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第一章 巳坂

謁見

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 中に入るとまず、それだけで見応えが十分すぎる玄関に気圧される。円さんは我が家のように勝手が分かっているようで、躊躇いもなくブーツを脱ぎ、下駄箱へ入れる。その隙に、八雲さんに用意してもらった雑巾で足をふき、僕も上がる。

 酒の匂いが立ちこめる外から入ってきたせいか、中の檜の香りが余計に清々しく感じた。

 汚れも染みもない太い長押、塵一つなく磨かれた廊下、それらに遜色ない襖。

 此の世であらば、拝観料を取っても差支えない程立派な造りであった。立ち止まってじっくり見れないのが、とても勿体なかった。

 先頭だった八雲さんの足が止まると、全員の足が止まった。

「鈴様。仰せのあった小泉円と猫岳の新しい小僧奉公を連れて参りました」

 そう言ってしゃがみ込み、八雲さんは襖を開ける。

 円さんは申し訳程度のお辞儀をしてから、ずかずかと中へ入る。

 僕も慣れぬ礼をしてから部屋へ入る。緊張もあり、なるたけ円さんからは離れないのが吉だと即座に判断した。

 部屋はこざっぱりとした十二畳敷きだった。屋敷の造りの厳かさに圧倒された後だと、しょぼくれた部屋に思えてしまう。部屋の中も、時代がかった学習机の他に、本棚と卓袱台という一昔前の学生が暮らしていそうな印象を持つ。

 だからこそ、部屋の奥に佇んでいた女には美しさ以上に場違いな感覚を覚えた。

 着物から発せられる上質な絹の眩しい純白さと対照的な黒髪は肩の少し先までつやつやと伸びている。顔の右半分はその髪の毛で隠れているが、二つの泣きぼくろが特徴的な澄んだ目を見ていると、顔が半分隠れていて良かったと思う。

