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4章・大鷲は嵐に乗って大空へ
克服
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雪降る王都をサニヤは歩いていた。
反乱軍の多くは王都が広くて寝食に適す場所が多いため、降雪を王都で過ごすことにしたのである。
ルーガ軍もその一つであった。
その王都は、戦乱と略奪のあったためにかつての優雅さを失い、色を失った廃墟のようになっている。
家々は、窓がどこかしこも破られて、件の寝食に適する場所として兵達に占領されていたし、追い出された人達は着る物も奪われてしまい、ボロだけ着て、寒風を防げる場所を探して歩いていた。
サニヤには、六歳の時の数日間の付き合い程度の街であったが、あの時の群衆と熱気はよく覚えていた。
それが今ではただ広いだけの虚空に過ぎず、何とも言えずに物悲しくなる。
いや、それだけでは無く、この王都ではサニヤに吐き気がするような事もあった。
それはある日、路地から怒鳴る兵の声が聞こえてきた日だ。
サニヤが覗くと、そこでは一人の老婆が三人の兵達に囲まれていた。
どうやら兵達が、彼女の持っている乾し肉等の食べ物を寄越せと言っているようだ。
それに対して、老婆は鋭い眼で、あんたらは食事が十分与えられているだろう。おやつ感覚で人の食べ物を奪うんじゃ無い。これはお腹を空かせた子供達が食べるものなのだと、毅然とした態度で言うのである。
まったく老婆の言うとおりだ。
各軍はそれぞれの兵に充分な食事を与えていたのであるから、わざわざその哀れな老婆から食糧を取り立てる必要などないのである。
つまり、兵達が老婆から食糧を奪う理由はただ一つ、その方が優越感を得られるからだ。
それなのに、老婆が生意気な態度を取るので、その態度が兵達のちっぽけな自尊心を傷付けたのである。
なので、兵達はとんでもなく残酷な方法で老婆を殺してやろうと剣を抜いた。
それを見たサニヤは、やめろ弱虫。と兵達へ言いながら路地へ入ったのである。
サニヤは弱いものイジメが嫌いだ。
それは昔から変わらない。
いいや、ルーガとの稽古でより強くなった今では、かつてよりも弱いものイジメに対する怒りが大きくなっていた。
サニヤはその時、いつもの全身に包帯を巻いた姿であった。
鎧の一つでも着ていれば、反乱軍の一人と見て貰えただろうが、兵達はサニヤを浮浪者か何かだと思ったのだ。
邪魔をするなとか、何のようだとか、そのような事を言いながら剣を向けるので、サニヤも剣を抜く。
三対一で戦うつもりかと彼らはせせら笑いながらサニヤを斬りつけようとするのだが、ルーガやラーツェと手合わせしてきたサニヤに言わせれば「あくびが出る」遅さであった。
途端に三人の剣が宙を舞ったのも、当然の帰結であろう。
そして、目にも止まらぬ速さで剣を弾き飛ばされた兵達は恐れおののき、サニヤの名前を聞いた。「あんた、何者だよ」と。
なので、サニヤはルーガ軍の者だと答えた。
ルーガ軍のサニヤだと言おうとしたのだが、その言葉を言う前に、兵達はその実力からルーガ軍のガラナイに違いないと言うのである。
そうだ。きっとそうだ。
ルーガは恐ろしい武人と言う。さてはルーガの息子のガラナイに違いない。と言ったのである。
確かにガラナイは反乱軍の先鋒を務めるルーガ軍の、さらに先陣を切る役目を務めたため、ルーガの息子は父親に負けず劣らずの武人だと勇名を馳せていたのだ。
さすがに反乱軍一の武功を誇るルーガ軍の跡取りを相手に出来ないと見え、兵達は逃げ去ったのである。
逃げ去る兵達の背中を見ながら、サニヤは正直、助かったと思う。
実を言うと、サニヤは人を傷付けられないのだ。
人を傷付けようとすると、あの戦争の恐怖が湧き出てきて、体が震えるのである。
だから、彼らが逃げてくれなかったから、きっと為す術も無くやられていたかも知れない。
しかし、逃げてくれたのは逃げてくれたものだ。
サニヤは老婆の元へ行くと怪我は無いかを聞いた。
すると老婆は、あの睨むような目を不安そうにさせて、お礼として上げられる物は無い事と、食べ物も戦争で親を失った子供のものだから上げられないと言ったのである。
