不満足氏名

音喜多子平

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公認命名士との会話

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 昨日は欝蒼とした気持ちで眠ったのに、学校へ近づくに連れて嘘のように気持ちが晴れていった。珍しく母と衝突がなかったせいもあるだろうが、やはり今日の面談に対して期待や高揚が強かった。しかし通学途中で昨日立ち寄ったらりほう亭が目に入った途端、ついその時の気持ちまで思い出してしまい、午前中は落ち込み立ち直りまた沈む、と誰にも気づかれず一人心中の海で怒涛の航海をしていた。

 昼休みは一人だった。一人で食堂を使うのは気が引けてしまい、パンを二、三個買うだけで適当に済ませることにした。部活のミーティングに行っていた有名人が案外早く戻って来たので、少し待っておけば良かったかと思ったが、当の本人はまるで気にせず、話をしながら食堂で買ってきた弁当を頬張っていた。

 午後の授業も難なく終わり、ようやく放課後になった。

 写真を撮って来い、という有名人を軽くあしらってから面談用に設けられた部屋へ向かう。普段は学校の来客用に使っているらしいが、この時期だけ公認命名士との面談の為に解放される。

 トイレに寄っても時間が余ったので、面談室前のベンチになっているスペースに座ってスマートフォンをいじっていた。しかし、何をどうしてもそわそわが収まることはなかった。

 やがて、とうとう面談の時刻になった。

 ドアをノックして、部屋の中へ一声かけた。すると穏やかな女性の声が返って来た。

「二年三組の乙川仁です。失礼します」

 更に一声添えてから部屋のドアを開けた。

 面談室には、聞こえてきた声のイメージ通りの人がいた。少し明るい髪の色と小柄な体格のせいで一瞬子供っぽく見えもしたが、主張しすぎないメイクとしっかり着こなしているスーツ姿が和していて、月並みな感想だが大人の女性という印象を受けた。

「こんにちは。どうぞ掛けてください」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。コーヒーは大丈夫かしら」

「はい」

 脇に備えてあったポットでインスタントコーヒーを淹れてくれた。緑茶は苦手なので有難かった。

「砂糖とミルクは?」

「砂糖だけもらえますか」

 紙コップのコーヒーを差し出すと、女性は居直って名刺を一枚渡してきた。名前にはプリントと違ってルビがふってあり、初めてこの人のフルネームを知った。

 僕は何かの冗談かと思った。

 思わず二度三度、読み間違えたかと名前を読み直した。

「改めまして、公認命名士の垣と申します。お話を伺って、乙川仁君の納得してもらえる新名を考えるので、よろしくお願いします。私も気になることは質問していくけれど、仁君も気になることがあれば何でも聞いてください」

「あの――この名刺のお名前は、その・・・本名なんですか?」

 悩んだ末、思い切って確かめることにした。

「ええ、本名よ。公認命名士の垣紅華呼かきくけこ単語ルビと言います」

 失礼だと思ったが、どうにも二の句が継げなかった。有名人たちの話を聞いて勝手にハードルを上げていたのだろう、公認命名士を謳う人でもこういう名前を付けるのかと、期待感が抜け落ちていった。そして「良い名前がつけられるはずがない」という母の言葉がフラッシュバックした。

 僕の表情か態度から何かを読み取ったのか、垣さんはニコリと笑ってから言った。

「良かった、ふざけた名前だと思ってくれる人で」

「はい?」

「私の名前を面白がったり、個性的だと褒めてくれたりする人に名前の重要性を説明するのが大変なのよ。あなたは、そういう感性は一般的みたいだから助かるわ」

「いえ、別にふざけているとは思ってないですけど」

 勿論それは嘘だった。だがこちらの思ったことをそのまま言われてしまい、咄嗟に取り繕った。慌てていたので如何にもしどろもどろな受け答えになってしまった。

「なら、やんわり言って違和感を持ってくれる人で良かったわ」

「…」

 慣れた口調で上手い事まとめられてしまった。この部屋に入って間もないのに、すっかりこの人のペースに乗せられてしまったのに気が付いた。

 しかし、決して名前のようにふざけている人でなく、羽入先生のよう流れ作業の一つとして仕事をするような人ではないということは直感した。

「じゃあ早速、一緒に名前を考えていきましょう」

「よろしくお願いします」

「既に先生と保護者の方からの候補は出来ていますか? あれば教えて欲しいのだけれど」

 そう言われて用紙とペンを渡されたので、上から順を追って候補の名前を記入していった。

「両親からは孝文、担任からは将太郎と候補を貰いました」

「そう。では私が候補を出せば、後は君が選ぶだけね――けれど、中々大変そう。あなた他の二つの名前に納得してないでしょう? というよりも名前を変えることに納得してないんじゃないかしら」

 怖い事を言われた訳でもないのに心臓が跳ねた。

「――何でそう思うんですか」

「腐っても命名士になって十余年ですからね。期待してもいないし、浮かれてもいない。名前を迷っている様子でもなかったから」

 またしてもズバリ言い当てられてしまった。僕は自分で思っている以上に考えていることが顔や仕草に筒抜けで出てくる人間なのかもしれない。

「そうですか」

「それでどうかしら? 納得してはいないの? 名前が変わることに」

「――はい」

「もし良かったら、この高校に入った理由を聞いても良いかしら?」

「母・・・の勧めです」

「ということは、仁君本人ではなくてお母様が名前を変えたがっているという事ね」

「――はい」

 少し目を反らして返事をした。

「なるほどね。じゃあ今度は君が質問してみて」

「え?」

「名前を変えるのに納得していない理由を聞かせてもらったから、今度は仁君が私に聞きたいことはない? かわりばんこに聞きたい事を聞いていきましょ」

 そう言われても即座に出てこなかった。ふと、昔に疑問に思った記憶をぽっと思い出したので、的外れかも知れないが関係がなくはない質問を考えた。

「あの、これは自分で調べろって話ですけど」

「構わないわ」

「この高校生の名前を変える制度って、何故出来たんですか?」

 予想外の質問だったのか、垣さんは「そうね」と前置きして言葉を選んでいる。街角でアンケート調査をしている調査員が持っている様なクリップボードを伏せて答えた。

「この名前を変えるという制度――正式には『不満足氏名改定制度』と言うのだけれど。所謂ところのキラキラネームを始め、個人の名称に対する不満足性を早期的に解決・解消する目的として、九年前に東京都と一部の地方自治体が試験的に実施したのが始まりね。知っているとは思うけど、今では全国的規模の制度になりつつあるわ。社会的責任や信用が掛かる手前の年齢であること、一応の分別が付く年齢という事が加味されて基本的には高校生と大学生が対象ね。掻い摘んで言えば、名前に不満を持っている人間が増えてきたことに対しての早期的な救済措置と言うのが分かり易いかしら」

「まあ、大よそは分かり易かったです」

 概要はいつかニュースで見たり、聞きかじったりした内容そのものだ。

「良かった。じゃあ今度は私から質問します。何か部活には入っている?」

「将棋部の、一応は部長です」

「あら、そうなの?」

 意外そうな声を出したので、念のため補足する。

「二人しかいなくて、もう一人が一年生だから必然的に僕がなってるだけです」

「残念ね。面白いゲームなんだから、もっとやるがいてもいいのに」

「指せるんですか? 将棋」

「勿論。とはいっても嗜む程度だけどね」

 綿密な調査をした訳ではないが、僕が雑感で思っている限りだと、女性で将棋を指せる人は稀だと思う。身近に将棋が指せる人がいるというのは、それだけで何か嬉しい気になる。

 そして質問合戦は続く。

「じゃあ、今度は仁君からどうぞ」

「そうですね。今、おっしゃってましたけど、名前を変えたがる人ってそんなに増えてきたんですか?」

「そうね。年々増加傾向にあったのは事実ね。けど、当然だけど名前はそう簡単に変えられるものじゃないの。家庭裁判所に出向いて手続きをしなければならないのだけれど、余程の理由がないと改定は認められないわ」

「余程の理由っていうのは?」

「肝心なのは名前のせいで社会的に不利な環境になってしまうかどうかという点ね。例えば難読な漢字でほとんどの人が正しく読めない場合とか、芸能人や凶悪犯罪者と偶々同名になってしまうケース、他の人と同姓同名になってしまって困るっていうのは有名人じゃなくても起こり得るわね。他には宗教的な事由で改名を望むという理由も少なくはないわ。因みに改名は十五歳以上であれば、家庭裁判に自分で申し立てること自体は可能よ」

「成人以上とかじゃないんですか? なら高校で変える必要はないんじゃ」

「申し立てができるだけで認められるかどうかは別問題だからね」

「卒業と同時に全員が必ず名前が変わるのもどうかと思いますけど」

「だからこその試験的実施という事よ。強制的に執行した方がいいのかどうかね。この高校みたいな学校は全国に増えてきてはいるけれど、嫌ならそこに入学しなければいいだけだから」

「半ば無理やり入って来る奴もいますけどね」

 自傷気味に言った。言い終わった後に失言だったかと、垣さんの方を見た。

 しかし垣さんは顔色を変えずに言う。

「――気休めかも知れないけれど、仁君のような生徒は結構いるわよ」

「それは、親が改名させたがっているという事ですか?」

「ええ。『不満足氏名』と言ったでしょう? 満足していないのが本人だけとは限らない。名付け親が改名したがるケースもとても多いの」

 また疑問が湧いた。垣さんの話は聞くほどにこちらが続きを聞きたくなるような言葉が散りばめられている。 

「どうしてですか? だってその人たちが付けた名前なんですよね。それで満足していないっていうのはおかしくないですか?」

 僕の場合は母親が離婚した前の旦那が付けた名前をどうにかして変えたいという理由があるが、それ以外にどんなケースがあるというのだろう。

「起こって良い事ではないかも知れないけれど、事情や環境や価値観というのは変わってしまうものだから一概におかしいとは言えないわね」

「それは…どんな訳があるんですか?」

「例えば名付け親の――一言で言えば勉強不足と認識の甘さ。自分の付けた名前がこれほどまで読み辛いとは思わなかったとか、性別が分かり易い名前を付ければ良かったとかね。もしくは悪い意味を持つ漢字を知らずに使ってしまったり、読み方が別の熟語になってしまうのを指摘されて知った――なんて相談は多くあるわ」

「そういう普通の名前の相談も受けるんですね」

「勿論よ。そもそもそういった相談を受けるのがメインの仕事なのよ。そういう人は、次に名前を付ける時にとても臆病になってしまう人が多いから、相談を受けて、場合によってはこうやって名前を考えるの」

「大変、ですね」

「どんな仕事にも苦労と楽しさはあるわ。学校生活だってそうでしょう?」

「ええ、まあ。けど、命名士さんの仕事の楽しさって想像できないんですけど」

「そうね。仕事上、名前をこれでもかと言うくらい沢山見るのだけれど、それで世の中の流れが掴めるのが面白いと思ったりはするわね」

「世の中の流れ?」

「ええ。その時代によって人気の名前の傾向ってのがあるの。例えば、そうね・・・一九四〇年代の男性の名前は勝、勇、武とか戦いを連想させる名前が多く名付けれるのだけれど、理由は分かる?」

「…戦争ですか?」

 垣さんは頷いた。

「そう。戦争に勝つことを願って付けられたのでしょうね。けれど、その後の五〇年代に入ると今度は茂、豊、実とか繁栄をイメージさせる文字が流行りだすの。文字通り敗戦からの復興ということだと思うのだけれど。この傾向は安土桃山時代とかにも言えて、有名な所だと上杉謙信、武田信玄や織田信長みたいに名前に『信』の文字を使う武将が多く出てくる。これは――飽くまで想像だけれど、人を裏切ってでも名を上げて自分を誇示しようとする時代だったから、人を信じる事を大切にしてほしいって願いがあったのかも知れないわね」

「その時代に求められているものが名前に反映されやすいって事ですか」

「更に言えば、求められていても易々と手に入らないもの、かしらね」

「今もあるんですか? そういう傾向は」

「あるわよ。キラキラネームなんて呼ばれたりしながらも、結局は人間の営みですもの。因みに何だと思う?」

「何だろう。全然思い付かないですけど―――――女の子だと愛とか心、とかですかね。イメージは」

「正解よ、女の子の場合はね」

「じゃあ男の場合は?」

「男の子の場合は傾向として、空、海、風みたいな自然を連想させる名前が多くなるわ。機械化、都市化、ハイテク化で遠ざかったものなのかもね。人間関係が希薄になるなんて言われているから、愛や心も同時に求めている」

