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第一章 巳坂

気楽な休止

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 僕はまず門をくぐってからの風景に圧倒された。

 そこには見事という他ない庭園が広がっている。アヤメや芍薬、カスミソウといった皐月を思わせる花々がとても鮮やかに咲き乱れていた。月明かりでこれだけ美しいのだから、昼の日差しの中では更に色が映えるだろう。

 そして、少し先に見える屋敷へ変則的に蛇行して続く石畳が、これまた屏風絵から抜け出たような美しさだった。特に等間隔に並んだ燈籠と、一枚ずつ規則正しく敷き詰められた六角形の石の模様が印象に残る。

 これはまるで…。

「大きな蛇の上を歩いてるみたいだろ」

 隣を歩く円さんに、頭に過ったことをそっくりそのまま言われてしまった。

 そうなのだ。
 石畳の道は緩い弧を描くように盛り上がり、敷かれた石の板一枚一枚が、目指す方に向かって微妙に反り上がっている。

 蛇の鱗のようであり、正しく蛇の背を歩いているようだった。

 行きは良いかもしれないが、出る時は反りに躓かないように気を付けなければならない。

「ここを出入りすることが増えるだろうから、一つ豆知識を教えてやろう」

 円さんが人差し指で石畳を指しながら、話し出す。

「この石の鱗の反りが、目指す方に躓かないようになってる時は店主に歓迎されている。帰る時は不思議と向きを直してくれる。けれど、こっち側に反りかえって躓きそうになっている時は、忙しいとか、別の客がきているとか、ともかく今はよろしくないから、庭でも眺めて暇を潰してろって合図だ」

「へえ、便利なんですね、コレ」

 やはり妖怪の住む世界なのだと実感する。天獄屋で生まれたとは言っても猫岳の事しか知らず、そもそも此の世での生活が長かった身としては、何もかもが新鮮だ。

 ただ通り過ぎるのはもったいないと庭を眺める。すると再び疑問が沸く。

「そういえば、この空ってどうなっているんですか?」

 天獄屋は元はと言えば旅館であり、とどのつまりが今は室内にいるはずだ。

 それなのに上には晴れ晴れとした春と夏の境の夜空に雲が悠々と泳いでいる。

「ありゃ、絵だ」

「え? 絵なんですか?」

 そう聞いた途端、天獄屋に慣れるまでのしばらくは、色々な事に驚くだろうとぼちぼち覚悟をした。

「すごい。実際は術か何かで動いているんでしょうけれど、雲の質感なんて本物みたいだし。五月の春らしい空模様も伝わってきますし…絵ってことは勿論誰かが書いたんですよね?」

「そりゃそうだ」

 ん? そうすると猫岳に浮かんでいた月と空も絵なのか? 気にしたことはなかったが、一度気が付くと気になるものだ。

「やっぱり妖怪の住むところにも絵師さんとかはいるんですね」

「ヤケに喰いつくな。絵が好きなのか?」

「眺めるのは好きですね。描けはしませんが」

「ふうん。此の世にいた時にそんな機会が多かったんだ?」

「はい」

 此の世で僕の飼い主だった男は、書家を名乗っていた。書家であるので、本業は字を書く事が常であったが、趣味で墨絵や絵画を描いたり集めたりしていたのだ。

 また何人か手習いがおり、本気で弟子入りしていた者から近所の小学生まで、教室を設け幅広く字を教えていた。かくいう僕もひょんなことから人の姿に化け、手習いを受けたことが幾度もある。初めは遊び半分だったのだが、今では結構な書好きになってしまったと思う。

 正体がばれやしないかとひやひやしていた時期もあるが、今となっては懐かしい思い出だ・・・。

「なら卯ノ花うのはなに行ったら大変だろうな。いつか暇を貰って、誰かに連れてってもらうと良い」

「卯ノ花ですか?」

「ああ。天獄屋で一番芸事に熱い階があってな。絵とか書以外にも、とりあえず芸術にまつわる用事があるなら卯ノ花に行くのが手っ取り早い」

 そう聞いて、僕はもう一度空を見た。

「こんなすごい絵がいっぱいあるってことですよね。もしかして、この絵を描いた方もその卯ノ花にいるんですか? 会ってみたいなあ」

「だとさ。良かったな」

 円さんは、前に向かってそう声をかけた。

 僕たちが並んで歩く先には八雲さんしかしない。もしかして八雲さんが書き手なのか。

「何も言わねえ所を見ると、ニヤニヤ顔を抑えんのが必至でこっち向けないんだろうぜ、あいつ」

 八雲さんはやっぱりだんまりを決め込んでいる。それどころか閉じていた蛇の目傘を開き、後ろ姿まで隠してしまった。

 図星なのだろう。

 そうして歩くうちに、やがて屋敷の入り口まで辿り着いた。

「ようこそ巳縞屋へ。今、鈴様に伺いを立ててくる。ここで待ってて」

 そう言う八雲さんの顔は最初の時と同じように曇ったポーカーフェイスだった。

 八雲さんは左の戸をあけると、奥へ入って見えなくなった。耳をすませると中からは慌ただしい音がうっすらと聞こえてきた。反響してくる音から察するに、見た目通り大分広い屋敷のようだ。

