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人格乖離
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静子さんの事務所です。
「今日の晩御飯は私が作ったのよ。さあどうぞ、お腹いっぱい食べてね」
静子さんが自慢げに言いました。彼女はあまり日常の食事を作っているタイプには見えませんが、こうしてたまに料理の腕を振るうのでしょう。
事務所のデスク変わりのテーブルの横に、もうひとつちゃぶ台のようなテーブルが置かれています。
そのテーブルに並んでいるのは、お茶碗に盛った白いご飯、豆腐の味噌汁、サバの塩焼きに大根おろしを添えたもの、あとは大皿に盛りつけたサラダと、大量の鶏の唐揚げです。
「わあ、なんだか懐かしいメニューだなあ。こういうの久しぶりです。いただきます」
久しぶりの和食の家庭料理に舌鼓を打ちます。
オームもなかなか慣れたもののようで、タイ人には珍しく器用に箸を使い焼き魚を食べています。
「こんな山奥でサバが食べられるとは思わなかった。脂が乗って美味いです」
「そうでしょ?タイではサバはかなり高級魚なのよ。日本料理店なら結構な値段するけど、人気料理なの」
静子さんは満足そうに言います。
日本米のご飯も、びっくりするほど美味しく感じます。そしてお味噌汁も。
おそらくは大の男の食欲に配慮したと思われる唐揚げは、歯ごたえがあって味が深い。
「この唐揚げ、すごく美味しいですね。普通の唐揚げじゃないみたい」
「それはブロイラーじゃなくて、本場の軍鶏(シャモ)肉だからよ」
「なるほど!日本ならすごく贅沢な唐揚げですよね」
日本でも闘鶏に使用されていた軍鶏(シャモ)はもともとタイが原産です。
名前はタイの旧国名・シャムに由来しています。
静子さんの手料理を食べながら、私はふと言いました。
「そう言えば日本の事って、もうあまり思い出さなくなりましたねえ。なんか日本の事はすべてが夢だったみたいで」
その言葉を聞いた静子さんは、突然真顔になって私の顔を見ました。
そして唐突ににこう言いました。
「トミーちゃん、私あなたの様子がとても気になっているの。たぶん中田もそう。それでトミーちゃんを私のところへ寄こしたんじゃないかしら」
「え、どういうことですか?」
静子さんはかなり間を置いて・・・少し熟考したあと、ようやく口を開きました。
「サトミさんて、どういう人?」
・・・ん?サトミ?サトミ。サトミ!!
・・・あああ・・サトミ。。
私の脳裏に、突然大量のサトミの記憶が溢れ出てきました。
ゴールでの、インドゥルワでの、サトミと過ごしたすべての時間の記憶が。
いわゆる走馬燈ではなく、同時に一気に・・
「あああ・・サトミは・・・サトミは・・」
なんということでしょう。私はしばらくの間、サトミのことを完全に忘れていました。
「トミー、どうしたの?大丈夫?トミー!」
私の動揺しての変貌ぶりに、オームが心配しています。
しかし、しばらく溢れ出つづけた記憶の水流は、やがて落ち着きを見せ始めました。
「・・ああサトミ・・僕は・・僕はなんて弱いんだろう。。」
しばらくの間、私を支配していた冷めた人格の私が引っ込み、本来の私が帰って来たようです。
「トミーちゃん、あなた完全に人格が乖離しているわけじゃないけど、ちょっとアブないわね」
私は少し落ち着きを取り戻してきました。
「・・静子さん、あなたは精神科医なんですか?」
「違うわ。あくまで経験上言ってることだから、あまり酷くなったら専門の医者に行くべきよ。でもおそらくそこまで酷くはないでしょう。サトミさんのことは中田から聞いていたの。かなり辛い別れだったんでしょ?」
「はい、でも僕はさっきまでサトミの事を完全に忘れていました。そのほうが楽だったかもしれません」
「だから私も言おうかどうか迷ったの。でもサトミさんのことを忘れたトミーちゃんは、とても危険な人に見えたわ」
「危険・・・ですか?」
「本来のあなたは、臆病でそのぶん用心深い人だと思うの。自分の弱さを知っているから、その弱さを補うためにもう一人の自分を作ったのね」
・・・もう一人の自分。弱い私が怯えている間にいつも作戦を考えていた、冷静なもうひとりの私。
「でもそれは、もともとどっちもトミーちゃんの性質なのよ。乖離させちゃいけないの。トミーちゃんは臆病な自分を殺そうとしていたわ。そしてそれはサトミさんを愛したトミーちゃんだったの」
そういえば、ゴールのあの宿でサトミを必死で口説き落とそうとしていたとき。
いつも冷静に作戦を考える私は、途中でどこかに消えてしましました。
さらに思い出しました。オーンに迫られたあのとき、サトミの声が聞こえたような気がしました。
あれは、臆病で用心深い私が発する警戒信号だったのでしょう。
しかしその後の私は、その警戒信号を発する弱い自分を心の奥に封じ込めた。
・・・だからサトミのことを忘れてしまっていたんだ。
「冷静で怖い物を知らない、強いトミーちゃんが人格のすべてになったら、どんな危険にでも平気で飛び込むようになるでしょうね。それじゃ長生きはできないわ」
静子さんという人はいったいどういう人なのでしょう?
