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1章・戦火繚乱編
39、自分が自分である為に
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モンタアナが防備を固めているという情報は帝都のティタラの耳にも入っている。
「そうか。やはりデビュイは余に従わなかったか」
小さな体の影が蝋燭で揺らめく寝室。
四月は初夏、窓のカーテンが揺れて暖かな空気を涼しげな風が払う。
彼女の前に膝をつくのは、なんとカーンであった。
ハルアーダに仕えていた筈のカーンだが、ハルアーダから皇帝ティタラの動向を探るよう命じられていたので彼女の動向を逐一伺える位置として、ティタラの密偵の位を得たのだ。
カーンほどの有能な人ならば、このように他人に取り入る事は容易である。
それでカーンは、ハルアーダの命令である『ティタラが実姉の暮らすモンタアナをなぜ攻めるのか』という命令を遂行する事にした。
「今の時分に北東のモンタアナを攻めるのは理に適わず。何か理由があるのでしょうか」
せっかくティタラの諜報員の位置を得られたのだから直接、聞く事にしたのだ。
大胆なものである。
ところが、ティタラは「いつからあなたは私の参謀になったのかしら?」と睨み付けた。
確かにカーンは諜報員であって参謀ではない。
皇帝の考えを踏み込むだけ野暮というものだ。
カーンはこれ以上の詮索は出来ないと思い、「さしでがましい真似をしました」と暗闇に姿を消す。
ティタラは静かになった部屋で椅子の背にもたれた。
彼女のクマだらけの眼で見下ろす机の上には蝋燭に照らされた地図。
そして、頭の中には帝国の兵力。
ティタラは舌打ちをした。
帝国の戦力が少なすぎる。
そもそも、カルバーラ地方の諸侯の戦力を取り込むつもりだったのに敵対して戦争となってしまった。
少ない戦力をさらに割かなくてはいけなくなっている。
「ハルアーダめ、しくじったわね」
指が机をトントンと忙(せわ)しなく叩いた。
「ただでさえカセイの連中が帝都を狙っていると聞こえるのに……!」
帝都の西方にあるゼードル地方の、その大部分を占めるカセイ国。
カセイ国は外国では無く帝国の一部だ。
かつてアーランドラ帝国がその領土を拡げる時に最も抵抗した国で、此度における皇帝の跡継ぎ問題においては真っ先に独立した地でもある。
西方へと逃げ込んだオルモードと彼の将であるガ・ルスを擁し、西方域の独立領主を次々と併呑して戦力を拡充していた。
恐ろしいのは、カセイ国侯王ザルバールはアーランドラ帝国と敵対していた頃のカセイ国王の血筋。
反抗的なゼードル地方の人々を鎮める為に、アーランドラ帝国最大の強敵であったカセイ国王に爵位を授与し、また、その領土も在りし日のままカセイ国としたのだ。
所が、古き日のその政策は失策だった。
今となっては、ザルバールを中心にゼードル地方の殆どの領民がアーランドラ帝国に牙を向いているのだ。
ゼードル族よ。永き支配から脱却すべし。アーランドラ帝国を支配すべし! と意気込んでいる。
いつカセイ国が帝都へと攻めてきてもおかしくなかった。
ティタラは舌打ちをすると頭をガシガシ乱暴に掻いた。
全てが上手くいかなくてティタラは腹が立つ。
父アロハンドに冷遇され、悲しい幼少期を過ごした。
だが、そんな逆境にも負けず、あの心の弱い軟弱者の姉に代わって皇帝になったのに何一つ上手くいかない。
ティタラの計画ならば、今頃カルバーラ地方の諸侯を従えてモンタアナの豊穣な地を呑み込み、カセイ国と事を構えている筈であった。
なのに、実際彼女の計画通りに進んだのは、大公を勝手に名乗った不敬者サルジュを殺した事だけだ。
「無能! 無能! 無能! どいつもこいつも無能ばかり! 少しは私の計画通りに動け!」
怒り任せにぐしゃぐしゃと地図を引き裂いて、彼女はベッドに突っ伏した。
ふうふうと興奮で息が上がる。
ティタラは聡明とはいえ所詮は十や十一程度の子供。
皇帝としての重圧とその強い権力に自分を見失いつつあった彼女は、その心を狂わせないように激しい怒りに身を任せねばならなかったのだ。
いや、激烈なる憤怒に身を任せる時点で、既に狂いつつあるのかも知れぬが。
