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7章・子の成長

腐乱

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 カイエン達がサーニア行方不明の報告を受けた頃、サーニアは異様な臭気で目を覚ましていた。

 眼前には、腐り、変色して青みがかった木の板がある。

 いや、これは木の板では無く屋根のようだ。
 小柄なサーニアが立てるか立てないかくらいの天井の低さである。

「ここ、どこ?」

 先程まで意識を失っていたか、自分がどこにいるのかサーニアは分からない。

 壁や床板は天井のように青みがかった変色を起こしており、床などいつ抜けるか分からない程に柔らかくなっている事は分かった。
 また、建物はかなり小さく、サーニアの寝ているベッドから入り口まで五歩程。
 他に部屋は無いようだ。

 また、部屋の隅には生ゴミが乱雑に積まれて、ハエやら蛆やらが湧いている。
 ブブブと羽音がうるさく、サーニアの眼前を何匹か行き交うので目障り。
 
 その生ゴミの近くには、皿に入れられた黄土色のドロドロした物体。
 微かに見える固形物はジャガイモのように見える。
 ジャガイモをマッシュして煮詰めたのであろうか?

 その皿のジャガイモにもハエがたかっていて、とても食べられそうな物体には思えなかった。

 サーニアはギシギシと嫌に軋むベッドから降りる。
 体に掛かっていた茶色い毛布がスルリと落ちると、その毛布の色は、皮脂汚れで茶色く変色したのだと分かった。
 この毛布もまた、異様な悪臭を放っており、不潔なのか南京虫がうぞうぞと這い出てくるのが見える。

 サーニアは包帯の下で心底不愉快な表情を浮かべ、服を払ってみる。
 やはりポロポロと南京虫が落ちてきた。

 こんな不愉快な所には一刻だって居たくない。
 サーニアはこの狭い場所から出ることにした。

 扉のドアノブを回すと、妙な違和感がある。
 奇妙な思いでサーニアが扉を押すと、そのまま扉は前へと傾いて倒れてしまった。

 どうやら、この扉は建物に立て掛けられていただけで、固定されていなかったようだ。

 バタンと音を建てて倒れた扉。
 サーニアは建物から出て、ひとまず扉を元に立て掛けておく。

 扉を立て掛けている間も、あの異様な臭気は鼻をついた。
 この臭いは、建物の中が臭っている訳ではないようで、外でさえ鼻がねじ曲がりそうな悪臭である。

 扉を立て掛け終わって周囲を見ると、その悪臭の原因がすぐに分かった。
 
 ここは下水道に面した橋桁の下なのだ。
 王都の汚水が流れ込む下水道が剥き出しになっていて、三つの橋が架かった所である。

 ここはその橋の下。
 左右に汚水が流れる三つの橋桁に、腐った木材や染みだらけの木材で作られた粗末は小屋が大量にある。

「あ。目を覚ました?」

 声を掛けられ、その方を見ると、初冬の寒さにも関わらず穴だらけの服を着た男の子と女の子が居た。
 どちらも七、八歳くらい……ザインとラジートとそう変わらなそうだ。

 男の子の方は泥だらけの顔を笑わせて「死んでたわけじゃ無かったんだ」と言っている。
 女の子はそんな男の子の後ろに隠れて、サーニアを怖がった様子で見ていた。

 貧民だ。
 いや、王都南西は貧民区にて、先の反乱によって住む場所もなけなしの財産も取り尽くされ、生活の立て直しも出来ずにより貧しくなった人達である。

 貧民の下の下、最下層民とでも言った所であろうか。
 
「川から流れてきてびっくりしたぜ。おじちゃん、俺達が居なかったら溺れてたな」

 ニシシと笑う男の子。
 サーニアはおじちゃんと言われて軽くショックを受けた。

 まだおじちゃんと言われる年齢どころか、そもそも女なのにおじちゃんと言われるのは辛いものがあろう。

 しかし、子供の言うことなのでムキにはならなかった。
 以前のサーニアならば、ムッとした態度を隠しもしなかった所であるが、大人になったものだ。

 とはいえ、サーニアはどうやらこの子に助けられたようである。
 イマイチ記憶が飛んでいるが、よく臭いを嗅ぐと衣服からも汚臭がするので、下水を流れてきたのは間違いが無いようだ。

「何があったんだっけ」

 ――サーニアの思い出せる記憶は、昨夜、喧騒甚だしい酒場を歩いていた記憶だ。

 満員御礼の店内は、荒くれた男や貧相な服装の男でごった返し、椅子をガタガタと揺らして大笑したり、机の上に立って大声を挙げている者達までいる。

 彼らのその教養の無い態度を、サーニアは不愉快そうに一人一人見渡していた。

 そんなサーニアの服装はいつも通り、厚手の衣服を重ね着して、顔を包帯でグルグルに巻いて隠している。
 なのでサーニアを男と勘違いしたか、服を淫らに着こなした売り女が近付いてきた。

 酒場にはしばしばこういう女がいる。
 酒に酔った相手は羽振りが良いので、そんな人を狙って酒場に現れるのだ。
 中には身を売る目的ではなく、酔っ払いの懐から金をくすねるのが目的の危険な女も居るが。

「私、口が堅いわよ。あなたの顔を見ても誰にも言わない。だから、今からどう?」

 胸を腕に押し付けて、酒場の吹き抜けにある宿部屋をクイッと顎で指す。

 サーニアはしばらく考えると、その女の背に腕を回して吹き抜けの二階へと上がった。

 部屋に入ると、皮脂汚れの酷い臭いと、染みが酷いベッド。
 腐りかけの床板がサーニア達を出迎える。

「ほら、服脱いで。さっさとヤルでしょ」

 女はせっかちにそう言う。
 一刻も早く行為に及ぶことで、やっぱり止めたと心変わりされないようにするつもりであろう。

 が、サーニアは彼女の服の襟をムンズと掴み、服を脱げないようにした。

 戸惑う女へ顔を近付けると「ガゼンの事は知っているか」と聞く。

「ガゼン? この酒場によく居た人よね。この間晒し首になってたけど」
「あいつと出会っていた貴族を知っているか」

「そんな凄まないでよお兄さん」と、売り女は愛想笑いを浮かべた。

 すると、サーニアは乱暴に女の肩を前後へ振り、話を逸らさないように言う。

「私はただの売女(ばいた)よ。貴族様の事なんて知るわけが無いわ」

 そう言った女はモゾモゾと服の袖を動かした。

 サーニアはその動きを見逃さず、手首をガシリと掴む。
 すると、チャリチャリと鉄の音を鳴らして、手の内で使う針が落ちてきた。

 人の指ほどもある針で、いわゆる暗器と言われる暗殺道具である。

「自白したな」

 貴族に通じてると、この行動が何よりも雄弁に語っていた。

 女は舌打ち一つ、上衣を脱ぎ捨てる。
 サーニアは衣服の上から手首を掴んでいたため、衣服ごと容易に離してしまった。

 女はそのまま窓を突き破り、夜の街へと逃げていく。
 
 この身のこなし。
 やはりただの売り女では無い。

 サーニアも窓から外へと飛び降り、女の後を追従する。

 家路へついて道行く人々が、サーニア達を何事かと見ていた。
 サーニアとしては目立つ真似をしたくない。
 さっさと捕まえて尋問しようと思う。

「助けてぇ! 襲われる!」

 女はさも、暴行されたかのような演技を始めた。

 これに人々は驚き、そして、サーニアを捕まえようとしだしたのである。

 まったくもって面倒くさい事態だ。
 何の関係も無い一般市民には関わって欲しくないとサーニアは思っているというのに。

 仕方ないので、口元の包帯だけをグイッと下げて顔を出すと「私も女よ!」と地声の、女特有の甲高い声で叫んだ。

 周囲の人達も、男が女を襲っているならともかく、女と女が争っているならば割って入らなかった。

 ざまあみろ。
 サーニアはニヤリと笑って、悔しそうな顔で振り向いている女を見る。

 女は道を変えて、路地裏へと走っていった。
 人が多い通りを、売り女のひらひらした服で走るのは不利だ。
 群衆を利用できない以上、人が少ない方が逃げやすい。

 もっとも、サーニアよりも足が速ければの話である。

 路地裏は狭く、人通りも無い。
 ここにあるものは、飲み水を入れておくための樽や、家庭から出た生ゴミを入れておくための桶だ。
 
 彼女は路地裏を逃げ回りながら、その空樽や生ゴミ桶を倒していった。
 サーニアは舌打ち一つ、それらを軽やかな跳躍でかわす。

 一々、障害物を避けながら追うのも面倒臭い。
 サーニアは指を口でくわえると、ピーと指笛を吹いた。
 
 すると、路地の影からボロを着た人々が現れて女の行く手を遮る。

 彼らは魔物だ。
 ボロで身を隠し、街の影に隠れてサーニアを支援している魔物を、サーニアは呼んだのである。

 いきなり道を阻まれた売り女が足を止めたので、サーニアは「獲った!」と女の襟へ手を伸ばした。

 その瞬間、何かがサーニアの首筋へ飛んでくる。
 反射的に懐刀を抜いて飛来物を防ぐと、鉄の弾かれる音が裏路地に響いた。

 カランと軽い音を立てて石畳に落ちたそれは、奇妙な『武器』である。

 丸い円盤状で中は空洞になっていた。
 最近王都で流行りのお菓子……ドーナッツに似ているとサーニアは思う。

 いわゆるチャクラムと言う投擲武器だ。
 しかし、それがチャクラムと知らないサーニアが、なぜ武器と分かったかというと、外周部が全て刃で覆われていたからである。

 ナイフを投擲(とうてき)する技術はあれど、このような奇妙な物体を投げるなんてサーニアは知らない。
 だが、刃が付いているならば武器に相違ないだろう。

「今のうちに逃げよ」

 サーニアがその不思議な武器を見ている隙に、女とサーニアの間に全身黒ずくめの人が、いつの間にか立っていた。

 大きめのナイフを逆手に持って、構えている。

 女の行く手を阻んでいた魔物は既に倒されているようだ。

 一体何者だろうか。

 サーニアは彼を見たことは……ある。
 彼は暗黒の民だ。

 だが、なぜ暗黒の民か女の味方をして、サーニアの行く手を阻むのか。

 とても女を追えない状況なので、女に逃げられてしまったが、サーニアはそんな事を気にせずに警戒を解かなかった。

 敵は前方の一人……それと、左右の屋根の上に二人。
 背後に二人。

「気配で包囲を見破ったか」

 前方の男は左手の人差し指で、件(くだん)のドーナッツ状の投げ輪をクルクルと回しだした。
 アレを回しながら投げるのだとサーニアはすぐに察する。

「待て。お前達はマルダーク国に雇われたはずだろう。私は敵じゃ無い」

 サーニアはそう言って彼らを制した。

 無駄な争いはしたくない。
 そもそも自分が彼らに狙われる理由も分からないのだ。

 前方の男は、ふんと鼻を鳴らし、人を襲ったという事は魔王の血が目覚め始めた証拠だと言うのである。

「魔王? 何を言っている。何か勘違いしているじゃ無いのか」

 何を言っているのか、サーニアはトンと分からなかった。
 だが、男は問答無用とばかりに指の輪を投げたのである。

 闇夜を飛んでくる円月の刃。
 月明かりで僅かに煌めく。

 サーニアはそれを横っ跳びに交わした。

 ルーガとの訓練で、彼の電光の打ち下ろしを受けてきた経験が役立った。
 
 しかし、暗黒の民は、サーニアのその訓練成果を別の要因だと捉えたようで、「相手は魔王だ。ならばこのくらい避けるのは容易いと思え。怯むな、かかれ」と、闇夜からナイフを構えて四方より襲ってきたのである。

 サーニアは腰の剣を抜き、その攻撃を何とか凌ぎながら逃げ惑った。
 幾らかの攻撃は軽く当たったが、厚手の服を重ね着していたおかげで、肉体を斬られる事が無かったのは救いだろう。

 しかし、いつ斬り殺されてもおかしくない。
 相手は五人も居るし、しかも暗黒の民の戦法は不可思議なもので、飛んだり跳ねたり、壁を蹴ってきたり、空中からも襲い来る三次元の戦いなのだ。

 このような戦い方を相手にしたことが無いサーニアは、無理な回避で体勢を崩してしまった。
  
「貰った」と首筋への突き刺しが来たのであるが、サーニアの天性の勘はその一撃を何とか剣で逸らした。
 その時、サーニアの腰に、ドンと手すりがぶつかったのである。

 剥き出しの下水に落ちないように作られた手すりだ。
 体勢を崩していたサーニアは、攻撃を逸らした勢いで、下水の中に落ちてしまったのである――

 そうして、この下水道にある最下層民の所へと流れ着いたのか。

 確かに少年達が居なければ、サーニアは溺れ死んでいただろう。

「ありがとう。礼をしたいのだが、君達の親は?」

 礼をしたいと思った。
 父カイエンのように、大人な対応で子供にも礼を尽くしたいと思うのである。

 しかし、彼らはムッとした顔でサーニアを見たのだ。

 なぜ怒ったような態度をとるのか、まさかの態度にサーニアは面食らってしまった。

「お父さんもお母さんも居ない」

 サーニアは驚いた。
 サーニアにとって両親とは居て当然である。

 まさか、そのような子がいるなんてサーニアは思いもしなかったのだ。

 なんで居ないのかとサーニアが聞くと、先の反乱で両親ともに反乱軍に殺されたのだと言う。

 それを聞いたとき、サーニアは黙ってしまった。
 親が死ぬ。
 カイエンとリーリルが死ぬなんてこと、サーニアは考えたことが無かったのだ。

「じゃあ、君達はどうやって暮らしてるのだ」

 問えば、少年は「俺が妹を守ってやってる。ゴミを漁ってさ」と、後ろの少女の頭をポンと撫でる。

 サーニアは独り暮らしをして、生きることの大変さを理解したつもりだ。
 少なくとも、汚れた服は借り部屋の隅に溜まってばかりだし、食事も買い食いで済ましてばかりである。

 自分でさえ一人で生きるのに苦労しているのに、この小さな彼は小さな妹の世話まで見ているのだ。

 親が死んだにも関わらず……!

 自分だったら、カイエンとリーリルが死ねば、ザインとラジートの事なんて忘れ果てて、慟哭(どうこく)に暮れる事であろう。
 この少年が、今、笑って居られる事ですら、サーニアは信じられない事である。

 泣けば妹を恐がらせて、苦しませるから、気丈に振る舞っているのだ。
 なんと健気で良い子であろうか。

 サーニアは彼とその妹を助けたいと思う。
 だから、懐から財布を取り出すと「ありがとう。これは礼だ」と、そのまま少年に手渡すのであった。
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