 円さんは慣れているようで、玄関前の脇にあった腰掛に座るとまた瓶を取り出した。そして庭を眺めながら、チビチビと飲んでいた。

 僕も倣って腰を掛ける。玄関の造りを見たり、そこから漂う木の香りを楽しんでいた。

 ここの当主がどういった妖怪なのか。事前に聞いておいて損はないだろうと、僕は円さんに尋ねてみた。

「そうだなあ。女だてらに巳坂を仕切れるくらいの裁量はあるし、頭目だからって偉そうにしないで、子分の面倒見もいいし。裏で愛好会ができるくらいの器量もあるし。何より場に合った酒飲みができるってのがまた良い所で、仮にあいつに酌をしてもらえるんなら、死んでもいいと思ってる奴がいるくらいの良い女だよ。ただし・・・」

「ただし?」

「時々思いつきで意味の分からないことをしないで、俺の都合も考えてくれて、ドの過ぎたからかい方をしないで、理不尽な理由で怒らないで、昔あったつまらない事に執着してねちねち言わないでさえくれれば、言う事ない」

 見上げると円さんはローブの下で、何か嫌なことを思い出したような顔をしていた。

 それを振り払うためなのか何なのか、今までで一番勢いよく瓶を傾けていた。

 さっきは周囲の匂いで気が付かなかったが、口元から漂ってくる香りで瓶の中身が分かった。

 ウイスキーを飲んでいるのだ。

「お酒が好きなんですね」

「まあね。巳坂に住んでて酒が嫌いじゃやっていけない」

「けど『オンスロート』をストレートで飲めるって、相当お酒に強いんですね」

 ずばりと銘柄を言い当てたので、円さんは驚いたように僕を見た。ローブの上から見てもその態度ではっきりとわかる。

 どんなことであれ人を驚かすのは楽しい。妖怪の性であろうか。

「よく分かったな」

「名前の通り、香りが攻撃的で特徴ありますから」

 へえ。と、いかにも嬉しそうに笑った。いつかの飼い主が同じ趣味の人間を見つけた時と同じ笑い顔だ。そしてローブの中から別の小瓶を出すと蓋を取って利けとばかりに付き出してきた。

「なら、これは?」

 すんすんと鼻を鳴らす。嗅ぎ覚えのある香りに安心した。

「……『コンフラックス』ですね」

「いいねえ。一緒にやるかい?」

「すみません。僕は飲めないんです」

 未成年、というのが妖怪に当てはまるのかどうか分からないが、此の世での生活が長かったせいか、子どもの自分では飲酒には抵抗がある。

「そうなのか・・・それは残念だな」

 本当に残念そうに言ってきた。

「折角、ウチのお得意さんになってくれるかと思ったんだが」

「酒屋をやってるんですか?」

「石を投げれば酒屋か酔っ払いに当たるのが巳坂ってもんだ。けど飲まねえのに、よく分かるな」

「此の世で飼い主だった人が、ザルだったんです。とは言っても、ウイスキーしか飲まない人でしたが」

「ウイスキーをやるってだけで十分だ。会ってみたいねえ。いや、一緒に飲んでみたいなあ」

 さっき僕が絵について語っている時は、こんな顔をしてたのだろうと思う。

 円さんは慣れた手つきで煙草のようなものを取りだして火を付けた。

 その様子を怪訝そうに見つめていた。

 ウイスキー好きを公言するなら煙草は控えるべき、というのがかつての飼い主の弁だったからだ。ウイスキーに限らず、酒というのは味と同等かそれ以上に香りを大切にする。洋酒ならば尚更だ。

 円さんは単なる酒好きであり、愛好家ではないのかも知れない。

「お待たせ」

 その内に、ぬうっと八雲さんが迎えに現れた。

「準備ができた。客間ではなくていつも通りのあの部屋に来て」

 はいはい、と生返事をしつつ円さんは立ち上がったので、それに倣って付いて歩きだしたのだった。

 父以外では、初めて天獄屋の中で頭領と呼ばれている妖怪に会うこととなる。
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