その頃、ゼードル地方カセイ国では、報告通り昼夜を問わずに軍備が整えられていた。
カセイ国は春先にカルシオスの領土であったオーゼリードを攻めていたが、そのオーゼリードを攻めたのは、帝都へ向かう拠点として重要な位置であったからだ。
今、アーランドラ帝国内における最大勢力ともいえるカセイ国が帝都に攻め込めば、帝都の戦力など鎧袖一触に打ち破られる。
カセイ国はこの機を逃さずに攻め込む算段であった。
もちろんこの事態は帝都の人々も知る事となり、震えたものだ。
実を言うと、カセイ国が帝都へ攻め込むという噂は、カセイ国自身が流したものである。
結果、大臣達は狼狽え、人民は次々と帝都を逃げ出したと記録にもあった。
もうどうしようも無いように思えた。
このままカセイ国に攻め込まれるだろう。
かつてアーランドラ帝国がカセイ国を支配したように、今度はカセイ帝国になってアーランドラが支配されるのだ。
いや、それならまだマシなものだ。
皇帝ティタラが処刑され、アーランドラの民族全てが粛清されるかも知れない。
民族的な禍根を持つ戦争とはそういった危険があった。
大臣達は日々、会議を開いたし、夜中に部屋へ集まっては口々に話し合いをしたものだ。
「だがね、我々帝国はカセイ国の王族を生かしてやったじゃないか。帝国の一地方として封建な自治も認めたじゃないか。降参しても悪い待遇はされないさ」
「いやいや待ちたまえ。カセイ国やゼードル地方の奴ばらにはカセイ国の王を臣下にさせられた事を『侮辱』だと受け取っている者も少なくないようだぞ。降参しようものなら奴隷の身分にされるやも知れん。ここは帝都を捨てて隠れる方が良いだろう」
帝都の大臣達は日夜、降参か逃亡かを話し合った。
「では逃げるにしても何処へ逃げるか?」
「ルルム地方が良かろう」
ルルム地方とは帝都南方にある地方で、元々はゼードル地方のようにアーランドラ帝国と敵対していた異民族が治めていた土地だ。
今からずっと昔、アーランドラの重臣であったラズベルト家は異民族と宥和政策を採って彼らと和解。
この功績によってラズベルト家はルルム公に任命されてルルム地方の大半を治める事となった。
現在、ルルム地方は地方豪族――かつての異民族で長だった一族達――の権力が強かったが、しかし、その地方豪族が唯一従う存在がルルム公オットーリオ・ラズベルトであった。
ルルム地方では今、二つの勢力に別れて争っていた。
公爵オットーリオを中心とした地方豪族の勢力。
それと、帝国から独立した地方領主達の連合軍だ。
ルルム地方はアーランドラ帝国の他の地方に比べて、オットーリオと地方豪族を中心とした比較的安定な情勢の地域である。
「ラズベルト家は古来よりアーランドラ帝国の忠臣! そしてオットーリオ公はカルシオスとオルモードの反乱の際に帝都へ参上した忠義の男。皇帝陛下が身を寄せるのに適した地は他にあるまい!」
家臣らはルルム地方への逃亡を画策し、ティタラへとそのように提言した。
当初ティタラは皇帝の自分が逃げるのはおかしいと怒ったが、何名もの家臣団からの説得を受けてその提言を渋々と受け入れる。
すぐに使者はルルム地方はオットーリオの治める公都パルへと送られた。
このやり取りは遡って二月末の話だ。
それから三月半ばになっても返信の使者は帰って来ず、帝都の家臣団は慌てた。
急いで二度、三度と使者を送ったが、やはり返信は来ない。
四月頃の今になっても返信は来なくて、なぜオットーリオは黙(だんま)りを決め込むのか。カセイ国はもうすぐにでも攻めて来るぞと騒ぎになる。
帝都の貴族で男爵マリーノという男は一族を引き連れて夜逃げも同然に居なくなった。それほどに帝都は絶望的空気が蔓延していた。
もういつカセイ国が攻めてくるのか分からず、猶予も無く......。
そんな時、ハルアーダがカルバーラ地方の前線から帰還した。
貴族や民衆は皇帝騎士ハルアーダの帰還に湧いた。
なぜなら、かつては不可思議な術を用いて難攻不落な戦いを仕掛けたトルノットをただ一人で打破したハルアーダは人々の記憶に強く刻まれているからだ。
今回も、この困難を乗り越えさせてくれるのではないかと人々は期待した。
ただでさえ荒廃して疲弊している民族は帝都の通りを進むハルアーダに「助けて下さい」とすがりついたものだ。
ハルアーダはそんな彼らへ静かに手を振って応えると城に向かった。
ハルアーダに付き従って来たバルリエットは旅装から礼装へと着替える事を勧めたが、ハルアーダは静かに首を左右に振る。
「すぐにでも陛下と謁見せねばならん」
礼服にも着替えずに泥と埃ままれの旅装のまま城へと向かい、ただちに皇帝への謁見を申し立てた。
ティタラは幾らか予定があったが、皇帝騎士であるハルアーダが前線からの帰りにも関わらずわざわざ謁見の申し立てを行って来たので、予定を変更して謁見する事とした。
ティタラは露骨に不愉快な顔で玉座に座る。
皇帝騎士として皇帝の護衛であるハルアーダは謁見などせずともティタラと話などできた。
それなのにわざわざ謁見という形式を取って多忙な業務に水を差してきたのが腹立たしい。
「ハルアーダ。ようやくカルバーラの逆賊どもは鎮圧できたのかしら」
玉座に肘を置いて気だるそうな顔でハルアーダを睥睨した。
膝をついているハルアーダが俯かせていた顔を静かに上げ、「カルバーラ諸侯との戦いは終わりました」と言ったのだ。
少しだけティタラは機嫌を良くした様子で笑う。
彼女に従わぬ愚か者が滅びた。
ようやく計画通り事が少しだけ上手く行ったのだから上機嫌にならない訳が無かった。
しかしである。
ハルアーダがその後、静かに口を開くとティタラはわなわなと唇を怒りに震わせる事となったのだ。
ハルアーダがティタラに伝えたのは、カルバーラ諸侯の誰一人として滅亡していないという事だ。
そして、カルバーラ諸侯が残っているのに前線からハルアーダが帝都に戻って来れたのは、諸侯と休戦して帰って来たと言ったからだ。
勝手に休戦した事をティタラは烈火の如く怒る。
目をハッタと見開き、ガバと玉座から跳ね立つとハルアーダを壇上から見下ろした。
勝手な真似をしてどういうつもりかとティタラが怒鳴ると、ハルアーダは静かな声音で西方への備えをするためだと答えた。
西方域の動きはカーンを通じてハルアーダも事細かに知っている。
ゆえに、ハルアーダはカルバーラ諸侯やモンタアナよりも西方のカセイ国へ備える事が大事だと、諸侯軍と和睦すると最低限の守りとしてサスパランドのデーノを置いて帰って来たのだ。
ティタラは怒り、玉座の隣に置かれた杯を掴むとハルアーダへ投げつけた。
杯はハルアーダの近くに落ちて真っ赤なワインが彼の服にしぶく。
ティタラの両隣に立つ近衛の騎士はこのような事態に戦々恐々としていた。
最近のティタラは寝不足と過労から感情的である。
一過性の怒りからハルアーダを殺せと命じかねない。
あるいは、ハルアーダが逆上してティタラを斬るような事態になったらどうしようかと思う。
近衛騎士は皇帝に仕えているし、ハルアーダの事ら同じ騎士として尊敬していた。
どちらに転んでも彼らにとっては望まぬ展開なので、心底穏便に事が運んで欲しいと願う。
そんな彼らの願いが通じたのかは定かではないが、ティタラは溜息を吐いて大人しく玉座へと座った。
疲れた様子で玉座へと深くもたれて、虚ろな目を空中に投げかける。
玉座の間の、荘厳な作りが虚しいものに思えた。
もはや虚飾と化した権力。
実の伴わぬ肩書きだけの皇帝。
まるで自分が意思のない操り人形のように思えたし、周囲の全てが彼女の権力を利用して利益を貪る人形師だと知っていた。
武官は彼女を旗印に団結しているだけだし、文官は彼女を利用して私腹を肥やしている。
つまり、別にティタラじゃなくても、玉座に座る相応の理由があれば誰でも良かったのだとティタラは知っていたのだ。
彼女とて馬鹿では無いのだからハルアーダの選択が正しい事くらいよく分かっている。
だが、彼女がそれでもなおモンタアナを攻めたかったのはミルランスのせいだ。
ティタラは自分が玉座に座れる理由をよく知っていた。
そして、それはミルランスでも良いのだと知っている。
彼女は彼女自身のアイデンティティが皇帝である事だと知っている。
ずっと姉ミルランスに何かあった時の予備として扱われて誰もティタラを見てくれなかった。
だが、ようやく得た皇帝という地位。
その位置を脅かすミルランスに恐怖していた。
もしも......もしも臣下達がミルランスを取り立てて自分を排斥しようとしたら?
そう思うだけで不安だったのだ。
ティタラはまだ幼くて自分の感情を抑えきれないが、一方では聡明な子で、物事の善し悪しは分かる。
理性と感情の狭間でティタラはずっと揺れ続けていた。
苦しい。
今すぐ泣きわめき、年相応に感情を爆発させればどんなに楽だろう?
だがそのようなみっともない真似は皇帝として出来ない。
自分を冷遇した父より有能な皇帝であらねばならぬ。
姉よりも素晴らしい皇帝だと人々に思わせねばならぬ。
ティタラは玉座の肘付きに爪を立てて感情を押し殺すことにした。
「分かった。ではエルグスティアと共にハルアーダ、お前を西伐将軍に任命し、此度のカセイ国との戦いにおける全権を委任する」
そう命じたティタラは玉座から降りて、誰からも有無を言わせずにそそくさと玉座の間から逃げて行くのであった。
「そうか。やはりデビュイは余に従わなかったか」
小さな体の影が蝋燭で揺らめく寝室。
四月は初夏、窓のカーテンが揺れて暖かな空気を涼しげな風が払う。
彼女の前に膝をつくのは、なんとカーンであった。
ハルアーダに仕えていた筈のカーンだが、ハルアーダから皇帝ティタラの動向を探るよう命じられていたので彼女の動向を逐一伺える位置として、ティタラの密偵の位を得たのだ。
カーンほどの有能な人ならば、このように他人に取り入る事は容易である。
それでカーンは、ハルアーダの命令である『ティタラが実姉の暮らすモンタアナをなぜ攻めるのか』という命令を遂行する事にした。
「今の時分に北東のモンタアナを攻めるのは理に適わず。何か理由があるのでしょうか」
せっかくティタラの諜報員の位置を得られたのだから直接、聞く事にしたのだ。
大胆なものである。
ところが、ティタラは「いつからあなたは私の参謀になったのかしら?」と睨み付けた。
確かにカーンは諜報員であって参謀ではない。
皇帝の考えを踏み込むだけ野暮というものだ。
カーンはこれ以上の詮索は出来ないと思い、「さしでがましい真似をしました」と暗闇に姿を消す。
ティタラは静かになった部屋で椅子の背にもたれた。
彼女のクマだらけの眼で見下ろす机の上には蝋燭に照らされた地図。
そして、頭の中には帝国の兵力。
ティタラは舌打ちをした。
帝国の戦力が少なすぎる。
そもそも、カルバーラ地方の諸侯の戦力を取り込むつもりだったのに敵対して戦争となってしまった。
少ない戦力をさらに割かなくてはいけなくなっている。
「ハルアーダめ、しくじったわね」
指が机をトントンと忙(せわ)しなく叩いた。
「ただでさえカセイの連中が帝都を狙っていると聞こえるのに……!」
帝都の西方にあるゼードル地方の、その大部分を占めるカセイ国。
カセイ国は外国では無く帝国の一部だ。
かつてアーランドラ帝国がその領土を拡げる時に最も抵抗した国で、此度における皇帝の跡継ぎ問題においては真っ先に独立した地でもある。
西方へと逃げ込んだオルモードと彼の将であるガ・ルスを擁し、西方域の独立領主を次々と併呑して戦力を拡充していた。
恐ろしいのは、カセイ国侯王ザルバールはアーランドラ帝国と敵対していた頃のカセイ国王の血筋。
反抗的なゼードル地方の人々を鎮める為に、アーランドラ帝国最大の強敵であったカセイ国王に爵位を授与し、また、その領土も在りし日のままカセイ国としたのだ。
所が、古き日のその政策は失策だった。
今となっては、ザルバールを中心にゼードル地方の殆どの領民がアーランドラ帝国に牙を向いているのだ。
ゼードル族よ。永き支配から脱却すべし。アーランドラ帝国を支配すべし! と意気込んでいる。
いつカセイ国が帝都へと攻めてきてもおかしくなかった。
ティタラは舌打ちをすると頭をガシガシ乱暴に掻いた。
全てが上手くいかなくてティタラは腹が立つ。
父アロハンドに冷遇され、悲しい幼少期を過ごした。
だが、そんな逆境にも負けず、あの心の弱い軟弱者の姉に代わって皇帝になったのに何一つ上手くいかない。
ティタラの計画ならば、今頃カルバーラ地方の諸侯を従えてモンタアナの豊穣な地を呑み込み、カセイ国と事を構えている筈であった。
なのに、実際彼女の計画通りに進んだのは、大公を勝手に名乗った不敬者サルジュを殺した事だけだ。
「無能! 無能! 無能! どいつもこいつも無能ばかり! 少しは私の計画通りに動け!」
怒り任せにぐしゃぐしゃと地図を引き裂いて、彼女はベッドに突っ伏した。
ふうふうと興奮で息が上がる。
ティタラは聡明とはいえ所詮は十や十一程度の子供。
皇帝としての重圧とその強い権力に自分を見失いつつあった彼女は、その心を狂わせないように激しい怒りに身を任せねばならなかったのだ。
いや、激烈なる憤怒に身を任せる時点で、既に狂いつつあるのかも知れぬが。
その頃、ゼードル地方カセイ国では、報告通り昼夜を問わずに軍備が整えられていた。
カセイ国は春先にカルシオスの領土であったオーゼリードを攻めていたが、そのオーゼリードを攻めたのは、帝都へ向かう拠点として重要な位置であったからだ。
今、アーランドラ帝国内における最大勢力ともいえるカセイ国が帝都に攻め込めば、帝都の戦力など鎧袖一触に打ち破られる。
カセイ国はこの機を逃さずに攻め込む算段であった。
もちろんこの事態は帝都の人々も知る事となり、震えたものだ。
実を言うと、カセイ国が帝都へ攻め込むという噂は、カセイ国自身が流したものである。
結果、大臣達は狼狽え、人民は次々と帝都を逃げ出したと記録にもあった。
もうどうしようも無いように思えた。
このままカセイ国に攻め込まれるだろう。
かつてアーランドラ帝国がカセイ国を支配したように、今度はカセイ帝国になってアーランドラが支配されるのだ。
いや、それならまだマシなものだ。
皇帝ティタラが処刑され、アーランドラの民族全てが粛清されるかも知れない。
民族的な禍根を持つ戦争とはそういった危険があった。
大臣達は日々、会議を開いたし、夜中に部屋へ集まっては口々に話し合いをしたものだ。
「だがね、我々帝国はカセイ国の王族を生かしてやったじゃないか。帝国の一地方として封建な自治も認めたじゃないか。降参しても悪い待遇はされないさ」
「いやいや待ちたまえ。カセイ国やゼードル地方の奴ばらにはカセイ国の王を臣下にさせられた事を『侮辱』だと受け取っている者も少なくないようだぞ。降参しようものなら奴隷の身分にされるやも知れん。ここは帝都を捨てて隠れる方が良いだろう」
帝都の大臣達は日夜、降参か逃亡かを話し合った。
「では逃げるにしても何処へ逃げるか?」
「ルルム地方が良かろう」
ルルム地方とは帝都南方にある地方で、元々はゼードル地方のようにアーランドラ帝国と敵対していた異民族が治めていた土地だ。
今からずっと昔、アーランドラの重臣であったラズベルト家は異民族と宥和政策を採って彼らと和解。
この功績によってラズベルト家はルルム公に任命されてルルム地方の大半を治める事となった。
現在、ルルム地方は地方豪族――かつての異民族で長だった一族達――の権力が強かったが、しかし、その地方豪族が唯一従う存在がルルム公オットーリオ・ラズベルトであった。
ルルム地方では今、二つの勢力に別れて争っていた。
公爵オットーリオを中心とした地方豪族の勢力。
それと、帝国から独立した地方領主達の連合軍だ。
ルルム地方はアーランドラ帝国の他の地方に比べて、オットーリオと地方豪族を中心とした比較的安定な情勢の地域である。
「ラズベルト家は古来よりアーランドラ帝国の忠臣! そしてオットーリオ公はカルシオスとオルモードの反乱の際に帝都へ参上した忠義の男。皇帝陛下が身を寄せるのに適した地は他にあるまい!」
家臣らはルルム地方への逃亡を画策し、ティタラへとそのように提言した。
当初ティタラは皇帝の自分が逃げるのはおかしいと怒ったが、何名もの家臣団からの説得を受けてその提言を渋々と受け入れる。
すぐに使者はルルム地方はオットーリオの治める公都パルへと送られた。
このやり取りは遡って二月末の話だ。
それから三月半ばになっても返信の使者は帰って来ず、帝都の家臣団は慌てた。
急いで二度、三度と使者を送ったが、やはり返信は来ない。
四月頃の今になっても返信は来なくて、なぜオットーリオは黙(だんま)りを決め込むのか。カセイ国はもうすぐにでも攻めて来るぞと騒ぎになる。
帝都の貴族で男爵マリーノという男は一族を引き連れて夜逃げも同然に居なくなった。それほどに帝都は絶望的空気が蔓延していた。
もういつカセイ国が攻めてくるのか分からず、猶予も無く......。
そんな時、ハルアーダがカルバーラ地方の前線から帰還した。
貴族や民衆は皇帝騎士ハルアーダの帰還に湧いた。
なぜなら、かつては不可思議な術を用いて難攻不落な戦いを仕掛けたトルノットをただ一人で打破したハルアーダは人々の記憶に強く刻まれているからだ。
今回も、この困難を乗り越えさせてくれるのではないかと人々は期待した。
ただでさえ荒廃して疲弊している民族は帝都の通りを進むハルアーダに「助けて下さい」とすがりついたものだ。
ハルアーダはそんな彼らへ静かに手を振って応えると城に向かった。
ハルアーダに付き従って来たバルリエットは旅装から礼装へと着替える事を勧めたが、ハルアーダは静かに首を左右に振る。
「すぐにでも陛下と謁見せねばならん」
礼服にも着替えずに泥と埃ままれの旅装のまま城へと向かい、ただちに皇帝への謁見を申し立てた。
ティタラは幾らか予定があったが、皇帝騎士であるハルアーダが前線からの帰りにも関わらずわざわざ謁見の申し立てを行って来たので、予定を変更して謁見する事とした。
ティタラは露骨に不愉快な顔で玉座に座る。
皇帝騎士として皇帝の護衛であるハルアーダは謁見などせずともティタラと話などできた。
それなのにわざわざ謁見という形式を取って多忙な業務に水を差してきたのが腹立たしい。
「ハルアーダ。ようやくカルバーラの逆賊どもは鎮圧できたのかしら」
玉座に肘を置いて気だるそうな顔でハルアーダを睥睨した。
膝をついているハルアーダが俯かせていた顔を静かに上げ、「カルバーラ諸侯との戦いは終わりました」と言ったのだ。
少しだけティタラは機嫌を良くした様子で笑う。
彼女に従わぬ愚か者が滅びた。
ようやく計画通り事が少しだけ上手く行ったのだから上機嫌にならない訳が無かった。
しかしである。
ハルアーダがその後、静かに口を開くとティタラはわなわなと唇を怒りに震わせる事となったのだ。
ハルアーダがティタラに伝えたのは、カルバーラ諸侯の誰一人として滅亡していないという事だ。
そして、カルバーラ諸侯が残っているのに前線からハルアーダが帝都に戻って来れたのは、諸侯と休戦して帰って来たと言ったからだ。
勝手に休戦した事をティタラは烈火の如く怒る。
目をハッタと見開き、ガバと玉座から跳ね立つとハルアーダを壇上から見下ろした。
勝手な真似をしてどういうつもりかとティタラが怒鳴ると、ハルアーダは静かな声音で西方への備えをするためだと答えた。
西方域の動きはカーンを通じてハルアーダも事細かに知っている。
ゆえに、ハルアーダはカルバーラ諸侯やモンタアナよりも西方のカセイ国へ備える事が大事だと、諸侯軍と和睦すると最低限の守りとしてサスパランドのデーノを置いて帰って来たのだ。
ティタラは怒り、玉座の隣に置かれた杯を掴むとハルアーダへ投げつけた。
杯はハルアーダの近くに落ちて真っ赤なワインが彼の服にしぶく。
ティタラの両隣に立つ近衛の騎士はこのような事態に戦々恐々としていた。
最近のティタラは寝不足と過労から感情的である。
一過性の怒りからハルアーダを殺せと命じかねない。
あるいは、ハルアーダが逆上してティタラを斬るような事態になったらどうしようかと思う。
近衛騎士は皇帝に仕えているし、ハルアーダの事ら同じ騎士として尊敬していた。
どちらに転んでも彼らにとっては望まぬ展開なので、心底穏便に事が運んで欲しいと願う。
そんな彼らの願いが通じたのかは定かではないが、ティタラは溜息を吐いて大人しく玉座へと座った。
疲れた様子で玉座へと深くもたれて、虚ろな目を空中に投げかける。
玉座の間の、荘厳な作りが虚しいものに思えた。
もはや虚飾と化した権力。
実の伴わぬ肩書きだけの皇帝。
まるで自分が意思のない操り人形のように思えたし、周囲の全てが彼女の権力を利用して利益を貪る人形師だと知っていた。
武官は彼女を旗印に団結しているだけだし、文官は彼女を利用して私腹を肥やしている。
つまり、別にティタラじゃなくても、玉座に座る相応の理由があれば誰でも良かったのだとティタラは知っていたのだ。
彼女とて馬鹿では無いのだからハルアーダの選択が正しい事くらいよく分かっている。
だが、彼女がそれでもなおモンタアナを攻めたかったのはミルランスのせいだ。
ティタラは自分が玉座に座れる理由をよく知っていた。
そして、それはミルランスでも良いのだと知っている。
彼女は彼女自身のアイデンティティが皇帝である事だと知っている。
ずっと姉ミルランスに何かあった時の予備として扱われて誰もティタラを見てくれなかった。
だが、ようやく得た皇帝という地位。
その位置を脅かすミルランスに恐怖していた。
もしも......もしも臣下達がミルランスを取り立てて自分を排斥しようとしたら?
そう思うだけで不安だったのだ。
ティタラはまだ幼くて自分の感情を抑えきれないが、一方では聡明な子で、物事の善し悪しは分かる。
理性と感情の狭間でティタラはずっと揺れ続けていた。
苦しい。
今すぐ泣きわめき、年相応に感情を爆発させればどんなに楽だろう?
だがそのようなみっともない真似は皇帝として出来ない。
自分を冷遇した父より有能な皇帝であらねばならぬ。
姉よりも素晴らしい皇帝だと人々に思わせねばならぬ。
ティタラは玉座の肘付きに爪を立てて感情を押し殺すことにした。
「分かった。ではエルグスティアと共にハルアーダ、お前を西伐将軍に任命し、此度のカセイ国との戦いにおける全権を委任する」
そう命じたティタラは玉座から降りて、誰からも有無を言わせずにそそくさと玉座の間から逃げて行くのであった。
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