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第十走
しおりを挟む先触れの声がテトラの来訪を告げてハッとする。許可すればドレス姿のテトラが現れて優雅に礼をした。
とても美しかった。
薔薇が綻び開くような淡いピンク色のドレス。それがテトラの愛らしさを引き立てていた。フリルが観賞魚の美しいヒレを思い浮かべてしまった。
海の底、引きこもっていた家から僕に会いに陸に上がってきてくれた人魚姫。手を離したら泡と消えてしまいそうな儚さも感じられた。
離れてはいけない。そう思い慌てて駆け寄った。
「テトラ、さっきは本当にごめんね。怪我はなかった?」
「はい、大丈夫です。殿下は大丈夫でしょうか?」
「うん、これはかすり傷だから。ありがとう。」
テトラが僕の頬の傷を気遣ってくれた。
僕を心配してくれる君が愛おしい。
君の大切になれたみたいでとても嬉しい。
今なら、今なら言えるかもしれない。
テトラの手を取り片膝をついた。見上げたテトラの目が大きく開かれている。その中に僕が写っていて心が熱くなった。
「テトラ、君のことがずっと好きだった。どうか僕と付き合って欲しい。」
テトラの躊躇うような惑うような素振りに一瞬どきりとしたが、次の瞬間輝くような笑みを浮かべた。
「‥‥はい。私も殿下のことが好きです。」
聞こえた言葉が信じられなくて時が止まったように動けなくなった。しばし見つめあってそれからやっと実感がやってきた。
テトラも僕が好き?本当に?
テトラの手を握って立ち上がる。
「‥‥じゃあ婚約」
「でも婚約は困ります。」
その天使のような微笑みとは裏腹な言葉にカチンと凍りついてしまった。部屋に沈黙が落ちる。
あれ?あれれ?なんで?
この流れでなんでその言葉が?
「殿下は来週も我が家にお越しいただけますか?」
「うん。そのつもりだよ。」
にこやかに続けるテトラに機械的に返答する。ボールが壁に当たって跳ね返るような答えだ。抑揚がない言葉になったのは仕方がない。だって思考停止中だったから。
なのにその答えに嬉しそうにテトラは頬を染めた。
「でしたら殿下のお好きなお菓子を焼いてお待ちしております。是非私を捕まえにいらしてくださいね。」
ん?なんの話?ぼんやりと思う。
「新しい水槽をお見せできるように頑張って準備いたしますね。殿下のご意見も是非伺いたいです。では。」
「うん。楽しみにしてる。」
僕の機械的な答えを退出の許可と取ったのか、テトラはにこやかに帰っていった。
茫然。何が起こったんだ?
「なるほど、これは手強いですね。」
「でも仕方がございませんね。そういうものです。」
背後の二人の囁きにハッとし、青ざめて振り返る。
「なんだ?どういうことだ?!婚約は困るって‥‥何がいけなかったんだ?付き合って欲しい、がダメだった?」
「いえ、殿下の求愛は全く問題ありませんでした。シンプルでいて完璧です。言葉を飾らない方がダイレクトに効きます。本日一番の会心の一撃でした。」
ジルケが冷静にコメントする。
会心の一撃って?でも効いてないじゃん!!!
「じゃあなんで?僕を好きだと言ってくれたのに!」
「わかりませんでしたか。あれは駆け引きです。」
ルッツは片眉をくいっと上げて見せる。
「あの年若さで恋の駆け引きをしてくる。素晴らしい手管です。私が誘いに乗ってしまいそうになりました。」
「は?だめだ!何言ってるんだよ!」
お前!どんだけストライクゾーンが広いんだよ!!
デスヨネーとルッツが天井をチラリと見上げ言葉を続ける。
「先程は鬼のテトラ嬢が殿下を捕まえてキスなさった。次は捕まった殿下が鬼です。」
「は?」
意味がわからない。なんの話だ?
「ですから。今度は鬼の殿下がテトラ嬢を追いかけて捕まえてキスなさる番です。」
ぎょっとした。なんだその展開は!!
「鬼ごっこはさっき終わっただろ?!」
「終わりましたが、これは恋の駆け引きですよ。まだ殿下には早かったですかねぇ。」
ルッツがふぅと息を吐いた。
まだまだお子様ですね、と嘆息まじりに言われたようでムカッとした。
「それだけではありませんね。」
冷静なジルケの声にルッツがにんまり笑う。
「ほう、ジルケ殿はもっと深読みがありますか?」
それを冷たい視線でいなし死刑宣告のようにジルケは告げた。
「『釣った魚に餌をやらない。』」
「は?」
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え?あんなに仲が良くてもそれだけじゃダメなの?夫婦って、男女ってよくわからない。
「ですからでしょうか。テトラ様もそういう思考なのかもしれません。」
唖然とする僕に表情を消したジルケがさらに語る。
「自分は簡単には釣れませんよ、ちゃんと構って大事にしてください、と。」
「ほう、だとするとますますそそられますね。」
ニヤリとルッツが笑う。そしてその笑みをさらに深めて僕を見た。こういう顔のルッツは鬼モードになる。
「いいですか殿下。男には狩猟本能というものがあります。逃げる敵は追いかけたくなる。難しい敵はどうにかして仕留めて手に入れたくなる。この本能は殿下もお持ちのはずですよ?私にもあります。」
なんとなくこの後の展開が読めて一歩退いてしまった。嫌な汗が全身から出てくる。そんな僕をルッツが腹黒い顔で見下ろしてきた。
「本日の結果はクレマン卿経由で陛下に報告しますので少し猶予が出るでしょう。その間に一気に落とします。私の手管を全て伝授します。バルツァー侯爵家への訪問も週二、いや、三にしましょう。急いで贈り物の準備を。追い詰めて囲い込み早々に仕留めてください。」
言いたいことはわからないでもない。
だが正直な感想は———
「無理だ!!!」
「ヘタレてる場合ですか!こんなに誘われているのに!」
「テトラが!あの可愛らしいテトラがそんなことするわけないだろ!」
「現実を直視ください!テトラ嬢はやる気です!」
もう喉が詰まって何もいえない。
ホントに?走ることと魚のことなら得意なのに。
僕にそんなことできるわけがない!!
「花束は必須ですね。テトラ様の好きな花は調べてあります。訪問時は殿下ご自身で手折ってお持ちくださいね。そういう心遣いが後から効きます。」
「ほう?そういうテクも是非殿下と私にも伝授いただきたい。」
目を光らせるルッツにジルケは氷の視線を投げている。この二人、仲がいいのか悪いのか。
これは君と僕だけの鬼ごっこ。
ずっとずっと終わらない。
僕は鬼のように君を追い詰めて君を僕のものにする。愛を囁き抱きしめてキスをする。
君は僕だけの獲物。誰にも渡さない。
そう思ったら何やらぞくりとしたものが体を駆け抜けた。
これが狩猟本能?君を捕まえた瞬間を想像して感じるこの愉悦も?これが恋の駆け引きというものなのか?
仄暗い炎が灯った体をそっと抱きしめた。
君を必ず手に入れる。もう逃してあげられないよ。
何も知らない僕に火をつけたんだから。
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