32 / 78
第一部
第31話
しおりを挟むその刹那、破壊音が耳に響く。ガラスの落ちる音。黒いものが壊れた窓からぬるりと侵入した。人の形だが人の動きと思えないそれが窓を蹴破ったのだとわかった瞬間、鋭い切断音と共に部屋のランプが消える。曇った空に月光はなく部屋は暗闇となった。
「何者だ?!」
エルーシアの上で身動ぎしたラルドが誰何の声を上げるも何かと争う。ぷしゅりと何かが弾ける音がしてエルーシアの上から体重が消えた。そしてしなやかな猛獣のような動きの黒い手がエルーシアを背後から起こし抱え上げる。
「な‥」
「お静かに。味方です」
耳元に囁かれたその声にエルーシアが目を瞠る。そのまま子供のように縦抱きに抱えられ部屋を駆け抜ける。黒い塊が扉を華麗な回し蹴りで蹴破り廊下へ飛び出した。屋敷中に響く騒音だったが廊下に人けはない。黒い手はエルーシアを抱えたまま全速力で廊下を駆け抜ける。ものすごい力だ。
「ダメッ逃げたらエデルが!」
「あの者は無事です」
短い答えにエルーシアは自分を抱え上げる黒い覆面の正体を確信した。階段を降り一階の小部屋に駆け込んだ覆面が内側から扉に鍵をかけた。
「ルイーサ?」
「はい、お嬢様」
全身真っ黒な服を纏い覆面を脱いだ顔はあの背の高い無口な侍女だった。女性なのに自分を抱えて走り抜けた。いつも静かで物音を立てない侍女、だけど力持ちだと聞いていた。エルーシアはルイーサに比べれば小柄だが人間一人を抱えて走り抜けた。これほどに力が強かったとは思わなかった。
「うまくいってよかったです。人払いされていたので助かりました」
「どうしてルイーサが?」
「お嬢様をお守りするよう申し付かっております」
守るよう命じられている。だがそれはラルドにだろう。連れ出されて助かったのだがラルドから自分を攫って大丈夫なのか?
「救出が遅れて申し訳ありません。酷いことになっていませんでしたか?」
「ありがとう、私は大丈夫。それよりエデルは?」
「牢を出ています。私はその場にはいなかったのですが外に落ち延びたと聞きました」
エルーシアから安堵の息が出て。ルイーサに縋りついていた手の力が抜ける。
エデルが牢から出られたのならいい。見つかれば追手もかかるかもしれない。自分に関わったばかりに酷い目に遭わせてしまった。遠くに逃げてほしい。とにかく生きていてほしい。
「私はお嬢様の救出を申し付かりました」
「救出?」
「旦那様のあれはいけません。同性として見過ごすことはできませんでした」
ラルドの無理強いと暴力のことを言っている。エルーシアの悲鳴を聞いて飛び込んでくれたのだとわかった。あそこで助け出されなければラルドに殴られ無理矢理犯されていただろう。豹変した義兄にエルーシアはぶるりと身を震わせた。ずっとエルーシアを優しく甘やかした義兄、言うことを聞かないエルーシアに激昂し手を上げる義兄、どちらが本当の義兄なのだろうか。その落差に義兄を初めて怖いと思った。エルーシアはルイーサを見上げなんとか微笑んで見せた。
「ありがとう‥本当に‥」
「いえ、それが私の役目です。旦那様の動きを封じましたが軽い薬ですぐ解けます。時間はあまりありません。これからどうなさりたいですか?」
「どう?」
「お嬢様の御心のままに。お手伝い致します」
ルイーサは片膝をつきエルーシアに頭を下げる。まさに護衛の騎士のようだ。
もうエデルは牢にいない。ならば?自分はどうしよう。一瞬ラルドが脳裏に浮かぶもずっと望んでいたことが口に出た。
「少しだけでいいの。外に出たいわ」
「戻られなくてよろしいのですね?」
確認するようなルイーサの問いにエルーシアはしっかり頷いた。
どうせこの足でどれだけ行けるとも思えない。きっと義兄にすぐ捕まってしまうだろう。捕まればまた檻の中、もう二度と外には出られない。それまで少しの自由が欲しい。
「かしこまりました」
ルイーサが頷いてにこりと微笑む。そして自分の着ていた黒い服を脱ぎ出す。それは黒いコートのようだった。その下には白い夜着を纏っていた。
「こちらをお召しください。白い夜着は目立ちます。大きいでしょうが‥私のもので申し訳ありません」
細身で背の高いルイーサが着ていたコートは確かにエルーシアには丈がぶかぶかだ。くるぶし上まで裾が届いている。ルイーサがどこから出したのか柔らかい靴を出してエルーシアに履かせた。踵が低く走りやすそうだ。ルイーサが履いていた黒いスラックスと靴を脱げば服装を交換したようになった。
ルイーサが部屋の窓を開け外に出る。そしてエルーシアを子供のように抱き上げて外に出した。ルイーサが鋭い視線で辺りを窺いつつ闇夜を指差した。
「今は月が隠れています。闇に紛れれば抜けられるでしょう。あちらに逃げれば迎えの者が待っている手筈です。その者と共に外へ」
迎えがいる。まるでエルーシアの心を理解していたような段取りだ。
「ルイーサは?一緒じゃないの?」
「私は囮に。時を稼ぎます。闇の中では背格好も分かりません。夜着だけで十分引きつけられます」
ルイーサが艶やかな茶色の髪を解けばエルーシアより背の高い夜着の女性となった。これならエルーシアを見慣れない者は惑わされるだろう。だがエルーシアはぶるりと身を震わせる。
囮。それはとても危険な行為だ。義兄に捕まればきっとエルーシアを逃した責めを負わされる。自分のせいで誰かが不幸になるのはもう嫌だ。そこを悟りルイーサがふわりと微笑む。
「お優しいですね。私は大丈夫です。私の主が守ってくださいます」
「主?」
「はい、お嬢様の身を案じるお方です。そのお方からお嬢様をお守りするよう命を受けました。ですから私のことはご心配なきよう」
笑顔で頷くルイーサにエルーシアはある疑問が湧いた。主人というなら普通なら当主ラルドのことだろう。だが話の感じでそうではないとわかる。
自分を守ろうとするその人は一体誰なのだろうか?
「私が出ましたら気にせず駆けてください。振り返ってはいけません。迎えの者と共に外に落ち伸びてください。いいですね?」
「ルイーサ‥」
こくんと頷けばルイーサは目を細め甘い微笑みを浮かべた。おそらく侍女たちはこの微笑みにやられたのだとわかる。確かに凛々しい。なるほどこれが侍女殺しか。その微笑みのままにルイーサが目を細め囁いた。
「お嬢様、どうかお幸せに」
「え?ルイーサ?」
「今です!行ってください!」
辺りを窺ったルイーサが茂みから飛び出し駆け出す。その背中を見送りエルーシアもルイーサに示された方向へ駆け出した。
0
お気に入りに追加
367
あなたにおすすめの小説
愛人の子を寵愛する旦那様へ、多分その子貴方の子どもじゃありません。
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵家の令嬢だったシアには結婚して七年目になる夫がいる。
夫との間には娘が一人おり、傍から見れば幸せな家庭のように思えた。
が、しかし。
実際には彼女の夫である公爵は元メイドである愛人宅から帰らずシアを蔑ろにしていた。
彼女が頼れるのは実家と公爵邸にいる優しい使用人たちだけ。
ずっと耐えてきたシアだったが、ある日夫に娘の悪口を言われたことでとうとう堪忍袋の緒が切れて……!
ついに虐げられたお飾りの妻による復讐が始まる――
夫に報復をするために動く最中、愛人のまさかの事実が次々と判明して…!?
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
離婚が決まった日に惚れ薬を飲んでしまった旦那様
しあ
恋愛
片想いしていた彼と結婚をして幸せになれると思っていたけど、旦那様は女性嫌いで私とも話そうとしない。
会うのはパーティーに参加する時くらい。
そんな日々が3年続き、この生活に耐えられなくなって離婚を切り出す。そうすれば、考える素振りすらせず離婚届にサインをされる。
悲しくて泣きそうになったその日の夜、旦那に珍しく部屋に呼ばれる。
お茶をしようと言われ、無言の時間を過ごしていると、旦那様が急に倒れられる。
目を覚ませば私の事を愛していると言ってきてーーー。
旦那様は一体どうなってしまったの?
離婚してくださいませ。旦那様。
あかね
恋愛
元の体がミスで死んじゃったから入れ替えねと魂を入れ替えられて異世界のご婦人アイリスになった私。身分差+借金の形に売られて不遇な結婚生活を送っていた元のアイリスと同じように生活……できるかっ! とさくっと離婚に乗り出す。全力ですれ違っていた?そんなの知りません。断捨離です。
ごめんなさい、全部聞こえてます! ~ 私を嫌う婚約者が『魔法の鏡』に恋愛相談をしていました
秦朱音@アルファポリス文庫より書籍発売中
恋愛
「鏡よ鏡、真実を教えてくれ。好いてもない相手と結婚させられたら、人は一体どうなってしまうのだろうか……」
『魔法の鏡』に向かって話しかけているのは、辺境伯ユラン・ジークリッド。
ユランが最愛の婚約者に逃げられて致し方なく私と婚約したのは重々承知だけど、私のことを「好いてもない相手」呼ばわりだなんて酷すぎる。
しかも貴方が恋愛相談しているその『魔法の鏡』。
裏で喋ってるの、私ですからーっ!
*他サイトに投稿したものを改稿
*長編化するか迷ってますが、とりあえず短編でお楽しみください
メリバだらけの乙女ゲーで推しを幸せにしようとしたら、執着されて禁断の関係に堕ちました
桃瀬いづみ
恋愛
母親の再婚により公爵令嬢となったアンナは、はまっていた乙女ゲームに転生したラッキー体質の元オタク。彼女は義兄が攻略キャラであり、自身の最推し・ロイだということを知る。片目が赤いオッドアイを持ち、「忌み子」として周囲に恐れられてきたロイの設定は、ゲームヒロインによって心を開いていくというもの。だけど、ゆくゆくは監禁や薬漬けといった壮絶な事件を引き起こし、メリーバッドエンドを迎えてしまう――。最推しを不幸にしたくないアンナは、ラッキー体質を生かしてロイをハッピーエンドに導くことを決意! それから10年、ようやく義兄との距離が縮まったけれど、アンナが18歳になった時、二人の関係が変わり始めて……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる