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初恋の人と、そして従兄との会話
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考え事は時間と足を速くしてくれた。角に見えているコンビニを曲がれば、あとは父の店まで一直線の道になる。
ルツさんとの会話は頭の中でずっと尾を引いて、脳内を渦巻いていたのだが、急に声を掛けられたことで霧消してしまった。
「乙川君?」
見ればクラスメイトの若山さんがいた。しかし、普段とは違う髪型になっていたので、一瞬誰だか分らなかった。
「ビックリした。どうしたの、若山さん」
「いやー、見かけたから声かけたんだよ。何してるの? 部活は?」
「今日は休み。というか運動部でもないし、毎日集まる事ってほとんどないんだよ。集まったって二人だけだし」
「二人? 廃部にならないの?」
「何とか周りに頼み込んで、名前だけ入部してもらっている人が後三人いるから大丈夫。僕が卒業したら分かんないけど」
「何か大変だね」
今までも数回、同じような会話になり同じように返されていたのが頭を過ぎった。
「別に。大勢いなければならない部活でもないしね。というか若山さんこそ部活は?」
「ウチは先生が会議で来れないって理由で純粋に休み。けど、友達みんな予定合わなくてさ。帰るのも勿体ない気がして一人寂しく買い物してたんだよね。このあと暇?」
いきなり予定を聞かれて戸惑う。てっきり社交辞令的なあいさつを交わしたら、サヨナラマタガッコウデ、とでも言われると思っていた。
「なんで?」
「近くにさ、すごい美味しいコーヒー入れてくれるお店があるんだけど、一緒に行かない?」
僕史上初めて、クラスの女子に誘われた瞬間だった。
安易に誘いに乗ろうかと思ったが、いつかした有名人との会話を思い出す。
「ダメでしょ。彼氏いるのに男と一緒にいちゃ」
「あれ? 知ってるの?」
若山は意外そうな顔をした。まあ、そんな話題を振ったことのない相手が事情を知っていれば無理からぬとも思った。
「有名人に聞いた」
「あんにゃろ…けど大丈夫だよ」
「女子の可愛いと大丈夫って言葉は信用できない」
これは僕ではなく有名人の言葉だ。有名人が何を思って口にした言葉から知らないが、僕も同意している。
そういうと一瞬キョトンとした顔を見せた。そしてすぐに破顔した。
「あはは、ホントに大丈夫だって。もう別れちゃったし」
その言葉に、今度は僕が呆気に取られてしまった。何か言おう、何か言おうと思考だけが駆け巡ったが、出てきたのはみすぼらしい三文字だった。
「…あ、そう」
「じゃあ行こうか」
いよいよこっちに断る理由がないと勝手に判断され、付き添うことになった。
ルツさんといい、若山さんといい、僕は押しの強い女性に弱い男なのだろう。
歩き始めてからは会話はなかったが、嫌な予感はあった。
女子から誘われたという事実そのものに動転していたが、確か美味しいコーヒーを飲みに行こうと言っていたはずだ。コーヒーには一家言あるので父が店を始める前から、この街にある喫茶店は大体把握しているつもりだった。そして若山さんが向かう先には、一つ思い当たる店がある。
彼女はとある店の前で足を止めると指差しながら微笑んだ。
予感は当たっていた。
こっちの気も知らず、若山さんは早々に父の店のドアを開けた。
「こんにちは」
「おや、いらっ……しゃい」
父は入ってきた二人の顔を見て一瞬固まった。
若山さんは口ぶりから察するに常連とまで行かずとも、何度来たことがあるのだろう。慣れたように店の奥に進んで行った。
「テーブル席、座っていいですか?」
「ああ、大丈夫だよ。そっちの男の子は? 彼氏?」
「いえいえ、クラスメイトです。偶々そこで会って」
「へえ、そうなんだ」
そう言って父は若山さんに見えないように、僕にウインクをしてきた。が、一体どういう意味だったのかは分からない。
大人しく二人で奥のテーブル席に座る。奇しくも僕が一人でいる時に座る席だった。二人で座ると何とも落ち着かない雰囲気になってしまう。
「どうする? 何でもおいしいけど」
「同じでいいや。目移りしそうだから」
僕は飽くまで、初めて来た体を貫くことにした。
若山さんは少し悩んでいたが、水を出しに来たマスターに勧められた「新商品X」という胡散臭い名前のコーヒーがツボに入ったらしく、笑いながらそれを頼んだ。
待つ間に会話がないのもどうかと思い、必死に話題を探した。ルツさんとなすんなり話ができるのに、何故同世代の女の子が相手だとこんなに緊張するのかが、自分でも不思議だった。ただ、こちらの懸念は若山さんが解決してくれた。
「そう言えばさ、第三者面談したでしょ? どうだった垣さんは?」
「すごい人だったよ。面白いって言ってたのがよく分かった」
「でしょ?」
そう言ってお互いに、垣さんの事を思い出して笑った。
「名刺貰って見た時はびっくりしたけどね」
名刺という単語に僕は食い付くように反応した。
「名刺もらったの?」
「うん。一番最初に。もらわなかったの?」
「もらわなかったな」
僕は咄嗟に嘘をついた。素直に言っても良かったのに、何故誤魔化したのかが自分でも分からなかった。
「名刺って今も持ってる?」
「えと、確か財布に入れっぱなし」
若山さんはごそごそと財布を出して、中を調べた。するとすぐに名刺は見つかった。僕は伝え忘れたことがあり、連絡先を控えてもいいかどうかとまた嘘をついて尋ねた。若山さんは特に疑うこともなく承諾してくれたので、ありがたく名刺の写真を撮った。そして僕は、話題を変えた。
「因みに若山さんはどういう会話したの?」
「最初はね、垣さんの名前の話しだったよ。名前が人に与える印象っていうのは馬鹿にできないって言われて、垣さんの名前の苦労話になって、私は私で自分の名前の不満が漏れてさ。最終的には二人で名前の愚痴で盛り上がってた。乙川くんの方は?」
「垣さんの名前の話しから始まったのは一緒かな。その後は延々名前に関するうんちくを聞いてた。すごい知識量で圧倒されてた」
「へえ。私はそこまではならなかったけど、すごい勉強家だなってのは伝わってきた。だから新名も気に入ってるし」
「僕も、垣さんから新名を貰うのは楽しみって言えば楽しみかな」
「いつ分かるの?」
「来週だね」
まるで遠足の日取りを伝えるかのように、声がワクワクしていたと自分でも気が付いた。
「そっかー。それを選ばなくてもさ、何て名前を考えたのか教えてよ。すっごい気になる」
「わかった。教えるよ」
「絶対ね」
丁度一旦会話が途切れたタイミングで注文したコーヒーが出てきた。
父はまた、若山さんに気が付かない角度で僕にウインクして寄越した。意図は全く分からない。
互いに新商品Xとやらを一口飲む。若山さんは美味しいと言っていたが、僕は先日に実験体にされたときのコーヒーだと気が付いた。
今度は話題を思いついたので、僕から切り出した。
「若山さんは、新名を決定するの迷わなかったの?」
「先生が考えてくれたのと比較はしたかな。でも決める段階で大分垣さん寄りだった様な気がする」
「親が考えたのは?」
「論外」
冷たく言い放たれた。
何の気なしに聞いたことをすぐさま後悔し、気まずさをコーヒーで押し流す。
「ああ、そう」
「私が何で喜多高に行ったのか、全然分かってくれてないの」
そう言いながら、オーバーなため息を漏らす。
