不満足氏名

音喜多子平

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再び、義父と母親との会話

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 父の店から家までの足取りは重かった。けれどもいざ着いてみれば、道のりはあっという間だった。

 玄関を開けると志郎さんの靴があるかどうかを真っ先に確認した。そしていつもの革靴がないことに軽く落胆した。どうやら今日は一騎打ちをしなければならないらしい。

「ただいま」

 意識したわけでないのに声はか細くなってしまった。

 そんな声でさえ耳聡く聞き取ったのか、それとも玄関の戸の閉まる音が耳に届いたのか、母がリビングから顔を出した。

「孝文、ちょっとこっちに来て座りなさい」

 母からはおかえりの言葉もなく、まずはジャブの代わりに冷淡な命令を飛ばしてきた。

「…何? やることあるんだけど」

「いいから来なさい」

 どうやらかなり機嫌が悪いらしかった。いつものように強引に部屋に引きこもるより、空返事で受け流す方が後々楽になると判断して、大人しくリビングに座り込んだ。

「何?」

「どういうつもり?」

「だから何が? はっきり言ってよ」

「何であの人のお店に通ってるの?」

 そう聞いた刹那、ぞわっと全身の毛穴が開いたような感覚が全身に走った。同時に色々な憶測が頭の中を右往左往する。僕は飽くまで平静を装って、分かり切っている事を念のために聞き返した。

「…父さんの店って事?」

「もうお父さんじゃないでしょ」

「そんな訳ないだろ。どうなったところで父さんは父さんだよ」

「志郎さんに申し訳ないと思わないの? あなたは今あの人に育ててもらってるのよ」

「それとこれとは話が違うよ」

「とにかく、あの人のお店に行くのはもう止めなさい」

「行くか行かないかは自分で決める」

 そういうと母は深呼吸をした。

 そして困惑と蔑視が合わさったような目で僕を見た。

「どうして親の言う事を素直にきけないの――あの人と同じB型だから。融通が利かないのね。頑固なのは損するだけで、得することは何もないのよ」

「…」

「何をしにお店に行ってるの?」

「別に。コーヒーショップなんだからコーヒーを飲みに行ってるだけ」

「ならあのお店でなくてもいいでしょう。他のお店でも、家で淹れたっていいじゃない」

「他にもあるよ、相談事があったりさ」

「それこそ、志郎さんや私にすればいいでしょう」

「嫌だよ」

「何がそんなに嫌なの。あなたの為に色々考えてあげてるのに」

「母さんに相談したってこっちが思ってるような事しか返してこないから無駄だよ」

「何を相談したいの? 名前のこと?」

 お互いにどんどんと口調は早く強くなり、声には苛立ちが交ざってきている。

 僕はガツンと言ってやろうとも思ったし、冷静さをなくしたらダメだとも思っていた。頭の中に何人もの自分がいるような錯覚を起こしている。そして、結局表に出てきたのは、爆発を必死に抑えつつも言いたい事を止められない自分だった。

「ああそうだよ。母さんに言ったってどうせ孝文にしろの一点張りなんだから」

「あなたのことを一番知っているから、一番いい名前を考えられるのは当然でしょう。逆に何を悩むのかが分からないわ。久子叔母さんだって、良い名前だって言ってるし、あなたがここまで反発するのはおかしいって言ってるのよ」

「ほら、言った通りじゃん。相談したところで孝文にしろって言われるんじゃ相談する意味がないだろ」

「一体何がそんなに気に食わないの?」

「勝手に決めつけるところだよ。何で僕の意見は聞いてくれないのさ」

「親が子供の事を決めるのは当然でしょう」

「…そりゃあ、ある程度はそうだっていうのは認めるよ。僕は大人じゃないかも知れないけど、全部面倒見てもらわなきゃならない程子供でもないつもりだ」

「つもりよ、本当に。私たちがいなければちゃんと生きていけないでしょう」

「――だから、決めつけんなって言ってんだよ!」

 とうとう苛立ちが抑えらず、大声で叫ぶように言い放った。

 だが母は、結美の事を気にしてか、はたまた近所迷惑を気にしてかは分からないが、人差し指を唇に押し当て「しぃ」と小さい子をあやす様な格好になった。その仕草を見た途端、鬱憤も不満も冷静さも何もかもが、ただの純粋な怒りに変わってしまった。僕は生まれてきてこの方一番大きな声で叫んだ。

「何がしぃだ、ふざけんな! ならどうすりゃ満足なんだよ。一から十までてめえの言う事聞きゃいいのか? だったら全部決めてみろよ。どこまで従えばいい。朝起きてから寝るまでか? 高校を出て大学も決められて、大人になって死ぬまであんたの思い通りに生きてりゃ気が済むのかよ」

 頭に血が上る。

 今まで想像するしかなかった言葉の意味が痛い程よく分かった。全身の血管が破裂したのではないかと思うほど体が熱い。とりわけ頭の中は直接煮え湯を注がれたかのようだった。

 僕は息を乱しながら、それでも目だけは逸らさなかった。逸らしたら負けのような気がした。

 母の顔は冷たく、何を考えているのかが全く読み取れなかった。

「何なのその口の聞き方は?」

「話反らしてんじゃねえよ。こっちはどうすれば良いんだって聞いてんだから、答えろよ」

 長い間があった。壁掛け時計の音だけが空しく響く。

「…一体何様のつもりなの? あなたの為にあの高校を選んであげたのに、何でそんな事をいうの?」

「どこが僕の為だっていうのさ?」

「あなたの為じゃない」

「だからどこがだよ」

「…」

 母はため息を一つついた。二の句が継げないようだったので、僕は更に続けた。

「ほらね。答えられないだろ。結局今言う事を聞いてくれるお人形が欲しいだけなんだよ、あんたは」

 考えるよりも先に口が動く。今まで思いはしたが理性で飲み込んだ言葉たちを何の遠慮もなくぶつけた。

「僕は全部気に食わないよ。勝手に決めつけられるのも、自分の意見を周りの人間も言っている風に装うのも、上から目線なのも、何でも否定から入るのも、恩着せがましいのも全部腹が立つ」

「…そう。分かったわ」

 小さく、母は言った。

「話は終わり。ご飯は食べたの?」

「いらないよ」

 とても何かを食べられる心持ちではなかった。

 荷物を手に取ると自分の部屋へ足早に向かった。

 部屋に入った後は、しばらくの間立ち尽くしていた。座ることもベットに横たわることにも気が引けた。どれくらい時間がったのかは分からないが、一つくしゃみをして我に返った。体と頭の火照りは嘘のように冷め、暖房も付いていない部屋の寒さは既に全身を覆っていた。

 部屋着に着替えると、疲れている事を自覚した。色々とやりたいことはあったがもう何も考えたくなかった。

 何となく、外は雪が降っている様な気がした。

 何度寝返りを打っても一向に寝付けなかった。枕もとのライトを付けると、カタツムリのように這い出て手を伸ばし、カバンを取った。ここまで暖めた布団を捨てる気は更々起こらず、今日買ってきたばかりの本を読むことにした。

 読んでいる実感はある。今すぐ本を閉じて内容を要約しろ、と言われても簡単にできる。けれども頭に入っていないと思えるような不思議な感覚だった。きっと余計なものが中に多すぎるのだ。ゴミを押し入れに押し込んだだけで部屋の片づけとしたような、その場しのぎの焦燥感がどうにも拭えなかった。

 けれどもそんな感情すら人間は慣れるのか、それとも身体的なシステムなのかは知れないが、ふと大あくびが出た。それをきっかけに自分の睡魔も本調子を出してきた。

 本を置き、ライトを消す。今度は意識を手放すように眠ることができた。

 ◆

 明朝。

 夜更かしのせいで眠りがとても深かった。アラームを付けていなかったら間違いなく寝過ごしていたと思った。母も昨日の一件があるので、起きてくるのが遅くとも声を掛けに来るようなことはなかった。

 いつもより一時間近く寝過ごしているのに、頭が働かず焦りも出ない。尤もまだまだ学校に遅刻するような時間でないということもあった。

 通学する支度を終えると下へ降りた。

 玄関には志郎さんの靴がなかった。朝早くに出たのか、帰ってこなかったのかはわからないが大して心配するともない。それよりも母に顔を合わせることの方が余程関心な憂慮だった。

 母は椅子に腰かけ、一人で朝食を食べていた。僕の分の用意はなかったが、食欲もないので返って助かった。けれども登校前にせめて喉だけでも潤そうと思ってキッチンで水を飲んだ。

 ここからだと母は向こう見る形で座っているので顔色は伺えない。無機的な食器の音だけが響いている。

 行ってきます、の一言だけでも声を掛けようかと思った矢先、出鼻を挫くように母が口を開いた。

「仁。昨日の話だけどね」

 朝の挨拶も抜きに冷たい口調で、昨日の夜の話題を持ち出してきた。そして続ける。僕は久しぶりに僕の名前を呼ばれたことに少々戸惑っていた。

「高校を卒業したら出てきなさい」

「…」

 驚きが大き過ぎて言葉が出なかった。

 頭が真っ白になるとはこの事だと思った。

「お母さんのやること成すことが全部嫌なんでしょう。なら後は全部自分でやりなさい。人の苦労も分からないで文句だけは一人前に言って。あなたはね、自分が思っている以上に子供なのよ。そういう態度でいるうちは、世の中の誰も助けてはくれないの。苦労も悩みもないでしょう? 子供は楽でいいわよね、何も考えないで親に育ててもらえばいいんだから。だから昨日みたいな事が言えるんでしょう?」

「…本気で言ってるんなら軽蔑するし、冗談で言ってるなら幻滅するよ。僕は今母さんについて来た事をすごい後悔してる」

 母はこっちの声などまるで聞こえていないように朝食の後片付けを淡々と始めた。

「後悔してるのは私よ。あなたをあの高校に行かせたのはね、家族みんなのため。新しい父親ができたけじめを付けるためなのよ。志郎さんが考えてくれた名前なら、もっと打ち解けられると思った――でももう全部無駄ね。何でもいいから好きな名前を選びなさい」

「言われなくたってそうするよ」

「それから今日からはね、料理も洗濯も自分でしなさい。勝手に作ったりしたらあなたの迷惑になるって分かったから、もう私は何もしないわ」

「ああそう」

「一応、高校を卒業するまでは面倒を見てあげるけど、その後は何もしませんから」

「分かった」

「ならいいわ。そうして頂戴」

 その後はすぐに家を出た。始業に遅れる心配はなかったが、自然と足早になっていった。

 鏡を見ずとも自分の表情が消え失せているのが分かった。心の中には形容も出来ない、重く深く暗みが掛かった何が渦巻いて他の事を気にかける余裕が消え失せていた。歩いていても、電車に乗っても、学校についても心臓に重い荷物がぶら下がっている様な感覚がずっと収まらなかった。

 あからさまに様子はおかしいと自分でも理解はしていた。しかし、かと言って心配したり気を使ってくる友人は多くないので、教室は居心地が良かった。休み時間に有名人と若山さんに声を掛けられたが、風邪をひいたかもしれないと適当な嘘でごまかした。

 あそこまで退屈に感じていた学校での日常がまるで違うものに思えた。

 どうしてか新鮮味がある。心中は相変わらずぐちゃぐちゃなのに、反比例するように頭は冴え渡っているような気がした。いつも以上に先生の話も授業の内容もすんなりと耳に入って行くのが面白かった。

 昼休みに長田くんからメールが入っているのに気が付く。

『今日の部活はどうしますか?』

と、短く書かれていた。

 そう言えば、昨日の夜に連絡するのをすっかり忘れていた。僕は昨日連絡できなかったことを詫びる文と、特に用事はないから部室に集まろうという旨の文を添えて送ろうとした。しかし送信ボタンを押す一歩手前で、何かに引き留められた。それから内容を書き直し、適当な理由をでっち上げて今日は休みにしようと送ったのだった。

 昼食も有名人に学食に誘われたが、あまり人の多いところに行きたくないということと、今日は弁当も何も準備していない事を告げると、親切に購買部でおにぎりとお茶を買ってきてくれた。

「風邪の時はパンより米だよな」

 今日一日、有名人は色々と喋っていたが、その一言だけがやたらと耳に残った。

 あっという間に迎えた放課後は虚無的だった。

 やるべきことも、やりたいことも何もない。行きたい場所も行くべきところもない。

 けれども、その虚無感は僕にとっては凄い開放感を伴っていた。

 相変わらず心は重い荷物を引きずっているように重々しかったが、冬の晴れ間が少しずつ重厚な感情を吸い出してくれている様な気がした。

 端的に言って母に歯向かったことに後悔もある。後ろめたさも、先の見えない不安もある。しかし、それに先駆けるのは・・・・・多分嬉しさなのだと思う。

 冷静に考えずとも、僕は母が嫌いだ。

 憎く思う事さえある。それでも期待してたのだ。僕が母にとっての理想通りの息子になるように期待するのと同じように、僕も僕にとって理想の母親像を勝手に作って、いつかそうなってくれると根拠もなく期待していたのだ。

 そして僕は、その理想を実現するために僕は生まれて初めて、面と向かって母と戦おうとした。その事実が残ったことが嬉しかった。

 勢いづいた僕の心は、そうやってどんどんと自己を正当化していった。

 母の過去の言動を片っ端から反芻して、その一々を論破する妄想で時間を浪費した。僕にとってのあの人は完全に敵であるということを自分に言い聞かせようとした。そう思い込んだ方が楽になれると思った。

 そして志郎さんの事も考えた。宣言通り、家の中を居心地悪くしてしまった。

 志郎さんはどうするのだろうか。話の分かる人ではあるので、僕と母の話を聞いて上手くたち待ってくれるといいなと思う。この間の話を聞く限り、僕の考えを尊重してくれそうなのは分かっているので、それだけは安心だった。

 家に着くと、母とは機械的なあいさつを交わすだけで会話が済んだ。母の態度は朝と大して変わらなかった。

 大人しく部屋に戻ると途端に眠気が出てきた。今朝はいつもの起床リズムが狂ってしまったせいだ。

 母の態度を鑑みるに、言葉の通り夕飯の支度などはしないだろう。僕は着替えを済ませるとキッチンへ向かった。そして料理は自分で作るが、食材や食器はどうすればいいのかを事細かに取り決めた。とは言え、母は昨日と今日とで言っている事が違くなることが多いので、要点だけは後でまとめておこうと思った。

 冷蔵庫から使っていいと言われた食材を出して、適当に刻むなり炒めるなりして一つ料理を作った。常日頃から料理をしている訳でないので、大分不格好ではあったが、小中学校の家庭科の授業で習うようなレベルのものなら何とか作れそうだった。

 志郎さんは別として、母とは食卓を共に囲いたくないし最早その必要もない。

 一人でさっさと早めの夕食を終えると、とっとと食器を洗って風呂に入ることにした。沸かすのも手間だったので寒くはあったがシャワーだけで済ませる。

 部屋に戻った後は大人しく宿題を始めた。昼間の学校の時もそうだったが、やけに頭が冴える日だった。

 課題を終えてみると、想定していたよりもずっと早かった。

 帰って来た時の眠気はいつの間にかすっかり冷めてしまっていた。かと言って勉強もこれ以上する気が起きなかったので、休憩がてら将棋盤と本棚から詰め将棋の問題集を引っ張り出すとパチパチと駒を並べ始めた。

