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答え合わせ

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 買い物のせいで一杯のコーヒーを飲む余裕すらなくなった私は早々にお店を出ていった。

 先程にも増して当てなく街を彷徨っている。それでも時間はやって来た。

 私はぼちぼちと紅葉先生の待つ稽古場へと向かって行った。

 例によって和室を取っている訳だけれど、襖を開ける時は妙に緊張する。普段は襖を開ける機会なんてほぼほぼないし、ノックができないから開けて良い状態なのかどうかの判断がつけにくい。

 結局、先に声を飛ばし恐る恐る開けるしかできなかった。

「し、失礼しま~す」

 中には当然、紅葉先生が待っていた。三回通って三回とも寸分の違いなく同じ場所に机と座布団を置き、そして品よく読書をしている。

 最初と異なるのは私の顔を見た瞬間にはにかんでしまうところか。

 その顔面でその笑顔は反則じゃい!

「こんにちは」
「はい、こんにちは。お待ちしていました。では外しますので着替えが済んだら声を掛けてください」

 そう言うと川を流れる水のような滑らかさで部屋を出て行った。変人だと知った上で接するとキチンと常識的な面を見せられた時に妙な感覚に陥ってしまう。けど机に置いていかれた本に目を向けて『同性愛の文化史』というタイトルを確認すると、ああやっぱりなと一風変わった安心感もあった。

 それからは互いに告白の事には触れず淡々と日本舞踊の稽古に勤しんだ。二人してソワソワとした不思議な感情を共有しながら、舞踊の世界にのめり込んでいく。浮つきながら集中するというような不思議な感覚だ。

 まあ偉そうな事を言ってるけど、実際は紅葉先生の後ろ姿を見ていないと着いてはいけないのだけれど。それでも指先や足の裏にまで神経が張って自分の事を俯瞰で見れている。そりゃ上手い人に言わせればまだまだだろうけど、少なくとも今の私に取っては会心の一舞になっていた。

「…素晴らしいです」
「え?」

 ラジカセの曲が終わるや否や紅葉先生が少し興奮気味に呟く。

「チラッと横目で拝見しただけでもお綺麗でした。指の形も腰の入れ方も。まだ三週間しかやっていないとは思えません。ご自宅でもかなり練習されたのでしょう」
「まあ、ちょっとは」
「大変結構です。休憩がてらスマホで録画したものを見てみましょうか」

 紅葉先生は机の上のスタンドに立て掛けていたスマホに手を伸ばした。ウキウキと最新の映画でも見るように今の舞踊のムービーを見る。自分でも思ったけれど確かに見れる程度の格好にはなっている気がした。

 それからは映像を踏まえて簡単なダメ出しとおさらいとで終わってしまった。これまでと同じように一時間半くらいの稽古だったのに十分程度の長さに思える。体内時計が狂ってしまったのだろうか。

 そして着替えと後片付けをして、退室するだけとなった時。パズルのピースを嵌めるようにパチっと私の覚悟が決まった。

 さっき買ったアンティーク商品の入ったレジ袋を持つ手にギュッと力を込めて、私は声を出す。

「師匠」
「はい?」
「この間のお話の後、色々考えて見ました。私の気持ちを聞いてもらっていいですか?」
「…勿論です」

 その時の師匠の緊張が私の肌にも伝わってきた。

 師匠はあくまでも平静を保って畳の上に正座をする。私もそれに倣って座り、姿勢を正した。

 何はさておきまず始めに茶色い紙袋に入ったプレゼントを渡した。まさか贈り物があるとは思っていなかったであろう師匠はキョトンとした顔を見せる。

「開けても?」
「どうぞ」
「これは…鯉の根付でしょうか?」
「はい。私が行きつけのアンティークショップで偶然見つけて。似合うんじゃないかなと思って」

 師匠はすくっと立ち上がって角帯にその根付を挿し込んだ。そもそもの立ち姿が様になっているところ、腰元の根付から渋さが滲み出ていて全体のまとまりが一つあがったような気になる。要するによく似合っているということだ。

