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クリスチャンとの会話
しおりを挟む駅についた頃には、日が暮れはじめていた。
待ち合わせの場所はここから二駅先の場所であったが、少し余裕があったので歩くことにした。平日の夕方という時間にしては、駅から伸びるアーケードには人がごった返している気がする。僕はその人込みの中を縫うように進む。何故か途中の信号機の全部に引っかかり、思った以上に時間がかかってしまった。それでも待ち合わせには三十分程度の間があったので、本屋に寄ることにした。
入ってすぐに漫画と小説の新刊をチェックした。が、特に気になるものはなかったので、通路の隅にポツンとある囲碁将棋の専門誌コーナーに向かった。
適当に手に取った雑誌をパラパラ捲っていると不意にどこからか声を掛けられた。
「ヒトシ」
空耳かと思って雑誌に目を戻すと、再び名前を呼ばれた。
「こっち、こっち」
今度は声の出所が分かったので素直にそちらを見た。するとあと三十分後に待ち合わせをしているはずのルツさんが、悪戯に半身を隠しながら手招きしていた。
ルツさんは日本の大学に交換留学とやらで来ている大学生だ。父の店の間近にある大学の学生で、コーヒーを飲んでいる時に、たまたま店にやってきた彼女を父に紹介された経緯で仲良くなり、時には英語を教えてもらったりもしていた。しかし交換留学の時期が終わり、来週にはアメリカに帰ることになっている。今日はささやかながらお別れ会をするつもりでの待ち合わせだった。
「ルツさん、早くないですか」
僕は頭に浮かんだ台詞をそのまま口に出した。
「それはヒトシもだよ」
「僕は本を見るつもりで来たんで、別にいいんですよ」
「ワタシはヒトシが本屋にいるだろうなと思っていたからいいんだよ」
「待ち合わせ時間を決めた意味ないじゃないですか」
「だってヒトシがいる保証はなかった」
「確かに、そうですけど」
「ワタシ、間違ってない」
僕を論破したルツさんは誇らしげに胸を張った。
物腰や口調は柔らかいのに、とても芯が強いのがこの人だ。僕の知り合いの中で一番、人は見かけによらないという言葉を実践している。どうしたってこちらが引くしかないので、押されるままに負けを認めた。
「じゃあどうしますか? もう行きたいってお店にいきますか?」
「大丈夫、予約したから。だから本を見てみましょ。みたいでしょ」
「まあ、見たいですけど」
「なら見よう」
そう決められたので大人しく従う。それにこの提案は有難かった。暇つぶしで寄った本屋であったが、探したい本があったのも事実だった。
大よその当たりをつけて本を探そうとしたが、ルツさんも後を追ってくるので立ち止まった。
「何でついてくるんですか?」
「? 一緒に見るからですよ」
「ルツさんも適当に雑誌とか見ればいいじゃないですか?」
「二人いるんだから、二人で見よう」
「一人じゃないと見辛いですよ」
「エロいヤツですか?」
「違います」
「じゃあ、いいじゃない」
いつも通りの流れのままに、仕方なくルツさんと連れ立って気になっている本を見に行った。はじめに寄ったのは学校の図書館では消化不良だった名付け本のコーナーだった。流石に比べるまでもなく豊富に取り揃えられていたので、手始めに置いてある中で一番分厚い本に手を伸ばした。
「ヒトシ、赤ちゃん出来たの?」
とんでもないことを言ってきたので慌てて否定した。
「違います。今度名前が変わるんで気になっただけです」
「そうだった、忘れてた。何て名前になるの?」
「まだ分からないです。来週出揃うんで、その中から選びます」
「もうアメリカにいますけど、分かったらすぐに教えて?」
「メールはしますけど、すぐにですか?」
「すぐに」
ルツさんは力強く頷いた。
「何でまた」
「名前入りの何か送るよ」
あっけらかんと笑顔で言ってきた。
途端に何故だか恥ずかしくなってしまい、顔を逸らした。
「…ありがとうございます」
「あれ? 嬉しくない?」
「いや、そういうプレゼントって貰ったことないんで、どうすればいいのか分からないです」
「アクセサリーにするから付けてよ。写真も送って」
「善処します」
「ゼンショ? 分からない」
「できるだけ頑張るって事です」
「絶対送ってよー」
やんわり断ったのに倍になって返ってきた。そう騒ぎながら過度なボディタッチをしてきたので、すぐさま手の平を返して宥めた。
「分かりました分かりました、送りますから」
「よし」
そしてルツさんは、また満足したように笑うのだった。
「もう少しいいですか?」
「いいよ」
それから二十分ほど気になるタイトルが目に留まった本を取っては戻しを繰り返した。いつの間にかルツさんも自分の見たい本を読み漁っていたので、構わず一人で本を探した。
学校の図書館で調べたのと同じく、名前と呪いに関しての本を粗方見終わると、最後に個性について書いてある本を探し始めた。
「やっぱりこういう自己啓発本だよな」
個性という文字を前面に押し出した本がズラリと並んでいる。本の帯ではどこかの大学の教授やテレビタレントが笑顔でコメントを載せていた。手当たり次第に斜め読みをして、十数冊のうちから一冊選んで買ってみることにした。
他で確保した本と合わせて四冊あったが、いつか貰った図書カードのあまりがあったので財布とは大した相談もせずにレジに並んだ。何となく他人にタイトルを見られたくなかったので、全ての本にカバーをかけてもらった。
会計を済ませてルツさんを探そうかと思ったが、既に入り口前の話題の新作コーナーで待っていてくれた。
「お待たせしました」
「待ってないよ。さ、行こう」
とは言っても件の店の予約は余裕を持って取っていたので少し時間があった。
どうするのかと思っていたら、ルツさんが提案してきた。
「私もちょっと寄っていいかな?」
そう言われて僕に拒否権などある訳がない。ルツさんは確かな足取りで歩き出した。てっきりどこかのファンシーショップとか服屋にでも連れて行かれるのかと思いきや、ゲームショップに躊躇いなく入って行ってしまった。ここは有名人に付き合って、一度だけ入ったことがある。意外にゲーマーなのかと思っていたら、店内の商品にはわき目も降らず奥の方へとずんずん進んで行く。
奥には中身のよく分からないマニアックな内容のガチャポンのケースが並び、そのすぐ隣に下へ続く階段があった。地下もあるのかと考えていたら、ルツさんは軽快なテンポで降りて行ってしまった。
地下は一階のスペースよりも少しだけ狭く感じた。
扱っているのはゲームはゲームだが、カードゲームのコーナーだった。
ガラスのケースに一目見ただけでも圧倒される量のカードが所狭しと並んでいる。デュエルスペースと立札のある奥にはテーブル席があり、対戦に勤しんでいるグループが幾つかあって、それぞれが盛り上がっている。他にも熱心にばら売りされているカードを一枚一枚確認しては、気になるカードを買い物かごに入れている人たちもいた。僕はともかく、ルツさんはとにかく場違いに思えた。事実、何人かは選定中の彼女を見て驚いたような顔をしている。
僕の小中学校でもこの手のカードゲームは流行していた。というよりも高校になった今でも続けている奴もいる。人気のあまり学校に持ってくる生徒もいて、禁止のお達しが出たこともあった。その時配られたプリントを見た母が心底、馬鹿馬鹿しいと言った記憶がある。
ルツさんはガラスケースの前で止まると、目を輝かせながら中の商品をチェックしていた。
「ルツさんってこういうカードゲームやるんですか?」
「うん。最初はお兄ちゃんが好きで、練習を一緒にしてるうちに私も好きになっちゃたの。アメリカでできたんだけど、世界で初めてできたトレーディングカードゲームなんだよ、これ」
「へえ」
