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序編:崩落
しおりを挟む「おはよう」
朔弥は仏壇の前で手を合わせた。朔弥の朝のルーチンだ。
仏壇には祖父母と両親の遺影がある。仏教徒ではないが通っていた高校の影響で仏壇を準備してしまった。
朔弥に兄弟はいない。朔弥は最初の母の子だったがその後朔弥を引き取った父は四度離婚。
子供だった朔弥も新しい母に馴染もうと努力したが三度目で諦めた。この父親だ、どうせすぐに離婚する。そしてそうなった。その間父に子供はできなかった。産みの母は新しい家族がいて縁が切れている。従兄弟や親族もいないため天涯孤独の身だ。今となっては話しかける相手も遺影のみ。
「ま、特に今までと変わりはない」
言い聞かせるようにそう呟く。
昨年朔弥の両親は新婚旅行先で事故にあった。車で移動中にトレーラーに突っ込まれ即死。巨額の慰謝料が払われ遺産も相続した。父は仕事人間で大企業の取締役まで上り詰めた資産家だった。相続税を払ってもまだ有り余りほどの金が残された。
父の五度目の再婚、事故は入籍して二週間目のことだった。父の花嫁には結局一度も母と呼ぶこともなかった。父と並んで写っている笑顔の女性をじっと見るも母という実感はない。母と呼ぶには近すぎる、でも姉と呼ぶには遠すぎる歳の女性。
朔弥は目を閉じてふぅと息を吐いた。
「さて、行くか」
父から大学は必ず行けとかねてから言われていた。遺言らしきものもない。だからこのくらいは守ろうと出かける支度をする。
両親が亡くなり戻ってきた実家は一人には大きすぎた。掃除が面倒なため多くの部屋は封印、使う部屋は自室に和室、キッチンのみ。キッチンはいつの間にかリフォームされていた。最後に見たキッチンの面影もない。
キッチンは朔弥の聖域だ。アイランドキッチンに大型冷蔵庫。パントリーには朔弥お気に入りに食材がストックされている。一人暮らし歴が長すぎて自炊の腕もこだわりも神がかっていた。
こんなキッチン夫婦二人では無用だろうに。
何をうかれたんだが。
あらかじめ作っておいた弁当をカバンに詰める。肉を焼いてタレを絡める手抜きの豚丼弁当だが友人からはうまいと好評だ。手抜きだが肉は三元豚の特上ロース、タレは特選丸大豆醤油と国産蜂蜜を自分でブレンドした納得の特製タレだ。手抜きでもこだわりは捨てていない。すっかり手料理男子と呼ばれているし、実際にそうだ。
ゴミは出した。戸締まりもした。夕飯の仕込みもした。ルーチンを全て終え玄関を施錠し駅までの道を一人歩く。
特にやることもない。駅までの道を黙々と歩く。ただ食べるために生きる日々。二十という年で枯れ過ぎているという自覚はあった。
「多分‥本当はこうじゃない‥んだろうな‥」
生きるということはもっと熱意があるはずだ。
何か目的が。なすべき何かが。
サークルにでも入るか?不味い酒なん飲みたくない。ましてろくに知りもしない奴と。
彼女を探す?合コン?どうせ別れる。時間の無駄だ。
バイト?金は唸るほどある。遺産と慰謝料が。
消費もつまらない。どれも同じに見える。
何も望みがない———
「悟りすぎたか。これなら寮にいる頃の方が忙しかったな」
寮母顔負けで厨房で料理していた日々。
バカ舌な男子後輩たちをどやしつけて飯を食わせていた。
横断歩道の信号待ちで立ち止まり朔弥がふぅと息を吐いたところで地面に違和感を覚えた。ビリビリと痺れるような振動、それが地面の奥から近づいてくる。なぜかその気配がわかる。
工事か?地鳴り?いや、違う。
それは朔弥のすぐ足の下で起こっている様だ。その振動に周りに立つ人々からもざわめきが上がる。
地震ではない何か。生き物の様なそれは地面を震わせながらぐるぐる地中を這い回っていたが、それが朔弥の足の裏でぴたりと止まった。気配で止まったと何故かわかった。ゾクゾクと悪寒が走る。
何か‥いる‥真下に‥
心拍が上がり脂汗が額に浮かぶ。足元から目が逸らせない。瞬きが出来ない。朔弥の影、そこから黒い尖ったものがするりと突き出した。尖ったものは爪、一本ずつ増え五本になったそれは指を有した黒い手だった。指こそ五本あるが太さがフランクフルト大で明らかに人のものではない。それが朔弥の足を掴もうとする。
朔弥の全身の産毛がざわりと逆立った。
ヤバい 逃げ———
捕まったら終わりだ。何だかわからないが本能で咄嗟に足を抜こうとしたが間に合わなかった。
黒い手に右の足首を掴まれ逃げられない。同時に朔弥の足元から黒い穴が広がりだす。いきなり地面が消え、朔弥は周りの人々と共にその真っ暗な穴に落ちた。崩れる音も悲鳴も聞こえない奈落に。視界の全てが崩れて穴の闇に呑み込まれた。
落ちる!
来る衝撃にそなえ身を硬らせたが体は穴に落ち続けた。漆黒の闇で底が見えない。ただただ自重で落ち続ける。気を失いかけるも朔弥の足首を黒い手が掴んで目が覚めた。足を這う黒い手に血の気がひいた。黒い手の腕の先が闇に溶け込んでいて肘から先が見えない。
「うわぁぁッ放せッ放せッ」
パニックに陥った朔弥が足を掴んでいた手を蹴り払おうともがく。だがさらに無数の黒い手が闇から浮かび上がり朔弥にまとわりついてきた。
「やめろッ俺に触るなーッ」
朔弥の一喝に手はするりと朔弥を放した。あっさりと。聞き分けのよい子供のように。そして次の瞬間、朔弥は眩い白い光の中にすとんと落ちていた。
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