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✠ 本編 ✠
001 ダグラスの死①
しおりを挟むトリシャはその日、夫の遺言状公開に立ち会っていた。
一週間前に亡くなったトリシャの夫はダグラス・レイノルズ・ステイル伯爵。レイノルズ家の当主であり、ビジネスで成功した経済界の支配者であった。夏も盛りのある朝、夫は眠るようにベッドの中で息を引き取っていた。すでに病で余命一年と宣告されていたが、それよりも半年早い旅立ちだった。享年七十二歳。その日はくしくもトリシャの十七歳の誕生日でもあった。
嫡男のダリルの指示で一族だけで葬儀が行われた。棺に眠る夫であり恩師ダグラスへトリシャはそっと花を手向けた。
余命一年と知ったダグラスはすでに全ての準備を整えていた。そのため宣告より半年早い逝去であったが一族に動揺は見られなかった。生前、ダグラスはトリシャへの感謝を伝えていた。
「トリシャ、わしが死んだらお前は自由に生きなさい」
十歳でダグラスに嫁いで七年、トリシャはダグラスとの生活以外を知らない。七年間が今のトリシャの人生全てだ。ダグラスはトリシャを孫のように慈しみ弟子として導いた。ダグラスからたくさんの教えを受けビジネスの一通りを学んではいたが、自由に生きろと言われてもどうしていいかわからなかった。
「ずっとおそばにいてはいけませんか?」
それはダグラスの死後、未亡人としてダグラスを弔い続けるという意味。だがそれをダグラスは否定した。
「いや、お前は十分尽くしてくれた。おかげで楽しい日々だったよ。お前はまだ若い。経営者としての能力もある。未来があるのにそれを捨ててはいけない」
「いえ、私の方がいただいてばかりでした」
七十二歳と十六歳。歳の差五十六のふたりが夫婦となったのにはわけがあった。
トリシャが十歳の時、トリシャの父で経営者だったゲイル・イングリスが破産した。
知人に勧められて投資した案件が詐欺だった。莫大な借金を背負い資産を差し押さえられ父は行方不明。母はトリシャが子供の頃に亡くなっていた。
父を失い一人家に残されたトリシャを悲劇が襲う。人身売買の組織に捕まり海外に売り飛ばされそうになった。まさに国外に出されるギリギリのところで父の恩師だったダグラスに助け出された。
トリシャはショックのためダグラスに助けられるまでの十年間の記憶を失っていた。助け出されたトリシャは暴力を受け何もわからず傷だらけでただただ怯えていた。事件を遅れて知ったダグラスが駆けつけた時には状況はすでに殆ど手遅れだったという。
「ここまでひどくなる前にどうしてあれは連絡をよこさなかったのか。わしのことは覚えていないか?怖い思いをしたなぁ、救い出せてよかった。だが状況がよくない。お前の父は行方不明、資産も不当に奪われている。今裁判所に訴えを起こしているが急いでお前の身柄を確実に保護しなくてはならない」
言われたことは半分もわからなかったが、自分を守る人間が誰もいない以上、記憶を失った十歳のトリシャはこの見知らぬ老人に縋ることしかできなかった。
「お前を養子にと思ったがお前の父が生きている以上、勝手にわしの養子にはできない。お前の売買契約書にゲイルのサインもある。このままではお前は奴らに奪われてしまう」
父が自分を売った。恐怖と記憶喪失の混乱の中でそれだけは理解できた。
「一つだけ、お前を守る術がある。事件が落ち着いたら全てを解消をしよう。お前の経歴に傷は残さない。だからこのじいの妻になってくれるか?」
トリシャがこくんと頷いた。選択肢などない。提案された案がどれほど異常なことかもわからない。ただそれしか助かる術はないと言われた。応じるしかない。
そうしてトリシャはダグラスと密かに婚姻を結んだ。売買契約書を突きつけトリシャをよこせと詰め寄る男たちをダグラスは退けた。
「そのサインが本物であるという証拠は?証としてゲイルを連れてこい。それとも筆跡鑑定にも出そうか?裁判が終わるまで我が妻に触れることは許さない」
相手は経済界を牛耳っているダグラス・レイノルズ・ステイル伯爵、その妻トリシャに手を出せない。表向きは静かになったがいつ攫われるともわからない。トリシャはレイノルズ家でひっそりと匿われた。
父ゲイルが行方不明のまま一ヶ月がたったある日、ゲイルの水死体が発見された。ゲイルには莫大な生命保険をかけられていた。その保険金も借金の返済に充てられていた。他殺か自殺か。茫然とするトリシャをただダグラスが抱きしめてくれた。
「あの契約書のサインが本物かどうか判じる手立てがなくなってしまった。裁判は続けるがまだ奴らが何か言ってくるかもしれない。ゲイルが死んでしまってはこの裁判は長くなる。父は無理だったがお前だけでも助けたい。どうだろう、わしの養子にならんか。あの時は時間がなく仕方がなかったが、わしの妻のままではあまりにお前が不憫だ」
「私はどちらでも構いません」
だが弁護士は子より妻の方がよりトリシャを保護する力が強いと言った。婚姻は親子関係よりも優先される。裁判は有利に進んでいるが万が一負けてしまった場合にトリシャを守るには養子は弱い、せめて裁判が終わるまではこのままがいい、という。
「こんなはずではなかったのだがな。すまんの。老い先短いじいの後添いになってくれるか」
「はい、よろしくお願いします」
こうして二人の婚姻は正式のものになった。"経済界の魔術師"と呼ばれたダグラスの後添いが十歳の少女、ゴシップ紙に面白おかしく書き立てられしばらく賑わっていたがそれも時間と共に落ち着いた。だがトリシャには深い傷が残った。
世の中の全てのものが恐ろしい。記憶を無くしたことがさらに恐怖に拍車をかける。降りかかる世間の害意に怯えその嵐が過ぎ去るまでトリシャは身を隠して引き篭もる日々だった。
それから七年、トリシャはダグラスの元で経営を学んだ。ダグラスの仕事を手伝うことから始まり最近ではダグラスの名義でいくつかの会社の経営を任されていた。
七年間、それは記憶を無くしたトリシャの人生全てとなっていた。
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