「日本語訳ともちろん英語もあるから、最初はこれで日本語勉強したんだ」
好きなものを別の形で活かせるのは羨ましいと思った。僕は今のところ、将棋をやっていて将棋以外で役立った経験はない。
幽かな鼻歌交じりにカードを見るルツさんがあまりに楽しそうだったので、ルールすらわからないのに一緒に眺めていた。何百枚のカードがずらりと並んでいる。きっと何かの法則に則って並んでいるのだろうが、詳しくは知れない。上から順々に見ている中、ふと目に入ったカードの値段を見て驚き、二度見にしてしまった。
「何ですか、このカード」
「ん? あぁ、タルモね…」
「一万二千円って、これ一枚でですか?」
「そうだよ」
「0が一つ多いんじゃ…いや、それでも高いですけど」
「多いのは0じゃなくて1だよ。ホントにこのタフネスプラスイチっていうの消してくれないかな」
ルツさんは全く意味の分からないことを呟いた。
他にもこれに勝るとも劣らない値段のカードがいくつもあり、得も言われぬ怖さを覚えてしまった。そのあとはルツさんの話に適当な相槌を打って時間を過ごした。お目当てのカードがあったらしく、慣れたように店員に話しかけてガラスケースから商品を取ってもらうと会計を済ませた。ポイントカードを持っているということは、当然ながら常連客なのだろう。
ゲームショップを出ると、丁度いい時間になっていた。
この先にある路地の中に隠れるようにある甘味処で何か甘いものを食べるというのが、今回の趣旨だった。
暖簾をくぐり予約してある旨を伝えると、すんなり席へ案内された。
A3用紙一枚分の品書きを見ると、和洋問わずの甘味の名前が並んでいた。
僕は念のため一通り目を通したが、迷わずあんみつを頼むことにした。が、ルツさんはメニュー表を何度も目で往復し、頭を抱え込んでいる。何とか二つの候補に絞れたようだったが、ついに決められず決定権をコインに預けた末、抹茶パフェを注文することにした。
やがてそれぞれの品が運ばれてきた。するとルツさんは手を組んで、英語でお祈りを始めたのだった。
ルツさんは今のところ僕の知人の中で唯一のクリスチャンだ。ウチは一応は曹洞宗の家系で、母はお盆の時に迎え火を焚いたり、僕に精霊棚を作らせたりと、時たま変な所で仏教的なこだわりを見せるが、熱心な信徒であるわけではない。
完璧に聞き取れた訳ではないが、この食事とその時間を与えてくれたことに感謝をするような内容のことを呟いていた。そしてお祈りが済むと、とびきりの笑顔で頂きますと言った。
「そうだ。はい、これあげる」
そう言ってルツさんは小さな袋を差し出してきた。小袋にはさっき立ち寄ったゲームショップのロゴが印刷されていた。開けてみると、中にはルツさんが好きだと言っていたTCGのカードが一枚入っていた。上半分はイラスト、下半分はそのカードの効果のテキスト欄になっているのだが、それがまた何とも不思議なイラストだった。
顔に影の掛かった男が、運転免許証が連なったような紙を垂れ下げて持っている。その紙がイラストの枠を飛び出してテキスト欄に被ってしまっている。そのせいで効果の文章がぎゅうぎゅうに押し込められるような形で書かれていた。
「何ですか? これ」
「さっきのカードゲームのカードだよ。あるとは思わなかったけど、今のヒトシにぴったりだったから買っちゃった」
「どこら辺が?」
「下のテキスト読んでみて。英語たくさん教えてたでしょ?」
実際、大した英単語は使われていなかったので難なく読めた。
「…要するに、自分の好きな名前になっていいってことですか?」
「そう。ぴったりでしょ?」
ルツさんはケラケラ笑うと、またパフェを頬張った。
二人とも食べ終え、食後のお茶を飲んでいる中、ルツさんはまた喋り出した。
「それにしても、名前が変わるって日本は面白いをやってるよね」
「名前が変わるのとは違うかもしれませんけど、アメリカ…っていうか、キリスト教でも洗礼名とかあるじゃないですか。ルツさんにはないんですか?」
「ないよー。洗礼名がつくのはカソリック。ワタシはプロテスタントだから洗礼名はつかないの」
あっさり否定された。
僕はへえ、と相槌を打ってから質問をしてみた。
「なんで、その二つだと違うんです?」
「んー、難しいな。英語で説明して良い?」
「僕が分からないですし、ふと思いついただけですから、別にいいですよ」
「ヤダ。せっかくヒトシが聞いてくれたんだから、日本語で頑張る」
「じゃあ、お願いします」
「んとね、最初はカソリックの方しかなかったんだけど、それが嫌になった人たちがカクメイ――であってる?」
「合ってますよ」
「良かった。で、カクメイを起こすのね。だから簡単に言うとカソリックのやってることが嫌になっちゃった人たちがプロテスタントになってカクメイを起こして分かれちゃったの。マルティン・ルターって学校で勉強したでしょ」
「ああ、それがそうなんだ」
いつか習った世界史の教科書の内容が蘇った。
ルツさんは続ける。
「そう。だからカソリックが洗礼で名前を付けてたから、プロテスタントでは付けないの。プロテスタントの人達は聖書に書いてあることをしっかり守ろうって考え方で考えるから。聖書には洗礼名をつけなければならないって書いてないからね」
「プロテスタントの人達は何が嫌になったんですか?」
「ワタシはその時生まれてないから分からないけど」
「そりゃそうでしょ」
あまりにも真面目な顔で言ったので、思わず笑ってしまった。
「一番ダメだったのがindulgenceになっちゃったからじゃないかな」
「インドルジェンス?」
「うん。良い事をお金で買うって日本語で何て言うの?」
「ちょっと分からないですけど――要するに免罪符みたいなことですよね」
「それかな? お金で罪が軽くなったり、天国に行くためにお金を払って宝物を見たりしているのが変だって言って、ルターがそれを九十五個まとめた紙を教会のドアに打ち付けたの」
「打ち付けた? 貼りつけたとかじゃないんですか?」
「ううん。釘でガンガンって」
「すごいな」
「有名だよ。カレンダーの絵とかにもなってるし」
ルツさんはスマートフォンを取り出すと画像を検索して見せてくれた。画面には確かに言う通り、群衆に見られながら自分の背丈より少し小さい紙を壁に打ち付けている男の絵が出ていた。
「本当だ。金槌持ってる」
「でしょ」
「ちょっと話が戻りますけど、カトリックの人達はなんで洗礼名をつけるんですか?」
「プロテスタントはね、聖書に書いてある事だけを信じてそれを実行すればいいんだけど、カソリックにはさらに続きがあって生きているうちに良い事をいっぱいしなきゃいけないの。カソリックの教えでは人間は死んだ後に煉獄ってところに行って、生きているうちした悪い事の分だけ苦しむんだって。それでね、生きているうちに良い事をしておくとその苦しむ時間が少なくなるの。で、その時洗礼名を持っていると良い事を一つしたってカウントされて、もう一個良いことがあるんだって」
「何ですか?」
「洗礼名って普通は聖書の中の人物とか、昔の偉いクリスチャンの名前を付けるんだけど、それを持っていると煉獄にいるときに付けた名前の人がやってきて助けてくれるらしいんだよ」
「へえ、目印見たくなるんだ」
「けど、アメリカ人は普通の名前が聖書から取っている人が結構多いよ。というか私がそうだし」
「そうなんですか?」
「うん。ルツって旧約聖書に出てくる人の名前だよ」
聞けば日本人が連想するアメリカ人の名前のほとんどが聖書由来のものが多いらしい。尤も長い歴史の中で有名になった人物にあやかるパターンも多いので、皆が皆キリスト教の影響で名付ける訳ではないそうだが。
「ところでさっきさ、ワタシに隠れて何の本買ったの?」
ブロンドヘアーを手でかき上げながら聞いてきた。
「人聞きの悪い事を言わないでください。買う段階になったらどっかに行ったのはルツさんじゃないですか」
