上 下
4 / 61
✠ 本編 ✠

001 ダグラスの死①

しおりを挟む



 トリシャはその日、夫の遺言状公開に立ち会っていた。


 一週間前に亡くなったトリシャの夫はダグラス・レイノルズ・ステイル伯爵。レイノルズ家の当主であり、ビジネスで成功した経済界の支配者であった。夏も盛りのある朝、夫は眠るようにベッドの中で息を引き取っていた。すでに病で余命一年と宣告されていたが、それよりも半年早い旅立ちだった。享年七十二歳。その日はくしくもトリシャの十七歳の誕生日でもあった。

 嫡男のダリルの指示で一族だけで葬儀が行われた。棺に眠る夫であり恩師ダグラスへトリシャはそっと花を手向けた。

 余命一年と知ったダグラスはすでに全ての準備を整えていた。そのため宣告より半年早い逝去であったが一族に動揺は見られなかった。生前、ダグラスはトリシャへの感謝を伝えていた。

「トリシャ、わしが死んだらお前は自由に生きなさい」

 十歳でダグラスに嫁いで七年、トリシャはダグラスとの生活以外を知らない。七年間が今のトリシャの人生全てだ。ダグラスはトリシャを孫のように慈しみ弟子として導いた。ダグラスからたくさんの教えを受けビジネスの一通りを学んではいたが、自由に生きろと言われてもどうしていいかわからなかった。

「ずっとおそばにいてはいけませんか?」

 それはダグラスの死後、未亡人としてダグラスをとむらい続けるという意味。だがそれをダグラスは否定した。

「いや、お前は十分尽くしてくれた。おかげで楽しい日々だったよ。お前はまだ若い。経営者としての能力もある。未来があるのにそれを捨ててはいけない」
「いえ、私の方がいただいてばかりでした」

 七十二歳と十六歳。歳の差五十六のふたりが夫婦となったのにはわけがあった。

 トリシャが十歳の時、トリシャの父で経営者だったゲイル・イングリスが破産した。
 知人に勧められて投資した案件が詐欺だった。莫大な借金を背負い資産を差し押さえられ父は行方不明。母はトリシャが子供の頃に亡くなっていた。

 父を失い一人家に残されたトリシャを悲劇が襲う。人身売買の組織に捕まり海外に売り飛ばされそうになった。まさに国外に出されるギリギリのところで父の恩師だったダグラスに助け出された。
 トリシャはショックのためダグラスに助けられるまでの十年間の記憶を失っていた。助け出されたトリシャは暴力を受け何もわからず傷だらけでただただ怯えていた。事件を遅れて知ったダグラスが駆けつけた時には状況はすでに殆ど手遅れだったという。

「ここまでひどくなる前にどうしてあれは連絡をよこさなかったのか。わしのことは覚えていないか?怖い思いをしたなぁ、救い出せてよかった。だが状況がよくない。お前の父は行方不明、資産も不当に奪われている。今裁判所に訴えを起こしているが急いでお前の身柄を確実に保護しなくてはならない」

 言われたことは半分もわからなかったが、自分を守る人間が誰もいない以上、記憶を失った十歳のトリシャはこの見知らぬ老人に縋ることしかできなかった。

「お前を養子にと思ったがお前の父が生きている以上、勝手にわしの養子にはできない。お前の売買契約書にゲイルのサインもある。このままではお前は奴らに奪われてしまう」

 父が自分を売った。恐怖と記憶喪失の混乱の中でそれだけは理解できた。

「一つだけ、お前を守る術がある。事件が落ち着いたら全てを解消をしよう。お前の経歴に傷は残さない。だからこのじいの妻になってくれるか?」

 トリシャがこくんと頷いた。選択肢などない。提案された案がどれほど異常なことかもわからない。ただそれしか助かる術はないと言われた。応じるしかない。

 そうしてトリシャはダグラスと密かに婚姻を結んだ。売買契約書を突きつけトリシャをよこせと詰め寄る男たちをダグラスは退けた。

「そのサインが本物であるという証拠は?証としてゲイルを連れてこい。それとも筆跡鑑定にも出そうか?裁判が終わるまで我が妻に触れることは許さない」

 相手は経済界を牛耳っているダグラス・レイノルズ・ステイル伯爵、その妻トリシャに手を出せない。表向きは静かになったがいつ攫われるともわからない。トリシャはレイノルズ家でひっそりと匿われた。

 父ゲイルが行方不明のまま一ヶ月がたったある日、ゲイルの水死体が発見された。ゲイルには莫大な生命保険をかけられていた。その保険金も借金の返済に充てられていた。他殺か自殺か。茫然とするトリシャをただダグラスが抱きしめてくれた。

「あの契約書のサインが本物かどうか判じる手立てがなくなってしまった。裁判は続けるがまだ奴らが何か言ってくるかもしれない。ゲイルが死んでしまってはこの裁判は長くなる。父は無理だったがお前だけでも助けたい。どうだろう、わしの養子にならんか。あの時は時間がなく仕方がなかったが、わしの妻のままではあまりにお前が不憫だ」
「私はどちらでも構いません」

 だが弁護士は子より妻の方がよりトリシャを保護する力が強いと言った。婚姻は親子関係よりも優先される。裁判は有利に進んでいるが万が一負けてしまった場合にトリシャを守るには養子は弱い、せめて裁判が終わるまではこのままがいい、という。

「こんなはずではなかったのだがな。すまんの。老い先短いじいの後添いになってくれるか」
「はい、よろしくお願いします」

 こうして二人の婚姻は正式のものになった。"経済界の魔術師ウィザード"と呼ばれたダグラスの後添いが十歳の少女、ゴシップ紙に面白おかしく書き立てられしばらく賑わっていたがそれも時間と共に落ち着いた。だがトリシャには深い傷が残った。

 世の中の全てのものが恐ろしい。記憶を無くしたことがさらに恐怖に拍車をかける。降りかかる世間の害意に怯えその嵐が過ぎ去るまでトリシャは身を隠して引き篭もる日々だった。

 それから七年、トリシャはダグラスの元で経営を学んだ。ダグラスの仕事を手伝うことから始まり最近ではダグラスの名義でいくつかの会社の経営を任されていた。

 七年間、それは記憶を無くしたトリシャの人生全てとなっていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄はいいですが、あなた学院に届け出てる仕事と違いませんか?

来住野つかさ
恋愛
侯爵令嬢オリヴィア・マルティネスの現在の状況を端的に表すならば、絶体絶命と言える。何故なら今は王立学院卒業式の記念パーティの真っ最中。華々しいこの催しの中で、婚約者のシェルドン第三王子殿下に婚約破棄と断罪を言い渡されているからだ。 パン屋で働く苦学生・平民のミナを隣において、シェルドン殿下と側近候補達に断罪される段になって、オリヴィアは先手を打つ。「ミナさん、あなた学院に提出している『就業許可申請書』に書いた勤務内容に偽りがありますわよね?」―― よくある婚約破棄ものです。R15は保険です。あからさまな表現はないはずです。 ※この作品は『カクヨム』『小説家になろう』にも掲載しています。

いつだって見られている

なごみ
ミステリー
バレないように殺すのは、意外と簡単だった。 5年間、気難しい寝たきりの母を世話していた清美。心無い母の一言で、ついに怒りが爆発した……普通の主婦が考えた完全犯罪とは? 家族愛から生まれた悲劇。

(完結)お姉様を選んだことを今更後悔しても遅いです!

青空一夏
恋愛
私はブロッサム・ビアス。ビアス候爵家の次女で、私の婚約者はフロイド・ターナー伯爵令息だった。結婚式を一ヶ月後に控え、私は仕上がってきたドレスをお父様達に見せていた。 すると、お母様達は思いがけない言葉を口にする。 「まぁ、素敵! そのドレスはお腹周りをカバーできて良いわね。コーデリアにぴったりよ」 「まだ、コーデリアのお腹は目立たないが、それなら大丈夫だろう」 なぜ、お姉様の名前がでてくるの? なんと、お姉様は私の婚約者の子供を妊娠していると言い出して、フロイドは私に婚約破棄をつきつけたのだった。 ※タグの追加や変更あるかもしれません。 ※因果応報的ざまぁのはず。 ※作者独自の世界のゆるふわ設定。 ※過去作のリメイク版です。過去作品は非公開にしました。 ※表紙は作者作成AIイラスト。ブロッサムのイメージイラストです。

カレイドスコープ

makikasuga
BL
水原慎平は心に大きな傷をもつ大学生。祖父が元大物政治家で気まぐれに後を継ぐ発言をしたことにより、将来の秘書候補として片山奏と出会う。自らを天才だと言い切る奏に振り回されながらも、彼の優しさに無自覚に惹かれていく。 時を同じくして、祖父の友人であった本条勇作の遺産を巡る争いが起きる。勇作の研究室の「鍵」となった慎平は狙われ、家庭教師の沢木や服部の第一秘書佐藤をも巻き込む事態となった。 俺様天才秘書奏とトラウマ持ち大学生慎平が唯一無二のバディとなる始まりの物語。

[完結]いらない子と思われていた令嬢は・・・・・・

青空一夏
恋愛
私は両親の目には映らない。それは妹が生まれてから、ずっとだ。弟が生まれてからは、もう私は存在しない。 婚約者は妹を選び、両親は当然のようにそれを喜ぶ。 「取られる方が悪いんじゃないの? 魅力がないほうが負け」 妹の言葉を肯定する家族達。 そうですか・・・・・・私は邪魔者ですよね、だから私はいなくなります。 ※以前投稿していたものを引き下げ、大幅に改稿したものになります。

王子と従者と私〜邪魔なのは私だった

jun
恋愛
新婚旅行の途中で事故に遭い、私と夫は大怪我で入院する。 1ヶ月意識を失くし、目覚めた私に医師が告げたのは、頭を強く打った夫は私と出会う前までの記憶しかないということ。 先祖返りの元第二王子の夫シリルと夫の従者のケネスの関係を知った16歳。私がようやく結婚出来た19歳でのシリルの記憶喪失。 もう私にはもう一度やり直す気力はなかった… *完結まで描き終えております。 体調を崩し、その他連載中のものも少しずつ完結させていこうと思っていますが、自分の身体と相談しながらのんびりいこうと思っておりますので、よろしくお願いします。 *19時に投稿予定にしております。

高貴な血筋の正妻の私より、どうしてもあの子が欲しいなら、私と離婚しましょうよ!

ヘロディア
恋愛
主人公・リュエル・エルンは身分の高い貴族のエルン家の二女。そして年ごろになり、嫁いだ家の夫・ラズ・ファルセットは彼女よりも他の女性に夢中になり続けるという日々を過ごしていた。 しかし彼女にも、本当に愛する人・ジャックが現れ、夫と過ごす夜に、とうとう離婚を切り出す。

【完結】結婚してから三年…私は使用人扱いされました。

仰木 あん
恋愛
子爵令嬢のジュリエッタ。 彼女には兄弟がおらず、伯爵家の次男、アルフレッドと結婚して幸せに暮らしていた。 しかし、結婚から二年して、ジュリエッタの父、オリビエが亡くなると、アルフレッドは段々と本性を表して、浮気を繰り返すようになる…… そんなところから始まるお話。 フィクションです。

処理中です...