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第一章 巳坂
和泉屋火酒店
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「ふうん。良かったわね、八雲。話し相手が増えて」
突然、別の女の声が聞こえた。
部屋の中には僕たち以外の姿はない。本棚の奥の物陰に気配を感じたので、僕はジッとそこに目をやる。
「ありゃま? 一言目に気付かれるなんてその子、勘もいいのね」
「景。いつからそこに?」
八雲さんは、別に何でもない様に本棚の裏に向かって声を掛ける。
「ついさっきよ。円が帰るらしいから、鈴様に言われてその子を呼びに来たの」
そう返事をしながら、本当に文字通り本棚の影からすうっと女が現れた。
頭にはハット、長袖のブラウスに黒絹の手袋、ロングスカートにハイヒールを履き、手には畳まれた日傘を持っている。
一言で言い表すのであれば、貴婦人という言葉が似合いそうな恰好である。
ただそれでも、この女が人間でなく妖怪であるという確証が持てる。
黒いのだ。
身を包む衣類は元より、髪も肌も顔も何もかもが真っ黒である。日に焼けているというような話ではなく、ただただ純粋に炭の如く黒い。
特に眼は墨をこぼした様である。しかし、それでも瞳孔や輪郭、整った目鼻立ちを持つ顔が区別できる。その面妖さが不気味であり、妖怪であることの証明なのかもしれない。
女は部屋の中にも関わらず、コツコツとヒールを鳴らしながら近づいてきた。
「こんにちは」
改めて耳に届く声は、風貌に似つかわしくないとても可愛らしい声だった。
「こんにちは。あと、初めまして」
「初めまして。私は巳縞御用みしまごよう預伝言あずかりでんごん役やくの景あきら。よろしく」
「は、はい。よろしくお願いします」
何やら良く分からない肩書に気押されて、正座し直してしまった。
「で、本題だけど、円が店に戻るらしいからいい加減に切り上げて、戻ってきてくれるかしら? 今日から円のところにお世話になるんでしょう?」
「分かりました」
「何なら、ここで寝泊まりしてもいい」
八雲さんがぼそりと呟いた。
「あんた、どんだけ気に入ったのよ、この子…」
八雲さんはしずしずと立ち上がり、玄関までの見送りを申し出た。正直、自分だけでは戻れる自信があまりなかったので、ほっとした。
ふと景さんを見ると、いつのまにか影も形もなく消え失せていた。
玄関へ着くと、上り框に腰をかけ、相も変わらずウヰスキーを飲んでる円さんの姿があった。心なしか、僕には気が沈んでいるように見えた。
「お、環。待たせて悪かったな」
「いえ、こちらこそ」
「改まって言う事じゃないが、巳坂の両当主から正式に言い付けられた。お前は今日からうちで研鑽を積ますことになったから、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
一先ず、一切のいざこざ無しに決まったようで安心した。僕としても出会ってまだ僅かではあるが、円さんの所に行けるのが説明しようのない安心感があった。
玄関を出ると、ここに来た時と同じように円さんに並んで歩く。
帰り際の際まで、八雲さんは円さんになるたけ僕を連れて部屋に遊びに来るよう念を押していた。
「お前、八雲の部屋で何してたんだ?」
「ゲゲゲの○太郎のDVDを見せられまして、つい意気投合を」
「お前、その手の話ができるのか?」
「此の世にいた時にその手のモノは大体見せられました。飼い主だった人が大のオカルト好きだったので」
「俺はあいつに無理矢理付き合わされる内に色々と覚えちまった」
僕はふと単純に疑問に思った事を聞いてみる。
「八雲さんのアニメ好きは一体何なんですか?」
「妖怪の出てくる漫画が好きななんだとよ。人間は妖怪をこう描くのかと、参考にしてるんだってさ」
確かに思い返してみると、部屋にあった漫画本は妖怪が出てくるものがほとんどだった。
「分かるような、分からないような理由ですね」
そんな事を話しながら歩いている石畳の鱗は、向かう方へ素直に反っていた。
庭を通り抜け、門をくぐるとまた雑多なにおいが鼻に届く。下の方は随分と賑やかしい音で溢れていた。
途中までは来た道を戻っていたのだが、一度脇に入るとその先に階段があり、一気に数階を降りていった。
階段に面している床には、漢数字で番号が振ってあり、素直にその階の階数なのだと予測する。
段々に下がっていき、とうとう「一」となったところで、階段を逸れ、別の廊下に入った。しかし、更に下に続く階段が気になり、少々後ろ髪を引かれた。
「あ」
Tの字になっている廊下に差しかかったところで、円さんが声を上げた。
「しまった。約束すっぽかしてたのを忘れてた」
そういえば、円さんはあの橋で誰かと待ち合わせをしていたのであった。
「環、先に店に行っててくれ。これを右に行って次の角に店があるから。『和泉屋』って看板があるからすぐ分かる」
そういって円さんは遠くを指差す。
「今なら中に玄って女がいるから、俺の名前を出して待つように言われたとでも言えば上げてもらえるから」
「分かりました。先に行ってみます」
「ついでに、あと一時間もしないうちに戻るとも言っててくれ」
そう言って円さんは踵を返し、廊下の奥へと消えていった。
指の差していた方へ進むと、店はすぐに見つかった。簡素な作りの軒が取って付けたように付いており、言われた通りに「和泉屋火酒店」と書かれた木製の看板がぶら下がっていたのだ。
店の入り口は木の枠に硝子をはめ込んだ戸である。幸い一番下の枠の硝子は中が窺える高さにあった。
しかし、またもおかしい事があった。
磨り硝子ではない。透明なはずなのに向こうが見えない。まったく見えないわけではない。店の内装は解るのに店内の様子が解らない。
なんとも不思議だった。
けれども帰る事はできない。それに危険という訳でもないので、僕は戸をガラリと開けた。
突然、別の女の声が聞こえた。
部屋の中には僕たち以外の姿はない。本棚の奥の物陰に気配を感じたので、僕はジッとそこに目をやる。
「ありゃま? 一言目に気付かれるなんてその子、勘もいいのね」
「景。いつからそこに?」
八雲さんは、別に何でもない様に本棚の裏に向かって声を掛ける。
「ついさっきよ。円が帰るらしいから、鈴様に言われてその子を呼びに来たの」
そう返事をしながら、本当に文字通り本棚の影からすうっと女が現れた。
頭にはハット、長袖のブラウスに黒絹の手袋、ロングスカートにハイヒールを履き、手には畳まれた日傘を持っている。
一言で言い表すのであれば、貴婦人という言葉が似合いそうな恰好である。
ただそれでも、この女が人間でなく妖怪であるという確証が持てる。
黒いのだ。
身を包む衣類は元より、髪も肌も顔も何もかもが真っ黒である。日に焼けているというような話ではなく、ただただ純粋に炭の如く黒い。
特に眼は墨をこぼした様である。しかし、それでも瞳孔や輪郭、整った目鼻立ちを持つ顔が区別できる。その面妖さが不気味であり、妖怪であることの証明なのかもしれない。
女は部屋の中にも関わらず、コツコツとヒールを鳴らしながら近づいてきた。
「こんにちは」
改めて耳に届く声は、風貌に似つかわしくないとても可愛らしい声だった。
「こんにちは。あと、初めまして」
「初めまして。私は巳縞御用みしまごよう預伝言あずかりでんごん役やくの景あきら。よろしく」
「は、はい。よろしくお願いします」
何やら良く分からない肩書に気押されて、正座し直してしまった。
「で、本題だけど、円が店に戻るらしいからいい加減に切り上げて、戻ってきてくれるかしら? 今日から円のところにお世話になるんでしょう?」
「分かりました」
「何なら、ここで寝泊まりしてもいい」