私の心の奥底にぐいぐい迫ってくる。
そしてなぜか頼りたくなるこの感じは、まるでカッサバ先生のようです。
「トミーちゃん、あなた日本を出てからまだ1年にもならないわよね」
「はい。まだ半年そこそこだと思います」
「じゃあまだ間に合うわ。私や中田みたいになったらもう手遅れ」
・・・中田さんや、静子さんは手遅れってどういう意味なんだろう?
「トミーちゃん。バンコクに戻ったら、中田に暇をもらって日本に帰りなさい。日本に帰って、そうね・・最低1年くらいは外国に出ないようにしなさい。日本で何か地に足の着いた仕事をするの。日本での日常をとり戻すのよ。それであなたは救われると思うわ」
「僕は救われるんですか?」
あはは・・・と静子さんは珍しく声を上げて笑いました。
「救われるって言っても、私はキリストやブッダじゃないもん。今の問題からだけね。人生はまだまだこれからですもの。新しい悩みはいくらでも出て来るわよ」
静子さんはそう言いましたが、私は今この瞬間にもすでに救われたような気がしていました。
それほど気が楽になっていたのです。
「今日の晩御飯は私が作ったのよ。さあどうぞ、お腹いっぱい食べてね」
静子さんが自慢げに言いました。彼女はあまり日常の食事を作っているタイプには見えませんが、こうしてたまに料理の腕を振るうのでしょう。
事務所のデスク変わりのテーブルの横に、もうひとつちゃぶ台のようなテーブルが置かれています。
そのテーブルに並んでいるのは、お茶碗に盛った白いご飯、豆腐の味噌汁、サバの塩焼きに大根おろしを添えたもの、あとは大皿に盛りつけたサラダと、大量の鶏の唐揚げです。
「わあ、なんだか懐かしいメニューだなあ。こういうの久しぶりです。いただきます」
久しぶりの和食の家庭料理に舌鼓を打ちます。
オームもなかなか慣れたもののようで、タイ人には珍しく器用に箸を使い焼き魚を食べています。
「こんな山奥でサバが食べられるとは思わなかった。脂が乗って美味いです」
「そうでしょ?タイではサバはかなり高級魚なのよ。日本料理店なら結構な値段するけど、人気料理なの」
静子さんは満足そうに言います。
日本米のご飯も、びっくりするほど美味しく感じます。そしてお味噌汁も。
おそらくは大の男の食欲に配慮したと思われる唐揚げは、歯ごたえがあって味が深い。
「この唐揚げ、すごく美味しいですね。普通の唐揚げじゃないみたい」
「それはブロイラーじゃなくて、本場の軍鶏(シャモ)肉だからよ」
「なるほど!日本ならすごく贅沢な唐揚げですよね」
日本でも闘鶏に使用されていた軍鶏(シャモ)はもともとタイが原産です。
名前はタイの旧国名・シャムに由来しています。
静子さんの手料理を食べながら、私はふと言いました。
「そう言えば日本の事って、もうあまり思い出さなくなりましたねえ。なんか日本の事はすべてが夢だったみたいで」
その言葉を聞いた静子さんは、突然真顔になって私の顔を見ました。
そして唐突ににこう言いました。
「トミーちゃん、私あなたの様子がとても気になっているの。たぶん中田もそう。それでトミーちゃんを私のところへ寄こしたんじゃないかしら」
「え、どういうことですか?」
静子さんはかなり間を置いて・・・少し熟考したあと、ようやく口を開きました。
「サトミさんて、どういう人?」
・・・ん?サトミ?サトミ。サトミ!!
