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今朝のニュース
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向島砂和の傷の理由は、亡くなる数ヶ月前の両親に聞いた話だった。
幼い頃に無理心中に巻き込まれたって。
その時の俺は中学生で、両親もよくそんなことを打ち明けたと思うけれどあの時聞いておかなければ、俺は一生砂和さんの心の傷を知ることがなく生きていたのだろう。
朝からずっとテレビニュースでは昨晩起きた親子無理心中時事件の話題であふれていた。どこのチャンネルをかけてもそればかりで、俺は仕方なくテレビを消した。砂和さんはテレビどころではなく料理と洗濯に忙しいから事件のことは多分まだ知らない、それでいいんだ。こんなニュースはきっと彼の心の傷をえぐってしまうだけだから。
「あれ、どうして無垢テレビかけないの?」
「あ、ああ特にいい番組やってないし」
「今日の天気は……」
「晴れ! 一日晴れだって! 洗濯物は安心して干せますって言ってた」
「……ふうん」
彼は多少の疑念を見せつつもそのまま家事に戻っていった。リビングに放ってあった新聞のすみにも、この記事が載っていたのでソファの下に隠しておく。いつまでも隠し通せるものではないのはわかっているが、いま砂和さんを守るのは俺だから。
「無垢、今日の新聞知らないか?」
「知らねー」
ぼろが出てしまう前にリビングを後にして制服に着替えて身支度を整える。髪の毛のセットをするために洗面台に向かうが、そこにいるのは砂和さんとは似ても似つかない顔をした高校生。少しでも彼と似ていたら良かったのに、血の繋がりがあったら良かったのに。だから俺はいつまでたっても砂和さんの気持ちがわからない。
「もう……最悪」
傷を伴った記憶は完全には消えやしない。それは俺自身も体験したことだったから。
準備を終えてリビングに戻ったら、テレビがつけられて砂和さんが画面に見入っている。映っているのは今日のニュース、昨晩起こったあの事件も。しまったな、リモコンも隠しておけば良かった……。
「無垢、ご飯出来てるよ」
「あ、ああ……いただきます」
砂和さんはいつもの顔して食事をとっていた。テレビの音声が聞こえていないわけでもないだろう。しかしその表情は変わらず、でも本当のところを無理矢理聞き出すわけにもいかない。
『わからなくてごめん、大丈夫?』
長年の関係にそんな情けない言葉は、口にするのもはばかられる。
***
砂和さんは俺より一時間はやく家を出て行った。家の鍵を確かめて出かけようとすると玄関に砂和さんの携帯電話が落ちている。これは困っているんじゃあないか? 慌てて拾い上げて学校に向かう。朝の電車は混み具合がひどくて息も出来ない、確か今日は朝会があるから急がないと。とりあえず砂和さん見つけて忘れて行った携帯電話を渡すのだ。
「よう、無垢」
校門で朝の立ち回り当番は青海だった。黄色い旗を振って、横断歩道をよそ見して渡る生徒を怒りながら。
「砂和さんいる? 渡したいものがあるんだけど」
「砂和なぁ……ちょっと」
「ちょっとって何?」
「いや、何を渡すんだ。俺が代わりに渡しといてやるよ」
青海は何かを隠している。しかし砂和さんは校門付近にはいないようだし朝会の時に会えるとは限らなかったから携帯を託す。
「ちゃんと渡しとけよ、青海」
「お前は今日も偉そうだな、預かったよ。まあ渡しとくわ」
青海は意外と素直に受け取った、その妙な空気に違和感を抱きながらもとりあえず教室に向かうことにする。
朝会は校庭で行う。背の順で行けば俺は前の方だから大体の教師を見渡すことが出来る。しかし、いくら探してもどこにも砂和さんがいない。校長のどうでも良い話が終わって朝会も終わった。校舎内に戻ろうとした青海を捕まえて問いただす。
「なあ、砂和さんいないじゃん! どこだよ」
「携帯は渡しておくって」
「……なんかお前隠してるよな? 砂和さんどうしたんだよ」
「無垢……ああ、もう」
青海の後を追って行けば、保健室だった。ノックをしたらこの前産休で代わった新しい養護教諭が静かにドアを開ける。
「青海先生、怪我人ですか」
「いや、無垢」
「……ああ、向島先生の」