 もしも、そうでなかったら。

 あの瞳がもう一つあったとしたら。その凛凛しさに押し潰されていたかも知れない。

 そして、その目と泣きぼくろが得も言われぬ色気を出しているのとは別に、その下の頬にある、翡翠色に輝く蛇ようなの鱗が畏怖とも取れる麗しさを醸し出している。

 僕は知っている。

 これは妖気だ。

 重ねた年齢なのか、格が違うのか、生まれか、それとも育ちか。

 それは分からないが、並みの妖怪でない事は肌で感じ取れる。ただ、一切の敵意が含まれていないというのが、唯一の安心感であった。

 円さんに促され、僕は卓袱台を挟んで、彼女の対面に座った。

「初めまして。それとようこそ巳坂へ。私は巳坂現当主の巳縞鈴。よろしくね」

 何とも艶っぽい声ではあるが、語り口はとても軽いものあった。

「はい。よろしくお願いします。猫岳から来まし、」

「そんなことよりも、君は上戸? 下戸?」

 自己紹介を「そんなこと」扱いで、遮られてまで尋ねられたのが、酒が飲めるかどうかだった。

「げ、下戸です」

 驚きと肩透かしと緊張と、色々なものが混ざって、なんとも素っ頓狂な声で答えてしまった。

「あら、そうなの。残念ね」

「ホントにな」

 残念がる鈴様に便乗し、円さんも残念がる。

「なら仕方ないわ。八雲、この子にはお茶を入れてあげて」

「はい」

「それと『芝浜』があったでしょう。私と円にはそれを出して。あなたも相伴なさいな」

「直ぐにお持ちします」

 と言って八雲さんは出ていく。

 ふと円さんを見ると、ローブの下にはとても怪訝そうに、何か疑っているような顔があった。

 やがて、八雲さんは全員分の湯のみが乗ったお盆と、人が一人入れるくらいの大きな金盥を持ってきた。

 僕にはお茶が注がれた湯のみをくれ、それ以外の面々には別の何かが注がれた湯のみが行き渡った。

 『芝浜』とは何の事だと思っていたが匂いで分かった。日本酒だ。

 お茶の代わりに客人にお酒を振舞うとは。巳坂…というか天獄屋は、此の世の常識とはかけ離れているとつくづく実感した。

 では金盥はというと畳の上に置かれ、中にすっぽりと収まって八雲さんが座っていた。

 なるほど。これなら畳は湿気で傷まない。とてつもなくシュールな光景であるのはこの際置いておこう。

 鈴様は、湯のみに一口付けるとこれぞ至福というような表情になった。

 あの凛凛しさが溢れんばかりの顔が、子供のように無邪気な笑顔になる様を見れば、なるほど岡惚れする男が多いのも納得である。

 そんな僕の視線が気になったのか、そうでないのか。ともかく声を掛けられた。

「飲まないの? ひょっとして、お茶も駄目だった?」

「いえ、もう少し冷めるのを待ってます」

「ああ、そうか」

 と納得された。

 僕は、文字通りの猫舌であった。

 猫岳出身であることは承知であろうからてっきり、猫だもんねと、洒落の一つでもとんでくるかと思ったが、そんなことはなかった。

「君もどうしたの? 飲まないのかい?」

 今度は僕の隣に座っていた円さんに声が飛ぶ。

 円さんは先ほどからジッとして、卓袱台の上の湯のみに手を伸ばしもしなかった。

 確かにあれほどの酒好きが無反応なのは気になるところである。

「…今度は何を企んでんだよ」

 ぶっきら棒な声で質問は返された。

「そんな・・・企むなんて人聞きの悪い。私の心許りの振る舞いなのに」

 鈴様は、よよよと芝居掛かって裾で乾いた目を拭う仕草をした。

「こんな上等な酒を出しておいてお前が何も企んでなかったら、それはそれで不安になる」

 信用しているんだか、していないんだか分からない文句だ。

 というかタダじゃないのか。

 このお茶、飲んでも平気だろうか。

 それにしてもお茶、もといお酒が出てきてからは更にいくらか和らいだとはいえ、鈴様の出す空気は依然として変わらない。

 ここまで、物怖じせずに面と向かって喋れる円さんは、実はすごい人物なのかもしれない。

「失礼ね。ちょっとお願いがあるだけよ」

「やっぱり、あるんじゃねぇか」

「まあ、後でじっくり話すから。まずはお上がんなさいな」

「そんな怖い酒、飲める訳ないだろ」

 確かに。僕が円さんだったら絶対に飲まない。

「それでも、円は飲むでしょう。だって――――好きだものねぇ」

 その声を聞いた刹那、背筋に寒気が走った。色気を怖いと思ったのは初めての経験だった。

 美麗に微笑む鈴様に対し、さっきまで見えていた円さんの顔はよく見えなかった。

 どういう間柄なんだ。この男と女は。

 八雲さんは、我関せずという風にちびちびと酒に興じていた。

 ひょっとして僕だけが感じている事なのか? それとも、みな慣れているだけなのか?

 カチンコチンの僕が目に止まったのか、鈴様は僕に再び声をかける。

「もうそろそろ、冷めたんじゃないかしら」

 何が? 場の空気が?

 どうにも鈴様の視線に耐え切れず顔を逸らす。すると本棚のとある本が目に留まり、思わず「え」と声が出てしまった。それほどまでに予想外の本があったのだ。

「どうした?」

「えと、その」

「何だ? はっきりしろよ」

「そこの本棚に入ってるリプリー・スクロール解説写本って、あの『リプリー・スクロール』ですか?」

「あれは俺たちの先生が独自に解釈した論文の写しだが……待て待て、リプリー・スクロールを知ってるのかお前」

 円さんが慌てて尋ねてくる。

「ジョージ・リプリーの書いた巻物ですよね?」

 ジョージ・リプリーは十五世紀の初めにイギリスに誕生した錬金術師の名前だ。ヨーロッパ各地を放浪し錬金術の他、多彩な学問の研鑽を積み数々の書籍を残している。中でもリプリー・スクロールと呼ばれる巻物は、彼の集大成を書き記してあるとされ、黄金の錬成法、賢者の石の製造過程、不老不死になる術などが一連の図絵として描かれている幻の書物だ。

 けれども、彼の功績とは裏腹に現代での知名度は然程高くない。なので、

「誰それ?」

 と尋ねてくる鈴様の反応は実に一般的だ。

「昔、先生に教わっただろう」

「八雲、覚えてる?」

 話を振られた八雲さんも、髪の毛の滴が飛び散らない程度に首を振っている。

「それよりも環くん、『錬金術』を知っているの?」

 鈴様は目をらんらんに輝かせている。

「は、はい。此の世にいた時に人に飼われていたんですが、その人が重度のオカルトマニアでして、とりわけ錬金術に関しては物凄い固執した人でした。で、何故か僕に向かって本やら論文やらを読み聞かせしていたので、自然に頭に…」

「なら丁度良かった」

 いかにも可愛らしく、鈴様は両の手をポンっと合わせる

「何がですか?」

「今日から、ここにいる円の家にお世話になって頂戴」

「あ?」

 と僕より先に声を出したのは、不意に名前が出てきた円さんである。

「ウチは正直言うと、手は足りているし、聞けば君は此の世での暮らしが長かったんでしょう? 馬鹿にする訳じゃないけど、天獄屋の掟がイマイチ分かってないと苦労すると思うのよ。ウチは家柄だけに、結構な重鎮やお偉いさんが出入りすることも多いし。丁稚奉公とは言え、万が一の粗相は取り返しがつかない事にもなりかねるでしょう」

 つらつらと喋り続ける。

「だから、まずは下町で巳坂はもとい天獄屋になれることから始めた方がいいと思うのよね。おまけに此の世の方が長いんだから人間が店主のお店の方が話が合うんじゃないかなって思って、ね?」

「話は分かるが、人間がやってる店なら他にもあるだろうが」

「だって佐々木さんは手は足りてるって話だし、小山さんところは…ホラ、ね?」

「まあ小山さんはな……じゃあ匹田さんとこは?」

「え~私あの人あんまり好きじゃないのよね」

「完全に私情じゃねぇか」

 鈴様はうふふとごまかすように笑う。

 そして酒を一口飲むと、色っぽく親指で下唇をなぞった。

「それに今聞けば、錬金術が好きなんて誂えたようじゃない。ねえ、環くん。本物の錬金術師の傍にいて、色々と勉強してみたくはない?」

「本物の錬金術師って…」

「あら? 言ってなかったの? 円は錬金術師なのよ、凄腕のね」

「…れ、錬金術師」

 僕はまじまじと円さんを見つめた。それでも円さんはジッと鈴様を見たままこちらを向くことはなかった。

 鈴様は「ええ、そうよ」と前置いて続ける。

「かつて同じ先生について勉強してたの。尤も私はからっきしだったけれどね。円は錬金術に関してなら相当優秀なのよ、錬金術に関してだけならね」

「うるせえ。というか承諾してねえぞ、俺は」

「いいじゃない。あなたの腕前なら弟子がいたって不思議じゃないわ」

「弟子は取らん。というか教えてる奴ならもういるし…」

 そう円さんが答えると、鈴様からまた寒気に似た妖気が漂い始めた。それに伴って声も低くなっていく。

「…ああ、そういうこと」

 流石の円さんも少々のたじろぎを見せる。

「何だよ」

「せっかく女を侍らして暮らしているのに、この子は邪魔って訳ね」

「何でそうなる」

「家に女を連れ込んで屋根を貸しているじゃないの」

「ちゃんと説明も挨拶もしただろ。そもそもお前らが結託して押し付けたようなもんだろうが」

「事後承諾さえ得れば何をしてもいいのかしら」

「・・・あの」

 険悪な雰囲気に飲まれる前に勇んで声を出した。

 円さんも鈴様も、まさか口を挟まれるとは思っていなかったようで一瞬虚をつかれたようにこちらを見たまま静止した。ただ、それもまもなく解けた。

 僕を見ると、ニコリと取り繕った

「何かしら?」

「あの、僕が言える事ではないとは思いますが、流石に嫌がる人のところに無理にご厄介になるのは、気が引けると言いますか…」

「ああ、大丈夫よ。円は君を預かるのが嫌なんじゃなくて、私の言う事を素直に聞くのが嫌なだけだから」

 嫌がっている事に変わりがないのか。

 どの道、話を聞いている限り、円さんは何やら弱みに付け込まれているのが可哀相で仕方がない。

「それに…勘違いかも知れませんが、弱みを責めて懐柔させるようなやり方では、どちらにせよ気が引けます」

「え? それは本当に勘違いよ。円の弱みなんて……けど、強ち間違いじゃないのかしら。昔から惚れた弱みっても言うし」

 え?

 惚れた弱み?

 僕は円さんと鈴様の顔を交互に見比べる。疑問は声にこそ出なかったものの、しっかりと態度で出てしまったようで、鈴様が付け加えて話す。

「円は私の恋人だから。ね?」

「ね? じゃねぇよ」

「とりあえず、ひとつここの常識を覚えたわね。巳縞鈴と和泉円は恋仲ってのは、巳坂の常識だから」

 鈴様はいかにも可愛げな仕草をこちらに向けてきた。

「はあ…」

 それしか言葉がでない。本当に恋仲なのか、疑問と疑念しか募らなかった。

 そんな雰囲気の中、八雲さんだけは我関せずと言わんばかりにちびちびと酒に興じている。その様子から察するに、恐らくこれが茶飯事なのだろうと思った。

「ということで、円。よろしく面倒を見るように」

 無邪気さや可憐さの中に、確固たる自信の籠った声で鈴様は円さんに進言した。

 円さんは肯定も否定もせずに、そっと指を二本立てて見せた。

 鈴様は立ち上がり、わざわざ円さんの隣へと改めて腰を下ろす。そして両手でそっとそれを包むと、じんわりと薬指も立てて三本指にして、首をちょっとだけ傾げた。

 円さんは、黙って頷くと何事もなかったように手を引っ込めてしまった。鈴様はそれ見ると嬉しそうに微笑んだ。

 ・・・なんだ、このやり取り。

 分からない時は違和感と疑問でしかないものが、正解を知った途端、当たり前でそれ以外は考えられなくってしまう。僕は部屋の中の円さんと鈴様はなるほど、恋仲としか見れなくなっていた。
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