 さと、と気合を入れたところで部屋をノックされた。

 渋々ドアを開けると、顔のない母がいた。

「何?」

「話があるからリビングにきなさい」

 しばらくは鳴りを潜めるか冷戦状態になるかと思ったが、考えが甘かった。また説教とも説得とも言えない会話をしなければならないのかと思うと嫌気がさした。

 一応は断ったが、それは否定された。これ以上の面倒事はそれこそ面倒だったので大人の対応として大人しく従うことにした。

 リビングには志郎さんが座っていた。いつ帰って来たのかは気が付かなかった。

「起きてた?」

「ええ。将棋して遊んでいたわ」

 その言葉で僕の燻りに火が付いた。この憶測だけで物を判断して、あまつさえこちらを逆なでする物言いをする癖だけは本気でどうにかしてほしい。

「そっちの椅子に座って」

「…その前にトイレに行ってきてもいい?」

「ええ。早く行ってきなさい」

 一旦トイレに入ると僕はスマートフォンの録音アプリを起動させた。

 何となく嫌な予感がしたからだ。誰に聞かせる訳でないが、録音しておいた方がいいような気がした。録音状態を確認すると、それをポケットに入れてリビングへ戻った。

 母と志郎さんが並んで座っており、僕は対面へと腰かけた。

「で、話って?」

「確認するけれど、仁は私たちが考えた名前を選ぶつもりはないのね?」

「三つ出揃っていないから、まだ選べてはいない」

「昨日は嫌だって言ったわよね」

「勝手に決められる事が嫌だとは言ったかな」

 そっちの都合良いように解釈されてはたまらないので、細かいが訂正を入れる。

「はっきり言いなさい。選ぶ可能性はあるの? ないの?」

「今のところはかなり低いよ」

 そう言うと母は一つため息を吐いた。

「そう、わかったわ。ならお母さんが今朝言ったことも承諾するってことでいいのね?」

「家を出てけって話を言ってるの?」

「そうよ」

「本気で言っているなら出て行くよ」

「出て行ってどうするつもり? 働くの? それとも進学するの?」

「今日、そっちがいきなり言い出したんだ。まだ何も決めてないさ。進学だって西南大を目指せって言ったのは母さんでしょ。志望校も勝手に決めていいって事?」

「出て行くんだから全部あなたの自由にしなさい」

「ああそう。だったら尚更、卒業した後のことは分からない」

「まあ、出て行くというのは認めているみたいだから、その後の事は追々で良いわ」

 母は志郎さんとアイコンタクトを取った後、後ろの引き出しからプリント用紙を二枚取りだし、その内の一枚をこちらに寄越してきた。

「じゃあ、これを読んでサインしてくれるかしら?」

「なにこれ?」

「志郎さん。読み上げてみて」

 それまで口を噤んでいた志郎さんが初めて声を出した。差し出された紙に書いてある文書を一言一句違わずに読み上げる。

 紙には大きめのフォントで誓約書と書かれていた。

 ~~~

 誓約書

 乙川仁殿

  私、乙川仁は下記の内容を誓約いたします。



 ・高校を卒業した後、一か月以内に家を出て行くこと。

 ・現在、通っている塾を今月いっぱいでやめること。

 ・実家を出た後に、学費、生活費、その他一切の金銭的援助を求めないこと。

 ・二〇歳を迎えた時、乙川志郎、乙川裕子(以下両親)と親子の関係を切ること。

 以上を申し渡す理由は両親の助言を受け入れず、反発・反抗して家庭内の秩序を乱し、協調する意思を持たないためである。それ故に両親は、親子の関係を維持していくことができないと判断しました。

 よって誓約書の内容を確認した上で、両親の要求に誓約するよう命じ渡します。

 ~~~

 目で文字を追い、淡々と文を読み上げる志郎さんの声も間違いなく聞き取れているのに、何が書いてあるのか理解が追い付かなかった。

 そして僕の混乱に付け入る様に、母はサインペンを差し出し冷たく言った。

「じゃあ、ここにサインして」

「待ってよ。何だよこれ」

「誓約書よ。ここに書いてある事を守るよう、サインを書いて」

「…本気で言ってるの?」

 そう聞いたが本気なのは分かり切っている。こういう冗談を言う人間ではない。それでも、口が勝手に薄い希望を吐露していた。

「勿論本気よ。お母さんが邪魔なんでしょ? 家を出て行くってのはこういう事よ」

「親子の関係を切るってどういう事? 絶縁するって言ってるの?」

「そう。言ってる通り」

「家を出た後金銭的援助を求めないって…」

「当然の事でしょう。家族の事を考えるから家族は家族になれるの。あなたみたいに自分さえ良ければいいって考え方は、はっきりいって大迷惑です。親のいう事が聞けないなら出て行く、出て行くならお金のこともきちんとしなきゃいけないわ。ただ、いきなり無一文で追い出すほど私たちも鬼じゃない。進学するならあなたの為に貯めておいたお金があるから。一応進学すると考えて学費として百万、当座の生活費として百万、合わせて二百万円をあなたに渡します。それ以上は一切援助しません」