朝の保健室は静かすぎて、どうにも落ち着かない。三嶋、とネームプレートをつけた白衣姿は静かにベッドの仕切りのカーテンを開ける。
「向島先生」
「ああ、すみません……すっかりお世話になって」
「砂和さん!」
「……無垢? どうして」
どうしても何もそんなのこっちが聞きたいところだ。ネクタイを外して露わになった胸元を直しながら、砂和さんはベッドから起き上がる。
「何、何があったんだよ!」
「無垢、声が大きいよ。少しお世話になっていただけだ、もう授業もあるし戻る……」
顔色が悪く調子が悪いのは見ただけでわかった。青海に支えられながらベッドから足をつくと長いため息をついた。その様子を養護教諭、三嶋は眉をひそめて見ている。
「向島先生、無理しないでもうしばらく横になっていても構いませんよ」
「いえ、試験も近いですし戻ります。朝からすみません」
そう言いながらもなかなか立ち上がることが出来ない砂和さんを、青海はそのまま何も言わずに抱き上げるようにして立たせる。三嶋と目があった、青海は砂和さんを連れて保健室を出て行く。残された俺と三嶋、チャイムの音が鳴り響いた。
「小鳥遊くんだっけ。君か、向島先生と一緒に暮らしているのは」
「ああ、そうだけど……なあ砂和さんに何があったんだよ?」
「朝ね、職員室で座り込んで動けなくなったって青海先生が連れてきてくれたんだよ」
「なんで!」
「それは俺が知りたいけどね、疲れていたのか体調も良くなかったみたいだけど……朝、何かあった?」
朝のニュースだ、あれを見てしまったから砂和さんは。
「……何か思い当たることがあるんだね」
「ちょっとな」
「どんな理由かは聞かないけれど、傷は深いね。向島先生も思ったより頑なだから、……そろそろ限界は近いんじゃあないかなあ」
***
二時間目は砂和さんの授業。彼は朝のことなどなかったようにいつものように教室にやって来て授業を始める。いま誰も彼の心のうちを知らないのだ、この教室の中でも、もしかしたら職員室の青海でさえも。傷ついた彼の心は何年ものだ? 俺が物心つく前からその傷はあって、多分向島の両親もそこまで深いとは思わなかったんじゃないかな。砂和さん自分のことはあまり言わないから……。両親はもういないし、青海は胡散臭いし、俺がどうにかしないと。彼が壊れてしまう前に。
先日行った小テストの返却が始まった。順番に名前を呼ばれて取りにゆく、返却はそれぞれのレベルにあった課題とともに……。
俺の名を呼んだ砂和さん、教卓の前まで取りに行くと左手首から少し赤くなった引っ掻き傷が見えた。まただ、いつの間に……それは俺が幼い頃からちょくちょくあったことで、最近では見つけたら手当ての真似事をしていたけれどそれでは根本的な解決にはならない。ワイシャツの袖が血で少し汚れている、それを見せられた俺はどうしたら良いんだよ。
「小鳥遊……?」
無意識にその手を握っていた、砂和さんは少しの沈黙の後苦笑して小さくその手に力を込めた。大丈夫って言いたいんだ、でもその大丈夫は信用出来ない。
「この……バーカ!」
静かな教室に俺の声は思ったより響いた。突然の大声に呆気にとられる同級生、砂和さんも驚いて、だけど俺はその顔にプリントを投げつけて教室を出た。悪いのは砂和さんじゃない、むしろ悪いのは何も出来てない俺だ。勢いのままにそのまま教室を後にするも背中越しに砂和さんの呼ぶ声が聞こえた。でも振り返らずにそのまま屋上までの階段をのぼる。屋上のドアには鍵がかかっていたが、その踊り場は人が来ない穴場だった。たまにサボるときもここにいたし、こうしていま感情が溢れてどうしようもないときだって。
「たか……無垢! 待ちなさいってば」
息を切らして砂和さんは俺を追いかけて来た。階段の段に座って泣き出した俺のところまでどうにか追いついて、階段に寄りかかりながら俺を見つめている。
「なんで無垢が泣くんだい」
「あんたが泣かないからだ!」
「……泣いてどうするの、そんなことしたって何も変わらないのに?」
「砂和さん……」
その表情からは感情が消えている。多分きっと本心に近いのだろう。きっとこうして彼は全部あきらめてきたんだ。自分の生い立ちの不幸を殺して、誰にも明かさず心に秘めた。でもそろそろ限界は来るんじゃないのか? 泣きたいときだってあっただろうし、八つ当たりしたいときだって。黙って見つめった、ねえ砂和さん大丈夫だよここには他に誰もいないから。