「で、何の本?」
「別に面白いものはないですよ。将棋の本と新書をちょっと」
「で、何の本?」
「いや、ですから」
「何の本?」
お約束ように押し負けて、大人しく買った本を差し出した。
「…これです」
ルツさんは四冊の本の中表紙を確認すると、
「ヒトシは個性が欲しいの?」
と、言った。
「欲しいというか、個性って一体なんだろうと思う事があって、いろいろ調べている最中です」
「ふうん」
「ルツさんだって自分の個性で考えたりはあるでしょ?」
「どうだろう。あんまりないかな」
今自分が悩んでいる事を、いとも簡単に否定された。なので、少々声が強くなって聞き返してしまった。
「自分の才能とか個性とかはやっぱり気になるもんじゃないっすか?」
「日本人の言う個性って、つまりは人との違いってことだよね」
「まあ、そうなりますかね」
「ヒトシが個性を欲しがるのも、きっと日本人だからだよ」
「どういう事です? アメリカじゃ個性は大事じゃないんですか?」
「アメリカは他の人と自分が違っていて当然だもん。スクールで同じクラスにいたって年齢も宗教も人種も違うし、ひょっとしたら国籍だって違う人がいっぱいいるんだよ? 他の人との違いなんて、ただ暮らしてるだけで勝手に出てきちゃうよ。けど、日本はどの学校だって同じじゃん。頭の良い悪いがちょこっと変わるだけで」
アメリカの学校の事情など、せいぜいドラマや映画で見る程度の浅はかなものであったが、イメージは湧いた。
「確かに日本の学校なんてどこ行っても大概は同じようなのですけど」
「だと思うよ。ボランティアで色んな学校行ってみたけど、どの学校だったかの記憶がごちゃごちゃになるし。けどね、悪い事って意味でもないよ?」
「そうですか? そこはアメリカ式の方が個性とかに悩まなくて良さそうですけど」
「個性は考えなくても良いかも知れないけど、アメリカの子供だってコンプレックスはあるし、それに違うからこその差別だってあるもん。それにね、どの学校でも大体一緒ってすごい事なんだよ? 例えばすごい良い学校が十点で悪いのが一点だとしたらさ、日本の学校は大体が六、七点でしょ? でもアメリカは本当に一点の学校がいっぱいあるの。先生がライセンスを持ってない学校だってあるし」
「それは洒落になってないですね」
「そうだよ。だから日本の学校もすごいの」
そもそもルツさんは教育関係の仕事をしたいという熱意のある人だったので、目の付け所が違うのも頷けた。地域の小中学校によく行っていたらしいので、様々な事を見て色々と思うことがあるのだろう。
ふと、アメリカの学校事情的にではなく、クリスチャン的にはどうなのだろうかと気になったので、そのまま思ったことを聞いてみた。
「聖書には、個性って何かとかって書いてないんですか?」
「ワタシの勉強不足かも知れないけど、多分ないと思う。でも聖書を読んでると日本人の言う個性とは反対のことを言っているんじゃないかなって思う事はあるかな」
「というと?」
聖書的な解釈というのには正直興味があった。そもそも世界で一番信徒の数が多く、人類の歴史の中で一番読まれた書物は聖書だと聞いたこともある。きっと幾人もの悩みに光明を与えてきたのだろうと勝手な妄想が頭に蔓延った。迷えるものを救うという、良く聞くキリスト教の宣伝文句も踏まえてもルツさんの話を聞いておいて損をすることはないと思った。
垣さんとの面談以降、どうも呪いやら宗教やらオカルティズムなことに琴線が触れるようになっている気がする。やはり垣さんの言う通り、こういった話題が好きな性質なのかもしれない。
「日本人の言う個性ってさ、自分一人だけのものじゃない? もしくは自分が得をするためのものっていうの? 自分の為に生きていきたいって思うのは仕方ない事なんだけど、聖書では自分自身だけの為に生きようとするのはダメって書いてあるの。ワタシが思っている大事なことは二つあって、まず一つは神様を信じる事。もう一つは愛を実践する事」
「個性の話とはずれてません?」
「そんなことないよ。人間っていうのは神様が作ったんだから、もし個性っていうがあるんなら、それは神様から与えられたものなの」
「その理屈は分かりますけど」
「でもね、神様から与えられたからって自分で好き勝手に使っちゃダメなんだよ。きちんと正しく使わなきゃいけない」
いつになく強気なルツさんに気圧された。
「ど、どうすれば正しいんですか?」
「簡単だよ。その為に『愛』があるんじゃない。愛ってさ、三種類あるって知ってる?」
「三種類?」
「うん。アガペーとフィレオとエロースっていうのがあって、他人の為の愛、自分と他人の為の愛、自分の為だけの愛の三つがあるの。やっぱり最初は自分への愛から始まっちゃうんだけど、どんどんと他人の為の愛を持とうとするのが、大切なんじゃないかなって、ワタシは思ってる。ほら、右の方を叩かれたら左の方を差し出しなさいって、有名な奴があるでしょ」
「右の方じゃなくて、頬ですよ」
「? 何が違うの?」
僕が指摘すると、ルツさんは小首を傾げた。方と頬を間違えて覚えているのか、それとも発音が聞き取れないのか、どちらにしても話の腰を折ってしまいそうだったので深くは言わなかった。
「まあ、言いたいことは分かるんで大丈夫です」
「そう? でね、日本語だと隣人愛って言葉があるじゃない? これがつまりイエス様の愛の使い方っていうこと。これを実践できれば素敵なんだけど、ワタシは弱いから、まだまだイエス様みたいな愛の表現はできないでいる。だけどワタシにはワタシの愛の表現があるでしょ? これがワタシの個性って事なんじゃないかな?」
「やっぱりさっきの話の通り、他との違いが個性ってことですか?」
「分かんないけどそうなるのかな。けど、日本人はその『人との違い』しか大事にしてない様な気がするよ? 違いだけじゃなくて、ソレを人の為に使わないとダメだよ」
「人の為、か」
「うん。人の為に使わなかったら、例えば人を殺しちゃうのだって個性的になっちゃうじゃん。やっぱり愛がなきゃいけないよ」
「隣人愛が大切って事は、自分への愛っていうのはどうなるんですか? やっぱり捨てるべきものなんですか?」
「違うよ」
ルツさんは僕の意見を素早く、そして強く否定した。
「でも、右の頬を叩かれたら…って奴は自分を捨てないとできないじゃないですか。自己犠牲とも言いますし」
「自分を捨てるっていうのは、多分仏教の考え方じゃない? さっき言った三つの愛は別々のモノじゃなくて、全部つながってるんだよ。自分の為の愛っていうのは、自己中心的な愛もあるけど、自分で愛を実感できなければそもそも愛が何なのかって分からないでしょ? それに自分より相手を愛するんじゃなくて、他人を自分と同じように愛さなければいけないの。自分への愛がないっていうのは、自分がないのと一緒だもん。誰も愛せなくなっちゃうじゃん」
「自分が愛せれたいために、人を愛するのとは違うんですか?」
「それも違うかな。聖書の教える愛はアガペーなんだけど、これは見返りを求めちゃいけないのね」
「愛は一方的って事ですか?」
「そうじゃないんだよなぁ」
目をつぶり眉間にすごい皺を寄せると、うんうん唸りながら考え込んだ。
やがてルツさんは徐に語り出す。
「ええとね――日本語が難しいから上手く言えないけど、愛っていうのは許せるかどうかなんだよ」
「許せる?」
「そう。例えば誰かがヒトシの大切なものを壊しちゃったとするじゃない? けど壊した人がどういう人かで、怒ったり恨んだり許したりする人はバラバラになるでしょ?」
「そうですね、多分」
正直、今壊させれて困るような大切なものなどないのだが、感覚としてだけ理解して話について行こうと思った。ただ、怒ったり恨んだりという言葉に反応して脳裏には母の顔がちらついた。
「そうすると許せる人ほど自分が愛している人にならない?」
「まあ」
「逆に自分の愛から遠い人ほど怒って許せなくなると思うんだよね」
「そうですね」
「だからね、大切に思ったり好きだって思うのも愛だとは思うけど、愛が一番素敵なのは大事なものが壊れちゃって悲しくて怒っちゃっても、やっちゃったことはしょうがないって許してさ、変わらず好きでいられることなんじゃないかな」
「…言いたいことはわかります」
正直にそう思った。
ルツさんはいつもこうやって、臆することもなく真率な気持ちを素直に口にする。だからその声は人の耳にすんなり入るのだろう。普段の少し抜けていたり、天真爛漫な性格に油断していると虚を突かれる。それ程長い付き合いではないのだが、この人には驚かされ、それ以上に感嘆させられることが多い。
ルツさんは僕の手をいきなり握ってきた。こういうことでも驚かされることが多い。そして、何とも落ち着くような表情と声で言った。
「ヒトシはさ、名前が変わるって、すごい経験をしてるよ。普通はない事だから色々考えて悩んでるんだと思うけど」
「バレてたんですね」
「でも、絶対大丈夫。神様はヒトシのことも大好きで、きちんと愛してくれてるから」
「そうだと良いですけれど」
「絶対そうだよ。だから、名前が変わったら私に一番に教えてね」
そういって微笑んだ。ルツさんは僕に限らず落ち込んでいる人間をこうやって元気づける。人を放っておくことが出来ない性質なのだろう。
こうやって元気づけられるとホッとする反面、申し訳なさや情けなさも極まってくる。そして、自分は誰一人としてこうしてホッとさせてあげることはできないのだろうと自己嫌悪する。いつから他人の好意を素直に受けられなくなったのだろうか。裏を勘ぐってしまったり、打算的なものの見方をしてしまったり、さもなければ今のように自分と見比べて自分を軽蔑してしまう。
その後はまた他愛のない話をした。
散々、大丈夫だよと断られたのだが、会計は僕が強引に出した。
ジェントルマンだねぇ、と揶揄われ店を出るとそのまま別れることになった。アメリカへ帰る引っ越しの準備が残っているらしい。路地を抜けメインの通りに出ると、ルツさんは最寄りの地下鉄の駅へ、僕は父の店へと向かった。
人込みはいくらか緩和されているかと期待したが、ますます増えているようだった。特に正直に混んでいる道を歩く理由もないので、脇の道に逸れて夜に向けて準備している店々の前を抜けていった。一つ道が違うだけで、大分喧騒からは遠のいた。
今日、ルツさんと会って話をしたのは正解だったと思った。
相変わらず眩しく映る人であったが、色々と助かった。果てしなく遠いけれど、手繰り寄せればいつか手元に掴めるような、そんな手ごたえがあった。
けれども、同時に考え事の種も貰ってしまった。
ルツさんの考える愛と僕の考えていた愛とでは、かなりの違いがある。漠然としすぎていて整理も追い付かないが、考えずにはいられなかった。ルツさんは愛は許すことだと結論付けた。もしそうだとしたら、僕はただでさえ数少ない周りの人をどれだけ愛しているだろうか――いや、周りの人間といってごまかしてはいけない。
僕は母を愛せるのだろうか。そして愛されているのだろうか。
今、僕の中にある母に対しての気持ちは、憎しみまでとは行かないと思う。どちらかと言えば怒りと言った方がすんなりと落ち着く。
僕は怒っているんだ。
母のやり方。
母の態度。
母の口調。考え。性格。
それに怒っている。
その全てを許せるだろうか。「仕方ないなぁ」なんて茶化して、笑って許せるのだろうか。
そんな欧米の古典演劇を見て拗らせた二流作家が書いた台本の主人公みたいな自分を、ふとした瞬間に客観視してしまい、恥ずかしくなった。別に誰に見られている訳でもないのに咳払いをしてごまかした。
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