30 / 45
第三章【三夏を渡った先に】
トレーニング①
しおりを挟む
これはもう絶対に陰謀に違いない。
夏休み二日目、真詞は日柴喜の本家の中庭にいた。
約二ヶ月分の荷物を持ってここへ来たのが昨日の昼のことで、流石に初日は屋敷内の案内や、何人かの使用人との挨拶で終わった。
遊びに誘ってくれた山岸たちには家の都合で夏休みは会えないと伝えた。
「今日からお前らに神力のコントロールを教える。敬え」
そして今、コーチの――師匠と呼べと言われた――男は日柴喜努(ひしき つとむ)と名乗った。
白髪にも見える灰色の長い髪を一つに結んで肩から下ろした、四十代くらいだろうけど、年齢の分かり難い外見をした人だった。目が薄っすらと紫色をしているのが印象的で、濃紺の着流しを着ている。
真詞は礼儀としてお辞儀をして「よろしくお願いします」と答えた。
「お願いしますっ!」
隣からはもっと硬い声が聞こえてきている。さっき「お前ら」と言っていたから、これから一緒にトレーニングを行うのだろう。てっきり一人ですると思っていたので師匠の意識が分散するのは悪くない。
ただ、問題はその声の主である。
「なんでいるんですか……」
「俺もこうなるとは思ってなかったよ」
真詞同様にトレーニングウェアを着た岬が隣に立っていた。しっかりと一人で立つ彼を見るのは初めてかもしれない。身長は巡や真詞と変わらないけど、寝込んでいた間に落ちた筋肉の分、体は随分細かった。
日柴喜の大人は謝礼がどうとか言っていたけど、実は恨まれているのではないかとすら思えてきた。
この世で一番見たくない顔なのに、なんでこんなに日を置かずに会わなければいけないのか。
「予想くらい付くでしょう……? 自分の家なんだから」
「ほんとね、基礎体力だけならまだ分かるんだけどね」
「岬さん?」
「俺じゃ、分かることは少ないよ。残念ながらね」
岬の言葉には後ろ向きの感情がこもっていた。
同情しそうになって、さっさと思考を切り替える。真詞には関係のない話だ。
「――で? もういいか?」
努が「ふぅ」と大きく息を吐きだす。いつの間にかタバコを吸っていた。
「あ、すみま」
「失礼しましたっ!」
この人、こんなに大きな声出せたのかと思うほどハキハキとしていて驚く。
「うるせぇ! 岬、ここは軍隊じゃねぇんだ。やる気だけあっても結果は出ねぇ。分かってるだろ」
「ぅ……はい。すみません」
「分かりゃいい。よし、じゃあまずは外周十周いこうか」
「はい!」
「え、は、え?」
真詞が慌てている間に、岬はすでに走り出していた。
「早く行け!」
「は、はいっ!」
と、走り出したのはいいものの、この家の外周って何メートルあるんだ? と走っても、走っても中々スタート地点の門戸が見えないことに恐怖を覚えた。
岬は早く出たわりには余り前へは進んでいなかった。遠くに背中が見える。
つい一ヶ月ほど前までほぼ寝たきりのようなものだったことを考えれば、走ることができるようになっているのがすごいことだろう。
やっと一周が終わり、二周目、三周目、四週目で岬に並んだ。彼は横っ腹を押さえて苦しそうだ。ぜぇぜぇと荒い呼吸も聞こえる。
多少は心配になったものの、自分でなんとかするだろうと振り切るように一気に追い抜いた。
どんどんと差ができて、真詞が走り終わる頃には一周近くの距離が開いていた。
どのくらい走ったのかは分からないけど、二キロから三キロは走らされた気がする。
いくら複数の会社経営者の総本山だからって、大きすぎやしないだろうか。
顎から滴る汗を右手の甲で拭いながら、努の元へ戻る。
「遅い! たかが十周に何十分かけてんだ。ったく。水分補給したら次だ。さっさとしろ」
「あの、岬、さんは……?」
「待つわけないだろ。遅れたやつの分お前は休憩するのか? 違うだろ。分かったらそいつとそこで体を解せ」
努が顎で指し示したのは、用意されたマットといかにも体を鍛えていますといった感じの体格をした男性だった。
「日柴喜東(ひしき あずま)と申します! 初めまして真詞さん!早速始めましょう! まずはうつ伏せになって! アップドッグから!」
息も整い切れてなかったけど、急いで靴を脱いで寝転がる。名前を言われてもどんな体の動きから分からないので、東のやり方を見よう見まねで追いかける。
「両手を胸の横に置いて、上体を押し上げスライド。そう! 呼吸は止めませんよ! 太ももは浮かせて! そう! イイ感じです! そのまま呼吸しましょう! はい、吸ってー! 吐いてー!」