階段を数段降りて、勢いのままに彼を抱きしめた。驚いた顔も全部覆うくらいにぎゅっと力を込めて。少し抵抗して、彼はそのまま静かになる。少し力を弱めた俺を逆に抱きしめ返した。
「さ、砂和さん?」
「……煙草、ここじゃあさすがに吸えないからさ、落ち着くまでしばらくこうしていて」
その体温が伝わってくる。俺にしがみつきながらずるずるとゆっくり二人座り込んだ。砂和さんの震える背中、小さく声が漏れてくる。泣いて良いよって言葉もでないがむしろ次第に俺の方まで悲しくなって涙が溢れて、嗚咽を堪えるだけで精一杯だった。
『お兄ちゃんの手、痛そうだねえ』
『うん、時々じわじわと痛くなるよ、でも誰が悪いわけじゃないから』
『我慢してるの?』
『少しね……お父さんとお母さんには、言ったらダメだよ』
言っても良いんだよ、たった一人で我慢するくらいなら。その言葉がうまく出なかった、彼も多分こん子供に言ってもわからないと思ったから打ち明けたのだろう。ふと去りし日を思い出して、何もかもをどうにも出来ない俺が嫌になった。
***
「無垢、聞いたぞ。お前が授業中に砂和ぶん殴って教室の外に引きずり出して再起不能にしたって話」
「なんだよそれ、してねえし」
「砂和どうだよ?」
「いま補習授業してる」
「は、あの調子で?」
放課後、砂和さんはいつもと変わらず仕事をしていた。無理をしているなんて俺でもわかる。けれどいつもの『向島先生』は変わらない。でもこの調子じゃ砂和さん、家に帰ってから寝込みそうな予感がする。呆れた青海はそっと授業をやっている教室を覗きに行って、入れ替わりに三嶋が来た。
「小鳥遊くん、向島先生はどうだい?」
「大丈夫ではないな」
事実なんだからその通りだ。三嶋は少し考えて、俺を見る。
「君が頑張るんだよ、家族なんだろう? 多分君が向島先生の唯一の理解者だ」
「……わかってるよ」
ああ、そうだ。俺が揺れている訳にはいかない。出会ってから、出会う前から孤独だった彼の心は今まで救われることはなく。でも、もう俺はもうすぐ大人になるよ。
今日は少し居残りして、砂和さんを連れて一緒に帰ろう。そのあとのことはその時考えたら良い。今度は俺があの人を救うのだ。かつて幼かった俺が、彼に育てられて救われたように。
幼い頃に無理心中に巻き込まれたって。
その時の俺は中学生で、両親もよくそんなことを打ち明けたと思うけれどあの時聞いておかなければ、俺は一生砂和さんの心の傷を知ることがなく生きていたのだろう。
朝からずっとテレビニュースでは昨晩起きた親子無理心中時事件の話題であふれていた。どこのチャンネルをかけてもそればかりで、俺は仕方なくテレビを消した。砂和さんはテレビどころではなく料理と洗濯に忙しいから事件のことは多分まだ知らない、それでいいんだ。こんなニュースはきっと彼の心の傷をえぐってしまうだけだから。
「あれ、どうして無垢テレビかけないの?」
「あ、ああ特にいい番組やってないし」
「今日の天気は……」
「晴れ! 一日晴れだって! 洗濯物は安心して干せますって言ってた」
「……ふうん」
彼は多少の疑念を見せつつもそのまま家事に戻っていった。リビングに放ってあった新聞のすみにも、この記事が載っていたのでソファの下に隠しておく。いつまでも隠し通せるものではないのはわかっているが、いま砂和さんを守るのは俺だから。
「無垢、今日の新聞知らないか?」
「知らねー」
ぼろが出てしまう前にリビングを後にして制服に着替えて身支度を整える。髪の毛のセットをするために洗面台に向かうが、そこにいるのは砂和さんとは似ても似つかない顔をした高校生。少しでも彼と似ていたら良かったのに、血の繋がりがあったら良かったのに。だから俺はいつまでたっても砂和さんの気持ちがわからない。
「もう……最悪」
傷を伴った記憶は完全には消えやしない。それは俺自身も体験したことだったから。
準備を終えてリビングに戻ったら、テレビがつけられて砂和さんが画面に見入っている。映っているのは今日のニュース、昨晩起こったあの事件も。しまったな、リモコンも隠しておけば良かった……。
「無垢、ご飯出来てるよ」
「あ、ああ……いただきます」
砂和さんはいつもの顔して食事をとっていた。テレビの音声が聞こえていないわけでもないだろう。しかしその表情は変わらず、でも本当のところを無理矢理聞き出すわけにもいかない。