僕は僕でどうせ地雷に足を乗せたのならと、もう少し掘り下げて聞いてみようと思った。
「悩んでいるうちに色々と考えたり、話聞いているけど実際問題、名前が変わるってどんな感じ? 名前が変わったって何も変わらないし、名前だけで人間性は分からないって話が多かったんだけど」
「名前で人間性は分からないかも知れないけど、勝手に判断はされるよ。こういう名前を考える親に育てられている子供はこうだろう、って周りは勝手に想像するし、それが勝手に私の性格にすり替わって判断されているってのも経験したし。だから乙川君が話を聞いた人の事を悪く言う訳じゃないけど、きっとその人たちは普通の名前で、親が普通の人たちなんだよ」
若山さんは、とても強い意志というか熱意の籠った目をしていた。僕は自分の軽はずみな意見を謝った。
「何か、ごめん」
「ううん、謝んないで。だから私は自分が納得できる名前を選んだの。だからどれにするかじゃなくて、親に何て説明するかの方が悩んだかな。何故か知らないけど、自分たちが考えた名前が選ばれるって思ってたから――あ、ごめんね。自分の話ばっかりで」
「そっちこそ謝んないでよ。僕が聞いたんだし。けど、親の説得か…それはきちんと考えてなかった」
ついつい声と表情が陰ってしまった。
今度は若山さんの方が申し訳なさそうな顔をしている。
「親の考えた名前、気に入ってないの?」
「正直に言うとね。先生のも別に思い入れはないし。垣さんの考えてくれる名前には、大分期待してるよ」
「大丈夫だよ、色々言われるかもしれないけど、決定権は私たちにあるんだし」
「そうだね。僕たちは反抗的なのかな」
僕の問いかけに対し、若山さんは何故だかとても柔和な笑みで返してきた。
「犬だって理由もなく吠えないでしょ。吠えられるだけの何かをしたんだって思ってくれなきゃ、後は噛みつくしかできないもの」
「確かに。反抗期の一言で片付けられたくはないね」
「大人じゃないと言われればその通りかもしれないけど、何も考えてない訳じゃないしね、こっちだって」
その時、若山さんの携帯が鳴った。カバンの中からスマートフォンを取り出して、メールを開き内容を確認すると飛ぶように立ち上がった。
「あ、やば。忘れてた」
「どうしたの?」
「家の用事。今日の夜だってすっかり忘れてた。部活の休みが嬉しくて」
「じゃあ、また明後日、学校で」
「うん。乙川君は、どうする?」
「僕はまだまだ時間あるし。折角だからもう少しここにいるよ」
「ならまた明日」
慌ただしく帰り支度をして、ドタバタと駆けていった。
レジの前で財布を取り出して、マスターを呼ぶ。父はカウンターの奥からのらりくらりと出てきて言った。
「いや、お金はいいよ」
「え?」
「こういう時は男が出さないと。ね?」
そう言って再度、僕に向かってウインクしてきた。今度は右手の親指も立てている。
若山さんも突如何を言い出しているのかと理解が追い付いていない様子だった。
「いや、でも」
「大丈夫。急ぐんでしょ?」
どういうつもりかは知らないが、急いでいる若山さんの為に父の考えに大人しく乗った。
「本当に?」
「大丈夫だよ。そんな高いものじゃないんだし」
「ありがと。今度は私が何か奢るから」
「うん。よろしく」
ドアにぶら下がった鈴の音に見送られ若山さんはいなくなった。
それを確認してから父がそそくさと僕の前の席に、好奇に満ちたニヤニヤした面をぶら下げて坐った。
「で? 本当に彼女じゃないのか?」
「違うって。本当にただのクラスメイト。小学校の時も一緒だったから、少し仲が良いだけだよ。まあ、実は初恋の人でもあるんだけど」
僕はつい余計な事を吐露した。
「ほら見ろ。少しは男気を見せておいて正解だったじゃないか」
「四八〇円の男気なんてなんの意味もないし、初恋だったとしても今も恋してるとは限らないだろ」
「ふうん。じゃあ今好きな人は別なんだな」
「まあね。ただ少し前まで憧れてた人はもう手遅れだし、今憧れてる人は太平洋が隔てることになるんだけど」
「なんだそりゃ」
「とにかく若山さんとは別に何でもないよ。本当に偶然そこで会っただけ。美味しいコーヒーを出す店があるって言われて付いてきたけど、まさかココだとは思わなかった」
「ふふふ」
父は不敵に笑った。
「何さ?」
「いや、順調に店の知名度が上がってきてると思ってな。思わずにやけちまった」
「アホくさ」
「で、どうする? 帰るか?」
「いや。折角だからもう少しいるよ。新商品Xおかわりで」
「はいよ」
「父さんさ、名前が呪いって聞いてピンとくる?」
コーヒーを注ぐためにカウンターの向こう側に行った父に、僕は唐突に質問をした。てっきり戸惑って返して来るかと思ったが、冷静な声が返ってきた。
「何だ? 陰陽師にでもハマったか?」
「え? 陰陽師?」
「違うのか? そういう話かと思ったんだけど」
「少し詳しく」
父はどっちだよ、と鼻で笑った。
新しいカップに新商品Xを入れて持ってきてくれた。カップが二つあったので、腰を据えて話してくれるようだった。
「どういうつもりで聞いたのかは知らないけど、名前が呪いってのは陰陽師みたいな話だなと、そう思ったんだよ」
「陰陽師って、阿倍晴明とかのこと? それ以外知らないけど」
「俺も、あとは蘆屋道満くらいしか知らないな」
「で、どういうこと? まあ、陰陽師が呪いを掛けるってのは分かるけど」
「呪いと言うか正確には『シュ』というらしいけどな」
「シュ?」
「ああ。呪いの一文字書いてシュって読む」
「ん? ジュじゃないの?」
「呉音ってヤツだな。待ってろ」
父はすぐ横にあった本棚から漢和辞典を取り出して調べ始めた。なぜ喫茶店の本棚からすぐに漢和辞典がすぐさま出てくるのかは、この際触れないでおくことにした。
「ほら」
見れば『呪』という漢字の読み方や成り立ちや書き順の他、その字を使った熟語などが羅列されている。
「本当だ。シュとも読むんだ。で、ノロイとシュとは違うの?」
「そこがややこしいんだけどな。ノロイが全体ならシュはその一部って事になるのかな? じゃあシュというのが一体何なのかと聞かれるとつまり―――それが持っている意味のことだと俺は思うな」
「意味?」
「そう。今開いている漢和辞典は漢字一文字ずつの意味が書いてあるだろう。例えば、今となりのページに『和』って文字があってその意味やら成り立ちやらが書いてある」
それを確かめようと目を移す前に、父は素早く漢和辞典を引っ込めた。
「じゃあ仁。『和』って文字の持っている意味を言ってみろ」
「ええと――平和の和だから、落ち着くとか優しいとか…あとは日本そのものの事? 和風って書くし。他には、ナゴむとヤワらぐって読むから柔らかいみたいな意味があったりするのかな」
「ふむ、概ね合っているな。後は調子を合わせるとか、足し算の答えって意味も持っている」
「あ、そうか」
答え合わせのように再び漢和辞典を僕の前に差し出してきた。概ねは想像通りだった。
「とまあ、今仁が並べたように『和』という文字には色々な意味が詰まっている。知っているものもあっただろうけど、平和の和みたいに熟語から連鎖的に意味を想像したりもした。これがつまりはシュというヤツだ。だから和って文字が入っている熟語なら何となく和やかに感じるし、名前に入っていたら和らぐ印象を与えやすい。ただの人間に和やかな性質を植え付ける訳だな。だから意味そのものがシュであり、和の文字を使って名前を付けることがノロイって事になる」