八雲さんがぼそりと呟いた。
「あんた、どんだけ気に入ったのよ、この子…」
八雲さんはしずしずと立ち上がり、玄関までの見送りを申し出た。正直、自分だけでは戻れる自信があまりなかったので、ほっとした。
ふと景さんを見ると、いつのまにか影も形もなく消え失せていた。
玄関へ着くと、上り框に腰をかけ、相も変わらずウヰスキーを飲んでる円さんの姿があった。心なしか、僕には気が沈んでいるように見えた。
「お、環。待たせて悪かったな」
「いえ、こちらこそ」
「改まって言う事じゃないが、巳坂の両当主から正式に言い付けられた。お前は今日からうちで研鑽を積ますことになったから、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
一先ず、一切のいざこざ無しに決まったようで安心した。僕としても出会ってまだ僅かではあるが、円さんの所に行けるのが説明しようのない安心感があった。
玄関を出ると、ここに来た時と同じように円さんに並んで歩く。
帰り際の際まで、八雲さんは円さんになるたけ僕を連れて部屋に遊びに来るよう念を押していた。
「お前、八雲の部屋で何してたんだ?」
「ゲゲゲの○太郎のDVDを見せられまして、つい意気投合を」
「お前、その手の話ができるのか?」
「此の世にいた時にその手のモノは大体見せられました。飼い主だった人が大のオカルト好きだったので」
「俺はあいつに無理矢理付き合わされる内に色々と覚えちまった」
僕はふと単純に疑問に思った事を聞いてみる。
「八雲さんのアニメ好きは一体何なんですか?」
「妖怪の出てくる漫画が好きななんだとよ。人間は妖怪をこう描くのかと、参考にしてるんだってさ」
確かに思い返してみると、部屋にあった漫画本は妖怪が出てくるものがほとんどだった。
「分かるような、分からないような理由ですね」
そんな事を話しながら歩いている石畳の鱗は、向かう方へ素直に反っていた。
庭を通り抜け、門をくぐるとまた雑多なにおいが鼻に届く。下の方は随分と賑やかしい音で溢れていた。
途中までは来た道を戻っていたのだが、一度脇に入るとその先に階段があり、一気に数階を降りていった。
階段に面している床には、漢数字で番号が振ってあり、素直にその階の階数なのだと予測する。
段々に下がっていき、とうとう「一」となったところで、階段を逸れ、別の廊下に入った。しかし、更に下に続く階段が気になり、少々後ろ髪を引かれた。
「あ」
Tの字になっている廊下に差しかかったところで、円さんが声を上げた。
「しまった。約束すっぽかしてたのを忘れてた」
そういえば、円さんはあの橋で誰かと待ち合わせをしていたのであった。
「環、先に店に行っててくれ。これを右に行って次の角に店があるから。『和泉屋』って看板があるからすぐ分かる」
そういって円さんは遠くを指差す。
「今なら中に玄って女がいるから、俺の名前を出して待つように言われたとでも言えば上げてもらえるから」
「分かりました。先に行ってみます」
「ついでに、あと一時間もしないうちに戻るとも言っててくれ」
そう言って円さんは踵を返し、廊下の奥へと消えていった。
指の差していた方へ進むと、店はすぐに見つかった。簡素な作りの軒が取って付けたように付いており、言われた通りに「和泉屋火酒店」と書かれた木製の看板がぶら下がっていたのだ。
店の入り口は木の枠に硝子をはめ込んだ戸である。幸い一番下の枠の硝子は中が窺える高さにあった。
しかし、またもおかしい事があった。
磨り硝子ではない。透明なはずなのに向こうが見えない。まったく見えないわけではない。店の内装は解るのに店内の様子が解らない。
なんとも不思議だった。
けれども帰る事はできない。それに危険という訳でもないので、僕は戸をガラリと開けた。
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