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第一章 巳坂

棗と環

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 それから玄関のすぐ隣にあった、客間に通された。

 先ほどまでいた部屋とは違い、幾分小さく簡素な造りの部屋だった。部屋の明かりは相変わらずの陰気さがあるが、慣れると意外にそうでもない。自分でも時たま忘れがちなのだが、僕は妖怪なのだ。

「暖かいのと冷たいのならどちらがいいかな」

「冷たい物を貰えますか」

 よく冷えた麦湯を貰った。

 緊張していて気が付かなかったが、大分喉が渇いていたので、一気に飲み干しておかわりを貰った。

「環くんは外様さんなのかな」

「えと、外様というのは?」

 確か円さんにも聞かれた覚えがある。

「ああ、ごめん。外様っていうのは天獄屋の言葉で、此の世からこっちへ新しく入ってきた者って意味なんだ」

「生まれは天獄屋です。けど家の都合で長い事この世にいたもので」

「そういうことか」

 棗さんは茶請けのまんじゅうを一口齧った。たったそれだけの動作なのだが、妙に爽やかさがある。

「実は僕も外様でね。生まれは此の世なんだ」

「へえ。そういう妖怪もいるんですね」

「まあね、けど少数派なのは確かだよ。尤も近頃は此の世も大分住みにくいと見えて、どんどんこっちに流れてくる妖怪が多いけど」

「それはそうでしょうね」

 此の世のいたからこそよく分かる。

 僕のような化生しているタイプの妖怪でも、今の人の世は暮らしにくいのだ。まだここに来て一日しかたっていないが、それでも居心地の良さは実感している。

 しかし、それだけ放浪者が多いというはやはり問題だろう。

 妖怪の世界といえども律は存在するし、無法は野放しにされるものではない。

 僕のように身の振り方が定まっている者など、数えられる程度しかいないはずだ。

 ならばそれだけ治安も乱れることだろう。坂鐘家はそう言った輩を取り締まる家のはずだから、気苦労も多そうだ。

「此の世での暮らしが長いと驚くことが多いとは思うけど、そのうちそれが楽しくなってくるよ」

 それは身を持って体感している事だった。

 僕は、ふと浮かんだ疑問を投げかける。

「円さんと深角様と鈴様は、幼馴染なんですか?」

「僕も又聞きしたことしか知らないけど、そうみたいだね。何でも元々同じ塾に通っていたとかで。巳坂にいる深角様と同じ世代はそこで同じ先生に手習いしていたと聞いたよ」

「それは錬金術を習っていたという事ですか」

「その先生とやらが錬金術師だったとは聞いたかな。それ以外にも礼儀作法なり、普通の読み書きなりと色々教えていたらしい」

「へえ」

 話を聞く限りだと、巳坂だけでもそこそこの数の同輩がいるとみていいだろう。

「もう一つ聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「円さんは、どういった立場の人なんですか?」

「というと?」

「…幼馴染だという事を加味しても、深角さまと鈴さまが対等過ぎる扱いではないかと。まして天獄屋は妖怪の方が人よりも優位にあるはずですし」

 棗さんはくっくっと、堪えるような笑いを出した。

「本当に何なんだろうねあの人は。ここに厄介になり始めた時からお世話になってるんだけど、色々と驚かされたよ。あ、そうだ、先輩風を吹かす訳じゃないけど一つアドバイスしておくよ。天獄屋にいる人間はね、舐めてかかっちゃダメだ」

「どういう意味ですか?」

「言葉の通りさ。此の世にいる人と同じ風に考えていると足元をすくわれるかも知れない。環くんはさっき天獄屋は妖怪が優勢といったけど、その中にあって人間なのにまともに暮らしているんだ。此の世にいる人間とは一味も二味も違う人ばっかりだよ、ここはね」

「…気を付けます」

 さっきの円さんの言葉を思い出す。

 天獄屋においてそれでも人間として生活できる人は、どうにも侮れない様だ。

「それに環くんは円さんを見て面食らっているみたいだけど、あの人はかなりまともな部類に入るよ」

「え」

 思ったことが顔と声にそのまま出てしまう。

 あれがまともなら、まともじゃない人はどんな人間なんだ。

「正直だね」

 その様子を見て、棗さんは再び笑う。

「僕が言える立場じゃないけど、巳坂にいる以上、気を付けるべきは深角さまと鈴さまだ。特にうちの大将にはね」

 鈴様はともかくとして、あの鬼は嫌でも気を付けるし、できれば近寄りたくもない。しかし、親切な妖怪も坂鐘にいると知って安心ではある。

「分かりました」

「ま、何かあったら相談に乗るよ。同じ外様の誼でね」

 それからは互いに此の世のでの暮らしぶりのことを話して時間を潰した。

 なんでも棗さんは、こちらにやって来る際に他の妖怪と連れ立っていたそうで、その時の面子はまとめて坂鐘の世話になっているらしい。

「そう言えば猫又もいるんですか?」

「いや、いないよ。猫又は基本的には猫岳にしかいないからね。でもどうして?」

「僕が猫又なので」

「なるほどね」

 棗さんはお茶を一口すすると、少し強張った声でいう。

「けどね、環くん。同族が恋しくなる気持ちはわかるけど、あまり気軽に正体を明かさない方が良い」

「え? けれど棗さんは妖怪ですよね」

「うん。僕も妖怪だよ」

「なら問題ないのでは?」

 人間の前で妖怪の正体を聞いてはならないとは散々言われているが、妖怪同士なら問題ないはずだし、そもそも自分で正体をばらすなら尚更のはずだ。

「だからこそさ。此の世とは違って、天獄屋の中じゃ人間妖怪問わず諍いが起こりやすい。そうなったら正体がばれているっていうのはかなりの不利になりかねないんだ。誰がどこで見聞きしているかなんて分からないからね。尤も人間なのか妖怪なのかくらいは、分かってしまうけどね」

「…諍いですか」

「ああ。喧嘩程度のことからひどい時には殺し合いまでね…楽しいことも多いけれど、ここはもう天獄屋で妖怪の世界だって事を自覚しておくべきだ」

「…はい」

「うちの大将みたいに自分の正体を公にしているのもいるけど、逆に言えばあれは余程自分の腕っぷしに自信があるって証さ」

 腕っぷしか…。

 そう言えば、僕の実力は天獄屋ではどこまで通用するのだろう。

 身を守るという意味では、自分の実力はどれくらいのものなのか、早いうちに確かめておいた方が良いだろう。

 円さんもかなりの実力者だというのなら、その内に手合わせの一つでも申し込んでみたい。

 そんな事を考えながら、僕は懐にしまってある手拭いを着物の上から擦っていた。
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