当然、見返りを求めて助けた訳でも無し、サニヤはそんなものは要らないと突っぱねたのだ。
すると、老婆は「まあ! こんな親切な人が居たなんて!」と大仰に驚いた後、「嫌だわ私としたことがこんなに驚いて」と胸をトントンと叩いて落ち着かせ、サニヤに感謝の言葉を述べるのだ。
サニヤが、雪が溶けたらすぐにでも近傍の村へ行くことを勧めると、老婆はそうさせて貰いますと言って歩いて行った。
そんな老婆の背を見ながら、サニヤは思う。
もしも自分が通りがからなかったらどうなっていたのだろうかと。
そして、このような行為は戦後には平然と行われていると知ったのはその後、ガラナイにこの事を愚痴してからである。
ガラナイに勝った軍兵による略奪の話を聞いたサニヤは本当に吐き気がした。
サニヤの見ていない所でこのような事がいつでもどこでも平然と行われていると言うのか。
信じられなかった。
だから、毎日街へ繰り出し、色んな所を見て回ったのである。
すると、確かにガラナイの言うとおりであった。
例えば街角の小さな小屋では、サニヤとそう年の変わらない女性が五、六名の兵に服を切り裂かれて居たのだ。
サニヤはそう言うものを見たとき、わざと理性で感情を抑えはせず、怒りを爆発させて兵達へ掴みかかったものである。
当然、兵達は突然の妨害者に腹を立てるのであるが、サニヤが剣を抜くと誰も勝てるわけも無く、誰も彼もが逃げ足したのだ。
今では、王都に駐留する反乱軍からサニヤは恐怖の対象である。
ルーガ軍には味方に噛みつく狂った輩が居るとして、狂犬などと言われていた。
もっとも、彼らからどう言われようがサニヤの知った事では無いのである。
そんなサニヤが安心出来たのは、何といってもガラナイと一緒に居た時だ。
街中を一通り歩き、気分が悪くなった彼女はガラナイへいつも会いに行った。
ガラナイは大体、街中の一際大きな屋敷の庭で剣を振るっている。
その屋敷は元々、マルダーク王家の側へ付いた貴族のもので、立派な広い庭があったのだ。
サニヤは勝手にその屋敷へ上がると、屋敷の中から素振りをしているガラナイを黙って見続けた。
あの何かとジッと出来ないサニヤは、なぜかガラナイを見るときだけは動くこと無く彼の一挙手一投足を飽きもせずに見ることが出来たのである。
その見学は、ガラナイがサニヤの視線でやりづらくて中断されるまで続いた。
木剣に寄りかかって「ジッと見るなって言ってるだろ」とガラナイは汗を拭いて笑う。
サニヤが「私と手合わせしたいんじゃ無いかと思ってさ」と茶化すと、ガラナイは肩を竦めて絶対に勝てないからやめておくと言うのである。
ガラナイが屋敷へ上がってくると、サニヤは桶に水を張ってガラナイの背中を拭くので、こんなサニヤの優しさに首を傾げて「随分と女の子らしくなったなぁ」と呟くものである。
ガラナイにとってのサニヤと言えば、蹴ってきたり殴ってきたり、針金を眼に刺そうとしてきたり……とはいえ、ガラナイの自業自得だが。
サニヤはイタズラっぽく笑って「昔から女の子らしかったでしょ」と言うのだ。
そんなサニヤの言葉にガラナイは笑って、そうだなと言う。
ガラナイのその態度が、やはり昔と違って大人っぽくて、サニヤは何だか心が温まるような感覚になるのだ。
この感情の正体をサニヤは相変わらず分からなかったが、それでも悪い気はしなかった。
このいつの間にか大きくなっているガラナイの背中を見ている分には、自分の感情を彼に悟られる訳でも無いので、サニヤはずっと背中を拭いていたかったくらいだ。
しかし、自分の気持ちが分からなかったのは、実はサニヤだけではなく、ガラナイも自分自身の気持ちが分からなかのである。
実を言うと、ガラナイはサニヤへ抱いていた好意を全く失っていた。
いや好意を失ったというのは誤謬のある表現だ。
ガラナイはサニヤを恋愛対象として見ることが出来ず、まるで妹か、はたまた古くからの友人かという感情しか出てこなかったのである。
四年前は、サニヤの芯の強い眼や、イタズラな八重歯、ひたむきにルーガと戦う姿勢へ、あんなにも惹かれたというのに、今は全く異性という意識が出てこないのだ。
むしろ、可愛げの無いキツい目線や、優しさを感じられない口元という、愛嬌が殆ど無い顔をなぜ好きだったのかとさえ思っていた。