『わからなくてごめん、大丈夫?』
長年の関係にそんな情けない言葉は、口にするのもはばかられる。
***
砂和さんは俺より一時間はやく家を出て行った。家の鍵を確かめて出かけようとすると玄関に砂和さんの携帯電話が落ちている。これは困っているんじゃあないか? 慌てて拾い上げて学校に向かう。朝の電車は混み具合がひどくて息も出来ない、確か今日は朝会があるから急がないと。とりあえず砂和さん見つけて忘れて行った携帯電話を渡すのだ。
「よう、無垢」
校門で朝の立ち回り当番は青海だった。黄色い旗を振って、横断歩道をよそ見して渡る生徒を怒りながら。
「砂和さんいる? 渡したいものがあるんだけど」
「砂和なぁ……ちょっと」
「ちょっとって何?」
「いや、何を渡すんだ。俺が代わりに渡しといてやるよ」
青海は何かを隠している。しかし砂和さんは校門付近にはいないようだし朝会の時に会えるとは限らなかったから携帯を託す。
「ちゃんと渡しとけよ、青海」
「お前は今日も偉そうだな、預かったよ。まあ渡しとくわ」
青海は意外と素直に受け取った、その妙な空気に違和感を抱きながらもとりあえず教室に向かうことにする。
朝会は校庭で行う。背の順で行けば俺は前の方だから大体の教師を見渡すことが出来る。しかし、いくら探してもどこにも砂和さんがいない。校長のどうでも良い話が終わって朝会も終わった。校舎内に戻ろうとした青海を捕まえて問いただす。
「なあ、砂和さんいないじゃん! どこだよ」
「携帯は渡しておくって」
「……なんかお前隠してるよな? 砂和さんどうしたんだよ」
「無垢……ああ、もう」
青海の後を追って行けば、保健室だった。ノックをしたらこの前産休で代わった新しい養護教諭が静かにドアを開ける。
「青海先生、怪我人ですか」
「いや、無垢」
「……ああ、向島先生の」
朝の保健室は静かすぎて、どうにも落ち着かない。三嶋、とネームプレートをつけた白衣姿は静かにベッドの仕切りのカーテンを開ける。
「向島先生」
「ああ、すみません……すっかりお世話になって」
「砂和さん!」
「……無垢? どうして」
どうしても何もそんなのこっちが聞きたいところだ。ネクタイを外して露わになった胸元を直しながら、砂和さんはベッドから起き上がる。
「何、何があったんだよ!」
「無垢、声が大きいよ。少しお世話になっていただけだ、もう授業もあるし戻る……」
顔色が悪く調子が悪いのは見ただけでわかった。青海に支えられながらベッドから足をつくと長いため息をついた。その様子を養護教諭、三嶋は眉をひそめて見ている。
「向島先生、無理しないでもうしばらく横になっていても構いませんよ」
「いえ、試験も近いですし戻ります。朝からすみません」
そう言いながらもなかなか立ち上がることが出来ない砂和さんを、青海はそのまま何も言わずに抱き上げるようにして立たせる。三嶋と目があった、青海は砂和さんを連れて保健室を出て行く。残された俺と三嶋、チャイムの音が鳴り響いた。
「小鳥遊くんだっけ。君か、向島先生と一緒に暮らしているのは」
「ああ、そうだけど……なあ砂和さんに何があったんだよ?」
「朝ね、職員室で座り込んで動けなくなったって青海先生が連れてきてくれたんだよ」
「なんで!」
「それは俺が知りたいけどね、疲れていたのか体調も良くなかったみたいだけど……朝、何かあった?」
朝のニュースだ、あれを見てしまったから砂和さんは。
「……何か思い当たることがあるんだね」
「ちょっとな」
「どんな理由かは聞かないけれど、傷は深いね。向島先生も思ったより頑なだから、……そろそろ限界は近いんじゃあないかなあ」
***
二時間目は砂和さんの授業。彼は朝のことなどなかったようにいつものように教室にやって来て授業を始める。いま誰も彼の心のうちを知らないのだ、この教室の中でも、もしかしたら職員室の青海でさえも。傷ついた彼の心は何年ものだ? 俺が物心つく前からその傷はあって、多分向島の両親もそこまで深いとは思わなかったんじゃないかな。砂和さん自分のことはあまり言わないから……。両親はもういないし、青海は胡散臭いし、俺がどうにかしないと。彼が壊れてしまう前に。
先日行った小テストの返却が始まった。順番に名前を呼ばれて取りにゆく、返却はそれぞれのレベルにあった課題とともに……。
俺の名を呼んだ砂和さん、教卓の前まで取りに行くと左手首から少し赤くなった引っ掻き傷が見えた。まただ、いつの間に……それは俺が幼い頃からちょくちょくあったことで、最近では見つけたら手当ての真似事をしていたけれどそれでは根本的な解決にはならない。ワイシャツの袖が血で少し汚れている、それを見せられた俺はどうしたら良いんだよ。
「小鳥遊……?」
無意識にその手を握っていた、砂和さんは少しの沈黙の後苦笑して小さくその手に力を込めた。大丈夫って言いたいんだ、でもその大丈夫は信用出来ない。
「この……バーカ!」
静かな教室に俺の声は思ったより響いた。突然の大声に呆気にとられる同級生、砂和さんも驚いて、だけど俺はその顔にプリントを投げつけて教室を出た。悪いのは砂和さんじゃない、むしろ悪いのは何も出来てない俺だ。勢いのままにそのまま教室を後にするも背中越しに砂和さんの呼ぶ声が聞こえた。でも振り返らずにそのまま屋上までの階段をのぼる。屋上のドアには鍵がかかっていたが、その踊り場は人が来ない穴場だった。たまにサボるときもここにいたし、こうしていま感情が溢れてどうしようもないときだって。
「たか……無垢! 待ちなさいってば」
息を切らして砂和さんは俺を追いかけて来た。階段の段に座って泣き出した俺のところまでどうにか追いついて、階段に寄りかかりながら俺を見つめている。
「なんで無垢が泣くんだい」
「あんたが泣かないからだ!」
「……泣いてどうするの、そんなことしたって何も変わらないのに?」
「砂和さん……」
その表情からは感情が消えている。多分きっと本心に近いのだろう。きっとこうして彼は全部あきらめてきたんだ。自分の生い立ちの不幸を殺して、誰にも明かさず心に秘めた。でもそろそろ限界は来るんじゃないのか? 泣きたいときだってあっただろうし、八つ当たりしたいときだって。黙って見つめった、ねえ砂和さん大丈夫だよここには他に誰もいないから。
階段を数段降りて、勢いのままに彼を抱きしめた。驚いた顔も全部覆うくらいにぎゅっと力を込めて。少し抵抗して、彼はそのまま静かになる。少し力を弱めた俺を逆に抱きしめ返した。
「さ、砂和さん?」
「……煙草、ここじゃあさすがに吸えないからさ、落ち着くまでしばらくこうしていて」
その体温が伝わってくる。俺にしがみつきながらずるずるとゆっくり二人座り込んだ。砂和さんの震える背中、小さく声が漏れてくる。泣いて良いよって言葉もでないがむしろ次第に俺の方まで悲しくなって涙が溢れて、嗚咽を堪えるだけで精一杯だった。
『お兄ちゃんの手、痛そうだねえ』
『うん、時々じわじわと痛くなるよ、でも誰が悪いわけじゃないから』
『我慢してるの?』
『少しね……お父さんとお母さんには、言ったらダメだよ』
言っても良いんだよ、たった一人で我慢するくらいなら。その言葉がうまく出なかった、彼も多分こん子供に言ってもわからないと思ったから打ち明けたのだろう。ふと去りし日を思い出して、何もかもをどうにも出来ない俺が嫌になった。
***
「無垢、聞いたぞ。お前が授業中に砂和ぶん殴って教室の外に引きずり出して再起不能にしたって話」
「なんだよそれ、してねえし」
「砂和どうだよ?」
「いま補習授業してる」
「は、あの調子で?」
放課後、砂和さんはいつもと変わらず仕事をしていた。無理をしているなんて俺でもわかる。けれどいつもの『向島先生』は変わらない。でもこの調子じゃ砂和さん、家に帰ってから寝込みそうな予感がする。呆れた青海はそっと授業をやっている教室を覗きに行って、入れ替わりに三嶋が来た。
「小鳥遊くん、向島先生はどうだい?」
「大丈夫ではないな」
事実なんだからその通りだ。三嶋は少し考えて、俺を見る。
「君が頑張るんだよ、家族なんだろう? 多分君が向島先生の唯一の理解者だ」
「……わかってるよ」
ああ、そうだ。俺が揺れている訳にはいかない。出会ってから、出会う前から孤独だった彼の心は今まで救われることはなく。でも、もう俺はもうすぐ大人になるよ。
今日は少し居残りして、砂和さんを連れて一緒に帰ろう。そのあとのことはその時考えたら良い。今度は俺があの人を救うのだ。かつて幼かった俺が、彼に育てられて救われたように。
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