・・・あああ・・サトミ。。
私の脳裏に、突然大量のサトミの記憶が溢れ出てきました。
ゴールでの、インドゥルワでの、サトミと過ごしたすべての時間の記憶が。
いわゆる走馬燈ではなく、同時に一気に・・
「あああ・・サトミは・・・サトミは・・」
なんということでしょう。私はしばらくの間、サトミのことを完全に忘れていました。
「トミー、どうしたの?大丈夫?トミー!」
私の動揺しての変貌ぶりに、オームが心配しています。
しかし、しばらく溢れ出つづけた記憶の水流は、やがて落ち着きを見せ始めました。
「・・ああサトミ・・僕は・・僕はなんて弱いんだろう。。」
しばらくの間、私を支配していた冷めた人格の私が引っ込み、本来の私が帰って来たようです。
「トミーちゃん、あなた完全に人格が乖離しているわけじゃないけど、ちょっとアブないわね」
私は少し落ち着きを取り戻してきました。
「・・静子さん、あなたは精神科医なんですか?」
「違うわ。あくまで経験上言ってることだから、あまり酷くなったら専門の医者に行くべきよ。でもおそらくそこまで酷くはないでしょう。サトミさんのことは中田から聞いていたの。かなり辛い別れだったんでしょ?」
「はい、でも僕はさっきまでサトミの事を完全に忘れていました。そのほうが楽だったかもしれません」
「だから私も言おうかどうか迷ったの。でもサトミさんのことを忘れたトミーちゃんは、とても危険な人に見えたわ」
「危険・・・ですか?」
「本来のあなたは、臆病でそのぶん用心深い人だと思うの。自分の弱さを知っているから、その弱さを補うためにもう一人の自分を作ったのね」
・・・もう一人の自分。弱い私が怯えている間にいつも作戦を考えていた、冷静なもうひとりの私。
「でもそれは、もともとどっちもトミーちゃんの性質なのよ。乖離させちゃいけないの。トミーちゃんは臆病な自分を殺そうとしていたわ。そしてそれはサトミさんを愛したトミーちゃんだったの」
そういえば、ゴールのあの宿でサトミを必死で口説き落とそうとしていたとき。
いつも冷静に作戦を考える私は、途中でどこかに消えてしましました。
さらに思い出しました。オーンに迫られたあのとき、サトミの声が聞こえたような気がしました。
あれは、臆病で用心深い私が発する警戒信号だったのでしょう。
しかしその後の私は、その警戒信号を発する弱い自分を心の奥に封じ込めた。
・・・だからサトミのことを忘れてしまっていたんだ。
「冷静で怖い物を知らない、強いトミーちゃんが人格のすべてになったら、どんな危険にでも平気で飛び込むようになるでしょうね。それじゃ長生きはできないわ」
静子さんという人はいったいどういう人なのでしょう?
私の心の奥底にぐいぐい迫ってくる。
そしてなぜか頼りたくなるこの感じは、まるでカッサバ先生のようです。
「トミーちゃん、あなた日本を出てからまだ1年にもならないわよね」
「はい。まだ半年そこそこだと思います」
「じゃあまだ間に合うわ。私や中田みたいになったらもう手遅れ」
・・・中田さんや、静子さんは手遅れってどういう意味なんだろう?
「トミーちゃん。バンコクに戻ったら、中田に暇をもらって日本に帰りなさい。日本に帰って、そうね・・最低1年くらいは外国に出ないようにしなさい。日本で何か地に足の着いた仕事をするの。日本での日常をとり戻すのよ。それであなたは救われると思うわ」
「僕は救われるんですか?」
あはは・・・と静子さんは珍しく声を上げて笑いました。
「救われるって言っても、私はキリストやブッダじゃないもん。今の問題からだけね。人生はまだまだこれからですもの。新しい悩みはいくらでも出て来るわよ」
静子さんはそう言いましたが、私は今この瞬間にもすでに救われたような気がしていました。
それほど気が楽になっていたのです。
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