言われるままに体を支えて呼吸を繰り返す。
「では次はヨガの猫の」
「おい! 医療チームを呼べ!」
突然、東の溌剌とした声すら飲み込む怒号が中庭中に響き渡った。
何事かと振り返ると、努が門戸の方へ早足で向かっている。
「あのバカが! 初日から飛ばし過ぎだ!」
恐らく岬の具合が悪くなったのだろう。白衣を着た人や看護師らしい人が慌ただしく走って行くのが遠くに見える。
体勢を崩して騒がしくなってきていた方を向いてしまっていると、東が続きを促してきた。
「真詞さん! 続きをしますよ! ヨガの猫のポーズから再開です!」
「えっ」
「恐らく岬坊ちゃんが体調を崩されただけです。病み上がりですからね。仕方ない。大丈夫ですよ。さぁ、続きです!」
なんでもないことのように言う。
勢いに押されて真詞は「はい……」と小さく返事をする以外に何も言えなかった。
何かを言いたかったのかと聞かれれば、特に何も浮かばない。
ただ、言いようのない気持ち悪さが胸を渦巻いていた。
夏休み二日目、真詞は日柴喜の本家の中庭にいた。
約二ヶ月分の荷物を持ってここへ来たのが昨日の昼のことで、流石に初日は屋敷内の案内や、何人かの使用人との挨拶で終わった。
遊びに誘ってくれた山岸たちには家の都合で夏休みは会えないと伝えた。
「今日からお前らに神力のコントロールを教える。敬え」
そして今、コーチの――師匠と呼べと言われた――男は日柴喜努(ひしき つとむ)と名乗った。
白髪にも見える灰色の長い髪を一つに結んで肩から下ろした、四十代くらいだろうけど、年齢の分かり難い外見をした人だった。目が薄っすらと紫色をしているのが印象的で、濃紺の着流しを着ている。
真詞は礼儀としてお辞儀をして「よろしくお願いします」と答えた。
「お願いしますっ!」
隣からはもっと硬い声が聞こえてきている。さっき「お前ら」と言っていたから、これから一緒にトレーニングを行うのだろう。てっきり一人ですると思っていたので師匠の意識が分散するのは悪くない。
ただ、問題はその声の主である。
「なんでいるんですか……」
「俺もこうなるとは思ってなかったよ」
真詞同様にトレーニングウェアを着た岬が隣に立っていた。しっかりと一人で立つ彼を見るのは初めてかもしれない。身長は巡や真詞と変わらないけど、寝込んでいた間に落ちた筋肉の分、体は随分細かった。
日柴喜の大人は謝礼がどうとか言っていたけど、実は恨まれているのではないかとすら思えてきた。
この世で一番見たくない顔なのに、なんでこんなに日を置かずに会わなければいけないのか。
「予想くらい付くでしょう……? 自分の家なんだから」
「ほんとね、基礎体力だけならまだ分かるんだけどね」
「岬さん?」
「俺じゃ、分かることは少ないよ。残念ながらね」
岬の言葉には後ろ向きの感情がこもっていた。
同情しそうになって、さっさと思考を切り替える。真詞には関係のない話だ。
「――で? もういいか?」
努が「ふぅ」と大きく息を吐きだす。いつの間にかタバコを吸っていた。
「あ、すみま」
「失礼しましたっ!」
この人、こんなに大きな声出せたのかと思うほどハキハキとしていて驚く。
「うるせぇ! 岬、ここは軍隊じゃねぇんだ。やる気だけあっても結果は出ねぇ。分かってるだろ」
「ぅ……はい。すみません」
「分かりゃいい。よし、じゃあまずは外周十周いこうか」
「はい!」
「え、は、え?」
真詞が慌てている間に、岬はすでに走り出していた。
「早く行け!」
「は、はいっ!」
と、走り出したのはいいものの、この家の外周って何メートルあるんだ? と走っても、走っても中々スタート地点の門戸が見えないことに恐怖を覚えた。
岬は早く出たわりには余り前へは進んでいなかった。遠くに背中が見える。
つい一ヶ月ほど前までほぼ寝たきりのようなものだったことを考えれば、走ることができるようになっているのがすごいことだろう。
やっと一周が終わり、二周目、三周目、四週目で岬に並んだ。彼は横っ腹を押さえて苦しそうだ。ぜぇぜぇと荒い呼吸も聞こえる。
多少は心配になったものの、自分でなんとかするだろうと振り切るように一気に追い抜いた。
どんどんと差ができて、真詞が走り終わる頃には一周近くの距離が開いていた。
どのくらい走ったのかは分からないけど、二キロから三キロは走らされた気がする。
