を感じて目線を下げた。
 刹那、その瞳が大円に見開かれる。
 異形の手が、彼の持つ狙撃銃の銃身を握り締めていた。
 ビルの屋上の端に身を屈め、ワーニャはライフルを構えていたのだが、彼の足元に伸びるかすかな影の中から黒い骨だけの腕が伸び、彼の得物をしっかりと握っていたのであった。
「な……な……」
 あまりの事に、粗暴な狙撃手も言葉と色を失う。
 彼の後方に立つミーシャも、それは同じであった。
 驚きと恐れのあまり身じろぎすら出来ぬ両者の見つめる先で、死神のそれのような腕は狙撃銃を鷲掴みにして離さない。
 直後、商店街の一角に澄んだ、そして謎めいた音が小さく鳴り響いた。
 雨の中とはいえ夕時の活況を示す商店街の中では、その『音』は辺りから届く喧騒にたちまき消されてしまったが、かつて誰も聞いた事の無い『音』が刹那の間、確かに発生したのである。
 その発生源には二人の目撃者がいた。
 驚愕も度が過ぎた為か、ワーニャは狙撃銃から未だ手を離していなかったが、その彼の凝視する先で銃身が突如として消滅したのであった。まるで瞬きの合間に一切の過程が消し飛んでしまったかのように、SV-98の長い銃身は前触れも跡形も無く消えて無くなり、後には虚空を握り潰すかのように突き出た骨だけの腕が残された。
 己を害する物が無くなった事を確認してか、ワーニャの影法師から伸びた死神の腕は再び影の中へと戻って行く。
 その一部始終を、ワーニャとミーシャは見つめていた。
 言葉も無く呆然と体を凝固させた二人の屈強な男を、小雨が淡々と覆った。
 近くのパチンコ屋からあふれ出た賑やかな音楽が、雑居ビルの屋上にまで漂った。
 それより大分距離を隔てた先で、リウドルフは緩々と身を起こした。
「やれやれ……」
 彼が姿勢を戻した時には、付近は元の静けさをおおむね取り戻していた。
 降り続く雨によってガスのもやはほぼ流され、校門前の通りにはガスマスクを付けた男達や都市迷彩服を着込んだ男達が失神して倒れている。それでも幾人かは逃れたのか、彼らが乗り付けた銀色のワンボックスカーと黒いワゴンはそれぞれに現場から姿を消していたのであった。
「……God's in His heaven.All's right with the world.」
 札を懐に仕舞うのと一緒に、司が口笛を口ずさむように呟いた。
 事実、辺りは静かであった。
 宵闇がすっかり辺りを覆う頃、一直線に伸びる道に沿って街灯は点々と蒼白い光を灯し、夜の街並みを黙々と照らし出す。遠く商店街に灯されたネオンサインが、民家の屋根の向こうにかすかにちらついていた。
 周囲を見回していたリウドルフは、そこで学校を囲う塀の曲がり角からこちらの様子をうかがう美香の姿に目を留めた。
「もういいよ。取りえずこっちへ来なさい」
 リウドルフが手招きすると、美香は遠くで首肯しゅこうした。
 そうして、雨の中を小走りに近付いて来る生徒を、二人の教師が迎える。
 その筈であった。
「……ひっ!」
 ところが一定の距離まで駆け寄った所で美香は露骨に表情を歪め、全身を強張らせて足を止めた。
 どうやら強い恐怖におののいているらしい少女の態度に、相対するリウドルフは小首を傾げる。
「どうした? 俺の顔に何か付いてるか?」
 リウドルフが心底不思議そうに問うた横で、司がふと苦笑を浮かべた。
「いや、この場合は付いていないのが問題ではないかと……」
「そりゃどういう……」
 言われて、リウドルフは自身の頬を撫でた。
「……あっ!」
 遅れて、当人も気付いたようであった。
 彼の顔を覆う肉は今や半分以上が溶け落ち、黒々とした骨格が外気にさらされていたのであった。
 分けても、頬から下の部位は雨の雫と共に流れ落ちたかのように、顎骨と歯が完全に剥き出しになっている。頭部の皮膚も、元々損壊していた傷口が時を経て広がったらしく、つるりとした頭蓋骨にわずかに残った毛髪がこびり付いていた。
 目元などに残された皮膚もただれたように膨張し、その様相は正に墓からい出して来た腐り掛けの死人のそれそのものである。
「しまった! 雨を長く浴び過ぎたか!」
 狼狽した様子で吐き捨てた後、リウドルフは小雨の降り続く曇天を恨めしげに仰いだ。
 次いで、彼は二十歩程先で今も怯え続けている美香へと、両手を開いて慌てて歩み寄る。
「いや、そんな怖がんなくていいから! これ、メイクだから、メイク! ああ、まあ、その、何? 周りを驚かせないように、いや驚かせてみようかなと思ってね、はは……」
「……や、やだ……来ないで……来ないでってば……」
 リウドルフの左の眼窩がんかは相変わらず剥き出しで、そこには何やら蒼白い光が灯っている。右の義眼だけはいつも通りに収まってはいたが、皮膚の多くが溶け落ちた中で、中途半端に生気をにじませる瞳の造形が美香に余計に恐怖を植え付けたのであった。
 ましてや、そんな姿が街灯の冷たい光によって闇の中から浮かび上がるのである。
 更に、折悪しくと評すべきであろうか、美香にすれば狙撃から始まった直前の緊張が、ようやく薄らぎ始めた頃の事であった。
 心労と脱力と恐怖が絶妙の配合で少女の心身を満たし、美香は意識が遠退くのを感じた矢先その場に崩れ落ちたのであった。
「おーい……」
 真面目なのか、とぼけているのか判らぬリウドルフの声が、何処か遠くから聞こえて来る。
 そしてそれを最後に、美香の意識は完全に暗転した。
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