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八木山家
しおりを挟む「そんな…あんなに楽しみにしてたのに……」
鳴子での全貌を聞いた後、真っ先に声を出したのは欅であった。夕闇の森の中に響いた声は、より一層寂しさを増した。前日の買い物にまでつきそっていたのだから、その空しさはひとしおだろう。
「そんな急に? 友達との卒業旅行もさせられない程に切羽詰まってるの?」
全く予想外の事態で、何も考えられないほでなす共を尻目に、後ろで控えていた父が口を挟んできた。
「まずは事情を話してもらおうか」
「…」
正直言って聞かれたくない話なので、小生らは誰も迂闊に返事をしなかった。助けてもらったことは有難いのだが、だからこそこれ以上家に迷惑を掛けたくなかった。
しかし、これ以上隠し通して事を進ませることは難しいのが事実である。
「富沢にも大見得を切ったんだ。もうお前達の都合だけじゃ事は運ばないぞ」
父が無情にもそう告げた。
それでも煮え切らない小生たちを見るに見かねた、父が切り出す。
「お前が富沢にちょっかいを出す理由なんて、少し考えれば簡単だ。風梨の里佳様が結納されるのと関係があるんだろう」
「…ああ」
ズバリ言い当てられた図星に、いよいよ腹を括った。小生は父と向き合う。すぐ後ろに見えた母や弟妹たちの顔を見るのが何となく辛い。
「で、何が気に食わないんだ?」
「全部、気に食わねえ」
「時代錯誤と言われればその通りだが、目出度い事だというものその通りだ」
歯を食いしばり、拳を固く握った。海潮の事はどうしても伏せておきたかった。だが後ろの猫があっけなく暴露してしまった。
「オイラ達で、どうにかしてやりたい人間がいるんですよぉ」
「人間?」
「おい、青鹿」
「こうなった以上、義理だけでも通さにゃいかんだろう。その人間は萩太郎の命の恩人って奴でしてねぇ」
いつのまにか人に化けた猫が小生を追い越し、父に歩み寄った。
その肩を掴むと、静かに力強く言った。
「やめろ…俺が自分で話す」
青鹿の言う事は全部尤も話だ。これ以上つまらない意地の為に甘えたくはなかった。
「…分かった」
ポンっと小生の背中を叩いた青鹿は、大人しく欅の横に立った。
小生は、生まれてから最も深く自分の呼吸を意識した。
「ここを飛び出してって一月もしないうちに、車に撥ねられて死に逸れかいたんだ」
「あなた、大丈夫なの?」
かつては疎ましさしか感じなかった母の心配する声がとても嬉しく思えた。
「今はピンピンしてるよ。金もねえくせに病院まで連れてってもらった。それ以来、仲良くなってな。ついペラペラ喋って、今じゃ俺の正体も狐狸貂猫の事も全部知っている」
「それで、その人間がどうした?」
父の顔色は変わらない。癖かどうかは知らないが、この張り合いの無さが昔から大の苦手だった。
「何の因果か、そいつは姫と同じ学校の同じ倶楽部に入ってた。話を聞くうちに、どうやらそいつは姫にベタ惚れ、姫もまんざらじゃねえって事が分かった」
「そういう事か」
一を聞いて十を知るように、父は全てを理解した。そしてどう思うだろうか。
「どういう事ですか?」
今の話で分かったのは父だけの様で、掻い摘んでその場にいる全員に説明し出す。
「神に嫁ぐと言えば聞こえはいいが、悪く言えば人身御供って事さ。里佳様を渡す代わりに、風梨家に富と繁栄を約束するって寸法でな。反故にする手立ては幾つかあるが、一番手っ取り早いのは嫁ぐ女が婚約したら無効になるって掟を使う事だろう。何分、七夕前の急な話で他の三家も戸惑ってた」
「だから俺と青鹿、欅と雁ノ丞の四匹で何とか二人をくっ付けてやろうと画策してた」
「だが、富沢と風梨家の方が一枚上手だったと」
「…ああ。その通りだよ」
ぐうの音も出ないとはこの事だ。小生は声を出そうとしたが、欅が代弁してくれた。
「ねえ、青鹿。これからの手は考えてあるの?」
「はっきり言ってお手上げだよぉ。婚礼は八月七日、七夕の時に執り行うと、雁ノ丞のメモに書いてあった。もう七夕に来るまでは、顔も見れないだろうね。風梨に突撃して姫を攫ってくる、くらいの馬鹿しか思い付かん」
「なら俺だけでも」
「それが出来なかったから、八木山家に動いてもらったんでしょ」
「くそっ」
止めようと思った時にはもう遅かった。悔し涙が目尻から溢れ出してしまった。自分の感情をコントロール出来ないのを恐ろしく思った。
小生の弱気な姿など見たこともない妹たちが、どうすればいいのか分からず戸惑っている。
「…兄ちゃん」