 その感想を素直に伝える。

「どうでしょう?」
「よく似合っていると思います」
「それは良かった。素敵な物をありがとうございます」
「いえ」

 再び座り直った師匠は凛とした眼差しをこちらに向けてくる。思わず気圧されそうになったけど、どうにか持ち堪えた。

「ところでこの鯉の根付というのは、何かの意味があるのですか?」
「え? 意味ですか?」
「てっきり鯉と恋でも掛けて、何かを伝えたいのかと」

 言われて慌てて否定した。

 自分の発想にまるで無かったけれど、言われて見れば急にプレゼントなんて渡したら何かしらの意図があると思われても仕方がないかもしれない。特に師匠はそういう感じの事には聡い感じがするし。

 そしてアタフタと醜態を晒しながらも私は自分の気持ちを告げる。

「師匠」
「はい」
「…ごめんなさい。師匠の気持ちに応えてお付き合いをするのはできません」
「…」

 一間が生まれた。

 謝るついでに頭を下げたせいで師匠の顔を見れないのが何だか逃げているみたいで申し訳ない気持ちになる。

 やがて「ふぅっ」と師匠の深呼吸が聞こえた。

「ありがとうございます」
「え?」

 何故にお礼?

 と、私は疑問満点な表情で顔を上げる。すると優しく微笑む師匠の顔が目に入った。

「あんな唐突な告白に真摯に向き合ってくれて、本当にありがとうございます」
「いえ…」
「何と言うか、その…生まれて初めての愛の告白だったもので。叶わなかった時の対応というか、心の置所がわかりませんね」
「す、すみません」
「いえ三宅さんが謝る事ではありません。私の問題ですから」

 そして私と師匠は愛想笑いを浮かべつつ言葉を探す。私としても断るまでは想定してたけど、その後どうするのかまでは考えていなかった。

 何とも言えない空気が満ち満ちていく。この静寂を破ってくれたのもやはり師匠どった。

「後先を考えぬ交際の申し込みだったので考えておりませんでしたが、」
「はい」
「これから先のお稽古はどうしましょう。三宅さんとしても私に手習いするのは抵抗があるかと思いますし」
「そ、そうですよね。師匠も振られた相手に毎回教えるのは嫌でしょうし」
「いえ、そんな事は」

 と、お互いに責任の所在を自分で負うようないたちごっこが始まる。

 埒が開かないので私は素直な心情を吐露した。

「少なくとも!」
「はい」
「少なくとも、今習っている曲が合格するまでは面倒を見てください。でないと深雪さんに色々とツッコまれて、この事を隠しきれる自信がないので」
「た、確かに。私も自信がありませんね」
「ですよね。だから一区切りつくまでは」

 我ながら中々に残酷な提案をしてしまったと後々後悔した。けれどこの時ばかりはそれ以外に考えが及ばなかったのだ。

 私達は揃って部屋を出た。それから百貨店を出るまでの間は無言のまま二人でエスカレータを降りていく。やがて商店街へ入ったところで師匠がピタリと足を止めた。

「それではここで」
「はい」
「素敵な贈り物をありがとうございます。先程言った通り、区切りがつくまでは少なくとも私が稽古をつけます。少々気まずいとは思いますがよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
「では失礼します」

 深々と頭を下げた師匠は最後に微笑みを見せつつ、くるりと踵を返した。

 どういう訳か私はしばらく動けず、その背中を見送っている。

 誰かを振るというのはこういう気持ちになるんだと、自分の心の中の虚を見つめる。もっと劇的な何かを想像していたせいで拍子抜けを食らった感覚もあれば、取り返しのつかない事をしてしまったような焦燥感もある。

 思えばそれもそのはずで、私は生まれて初めて他人の恋を終わらせてしまったのだ。

 誰かと交際をしたことはないけれど私だって人並みに学校の男子に一目惚れをしたり、生活の中で少し気になる男子ができたりする経験はあるし、そんな新芽みたいな恋が終わる苦さだって知っているつもりだ。

 けど師匠の失恋に比べれば、正しく子供騙しみたいな失恋だろう。そのほろ苦さに私は面食らってしまっているのだと思う。

 やがて師匠が角を曲がり、姿が見えなくなったところで私はようやく動くことを許された気分になる。稽古と師匠に自分の気持ちを伝える時に掻いた冷や汗でべとついた体の熱を冷ましながら、私は帰路へとついた。
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