サニヤの事はもちろん好きだが、恋愛対象としての好きとは全く違ったものと変わってしまっていたのである。
実のところ、ガラナイがサニヤに抱いていた恋心は、自身が関わる事の出来なかった父ルーガの稽古に付いていき、ルーガの期待を背負うサニヤに対する心的複合(コンプレックス)であった。
つまりは、父に認められたい、父に期待されたいというガラナイの気持ちを、実際に行っているサニヤへの羨望が恋心に成っていたのだ。
しかし、今のガラナイはルーガに認められている。
先陣を切り敵軍への突撃を指揮し、見事戦果を収めているガラナイは、ルーガからの信頼を得たと感じているのだ。
結果、サニヤへ抱いていたコンプレックスは消え、付随して恋心も無くなったのである。
しかし、ガラナイはそれを自覚していないので、なぜサニヤへ愛の言葉を囁くつもりになれないのか、自分自身で不思議だったのだ。
それがガラナイのサニヤへ対する態度である。
つまり、彼が以前のようにサニヤがおぞましく思うような愛の言葉を囁かないのは、別に大人になって落ち着いた訳では無く、サニヤへ愛の言葉を囁く気にならないだけなのである。
一方のサニヤはそのガラナイの態度にドキドキしてしまうのだから、全く不幸と言わざる得まい。
しかし、時として愛というものはそう言うものかも知れない。
男女が常に相思相愛というものはそうそうないものであろう。
だが、サニヤはいまだにガラナイから愛を向けられていると思っていたし、気持ちの整理がつけば、もっとガラナイの愛に応えてずっと一緒に居られるんだと思っていたのである。
サニヤは服を着替えているガラナイを見て、絶対に戦争で死なないでよと言った。
ガラナイはハハハと笑って、死んでも良いように生きてるから大丈夫だと言うのである。
戦争の時にはみっともなく取り乱すと言うのに、喉元過ぎれば熱さを忘れると言うものであろうか。
しかし、ガラナイが戦争において命を惜しまずに先陣を切るのはサニヤも分かっていた。
なので、雪解けまでには戦争の恐怖を克服して、ガラナイを助けてやるとサニヤは心の中で誓うのである。
かつて、ライの死を乗り越えたように。
まだ風は冷たいものの、いよいよ降雪時期も終わりに近付いている。
反乱軍の多くは王都が広くて寝食に適す場所が多いため、降雪を王都で過ごすことにしたのである。
ルーガ軍もその一つであった。
その王都は、戦乱と略奪のあったためにかつての優雅さを失い、色を失った廃墟のようになっている。
家々は、窓がどこかしこも破られて、件の寝食に適する場所として兵達に占領されていたし、追い出された人達は着る物も奪われてしまい、ボロだけ着て、寒風を防げる場所を探して歩いていた。
サニヤには、六歳の時の数日間の付き合い程度の街であったが、あの時の群衆と熱気はよく覚えていた。
それが今ではただ広いだけの虚空に過ぎず、何とも言えずに物悲しくなる。
いや、それだけでは無く、この王都ではサニヤに吐き気がするような事もあった。
それはある日、路地から怒鳴る兵の声が聞こえてきた日だ。
サニヤが覗くと、そこでは一人の老婆が三人の兵達に囲まれていた。
どうやら兵達が、彼女の持っている乾し肉等の食べ物を寄越せと言っているようだ。
それに対して、老婆は鋭い眼で、あんたらは食事が十分与えられているだろう。おやつ感覚で人の食べ物を奪うんじゃ無い。これはお腹を空かせた子供達が食べるものなのだと、毅然とした態度で言うのである。
まったく老婆の言うとおりだ。
各軍はそれぞれの兵に充分な食事を与えていたのであるから、わざわざその哀れな老婆から食糧を取り立てる必要などないのである。
つまり、兵達が老婆から食糧を奪う理由はただ一つ、その方が優越感を得られるからだ。
それなのに、老婆が生意気な態度を取るので、その態度が兵達のちっぽけな自尊心を傷付けたのである。
なので、兵達はとんでもなく残酷な方法で老婆を殺してやろうと剣を抜いた。
それを見たサニヤは、やめろ弱虫。と兵達へ言いながら路地へ入ったのである。
サニヤは弱いものイジメが嫌いだ。
それは昔から変わらない。
いいや、ルーガとの稽古でより強くなった今では、かつてよりも弱いものイジメに対する怒りが大きくなっていた。
サニヤはその時、いつもの全身に包帯を巻いた姿であった。
鎧の一つでも着ていれば、反乱軍の一人と見て貰えただろうが、兵達はサニヤを浮浪者か何かだと思ったのだ。
邪魔をするなとか、何のようだとか、そのような事を言いながら剣を向けるので、サニヤも剣を抜く。
三対一で戦うつもりかと彼らはせせら笑いながらサニヤを斬りつけようとするのだが、ルーガやラーツェと手合わせしてきたサニヤに言わせれば「あくびが出る」遅さであった。
途端に三人の剣が宙を舞ったのも、当然の帰結であろう。
そして、目にも止まらぬ速さで剣を弾き飛ばされた兵達は恐れおののき、サニヤの名前を聞いた。「あんた、何者だよ」と。
なので、サニヤはルーガ軍の者だと答えた。
ルーガ軍のサニヤだと言おうとしたのだが、その言葉を言う前に、兵達はその実力からルーガ軍のガラナイに違いないと言うのである。
そうだ。きっとそうだ。
ルーガは恐ろしい武人と言う。さてはルーガの息子のガラナイに違いない。と言ったのである。
確かにガラナイは反乱軍の先鋒を務めるルーガ軍の、さらに先陣を切る役目を務めたため、ルーガの息子は父親に負けず劣らずの武人だと勇名を馳せていたのだ。
さすがに反乱軍一の武功を誇るルーガ軍の跡取りを相手に出来ないと見え、兵達は逃げ去ったのである。
逃げ去る兵達の背中を見ながら、サニヤは正直、助かったと思う。
実を言うと、サニヤは人を傷付けられないのだ。
人を傷付けようとすると、あの戦争の恐怖が湧き出てきて、体が震えるのである。
だから、彼らが逃げてくれなかったから、きっと為す術も無くやられていたかも知れない。
しかし、逃げてくれたのは逃げてくれたものだ。
サニヤは老婆の元へ行くと怪我は無いかを聞いた。
すると老婆は、あの睨むような目を不安そうにさせて、お礼として上げられる物は無い事と、食べ物も戦争で親を失った子供のものだから上げられないと言ったのである。
当然、見返りを求めて助けた訳でも無し、サニヤはそんなものは要らないと突っぱねたのだ。
すると、老婆は「まあ! こんな親切な人が居たなんて!」と大仰に驚いた後、「嫌だわ私としたことがこんなに驚いて」と胸をトントンと叩いて落ち着かせ、サニヤに感謝の言葉を述べるのだ。
サニヤが、雪が溶けたらすぐにでも近傍の村へ行くことを勧めると、老婆はそうさせて貰いますと言って歩いて行った。
そんな老婆の背を見ながら、サニヤは思う。
もしも自分が通りがからなかったらどうなっていたのだろうかと。
そして、このような行為は戦後には平然と行われていると知ったのはその後、ガラナイにこの事を愚痴してからである。
ガラナイに勝った軍兵による略奪の話を聞いたサニヤは本当に吐き気がした。
サニヤの見ていない所でこのような事がいつでもどこでも平然と行われていると言うのか。
信じられなかった。
だから、毎日街へ繰り出し、色んな所を見て回ったのである。
すると、確かにガラナイの言うとおりであった。
例えば街角の小さな小屋では、サニヤとそう年の変わらない女性が五、六名の兵に服を切り裂かれて居たのだ。
サニヤはそう言うものを見たとき、わざと理性で感情を抑えはせず、怒りを爆発させて兵達へ掴みかかったものである。
当然、兵達は突然の妨害者に腹を立てるのであるが、サニヤが剣を抜くと誰も勝てるわけも無く、誰も彼もが逃げ足したのだ。
今では、王都に駐留する反乱軍からサニヤは恐怖の対象である。
ルーガ軍には味方に噛みつく狂った輩が居るとして、狂犬などと言われていた。
もっとも、彼らからどう言われようがサニヤの知った事では無いのである。
そんなサニヤが安心出来たのは、何といってもガラナイと一緒に居た時だ。
街中を一通り歩き、気分が悪くなった彼女はガラナイへいつも会いに行った。
ガラナイは大体、街中の一際大きな屋敷の庭で剣を振るっている。
その屋敷は元々、マルダーク王家の側へ付いた貴族のもので、立派な広い庭があったのだ。
サニヤは勝手にその屋敷へ上がると、屋敷の中から素振りをしているガラナイを黙って見続けた。
あの何かとジッと出来ないサニヤは、なぜかガラナイを見るときだけは動くこと無く彼の一挙手一投足を飽きもせずに見ることが出来たのである。