「…」

「反論や質問がないようならサインして」

 ない訳がなかった。ただ考えがまとまらず言葉が出てこないだけだ。それでもあがくように声を捻り出した。

「待ってよ。書ける訳ないだろ」

「どうして?」

「どうしてって…いきなりこんな紙突き出されて、馬鹿正直に書けると思ってるの?」

「あなたを子供じゃなくて、大人として認めてるの。大人なら単なる口約束だけじゃいけないってのは分かるでしょ? きちんと証拠が残るようしなきゃ後々ややこしくなるわ」

「いきなり過ぎるし、やり方も馬鹿馬鹿しいよ」

「けどさ、仁君。君は家を出て行きたいんだろう? ならサインしなよ」

 不意に横から飛んできた志郎さんの言葉が馬鹿に頭の中に響いた。そしてそれに反射するかのように顔を見た。表情がいつもとまるで違くて、何も読み取れない。

 今まで中立的な立場に立っていてくれていた志郎さんの雰囲気は、影すら残っていないように思えた。

 少なくとも今は完全に母の側の人間だった。

 水の中に零したインクのように嫌な気配がジワリジワリと僕の中に広がっていく。

「出て行きたいんじゃなくて、出てけって言われてるんですけど」

「なら出ていけって言われてる理由は分かってる? 僕も見てきたけど、君にも非はあると思うよ」

「何があるっていうんですか?」

「だからさ、纏めて言っちゃうと仁君はこっちの言う事を聞きたくないんでしょう? なら聞かなくていいようにするからサインしてって事なんだけど…分からないかな?」

 目の笑っていない笑顔というものを初めてみた。まるで出来の悪い幼稚園児を諭すかのような口調と態度には、苛立ちよりも怖さが先に出てきた。

 本当に僕の知っている志郎さんとは別人に思える。

「理屈は分かりますよ」

「分かるんだったらサインしないと」

「ただ納得できない」

「何が?」

「一方的過ぎるからっすよ」

 鼓動も息も語気もどんどんと荒く強くなっていく感覚だけが、僕の中に残った。

「そうかな? 君の言い分も分かるけど優子さんの言い分も間違ってはないと思うけどな」

「子どもは親のいう事を聞く。それが普通で常識なの。あなたにはそれがないから出て行ってもらう。そしてお互い後腐れがないように誓約書を書きなさいと言ってるの。何か間違っている事言ってる?」

「そりゃあ他人同士ならそうなるかも知れないけど、親子なんだよ?」

「こうなってから親子だって言い出すのは考えが甘いわよ。きちんとした親子なんだったらまず、今までの反抗的な態度を改めて謝りなさい」

「…何なんだよ、一体」

 昨日の母と口論した時のことを回想した。

 僕はそれ以上に声を荒げ、叫んだ。

「僕がどんな気持ちでいたのか知ってんのかよ。全部…全部……全部勝手に決められて! 離婚するのも、引っ越すのも、再婚も進学も全部勝手に決めてそれで言う事聞かなかったなんてよく言えるな。父さんに会うな、将棋はもう止めろ、その分勉強しろ…そして今度は自分に都合よく書いてきた誓約書にサインしろって何なんだよお前、本当に」

「けど従いたくないんだろ? ならサインしろよ」

 いつもの志郎さんからは想像できない声で、命令するように言った。

「嫌だっつってんだろ」

「ならどうするつもりなの? 親の言う事を聞くのが嫌だから家は出て行く。けど生活費は親が出せっていうのは理屈がおかしいでしょ? 小学生じゃないんだから」

「…それにね、仁君は色々我慢してきたって言ってるけど、それは君だけじゃないんだよ。僕だって君の父親になろうと努力して、我慢する場面だってあったさ。けどこっちが打ち解けようとしても君は基本的につっけんどんだったろう? あまつさえ目の前で、前の旦那の事を言われる僕の気持ちを考えたことあんのか? あんまり人を馬鹿にするんじゃねえぞ、テメエこの野郎」

「っ…」

 どす黒い声に僕は思わずたじろいだ。

 志郎さんの冷たく突き放す言葉に、僕は裏切られたと苦しくなった。そう思うということは自分でも、無意識のうちに志郎さんを信頼していたのだろう。

 そしてそれ以上に、自分の考えている真意が何故捻じれてでしか伝わらないもどかしさが苛立たしく、消化できない葛藤のやり場に困った。僕の言葉が足りないのか、そこまで自分の思いが伝わっていないのかと思うと恐くなった。