「恩人の為に尽くせるだけ尽くしたんだ。義理は十分果たせんじゃないのか?」
父は飽くまで告げる必要のある事だけを告げてくる。
「どこがだよ。もうアイツはこの事を知ってるんだよ。これじゃあ海潮を絶望させただけじゃねえか」
「人間に恨まれたところで、化獣には痛くも痒くもないだろう」
「そうじゃねえ。人間だとか、助けられたからとかじゃないんだよ」
「それなら、何なんだ」
それが何なのか分かればここまで苦しみはしないと思った。
自分以外の誰かの事でこれほどまで悩まなければならないこの感覚を、小生は何と呼べばいいのだろうか。例え恩情がなかったとしても、小生は海潮の為に動くであろう。
あいつは、小生を助けてくれた。
その事実だけで助ける理由は事足りる。
あいつは何者なのだろうか。
「……友達だ」
必至に絞り出したのは、思わず自分の語彙力を恥じるほど幼稚な答えであった。
「あいつは俺の友達だ。良い奴なんだよ。そりゃどうなるかは分からないけど、少なくともこのまま終わっちまうのだけは、俺が嫌だ」
「…どうするつもり?」
「分からない。どうすればいいんだよ」
小生は初めて親の前で本音を吐露した。
「俺だけじゃ何にもできねえ」
夏夜の風が、夕暮れの森をすり抜ける音だけが聞こえる。
「そうか」
静寂を破るのは、堂々たる父の声だった。今度の声には冷たさは欠片もない。
「なら、俺たちで何とかしよう」
その発言に、その場の全員が緊張した。
「まさか、カチコミなんて事は」
「そんな事はしないさ」
「どうするんだよ」
ニコリと笑う父は、一匹だけ異世界を歩いているように掴みどころが分からない。誰しもが何を言い出すのかに耳を欹てた。
父は小生に歩み寄り、ゆっくりと語り出す。
「親の贔屓目と言うかもしれないが、お前は凄い奴だと思ってるんだよ。俺達、貂は一匹だけじゃ化けることすらままならん。それをお前は一匹で熟しちまう。なまじ何でもできるからな、お前は頼り方も甘え方も知らんのだ。それを教えるのが親の役目だったんだが、ついに教えてはやれなかったな。すまん」
「親父?」
何を言い出しているのかがサッパリ分からない。小生だけが付いて行けていないのかと周りの顔を見たが、やはり全員が分かっていないようだった。
「いつか痛い目を見るんじゃないかと思っていたが、それでも天は見放さなかったな」
「え?」
「お前がその人間を助けたいと思って、その為に動いてくれる奴らが少なくも三匹はいてくれたんだろう。有難い話だ。ここまでしてもらって、俺たちが何もしない訳にはいかん」
父は毅然として言い放つ。
「その方を七夕に連れて行こう」
何気ない一言だが仙台の狐狸貂猫にしてみれば、それはとてつもない禁忌を犯す事を高らかに宣言している。
「待てよ。人間を連れて行くのはご法度だろう」
「そうだな、ご法度だ」
ここまでくると、自分と意思の疎通が出来ていないのかと、この飄々とした態度が腹立たしく思えてくる。
「そんな事をしたら…」
「まあ、次回のお役目はひょっとすれば流れちまうかもしれんが、それがどうした。恩人に報えない事に比べれば大したことじゃない」
「海潮は俺の恩人だ。八木山家とは関係ないんだ、他のみんなを巻き込めない」
いい加減、声に怒気が交ざる。しかし。
「そんな事は無いさ」
父は力強く、小生の言葉を否定した。
狼狽える小生を他所に、父は公然と続ける。肩に掛かる手が暖かく、そして、とてつもなく頼りがいのあるものに感じる。
「何でも一匹で出来ると粋がって出て行った放蕩息子、延いてはウチの跡取りに、所詮一匹だけじゃ何もできないんだと諭してくださったんだ」
何一つ褒められてはいない。それなのに小生は妙に嬉しくなった。
父は振り向き、控えていた八木山家一同に言い放つ。
「夏月海潮殿は、八木山家の恩人だ」
貂の族長が何を言いたいのか。これが分からなければ、貂族が仲間意識が強いなどとは言われない。皆一様に頷いた。
「七夕は明日だ。それまでに海潮殿に事情を話して支度をしてもらえるか聞いてこい」
父に次いで母の顔を見た。それから兄弟親族を見渡してから、最後にここまで付き合ってくれた狐と猫の顔を見た。そして、自分の記憶や自意識がどれだけ信用できないのかを思い知った。
疎外感も孤独感も幻だ。
一匹だけで思う儘に化けてきた小生は、いつしか自分に化かされていたのだ。
なるほど、脈々と受け継がれる指南書に書いてあることを蔑ろにしてはいけないと、小生は先祖の英知に感服したのだった。
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