その見学は、ガラナイがサニヤの視線でやりづらくて中断されるまで続いた。
木剣に寄りかかって「ジッと見るなって言ってるだろ」とガラナイは汗を拭いて笑う。
サニヤが「私と手合わせしたいんじゃ無いかと思ってさ」と茶化すと、ガラナイは肩を竦めて絶対に勝てないからやめておくと言うのである。
ガラナイが屋敷へ上がってくると、サニヤは桶に水を張ってガラナイの背中を拭くので、こんなサニヤの優しさに首を傾げて「随分と女の子らしくなったなぁ」と呟くものである。
ガラナイにとってのサニヤと言えば、蹴ってきたり殴ってきたり、針金を眼に刺そうとしてきたり……とはいえ、ガラナイの自業自得だが。
サニヤはイタズラっぽく笑って「昔から女の子らしかったでしょ」と言うのだ。
そんなサニヤの言葉にガラナイは笑って、そうだなと言う。
ガラナイのその態度が、やはり昔と違って大人っぽくて、サニヤは何だか心が温まるような感覚になるのだ。
この感情の正体をサニヤは相変わらず分からなかったが、それでも悪い気はしなかった。
このいつの間にか大きくなっているガラナイの背中を見ている分には、自分の感情を彼に悟られる訳でも無いので、サニヤはずっと背中を拭いていたかったくらいだ。
しかし、自分の気持ちが分からなかったのは、実はサニヤだけではなく、ガラナイも自分自身の気持ちが分からなかのである。
実を言うと、ガラナイはサニヤへ抱いていた好意を全く失っていた。
いや好意を失ったというのは誤謬のある表現だ。
ガラナイはサニヤを恋愛対象として見ることが出来ず、まるで妹か、はたまた古くからの友人かという感情しか出てこなかったのである。
四年前は、サニヤの芯の強い眼や、イタズラな八重歯、ひたむきにルーガと戦う姿勢へ、あんなにも惹かれたというのに、今は全く異性という意識が出てこないのだ。
むしろ、可愛げの無いキツい目線や、優しさを感じられない口元という、愛嬌が殆ど無い顔をなぜ好きだったのかとさえ思っていた。
サニヤの事はもちろん好きだが、恋愛対象としての好きとは全く違ったものと変わってしまっていたのである。
実のところ、ガラナイがサニヤに抱いていた恋心は、自身が関わる事の出来なかった父ルーガの稽古に付いていき、ルーガの期待を背負うサニヤに対する心的複合(コンプレックス)であった。
つまりは、父に認められたい、父に期待されたいというガラナイの気持ちを、実際に行っているサニヤへの羨望が恋心に成っていたのだ。
しかし、今のガラナイはルーガに認められている。
先陣を切り敵軍への突撃を指揮し、見事戦果を収めているガラナイは、ルーガからの信頼を得たと感じているのだ。
結果、サニヤへ抱いていたコンプレックスは消え、付随して恋心も無くなったのである。
しかし、ガラナイはそれを自覚していないので、なぜサニヤへ愛の言葉を囁くつもりになれないのか、自分自身で不思議だったのだ。
それがガラナイのサニヤへ対する態度である。
つまり、彼が以前のようにサニヤがおぞましく思うような愛の言葉を囁かないのは、別に大人になって落ち着いた訳では無く、サニヤへ愛の言葉を囁く気にならないだけなのである。
一方のサニヤはそのガラナイの態度にドキドキしてしまうのだから、全く不幸と言わざる得まい。
しかし、時として愛というものはそう言うものかも知れない。
男女が常に相思相愛というものはそうそうないものであろう。
だが、サニヤはいまだにガラナイから愛を向けられていると思っていたし、気持ちの整理がつけば、もっとガラナイの愛に応えてずっと一緒に居られるんだと思っていたのである。
サニヤは服を着替えているガラナイを見て、絶対に戦争で死なないでよと言った。
ガラナイはハハハと笑って、死んでも良いように生きてるから大丈夫だと言うのである。
戦争の時にはみっともなく取り乱すと言うのに、喉元過ぎれば熱さを忘れると言うものであろうか。
しかし、ガラナイが戦争において命を惜しまずに先陣を切るのはサニヤも分かっていた。
なので、雪解けまでには戦争の恐怖を克服して、ガラナイを助けてやるとサニヤは心の中で誓うのである。
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