「馬鹿になんてしてませんよ」

「君がその気でなくても、事ある毎に言われると馬鹿にされてると思うんだよ」

「…とにかくサインはできないよ。そっちはここまで用意周到にしておいて、僕にだけ即決を迫るのは卑怯だろう」

「卑怯でも何でもない。社会に出たらこのくらいの事は普通にある。君に社会経験がないだけだ」

「…」

「言う事はもうないんでしょ。ならサインをして」

「…わかったよ。ただ言質を取るんだったら、そっちも家を出るに当たって二百万円を渡すと明記して」

「わかったわ」

「ここの後ろに括弧書きで、当座の生活費として二百万円を譲渡すると書きます。納得した?」

「ああ、いいよ」

 僕は観念した。けれどもここまで言われて素直に謝る気など到底起きなかった。

 母は消沈した僕を見た。そして微笑んで言った。

「後もう一つ、書き加えます。『但し高校卒業までに誠意をもった対応を見せたと判断したときはこの誓約の一切を無効とします』とも書いてくれる? 問題ないわね?」

 何を思ってそう言ったのだろうか。そして何故母は笑っていられるのだろうか。

 言いたい事が言えたからなのか。思い通りに誓約書が出来上がったからだろうか。それとも単に僕を嘲笑しているだけなのかもしれない。

 人の笑顔ってこんなに気持ち悪いモノだっただろうか?

「勝手にすれば」

 吐き捨てるように言った。

「了解がもらえたから、志郎さん書き足してくれる?」

「わかった」

 志郎さんは両方の紙にその旨を書き加えた。

 そしてその場の三人が、それぞれの署名欄に自分の名前を綴った。

 僕はこの時には、もうどうでもよくなっていた。

「はい。これはあなたの控え。言われなくとも分かってるとは思うけど、失くさないように保管しておきなさい」

 この場にはこれ以上は一秒たりとも居たくはなかった。頭はフラフラとしているが、早々に部屋に戻るために立ち上がろうとしたところで志郎さんに呼び止められた。

「仁君」

「はい?」

「君の言いたいことは分かったし、僕も言いたいことは言った。これで一旦はリセットできたと思ってる。この後、何をどう考えるか分からないけれど、頑張ってね」

「はい」

 顔も声音もいつものそれに戻っているが、返って気味が悪かった。

 一刻でも早くここからいなくなりたかったが、その焦りが出てしまった。

 パーカーのポケットに入れていたスマートフォンを立ち上がった勢いで落としてしまった。そして悪いことに、気を利かせた志郎さんに拾われてしまった。

 背筋に嫌な汗が流れる。

 拾った時にふと画面が視界に入ったのだろう、まるで汚いものを見るような、それでいてどこか冷静な目で志郎さんは僕を見た。

「何? 録音してたの? 見かけによらず、すごいことするね」

 そのまま画面を母も見せる。

 そして大したことではないと言わんばかりに、余裕をもって僕に手渡してきた。

「いいんじゃない? 人に聞かれて困るような事は言ってないよ。当たり前の事を言っただけなんだから」

「そうね」

 母も猜疑的な目を向けてきてはいたが、特に言及されることはなかった。

 その二人の態度に僕は焦り、二人に飲まれまいと強がった事を言う。

「心配しなくたって使いませんよ。なんなら今消しましょうか?」

「別にいいって」

「そっすか…」

 そこからは素早く部屋に戻った。そしてベットの中に潜り込むと、改めて空しさや悔しさ、怒りや情けなさといったおよそ負の要素にカテゴライズされるであろう感情が襲いかかってきた。頭にも心にも隙間はなくなり、二人の表情や声が何重にもエコーしている。

 どれだけ時間が経っても興奮が収まることはなかった。いや、時間が流れている事すら気にする余裕がなかった。カーテンを通り越して朝日が部屋に差し込まなかったなら、一睡もできずに夜を明かしたことにも気が付かなかったと思う。

 カーテンの間から橙色の陽の光が目に入った。

 僕は思い立つよりも早く、家を出る支度をしていた。

 服を着替え、ノートと本をカバンに詰め込んだ。財布と携帯電話を間違いなく持ったことを確認すると、二人に気が付かれないよう気配を殺して家を出た。

 外は冬の朝に相応しい温度だった。けれども僕にとっては暖かかった。世界中のどこと比べても、この家に比べれば暖かく感じられると思った。

 行く当ては全くなかった。息を吐くと朝日に照らされながら風に流され、いつもの通学路の方へ消えていったので、それに倣って足を向けた。そうすると定期があるから駅に向かおうとか、いっそのこと街にまで行ってしまおうかと、色々な考えが湧き出てきた。

 肺に入る空気はとても冷たいが、それが返って生きている実感のような、そんなものを感じさせてくれた。

 冬が好きな人間でよかったな、と思いながらまた白くなる息を吐き出した。
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