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第一部
第39話
しおりを挟む翌日になってもエデルは動かなかった。
朝目が覚めたエルーシアはベッドから出られなかった。腰が立たない。下腹部の奥もじくじくと痛みがある。媚薬のせいでか自覚はなかったが昨晩相当無理したようだ。逃げなければいけないのに動けない。焦るエルーシアの世話をエデルは嬉しそうにする。
朝食を終えエデルは動けないエルーシアを抱き上げ窓際のソファに座った。ホテル最上階の窓から遠くに海が見える。初めて見る海の様子を最初は二人で楽しげに見ていたが、あまりの悠長さに流石に不安になってきた。これでは義兄の追手に見つかってしまう。
「エデル‥私たち逃げなくていいの?」
「エルシャさ‥の体が辛いでしょう?昨日も初めて馬に乗りましたし。無理はよくありません。ここをもう一泊押さえました」
「え?もう一泊?!大丈夫なの?」
エルーシアの心配な様子にエデルは微笑んで頷いた。嬉しそうにエルーシアの髪を手ぐしで梳いている。
「大丈夫です。実は人を待ってますので」
「人?」
「ツテを頼って旅券を頼んでいます。それが届いたら船に乗ります」
「船?!」
「いっそ隣国に行ってしまおうかと。流石に隣国までそうそう追って来られないでしょう?」
船に乗って隣国へ行く。てっきり陸路を行くものだと思っていたエルーシアは唖然とした。旅券は相当に高い。駆け落ちで船に乗るなんて聞いたことない。上流貴族の新婚旅行だ。
「え‥っとお金は?」
「ツテなので格安で。そこは気にしないでください」
旅券を格安で。一体どんなツテだろう。自分は体一つで飛び出してしまった。普段なら身につけているささやかな装飾品でさえ持っていない。あるのは母の形見のロケットだけ。できれば手放したくないが逃げる為なら仕方ない。宝石の価値はどれだけだろうか。エデルは一般庶民だ。経済的に苦しくなるのならこれが少しでも助けになればいい。
昨晩は勢いで家を飛び出してしまったが夜が明けて冷静になれば色々と問題が見えてきた。駆け落ちも結婚も後悔していない。エデルと二人ならどんな困難だって頑張れる。だからちゃんと現実を見て二人で考えなくちゃいけない。
今後のことを問いかけようと口を開いたところで視界の端に見覚えのある馬車が入ってきた。紋章を消した黒塗りの馬車。見間違えようもない。そこからよく知る初老の家令が降りてきた。相変わらず視線が鋭い。迷わずホテルに入ってきた。エルーシアの体がガクガクと震える。エデルもそれに気づきエルーシアの体を抱きしめる。
「‥‥ああ、そんな」
「大丈夫です」
エルーシアをベッドに寝かせエデルは慌ただしくロングコートを羽織った。タイを巻いていないが一見貴族の令息に見える。その様子にエルーシアがさらに動揺する。その体をエデルは抱き寄せた。
「ダメ!やめて!行ったら」
「安心して。僕達の婚姻はなされています。それに人目のある場所で滅多なことはできません。あちらも単身のようです。話を聞いてきます」
「でも!相手はオスカーよ?」
「絶対にこの部屋から出ないでください。用心の為にこの部屋の鍵をかけておきます。少しだけ待っていてください」
「いやよ!置いていかないで!私も連れてって!エデル!」
「大丈夫です。すぐ戻るから」
エルーシアに口づけを落とし部屋を出るエデルに動けないエルーシアは何もできない。ガチャリと錠の落ちる音も聞こえた。あの家令がいかに冷徹かエデルは知らない。いつぞやの返り血に塗れた家令の姿を思い浮かべエルーシアは身を震わせた。
「神さま‥どうかエデルをお守りください‥」
ベッドの中で震えていたエルーシアだったが、エデルは思いの外早く帰ってきた。安堵で泣き出すエルーシアを硬い表情で抱きしめる。
「エデル!」
「すみません、心配させてしまいましたね」
「エデル‥よかった‥」
震えるエルーシアを抱きしめるエデルがしばしの沈黙ののち低い声で囁いた。
「エルシャ、落ち着いて聞いて下さい」
「なに?」
「旦那様が亡くなりました」
エルーシアの思考が、呼吸が止まる。
なくなった?何が?誰が?
聞いたものが信じられず目を見開いてエデルを見上げた。
「エデル‥‥?なんて?」
「昨晩旦那様が亡くなったそうです」
「え?だん‥‥お義兄さまが?」
じっとエデルを見上げればエデルも困惑の表情だ。昨日、家を飛び出すまで義兄は生きていた。病も怪我もない。死ぬ兆候もなかった。ありえない。
「嘘よ、何かの間違いよね?お義兄さまが亡くなるわけ‥」
「僕も未だに信じられません。落馬が原因とのことです。詳細はわかりません」
「らくば‥‥?」
馬に乗った。それはエルーシアを探しに行こうとしたのだろう。そこで馬から———
子供の頃から自分を守り可愛がってくれた優しい義兄。エルーシアは最後その手を拒絶して飛び出してしまった。自分のせいでその義兄が死んだ。エルーシアからみるみる血の気が引いていく。ガクガクと震えるエルーシアの背をエデルが宥めるように撫でた。
「あの家令はその報告に来ました。エルシャに本邸に戻ってきてほしいと言っています。どうしますか?」
「戻るわ!すぐに義兄の‥」
「よろしいですか?戻れば恐らくもうあそこから出られません」
出られない。その言葉にエルーシアが目を瞠る。義兄が亡くなった。もう本家で生き残っているのはエルーシアしかいない。今度はあの家がエルーシアの牢獄となる。
「侯爵家最後の相続人として。その覚悟がありますか?」
エデルの言葉に茫然とし、そして別の震えが体に走った。義兄が守っていた侯爵家。領民を守らなくてはならない。自分は手伝いさえしたことがない。働いたことさえないのにそんな重任を担えるだろうか。
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