いくら複数の会社経営者の総本山だからって、大きすぎやしないだろうか。
顎から滴る汗を右手の甲で拭いながら、努の元へ戻る。
「遅い! たかが十周に何十分かけてんだ。ったく。水分補給したら次だ。さっさとしろ」
「あの、岬、さんは……?」
「待つわけないだろ。遅れたやつの分お前は休憩するのか? 違うだろ。分かったらそいつとそこで体を解せ」
努が顎で指し示したのは、用意されたマットといかにも体を鍛えていますといった感じの体格をした男性だった。
「日柴喜東(ひしき あずま)と申します! 初めまして真詞さん!早速始めましょう! まずはうつ伏せになって! アップドッグから!」
息も整い切れてなかったけど、急いで靴を脱いで寝転がる。名前を言われてもどんな体の動きから分からないので、東のやり方を見よう見まねで追いかける。
「両手を胸の横に置いて、上体を押し上げスライド。そう! 呼吸は止めませんよ! 太ももは浮かせて! そう! イイ感じです! そのまま呼吸しましょう! はい、吸ってー! 吐いてー!」
言われるままに体を支えて呼吸を繰り返す。
「では次はヨガの猫の」
「おい! 医療チームを呼べ!」
突然、東の溌剌とした声すら飲み込む怒号が中庭中に響き渡った。
何事かと振り返ると、努が門戸の方へ早足で向かっている。
「あのバカが! 初日から飛ばし過ぎだ!」
恐らく岬の具合が悪くなったのだろう。白衣を着た人や看護師らしい人が慌ただしく走って行くのが遠くに見える。
体勢を崩して騒がしくなってきていた方を向いてしまっていると、東が続きを促してきた。
「真詞さん! 続きをしますよ! ヨガの猫のポーズから再開です!」
「えっ」
「恐らく岬坊ちゃんが体調を崩されただけです。病み上がりですからね。仕方ない。大丈夫ですよ。さぁ、続きです!」
なんでもないことのように言う。
勢いに押されて真詞は「はい……」と小さく返事をする以外に何も言えなかった。
何かを言いたかったのかと聞かれれば、特に何も浮かばない。
ただ、言いようのない気持ち悪さが胸を渦巻いていた。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
【完結】嘘はBLの始まり
紫紺
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。
突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった!
衝撃のBLドラマと現実が同時進行!
俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡
※番外編を追加しました!(1/3)
4話追加しますのでよろしくお願いします。
モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)
夏目碧央
BL
兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。
ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(10/21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
親衛隊は、推しから『選ばれる』までは推しに自分の気持ちを伝えてはいけないルール
雨宮里玖
BL
エリート高校の親衛隊プラスα×平凡無自覚総受け
《あらすじ》
4月。平凡な吉良は、楯山に告白している川上の姿を偶然目撃してしまった。遠目だが二人はイイ感じに見えて告白は成功したようだった。
そのことで、吉良は二年間ずっと学生寮の同室者だった楯山に自分が特別な感情を抱いていたのではないかと思い——。
平凡無自覚な受けの総愛され全寮制学園ライフの物語。
【完結】運命さんこんにちは、さようなら
ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。
とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。
==========
完結しました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる