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「あれ? 如月先輩?」

 その声が旭葵の全身をこわばらせた。それは今までこの家から聞こえてきたことのない声だった。

 子猫の鳴き声。ゆっくりと旭葵は振り返る。

 廊下の奥から顔を出したその声の持ち主、一生を追いかけ続け、ついに雨降りの一生のジャケットの中を手に入れた激カワちゃんだった。

 その激カワちゃんの背後にゆらりと一生が立った。

「じゃ」

 玄関を開けた旭葵の腕を一生のお母さんさんに掴まれる。

「ねぇ、上がっていって」

「如月先輩!」

 激カワちゃんが玄関に走り出てきた。子猫なのに主人を出迎える子犬みたいだな、と思い、そんなことを考える余裕が今の自分にあるのが旭葵は不思議だった。

「如月先輩、この前はありがとうございました! あれからずっとお礼をしなきゃって思ってたんですけど」

 激カワちゃんは苺のプリント柄のエプロンをつけ、濡れた手には布巾を持っていた。前言撤回。これは主人を出迎える子犬じゃなくて、主人の友人を迎える新妻だ。

 一生のお母さんは雨の日の話を激カワちゃんから聞くと、有無を言わさずに旭葵の退路を絶った。2人の女性に片方づつ腕を取られ、旭葵は家の奥へと引きづり込まれた。

 一生とは目を合わせなかった。一生もまた無理に旭葵と言葉を交わそうとはしてこなかった。

「今日、お母さんと一緒にケーキを焼いたんですよ。夕飯の後に食べましょ」

 ダイニングテーブルの上には手作りの苺のショートケーキが乗っていて、部屋全体に甘い香りが漂っていた。香りに質量があるかのように、旭葵にはその場の空気が重く感じた。吸い込むとそれは肺の中で不快に旭葵を刺激する。

 一生が入院していたのは数日だったが、激カワちゃんはその数日間、一生の病室に入り浸り、そこですっかり一生のお母さんと打ち解けたらしかった。

 激カワちゃんのキッチンでの立ち回りを見るところ、一生の家に来たのは今日が初めてではなさそうだった。この短期間で2人の仲がこんなにも親密になっていたことに、旭葵の胸はざらついた。

 一生のジャケットの中に入れてもらった激カワちゃんは、今、いったい一生のどれくらい内側まで入り込むことを許されているのだろうか。

 もしかしてすでに旭葵の知らない一生を激カワちゃんは知っていたりするのだろうか。家に来たからには当然一生の部屋にも入ったことだろう。激カワちゃんは一生のベッドに腰掛けたりしたのだろうか。

 止まらない想像に旭葵は奥歯を噛み締めた。

   

 夕食は旭葵が初めて見る赤い色をした鍋だった。

「この前のデートで食べた時すっごく美味しくて、お店の人にレシピ聞いちゃったんです。ね、先輩」

 激カワちゃんが作ったというそれは、なんとトマト鍋だった。

 トマトに鍋、いや、トマトが鍋。

 舌がお婆さんの手料理に慣らされている旭葵には衝撃的だった。旭葵の家ではトマトにはマヨネーズどころか、砂糖がついてくる。

 が、トマトと鍋の組み合わせ以上に驚いたのが、一生の徹底したレディファーストぶりだった。

 激カワちゃんの器に鍋の具材をよそい、グラスが空になったら次に何が飲みたいかを尋ねる。

 公開恋人宣言をしたとはいえ、旭葵は心のどこかで2人は激カワちゃんの片思いの延長線上にいるのだと思っていた。本当は旭葵がそう思いたかっただけなのかも知れないが。

 思えば一生とは長い付き合いだが、今まで一生に彼女がいたことがなかったから、恋人といる一生を旭葵が見たことがなかった。

 一生が激カワちゃんから大事にされているとばかり思っていたけど一生も激カワちゃんを大事にしているんだ。この前の雨の日もそうだったじゃないか。

 一生は優しい。昔から、誰にでも。

 ああ、でも、相手が女の子だとこんなにも違うものなんだ。これが本来一生のあるべき姿なのだ。これが本当、これが本物なんだ。

 神様は男と女で1つになるように人間を作った。だから一生から旭葵の記憶を消してしまった。そして一生に正しい相手を与えた。完全な形になるように。

 じゃあ自分は? 一生との記憶を残したままの自分は不完全なまま、どこへいくことも、何になることもできずに、宙に浮いたまま、ただ苦しいだけ。

 苦しい、そう、さっきからずっと苦しい。

 糸のように細い隙間から呼吸しているような息苦しさがギリギリと旭葵の胸を締め付ける。

 トマト鍋には旭葵の苦手なパクチーが入っていた。

「う~ん、美味しい! トマトとパクチーって合う~」

 激カワちゃんはアイドルが食レポするように全身でおいしさを表現した。

「鈴はパクチーが好きだよな」

 そう言って一生は鍋にパクチーを追加で散らした。

 旭葵は鍋から具材をすくう時、そっとパクチーをよけようとしたがその甲斐虚しく、豆腐にパクチーが絡みついてきてしまった。

 今やトマト鍋なのかパクチー鍋なのか分からなくなってしまったような鍋から、パクチーだけを器用に無視して他の具材を取り出すのは不可能だった。

 お婆さんは旭葵の好き嫌いを許さない。皿からどけようものなら、逆に倍の量を皿に入れられる。家でもそうなのだから、外ではもっと厳しかった。よそ様の家に招かれた食卓で嫌いな物を残すなどもっての他だった。

 一生だけだった、旭葵が食事の時に我が儘を言えたのは。

 
 
 パクチーを口に入れるとカメムシの味がした。

 激カワちゃんが何か言って、一生と一生のお母さんが笑ったが、旭葵には3人の会話が聞こえてこなかった。まるで無声映画を見ているようだった。

 3人ともカメムシ味の鍋を囲んで幸せそうにしている。自分だけ違う星の人間になってしまったように感じだ。

 激カワちゃんは笑いながら一生に体を傾けた。その激カワちゃんの頭を一生がポンポンと撫でる。

 鈍い音を立てて胸が軋んだ。1歩後ずさると視界から色が消え、モノトーンになった3人は旭葵からもっと遠くなった。

 息苦しさが増す。細く開いていた糸の隙間さえもが閉じようとしていた。

 今、旭葵の目の前にいる一生は一生であって一生でない。旭葵の代わりにパクチーを食べてくれた一生はもういない。 

 一生はもう、激カワちゃんのものなんだ。

 気づくと椅子から立ち上がっていた。

「ちょっとトイレ」

 旭葵は逃げた。これ以上は窒息してしまいそうだった。

 個室の扉を閉めるとずるずるとその場にしゃがみ込んだ。目を閉じ、扉に頭を押し付ける。

「しっかりしろ、旭葵」

 叱咤する自分の声はカラカラになった喉で空回りするだけだった。自分の輪郭を保っているものがほつれていくような感覚に襲われ、得体の知れない不安が忍び寄ってくる。

 誰か助けて。

 自分が自分から離れていく恐怖に旭葵は声にならない叫び声を上げた。

 一生。

 旭葵の記憶の中の一生が旭葵に笑いかける。

 一生、助けて。

 失われていた聴覚に戻ってきたのは、扉の向こうから聞こえる一生の笑い声だった。

 その笑い声は旭葵にではなく激カワちゃんに向けられたものだった。

 旭葵の一生はもういない。

「俺の一生に会いたいよ……」

 
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