「けど、和の文字が付いていても和やかな人間になるとは限らないじゃないか」
「そりゃあそうだ。けど意味があるってことに意味がある。こうやって今二人で会話ができるのも、言葉の意味が分かればこそだ」
「そりゃあ、ね」
「つまりシュには他人との疎通や共有ができるって性質もある訳だ。名前がついているからこそ仁の一言で済むけれど、もしなかったとしたら三年とちょっと前に粋なコーヒーショップをオープンさせたダンディーなマスターの別れた女房との間にできた息子の君よ、と呼ばなきゃならない」
「そんな似非寿限無みたいな呼ばれ方は嫌だよ。それに言いたいことも分かった。そもそもコーヒーショップやマスター何て単語も意味が無くなってる訳でしょ、文字通り」
「そういうこったな。コーヒーショップのマスターってのも、またシュなんだから。肩書きがシュになる例は、例えば警察官とかは分かり易いんじゃないか?」
「警察官?」
「たまたま殺人現場に出くわしたとして、俺だったら逃げるか精々警察に通報するのが関の山だが、もしも警察官だったらそうは行かないだろう。犯人が逃げるんだったら追いかけたり、証拠を隠滅されないようにしたり、場合によっては逮捕しようと奔走するだろう。それこそが警察官の警察官たる意味である訳で、タダの人間に警察官というシュが掛かっている状態だ」
ここまで父の話を聞いて、垣さんとの会話を思い出していた。確かに重なる部分がある。僕は無意識に反芻した記憶の中にあった言葉を口にしていた。
「印象やイメージによって人の行動が制限される」
「お? 良い具合にまとめたな。警察官なら警察官らしく動かなきゃと思うだろうし、警察官ってのはそうであってほしいという思いもある。けれども、警察官全員が勤勉で勇気があるとも限らないし、犯人を捕まえられたからと言ってその人が警察官になれる訳じゃない。シュにはさっき言った通り共有性もあるから、他人が警察官と認めなければ通用しないし、そもそも自分にだって警察官だという自覚が必要だ。警察官が一体どんなものでどういう意味があるのか、それを共有させるには――やっぱり教えるか育てるかしないといけないだろうな」
「大切なのは名前じゃなくて、それぞれの意識の育て方ってことか」
育て方、という単語にまた僕の中の記憶が反応する。
「まあな。意識っていうのは良い言葉かも知れん。『ケイサツカン』って音の響きだけじゃ実際にはなにも機能しない。それにシュが掛かってこそ、捜査権やら逮捕権やら市民の平和を守る責任を持っていると意識する。意識するからこそ警察官らしく振舞う――さっきの仁の言葉を借りるなら行動が制限されるんだな」
「その意識を育てるためにはさ、どうしなきゃいけないんだろう?」
「そりゃあやっぱり、教えていかなきゃいけないだろうな。親や先生に限らず本人の感性によるところもあるだろうけど、やっぱり最初は誰だって分からないんだから、正しく呪いをかけていかなきゃ」
「何か引っかかる言い方だね」
「面白くていいじゃないか」
父はそれは愉快そうに笑顔になった。
「因みにさ、親や先生だって人間なんだから間違ったり、嫌気がさしたりすることだってあり得るだろ?」
「まあ人間だからな。」
「どうすればいいと思う?」
「難しいなあ。教える側の根気か、忍耐か。知識や常識だって必要だろうし、そもそも教えたい教わりたいって思う本人たちのやる気もあるだろうしな―――でも」
「でも?」
「育つ育てると色々考えるけど、結局全部を上手い事まとめて言えば――それを教える奴の、子どもに対してだったら親の愛情、とかになるのかね。ま、俺の言えた義理じゃないか」
愛という言葉が出てきた途端、僕は吹き出した。まるでこの今まで聞いてきた色々な人達との会話のダイジェスト版になっているのが面白かった。けれども父さんは、らしくないことを笑われたのかと勘違いしているようだった。少しすねたように言われた。
「笑う事はないだろう」
「いや、ごめん。なんだか誰かに操られているような気がして」
「なんだそりゃ」
「けどさ、何でそんなことを色々知ってるの?」
「コーヒーショップのマスターなら博識な方がいいだろう? これもノロイだよ…というのは冗談として、まあ好きだったんだよなこういう話が。仕事が忙しくても本を読むのだけは止められなかった。だから愛想尽かされて別れちまったのかな」
「程々にしておけばいいものを」
「好きなものっては止まらないんだよ。知ってるだろ」
僕は同意した。
母がどう思っているのかは分からないが、少なくとも僕は父をこういうところに失望したことはない。
会話の合間に二人ともコーヒーを啜った。飲んだ後につくため息の仕方が自分でも父にそっくりで驚いて、漏れるような笑いが出た。
「ねえ、個性って生きて行くのに必要なものなのかな」
僕は唐突に、前振りもなく聞いた。
父は別段、驚くことも不思議そうな顔をすることもなく真剣な眼差しで僕を見た。
「仁、今高校二年だっけか?」
「え? うん」
こう答えた途端、父はクツクツとさぞかし愉快そうに笑った。
「何で笑うのさ」
「悪いなぁ。お前は俺の息子みたいだ」
「は?」
「ちょっと、こっちへついて来い」
父は扉にぶら下がっていた木札をひっくり返し、休憩中の文字を店外へ見せるように直した。するとすぐさま踵を返して店の奥へと入って行った。この奥は正面がトイレ、左側にスタッフルームとは名ばかりの父の部屋がある。僕は初めてその部屋に入ることになった。
中は六畳より少し広い位の部屋で小上がりの座敷になっていた。事務所と私室を足して割ったような散らかり方で、パソコンの周辺には帳簿や小説が数冊と食べ終わったサンドイッチの皿があり、壁のヘリには服が掛かっている。畳の上は書類があちこちに積まれており、汚いとは言わないが綺麗とも言えない。父は部屋に入るとすぐに左に曲がった。
父の肩越しに見ると、暖簾ともカーテンとも言えない布が垂れ下がっている。それをめくると奥には二階へと続く階段があった。
階段を登りながら父は言った。
「今となっては自他ともに認める愛書家だけど、本を読み始めたのはさ、高校二年生の冬休みからだったんだよ。クラスにすごい色々な蘊蓄ばっか言える友達がいてな、そいつにちょっと憧れて本を読み始めたんだ。で、読み耽っているうちに積りに積もってこんなになっちまった」
「すご」
思わずそんな一声が出た。
二階は正しく本の部屋であった。質素なゴシック調の室内には父が長年集めたのであろう、様々な蔵書が本棚や台の上に所狭しと置かれている。一つしかない窓は細長く、中に入って来る光は多くない。けれどもその窓際にある一人用のクラシックな読書机が差し込む微光によって演劇の舞台のように照らされているのが、たまらなく好きになってしまった。ここにいるだけで頭が一つ賢くなったような気がしてくる。
父の本の収集癖は当然知っていたのだが、改めて驚かされるとは思っていなかった。
「前の書斎にあった時より大分増えてない?」
「まあな、買い足した分もあるし、実家から持ってきたのもあるし。洒落にならないくらい本のある喫茶店ってコンセプトにしようと思ってたんだ、最初は。」
「今だって普通の喫茶店にしては多いと思うよ」
「本が目当てのお客もいるくらいだからな」
まるで山頂から景色を見回すように首を動かしながら、ランプの明かりに吸い寄せられる虫のように読書机に足を進めた。
「なんか味のある机と椅子」
「勉強したい時なんかは使っていいぞ。寒さ対策は自分でな。読みたい本があれば持って行くか?」
「今日は大丈夫」
「そうか? で、さっきの話に戻るとな――俺も自分で個性的な何かが欲しくって読書を始めたんだ。高二の冬休みにな。今もそうだけど当時も小説とかにはあんまり興味持たずにいた。それで、今のお前と同じようにそもそも個性とは何ぞやと言う事を考え始めたんだ。その時は色々と拗らせて哲学書とか読んでいたから尚更考えてた」
「答えは出たの?」
「まあ、自分なりと言うか、自分が納得するようなものはまとまったかな」
「どんなの?」
「今言ったらつまらないだろう。しばらく考えてみて、今度教えてくれよ」
チラリと見た父の顔は笑っているとも真剣に何かを考え込んでいるようにも見えた。
その時、店の扉に付いた鐘が来客を告げた。
「おっと、誰か来たな」
そういって急いで階段を下って行く。
「少しだけ見てっていい?」
「勿論。風邪ひかない程度にな」
父は帰りがけに階段の手前にあった照明のスイッチを入れてくれた。
壁と天井にある電灯にもこの部屋に合わせようとした父のこだわりが垣間見えた。
僕はしばらくそわそわしていた。適当な当たりを付けて数冊の本を流し読みしてみたり、何をするでなく椅子に座ると読書机に頬杖をついたりした。気になる本は山ほどあったが不思議と読書に勤しむ気にはならなかった。この部屋には後日、キチンと覚悟を決めてからもう一度来たいなと思ったのだ。
結局は何もやらず、数分間ぼーっとしただけで一階に戻ることにした。
「よう。どうだった?」
「何かいるだけで賢くなったような気がする」
素直に思った事を言った。
「お客さんはもう帰ったの?」
他にお客さんがいる時は父はここまで砕けてこないので、てっきり帰ったのかと思った。けれども父は黙ってカウンターの向こうのテーブルを指差した。
「え?」
柱で死角になっていた陰を除くと、さっきまで僕が座っていたテーブル席に従兄の正嗣さんと奥さんの瞳さんが座っていた。そして傍らのベビーカーの中には一年半前に生まれたばかりで二人の息子である元が、どこか痒いところでもあるのかもぞもぞと動いていた。
「よう、仁」
「正嗣さん、瞳さん。何でここに?」
「今日休みだからさ、買い物ついでに出てきて、折角だからおじさんのコーヒーでも飲もうと思って」
「へえ」
「おっと元、どうした? 仁兄ちゃんのところに行きたいのか」
元は僕の顔を見るとニンマリと笑って両手を伸ばしてきた。僕は元をベビーカーから出して抱きかかえた。
まだ片手で数えられる程度しか会ったことはないのに、何故かすごい懐かれている。
「よーし、おいで」
「何が良いんだかね」
「波長でも合うのかな」
「まさか、本当は仁の子か」
「ええ、そうなの…実はあなたが出張中に」
「子どもの前で、性質の悪い冗談はやめてください」
「そうね。キスまでだったものね」
「やめろっつうの」
二人は互い互いに実にノリが良いというか、軽口が好きなのでこっちが気疲れする事が多い。特に瞳さんは正嗣さんと結婚した時からの付き合いなので、初めて会ってからまだ二年も経っていない。毎日顔を合わせるならいざ知らず、時たま会うくらいの親戚にここまで打ち解けられるのは凄いと思う。
「で、仁は上で何してたの?」
「別に用事があった訳じゃないけど。父さんの持ってる書斎の本を見せてもらってた」
「へえ。本好きも遺伝するんだね」
「なら元にはきっとサバゲー好きが遺伝するな」
「かもねー」
瞳さんは元のぽっぺたを指でフニフニと押した。
「今のウチから色々と仕込んでおく」
「色々と頑張れよ、元」
「あ、そう言えばさ、今話してたんだけど仁の名前の話ってどうなったの?」
「今考えてるところ」
「じゃあ候補は揃ったんだ」
「まあね」
「どんな名前?」
父の手前、母さんたちが考えた名前まで言うのは少々憚られたが、今更のことでもあるし、そんなことを気にするような人でない事も知っているので、担任の考案した名前と、垣さんの結果待ちの旨を全てひっくるめて話した。
「案外普通の名前だね」
「そりゃそうでしょ。どんなの期待してたんですか」
「これだっっていうような名前が来るのかと思ってた」
「所詮は名前ですからね」
「オジサンは考えてないの? 仁の新名」
「考えてないよ。考えたって候補の中には入らないし」
「そうなの?」
「そうだよ」
父はあっけらかんと答えたが、僕はやはり心に小さなトゲが刺さったくらいの罪悪感に似た感情があった。
「…はい。担任と公認命名士と、あとは保護者の三組が考えることになってるんで」
「そっかー」
「けど、俺はダメでも正嗣たちの話なら参考になるんじゃないか。なんせ、つい最近名前を考えたばかりの二人だ」
「そうだな。何でも聞いてよ」
「と言われても…元の名前の由来くらいしか」
僕は抱いている元の顔を見た。
「俺たちは前々からリストみたいなの作って置いたんだよな」
「うん。男の子と女の子の名前をそれぞれ三つ四つ考えてて、生まれたら改めて決めようかって話してたの」
「元は、男の子なら何はさておきまず元気が必要だって思って考えたんだ」
「辞書引いてみたら、他にも大きいとか良いモノとかいう意味もあるって書いてあったから、元に決めたんだ。一週間くらい迷ったけどね」
「まあ、その前に一悶着あったんだけど」
「一悶着?」
意味深な発言に僕は食い付いた。
「実はさ、生まれた時の赤ちゃんの顔見たらすっごい可愛くて、何を血迷ったか『愛生人』でラヴィットって名前を付けるところだったんだよ」
「…え?」
またいつもの様な冗談かと思った。思いたかった。けれども二人の顔は決して冗談でないと言っている。
正嗣さんは自虐的な笑いを挟んで続ける。
「え? ってなるのはよく分かるんだけど、あの時のテンションは本当におかしかったんだ。子供が生まれるっていうのはマジで凄いよ。色々な事が頭に巡って結局おかしくなるんだって」
「で、愛に生きる人になってほしいって意味でラヴィットになるところだったの。前もってここから選ぶ用のリスト作ってなかったら、マジでヤバかった。正嗣と二人してよく分からなくなっちゃってね。お酒飲んで酔っ払ってるのと似てたかも」
「だな」
二人はしみじみと、そして深々としたため息をついた。
「忠告しておくけどね、仁。出産ハイって多かれ少なかれ絶対あるよ。子供が生まれるって良くも悪くも人を変えるから」
「…気を付けます」
「ま、仁はもうちょっと先の話だろうけどな」
「高校生でしょ。彼女の一人くらいいないの?」
そう聞いてくる二人の顔はいつも通りの、ちょっと悪ふざけの過ぎる親戚のお兄さんとお姉さんだった。
「残念ながら」
事実、何もないのでそう答えた。
けれども元をベビーカーに戻している最中に、父が不敵に笑い始めた。
「ふふふ。けれど俺の息子も捨てたもんじゃないんだぜ?」
「どういう事?」
その場にいた僕以外の目が輝き出した。
父が僕と若山さんとの事を、嘘ではないが真実でもない脚色を加えて針小棒大に言うものだから、新名の話題よりも更に質問責めに遭った。大人たちがわいわいと喧騒に興じるのに反し、元は心地よさそうに寝てしまった。
気が付けば外は暗くなってしまっていた。いい加減、僕もげんなりしてしまったので、適当な理由をでっち上げて退散することにした。
外は寒かった。今まで暖かいところにいたから尚更骨身に染みる思いがした。
時間を見ようとポケットからスマートフォンを取り出した。画面には母からのメールが届いている事を知らせる一文があった。内容は単純明快に二言だけだった。
『いつまで遊んでいるの』と『話があるから早く帰ってきなさい』
返事をしないと後々面倒になるかと直感し、今から帰るとだけ送っておいた。
話とは何なのかは知らないが、少なくともほんの数分前までの疎ましくも和気藹々としたものでないことは簡単に予想できた。
心は寒くなった。今まで暖かいところにいたから尚更骨身に染みる思いがした。
ルツさんとの会話は頭の中でずっと尾を引いて、脳内を渦巻いていたのだが、急に声を掛けられたことで霧消してしまった。
「乙川君?」
見ればクラスメイトの若山さんがいた。しかし、普段とは違う髪型になっていたので、一瞬誰だか分らなかった。
「ビックリした。どうしたの、若山さん」
「いやー、見かけたから声かけたんだよ。何してるの? 部活は?」
「今日は休み。というか運動部でもないし、毎日集まる事ってほとんどないんだよ。集まったって二人だけだし」
「二人? 廃部にならないの?」
「何とか周りに頼み込んで、名前だけ入部してもらっている人が後三人いるから大丈夫。僕が卒業したら分かんないけど」
「何か大変だね」
今までも数回、同じような会話になり同じように返されていたのが頭を過ぎった。
「別に。大勢いなければならない部活でもないしね。というか若山さんこそ部活は?」
「ウチは先生が会議で来れないって理由で純粋に休み。けど、友達みんな予定合わなくてさ。帰るのも勿体ない気がして一人寂しく買い物してたんだよね。このあと暇?」
いきなり予定を聞かれて戸惑う。てっきり社交辞令的なあいさつを交わしたら、サヨナラマタガッコウデ、とでも言われると思っていた。
「なんで?」
「近くにさ、すごい美味しいコーヒー入れてくれるお店があるんだけど、一緒に行かない?」
僕史上初めて、クラスの女子に誘われた瞬間だった。
安易に誘いに乗ろうかと思ったが、いつかした有名人との会話を思い出す。
「ダメでしょ。彼氏いるのに男と一緒にいちゃ」
「あれ? 知ってるの?」
若山は意外そうな顔をした。まあ、そんな話題を振ったことのない相手が事情を知っていれば無理からぬとも思った。
「有名人に聞いた」
「あんにゃろ…けど大丈夫だよ」
「女子の可愛いと大丈夫って言葉は信用できない」
これは僕ではなく有名人の言葉だ。有名人が何を思って口にした言葉から知らないが、僕も同意している。
そういうと一瞬キョトンとした顔を見せた。そしてすぐに破顔した。
「あはは、ホントに大丈夫だって。もう別れちゃったし」
その言葉に、今度は僕が呆気に取られてしまった。何か言おう、何か言おうと思考だけが駆け巡ったが、出てきたのはみすぼらしい三文字だった。
「…あ、そう」
「じゃあ行こうか」
いよいよこっちに断る理由がないと勝手に判断され、付き添うことになった。
ルツさんといい、若山さんといい、僕は押しの強い女性に弱い男なのだろう。
歩き始めてからは会話はなかったが、嫌な予感はあった。
女子から誘われたという事実そのものに動転していたが、確か美味しいコーヒーを飲みに行こうと言っていたはずだ。コーヒーには一家言あるので父が店を始める前から、この街にある喫茶店は大体把握しているつもりだった。そして若山さんが向かう先には、一つ思い当たる店がある。
彼女はとある店の前で足を止めると指差しながら微笑んだ。
予感は当たっていた。
こっちの気も知らず、若山さんは早々に父の店のドアを開けた。
「こんにちは」
「おや、いらっ……しゃい」
父は入ってきた二人の顔を見て一瞬固まった。
若山さんは口ぶりから察するに常連とまで行かずとも、何度来たことがあるのだろう。慣れたように店の奥に進んで行った。
「テーブル席、座っていいですか?」
「ああ、大丈夫だよ。そっちの男の子は? 彼氏?」
「いえいえ、クラスメイトです。偶々そこで会って」
「へえ、そうなんだ」
そう言って父は若山さんに見えないように、僕にウインクをしてきた。が、一体どういう意味だったのかは分からない。
大人しく二人で奥のテーブル席に座る。奇しくも僕が一人でいる時に座る席だった。二人で座ると何とも落ち着かない雰囲気になってしまう。
「どうする? 何でもおいしいけど」
「同じでいいや。目移りしそうだから」
僕は飽くまで、初めて来た体を貫くことにした。
若山さんは少し悩んでいたが、水を出しに来たマスターに勧められた「新商品X」という胡散臭い名前のコーヒーがツボに入ったらしく、笑いながらそれを頼んだ。
待つ間に会話がないのもどうかと思い、必死に話題を探した。ルツさんとなすんなり話ができるのに、何故同世代の女の子が相手だとこんなに緊張するのかが、自分でも不思議だった。ただ、こちらの懸念は若山さんが解決してくれた。
「そう言えばさ、第三者面談したでしょ? どうだった垣さんは?」
「すごい人だったよ。面白いって言ってたのがよく分かった」
「でしょ?」
そう言ってお互いに、垣さんの事を思い出して笑った。
「名刺貰って見た時はびっくりしたけどね」
名刺という単語に僕は食い付くように反応した。
「名刺もらったの?」
「うん。一番最初に。もらわなかったの?」
「もらわなかったな」
僕は咄嗟に嘘をついた。素直に言っても良かったのに、何故誤魔化したのかが自分でも分からなかった。
「名刺って今も持ってる?」
「えと、確か財布に入れっぱなし」
若山さんはごそごそと財布を出して、中を調べた。するとすぐに名刺は見つかった。僕は伝え忘れたことがあり、連絡先を控えてもいいかどうかとまた嘘をついて尋ねた。若山さんは特に疑うこともなく承諾してくれたので、ありがたく名刺の写真を撮った。そして僕は、話題を変えた。
「因みに若山さんはどういう会話したの?」
「最初はね、垣さんの名前の話しだったよ。名前が人に与える印象っていうのは馬鹿にできないって言われて、垣さんの名前の苦労話になって、私は私で自分の名前の不満が漏れてさ。最終的には二人で名前の愚痴で盛り上がってた。乙川くんの方は?」
「垣さんの名前の話しから始まったのは一緒かな。その後は延々名前に関するうんちくを聞いてた。すごい知識量で圧倒されてた」
「へえ。私はそこまではならなかったけど、すごい勉強家だなってのは伝わってきた。だから新名も気に入ってるし」
「僕も、垣さんから新名を貰うのは楽しみって言えば楽しみかな」
「いつ分かるの?」
「来週だね」
まるで遠足の日取りを伝えるかのように、声がワクワクしていたと自分でも気が付いた。
「そっかー。それを選ばなくてもさ、何て名前を考えたのか教えてよ。すっごい気になる」
「わかった。教えるよ」
「絶対ね」
丁度一旦会話が途切れたタイミングで注文したコーヒーが出てきた。
父はまた、若山さんに気が付かない角度で僕にウインクして寄越した。意図は全く分からない。
互いに新商品Xとやらを一口飲む。若山さんは美味しいと言っていたが、僕は先日に実験体にされたときのコーヒーだと気が付いた。
今度は話題を思いついたので、僕から切り出した。
「若山さんは、新名を決定するの迷わなかったの?」
「先生が考えてくれたのと比較はしたかな。でも決める段階で大分垣さん寄りだった様な気がする」
「親が考えたのは?」
「論外」
冷たく言い放たれた。
何の気なしに聞いたことをすぐさま後悔し、気まずさをコーヒーで押し流す。
「ああ、そう」
「私が何で喜多高に行ったのか、全然分かってくれてないの」
そう言いながら、オーバーなため息を漏らす。
僕は僕でどうせ地雷に足を乗せたのならと、もう少し掘り下げて聞いてみようと思った。
「悩んでいるうちに色々と考えたり、話聞いているけど実際問題、名前が変わるってどんな感じ? 名前が変わったって何も変わらないし、名前だけで人間性は分からないって話が多かったんだけど」
「名前で人間性は分からないかも知れないけど、勝手に判断はされるよ。こういう名前を考える親に育てられている子供はこうだろう、って周りは勝手に想像するし、それが勝手に私の性格にすり替わって判断されているってのも経験したし。だから乙川君が話を聞いた人の事を悪く言う訳じゃないけど、きっとその人たちは普通の名前で、親が普通の人たちなんだよ」
若山さんは、とても強い意志というか熱意の籠った目をしていた。僕は自分の軽はずみな意見を謝った。
「何か、ごめん」
「ううん、謝んないで。だから私は自分が納得できる名前を選んだの。だからどれにするかじゃなくて、親に何て説明するかの方が悩んだかな。何故か知らないけど、自分たちが考えた名前が選ばれるって思ってたから――あ、ごめんね。自分の話ばっかりで」
「そっちこそ謝んないでよ。僕が聞いたんだし。けど、親の説得か…それはきちんと考えてなかった」
ついつい声と表情が陰ってしまった。
今度は若山さんの方が申し訳なさそうな顔をしている。
「親の考えた名前、気に入ってないの?」
「正直に言うとね。先生のも別に思い入れはないし。垣さんの考えてくれる名前には、大分期待してるよ」
「大丈夫だよ、色々言われるかもしれないけど、決定権は私たちにあるんだし」
「そうだね。僕たちは反抗的なのかな」
僕の問いかけに対し、若山さんは何故だかとても柔和な笑みで返してきた。
「犬だって理由もなく吠えないでしょ。吠えられるだけの何かをしたんだって思ってくれなきゃ、後は噛みつくしかできないもの」
「確かに。反抗期の一言で片付けられたくはないね」
「大人じゃないと言われればその通りかもしれないけど、何も考えてない訳じゃないしね、こっちだって」
その時、若山さんの携帯が鳴った。カバンの中からスマートフォンを取り出して、メールを開き内容を確認すると飛ぶように立ち上がった。
「あ、やば。忘れてた」
「どうしたの?」
「家の用事。今日の夜だってすっかり忘れてた。部活の休みが嬉しくて」
「じゃあ、また明後日、学校で」
「うん。乙川君は、どうする?」
「僕はまだまだ時間あるし。折角だからもう少しここにいるよ」
「ならまた明日」
慌ただしく帰り支度をして、ドタバタと駆けていった。
レジの前で財布を取り出して、マスターを呼ぶ。父はカウンターの奥からのらりくらりと出てきて言った。
「いや、お金はいいよ」
「え?」
「こういう時は男が出さないと。ね?」
そう言って再度、僕に向かってウインクしてきた。今度は右手の親指も立てている。
若山さんも突如何を言い出しているのかと理解が追い付いていない様子だった。
「いや、でも」
「大丈夫。急ぐんでしょ?」
どういうつもりかは知らないが、急いでいる若山さんの為に父の考えに大人しく乗った。
「本当に?」
「大丈夫だよ。そんな高いものじゃないんだし」
「ありがと。今度は私が何か奢るから」
「うん。よろしく」
ドアにぶら下がった鈴の音に見送られ若山さんはいなくなった。
それを確認してから父がそそくさと僕の前の席に、好奇に満ちたニヤニヤした面をぶら下げて坐った。
「で? 本当に彼女じゃないのか?」
「違うって。本当にただのクラスメイト。小学校の時も一緒だったから、少し仲が良いだけだよ。まあ、実は初恋の人でもあるんだけど」
僕はつい余計な事を吐露した。
「ほら見ろ。少しは男気を見せておいて正解だったじゃないか」
「四八〇円の男気なんてなんの意味もないし、初恋だったとしても今も恋してるとは限らないだろ」
「ふうん。じゃあ今好きな人は別なんだな」
「まあね。ただ少し前まで憧れてた人はもう手遅れだし、今憧れてる人は太平洋が隔てることになるんだけど」
「なんだそりゃ」
「とにかく若山さんとは別に何でもないよ。本当に偶然そこで会っただけ。美味しいコーヒーを出す店があるって言われて付いてきたけど、まさかココだとは思わなかった」
「ふふふ」
父は不敵に笑った。
「何さ?」
「いや、順調に店の知名度が上がってきてると思ってな。思わずにやけちまった」
「アホくさ」
「で、どうする? 帰るか?」
「いや。折角だからもう少しいるよ。新商品Xおかわりで」
「はいよ」
「父さんさ、名前が呪いって聞いてピンとくる?」
コーヒーを注ぐためにカウンターの向こう側に行った父に、僕は唐突に質問をした。てっきり戸惑って返して来るかと思ったが、冷静な声が返ってきた。
「何だ? 陰陽師にでもハマったか?」
「え? 陰陽師?」
「違うのか? そういう話かと思ったんだけど」
「少し詳しく」
父はどっちだよ、と鼻で笑った。
新しいカップに新商品Xを入れて持ってきてくれた。カップが二つあったので、腰を据えて話してくれるようだった。
「どういうつもりで聞いたのかは知らないけど、名前が呪いってのは陰陽師みたいな話だなと、そう思ったんだよ」
「陰陽師って、阿倍晴明とかのこと? それ以外知らないけど」
「俺も、あとは蘆屋道満くらいしか知らないな」
「で、どういうこと? まあ、陰陽師が呪いを掛けるってのは分かるけど」
「呪いと言うか正確には『シュ』というらしいけどな」
「シュ?」
「ああ。呪いの一文字書いてシュって読む」
「ん? ジュじゃないの?」
「呉音ってヤツだな。待ってろ」
父はすぐ横にあった本棚から漢和辞典を取り出して調べ始めた。なぜ喫茶店の本棚からすぐに漢和辞典がすぐさま出てくるのかは、この際触れないでおくことにした。
「ほら」
見れば『呪』という漢字の読み方や成り立ちや書き順の他、その字を使った熟語などが羅列されている。
「本当だ。シュとも読むんだ。で、ノロイとシュとは違うの?」
「そこがややこしいんだけどな。ノロイが全体ならシュはその一部って事になるのかな? じゃあシュというのが一体何なのかと聞かれるとつまり―――それが持っている意味のことだと俺は思うな」
「意味?」
「そう。今開いている漢和辞典は漢字一文字ずつの意味が書いてあるだろう。例えば、今となりのページに『和』って文字があってその意味やら成り立ちやらが書いてある」
それを確かめようと目を移す前に、父は素早く漢和辞典を引っ込めた。
「じゃあ仁。『和』って文字の持っている意味を言ってみろ」
「ええと――平和の和だから、落ち着くとか優しいとか…あとは日本そのものの事? 和風って書くし。他には、ナゴむとヤワらぐって読むから柔らかいみたいな意味があったりするのかな」
「ふむ、概ね合っているな。後は調子を合わせるとか、足し算の答えって意味も持っている」
「あ、そうか」
答え合わせのように再び漢和辞典を僕の前に差し出してきた。概ねは想像通りだった。
「とまあ、今仁が並べたように『和』という文字には色々な意味が詰まっている。知っているものもあっただろうけど、平和の和みたいに熟語から連鎖的に意味を想像したりもした。これがつまりはシュというヤツだ。だから和って文字が入っている熟語なら何となく和やかに感じるし、名前に入っていたら和らぐ印象を与えやすい。ただの人間に和やかな性質を植え付ける訳だな。だから意味そのものがシュであり、和の文字を使って名前を付けることがノロイって事になる」
「けど、和の文字が付いていても和やかな人間になるとは限らないじゃないか」
「そりゃあそうだ。けど意味があるってことに意味がある。こうやって今二人で会話ができるのも、言葉の意味が分かればこそだ」
「そりゃあ、ね」
「つまりシュには他人との疎通や共有ができるって性質もある訳だ。名前がついているからこそ仁の一言で済むけれど、もしなかったとしたら三年とちょっと前に粋なコーヒーショップをオープンさせたダンディーなマスターの別れた女房との間にできた息子の君よ、と呼ばなきゃならない」
「そんな似非寿限無みたいな呼ばれ方は嫌だよ。それに言いたいことも分かった。そもそもコーヒーショップやマスター何て単語も意味が無くなってる訳でしょ、文字通り」
「そういうこったな。コーヒーショップのマスターってのも、またシュなんだから。肩書きがシュになる例は、例えば警察官とかは分かり易いんじゃないか?」
「警察官?」
「たまたま殺人現場に出くわしたとして、俺だったら逃げるか精々警察に通報するのが関の山だが、もしも警察官だったらそうは行かないだろう。犯人が逃げるんだったら追いかけたり、証拠を隠滅されないようにしたり、場合によっては逮捕しようと奔走するだろう。それこそが警察官の警察官たる意味である訳で、タダの人間に警察官というシュが掛かっている状態だ」
ここまで父の話を聞いて、垣さんとの会話を思い出していた。確かに重なる部分がある。僕は無意識に反芻した記憶の中にあった言葉を口にしていた。
「印象やイメージによって人の行動が制限される」
「お? 良い具合にまとめたな。警察官なら警察官らしく動かなきゃと思うだろうし、警察官ってのはそうであってほしいという思いもある。けれども、警察官全員が勤勉で勇気があるとも限らないし、犯人を捕まえられたからと言ってその人が警察官になれる訳じゃない。シュにはさっき言った通り共有性もあるから、他人が警察官と認めなければ通用しないし、そもそも自分にだって警察官だという自覚が必要だ。警察官が一体どんなものでどういう意味があるのか、それを共有させるには――やっぱり教えるか育てるかしないといけないだろうな」
「大切なのは名前じゃなくて、それぞれの意識の育て方ってことか」
育て方、という単語にまた僕の中の記憶が反応する。
「まあな。意識っていうのは良い言葉かも知れん。『ケイサツカン』って音の響きだけじゃ実際にはなにも機能しない。それにシュが掛かってこそ、捜査権やら逮捕権やら市民の平和を守る責任を持っていると意識する。意識するからこそ警察官らしく振舞う――さっきの仁の言葉を借りるなら行動が制限されるんだな」
「その意識を育てるためにはさ、どうしなきゃいけないんだろう?」
「そりゃあやっぱり、教えていかなきゃいけないだろうな。親や先生に限らず本人の感性によるところもあるだろうけど、やっぱり最初は誰だって分からないんだから、正しく呪いをかけていかなきゃ」
「何か引っかかる言い方だね」
「面白くていいじゃないか」
父はそれは愉快そうに笑顔になった。
「因みにさ、親や先生だって人間なんだから間違ったり、嫌気がさしたりすることだってあり得るだろ?」
「まあ人間だからな。」
「どうすればいいと思う?」
「難しいなあ。教える側の根気か、忍耐か。知識や常識だって必要だろうし、そもそも教えたい教わりたいって思う本人たちのやる気もあるだろうしな―――でも」
「でも?」
「育つ育てると色々考えるけど、結局全部を上手い事まとめて言えば――それを教える奴の、子どもに対してだったら親の愛情、とかになるのかね。ま、俺の言えた義理じゃないか」
愛という言葉が出てきた途端、僕は吹き出した。まるでこの今まで聞いてきた色々な人達との会話のダイジェスト版になっているのが面白かった。けれども父さんは、らしくないことを笑われたのかと勘違いしているようだった。少しすねたように言われた。
「笑う事はないだろう」
「いや、ごめん。なんだか誰かに操られているような気がして」
「なんだそりゃ」
「けどさ、何でそんなことを色々知ってるの?」
「コーヒーショップのマスターなら博識な方がいいだろう? これもノロイだよ…というのは冗談として、まあ好きだったんだよなこういう話が。仕事が忙しくても本を読むのだけは止められなかった。だから愛想尽かされて別れちまったのかな」
「程々にしておけばいいものを」
「好きなものっては止まらないんだよ。知ってるだろ」
僕は同意した。
母がどう思っているのかは分からないが、少なくとも僕は父をこういうところに失望したことはない。
会話の合間に二人ともコーヒーを啜った。飲んだ後につくため息の仕方が自分でも父にそっくりで驚いて、漏れるような笑いが出た。
「ねえ、個性って生きて行くのに必要なものなのかな」
僕は唐突に、前振りもなく聞いた。
父は別段、驚くことも不思議そうな顔をすることもなく真剣な眼差しで僕を見た。
「仁、今高校二年だっけか?」
「え? うん」
こう答えた途端、父はクツクツとさぞかし愉快そうに笑った。
「何で笑うのさ」
「悪いなぁ。お前は俺の息子みたいだ」
「は?」
「ちょっと、こっちへついて来い」
父は扉にぶら下がっていた木札をひっくり返し、休憩中の文字を店外へ見せるように直した。するとすぐさま踵を返して店の奥へと入って行った。この奥は正面がトイレ、左側にスタッフルームとは名ばかりの父の部屋がある。僕は初めてその部屋に入ることになった。
中は六畳より少し広い位の部屋で小上がりの座敷になっていた。事務所と私室を足して割ったような散らかり方で、パソコンの周辺には帳簿や小説が数冊と食べ終わったサンドイッチの皿があり、壁のヘリには服が掛かっている。畳の上は書類があちこちに積まれており、汚いとは言わないが綺麗とも言えない。父は部屋に入るとすぐに左に曲がった。
父の肩越しに見ると、暖簾ともカーテンとも言えない布が垂れ下がっている。それをめくると奥には二階へと続く階段があった。
階段を登りながら父は言った。
「今となっては自他ともに認める愛書家だけど、本を読み始めたのはさ、高校二年生の冬休みからだったんだよ。クラスにすごい色々な蘊蓄ばっか言える友達がいてな、そいつにちょっと憧れて本を読み始めたんだ。で、読み耽っているうちに積りに積もってこんなになっちまった」
「すご」
思わずそんな一声が出た。
二階は正しく本の部屋であった。質素なゴシック調の室内には父が長年集めたのであろう、様々な蔵書が本棚や台の上に所狭しと置かれている。一つしかない窓は細長く、中に入って来る光は多くない。けれどもその窓際にある一人用のクラシックな読書机が差し込む微光によって演劇の舞台のように照らされているのが、たまらなく好きになってしまった。ここにいるだけで頭が一つ賢くなったような気がしてくる。
父の本の収集癖は当然知っていたのだが、改めて驚かされるとは思っていなかった。
「前の書斎にあった時より大分増えてない?」
「まあな、買い足した分もあるし、実家から持ってきたのもあるし。洒落にならないくらい本のある喫茶店ってコンセプトにしようと思ってたんだ、最初は。」
「今だって普通の喫茶店にしては多いと思うよ」
「本が目当てのお客もいるくらいだからな」
まるで山頂から景色を見回すように首を動かしながら、ランプの明かりに吸い寄せられる虫のように読書机に足を進めた。
「なんか味のある机と椅子」
「勉強したい時なんかは使っていいぞ。寒さ対策は自分でな。読みたい本があれば持って行くか?」
「今日は大丈夫」
「そうか? で、さっきの話に戻るとな――俺も自分で個性的な何かが欲しくって読書を始めたんだ。高二の冬休みにな。今もそうだけど当時も小説とかにはあんまり興味持たずにいた。それで、今のお前と同じようにそもそも個性とは何ぞやと言う事を考え始めたんだ。その時は色々と拗らせて哲学書とか読んでいたから尚更考えてた」
「答えは出たの?」
「まあ、自分なりと言うか、自分が納得するようなものはまとまったかな」
「どんなの?」
「今言ったらつまらないだろう。しばらく考えてみて、今度教えてくれよ」
チラリと見た父の顔は笑っているとも真剣に何かを考え込んでいるようにも見えた。
その時、店の扉に付いた鐘が来客を告げた。
「おっと、誰か来たな」
そういって急いで階段を下って行く。
「少しだけ見てっていい?」
「勿論。風邪ひかない程度にな」
父は帰りがけに階段の手前にあった照明のスイッチを入れてくれた。
壁と天井にある電灯にもこの部屋に合わせようとした父のこだわりが垣間見えた。
僕はしばらくそわそわしていた。適当な当たりを付けて数冊の本を流し読みしてみたり、何をするでなく椅子に座ると読書机に頬杖をついたりした。気になる本は山ほどあったが不思議と読書に勤しむ気にはならなかった。この部屋には後日、キチンと覚悟を決めてからもう一度来たいなと思ったのだ。
結局は何もやらず、数分間ぼーっとしただけで一階に戻ることにした。
「よう。どうだった?」
「何かいるだけで賢くなったような気がする」
素直に思った事を言った。
「お客さんはもう帰ったの?」
他にお客さんがいる時は父はここまで砕けてこないので、てっきり帰ったのかと思った。けれども父は黙ってカウンターの向こうのテーブルを指差した。
「え?」
柱で死角になっていた陰を除くと、さっきまで僕が座っていたテーブル席に従兄の正嗣さんと奥さんの瞳さんが座っていた。そして傍らのベビーカーの中には一年半前に生まれたばかりで二人の息子である元が、どこか痒いところでもあるのかもぞもぞと動いていた。
「よう、仁」
「正嗣さん、瞳さん。何でここに?」
「今日休みだからさ、買い物ついでに出てきて、折角だからおじさんのコーヒーでも飲もうと思って」
「へえ」
「おっと元、どうした? 仁兄ちゃんのところに行きたいのか」
元は僕の顔を見るとニンマリと笑って両手を伸ばしてきた。僕は元をベビーカーから出して抱きかかえた。
まだ片手で数えられる程度しか会ったことはないのに、何故かすごい懐かれている。
「よーし、おいで」
「何が良いんだかね」
「波長でも合うのかな」
「まさか、本当は仁の子か」
「ええ、そうなの…実はあなたが出張中に」
「子どもの前で、性質の悪い冗談はやめてください」
「そうね。キスまでだったものね」
「やめろっつうの」
二人は互い互いに実にノリが良いというか、軽口が好きなのでこっちが気疲れする事が多い。特に瞳さんは正嗣さんと結婚した時からの付き合いなので、初めて会ってからまだ二年も経っていない。毎日顔を合わせるならいざ知らず、時たま会うくらいの親戚にここまで打ち解けられるのは凄いと思う。
「で、仁は上で何してたの?」
「別に用事があった訳じゃないけど。父さんの持ってる書斎の本を見せてもらってた」
「へえ。本好きも遺伝するんだね」
「なら元にはきっとサバゲー好きが遺伝するな」
「かもねー」
瞳さんは元のぽっぺたを指でフニフニと押した。
「今のウチから色々と仕込んでおく」
「色々と頑張れよ、元」
「あ、そう言えばさ、今話してたんだけど仁の名前の話ってどうなったの?」
「今考えてるところ」
「じゃあ候補は揃ったんだ」
「まあね」
「どんな名前?」
父の手前、母さんたちが考えた名前まで言うのは少々憚られたが、今更のことでもあるし、そんなことを気にするような人でない事も知っているので、担任の考案した名前と、垣さんの結果待ちの旨を全てひっくるめて話した。
「案外普通の名前だね」
「そりゃそうでしょ。どんなの期待してたんですか」
「これだっっていうような名前が来るのかと思ってた」
「所詮は名前ですからね」
「オジサンは考えてないの? 仁の新名」
「考えてないよ。考えたって候補の中には入らないし」
「そうなの?」
「そうだよ」
父はあっけらかんと答えたが、僕はやはり心に小さなトゲが刺さったくらいの罪悪感に似た感情があった。
「…はい。担任と公認命名士と、あとは保護者の三組が考えることになってるんで」
「そっかー」
「けど、俺はダメでも正嗣たちの話なら参考になるんじゃないか。なんせ、つい最近名前を考えたばかりの二人だ」
「そうだな。何でも聞いてよ」
「と言われても…元の名前の由来くらいしか」
僕は抱いている元の顔を見た。
「俺たちは前々からリストみたいなの作って置いたんだよな」
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「元は、男の子なら何はさておきまず元気が必要だって思って考えたんだ」
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「だな」
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「忠告しておくけどね、仁。出産ハイって多かれ少なかれ絶対あるよ。子供が生まれるって良くも悪くも人を変えるから」
「…気を付けます」
「ま、仁はもうちょっと先の話だろうけどな」
「高校生でしょ。彼女の一人くらいいないの?」
そう聞いてくる二人の顔はいつも通りの、ちょっと悪ふざけの過ぎる親戚のお兄さんとお姉さんだった。
「残念ながら」
事実、何もないのでそう答えた。
けれども元をベビーカーに戻している最中に、父が不敵に笑い始めた。
「ふふふ。けれど俺の息子も捨てたもんじゃないんだぜ?」
「どういう事?」
その場にいた僕以外の目が輝き出した。
父が僕と若山さんとの事を、嘘ではないが真実でもない脚色を加えて針小棒大に言うものだから、新名の話題よりも更に質問責めに遭った。大人たちがわいわいと喧騒に興じるのに反し、元は心地よさそうに寝てしまった。
気が付けば外は暗くなってしまっていた。いい加減、僕もげんなりしてしまったので、適当な理由をでっち上げて退散することにした。
外は寒かった。今まで暖かいところにいたから尚更骨身に染みる思いがした。
時間を見ようとポケットからスマートフォンを取り出した。画面には母からのメールが届いている事を知らせる一文があった。内容は単純明快に二言だけだった。
『いつまで遊んでいるの』と『話があるから早く帰ってきなさい』
返事をしないと後々面倒になるかと直感し、今から帰るとだけ送っておいた。
話とは何なのかは知らないが、少なくともほんの数分前までの疎ましくも和気藹々としたものでないことは簡単に予想できた。
心は寒くなった。今まで暖かいところにいたから尚更骨身に染みる思いがした。
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