「けど、易々とは手に入らないんですよね」

 そう言うと、垣さんは何故か申し訳なさそうに笑った。

「なかなか面白いでしょう? 名前の話一つ取っても」

「はい。面白いです」

 僕は素直に頷いた。

「こういう民俗学とか文化人類学みたいな話は平気?」

「苦ではないです――いえ、聞いてみて興味を持ったんで好きなんだと思います。多分」

 その通りだった。そしてそれ以上に公認命名士という職種と今それを仕事としている垣さんに強い興味が出てきていた。

「なら興味を持ってみたところで、他にも聞いてみたい事はある? 名前について」

「なら、そもそもキラキラネームみたいなものが出来始めたのも、何か理由があったりするんでしょうか?」

「そうね。今でこそ話題になったりしているけれど、キラキラネーム……私の立場上は『不満足氏名』と呼ぶけれど――この不満足氏名での問題っていうのは昔からあったのよ。少なくとも明治時代には新聞に掲載されるくらい問題視されたこともあるし、遡って行けば鎌倉時代にも既に珍奇な名前に対する不満を綴った文献も残っているわ。単純にメディアが進化して外国のことでも隣近所のように知られるようになったから、より身近に感じているだけよ。例えば未成年の犯罪者が増えているなんて昨今では思われているけど、少年犯罪率は年々減少しているから、データ上はむしろ今の若者の方がモラルがある訳だしね。とは言っても、不満足氏名自体が多くなってきているというはその通りで、それに対して世間の関心も強まったというのは、あなたが今実感しているとは思うけど」

「まあ、そんな意識からできた改名制度なんでしょうけれど――ですけれど、そんなに世間知らずと言うか適当に名前を付ける親がいるもんなんですか?」

 そう聞くと、垣さんは強く否定した。

「それは勘違いよ。適当とか非常識に思える名前が多いかも知れないけれど、ふざけたり不真面目に名付けしている人はいないわ。大多数が自分の子供の名前なんですもの。それが一般に受け入れられ辛いだけ」

「名付ける人と常識が一致してないってことですか?」

「理由の一つにはなるわね。けれど今言った通り悪意を持って名前を付ける人なんて稀だし、むしろその逆。夢や希望を持って名付けるのが普通なの。それはさっきも言ったわよね?」

「その時の世相を反映するって話ですよね」

「そう。何度も言うけれど昔と違って、今の時代子供に名前を付けるのは基本的にその子を産み、育てる人が付けるんだもの。いい加減な料簡で考える人なんてごく稀の話。ただ名前が及ぼす影響も性質も知らないだけ。人間なんだから間違えることもあるし、自分自身の制御がきかなくなるなんてのは誰にでも起こり得る。それが偶々子供に名前を付ける場面に発露してしまっただけ。それが名付け親の教養の無さや常識の欠如にイコールで結びつけて考えるのは間違いよ。何年か前にあからさまにネガティブな名前を子供に付けようとして、問題視された保護者がいたけれど、それだって『そのネガティブな名前に負けない人間になってほしい』というその人なりの願いがあった。経験のある人なら分かると思うけれど、何の理由もなかったり、意味を無視して人の名前を考えるなんて、まず不可能な事なのよ」

「今の話でちょっと気になったんですけど、垣さんの言った名前の持つ意味を知らないって何のことですか」

 垣さんは僕を見てニコリと朗らかに微笑んだ。

「ああ、それはね」

 そして変わらぬ声音で言う。



「名前は世の中で一番身近な呪いだという事よ」



「の、呪いですか?」

 垣さんの顔にも雰囲気にも似尽かわしくない物騒な言葉だった。あまりのギャップについ言い淀んでしまった。

 垣さんは変わらぬ微笑みで続けた。

「ええそう。呪いってどういうものかは知っている?」

「いえ。呪文唱えたり、人形に釘打ったりするやつですか?」

 突然にそんな事を言われても、普通の男子高校生が知るはずもない。僕は首を振ってから答えた。我ながら子供染みた情けない回答だったと思う。

「半分は正解。そういう禍々しい面もあるのは事実ね」

「そういう面? っていうことは違うものがあるんですか?」

「呪いというとどうしても良くないイメージを持つから、せめてお咒いと言った方が良かったかしら」

 垣さんは愛くるしく小首を傾げた。すると前髪が落ちてきたので、それをかき上げた。

「…いえ、どっちにしろ分からないです」

「少し名前の話とは逸れるかもしれないんだけど、大丈夫?」

「むしろ脱線するでしょうけど、教えてもらっていいですか」

 垣さんのいう通り、案外こういう話が好きなのだろう。消化不良を起こしそうなのでとことん教えてもらうことにした。

「呪いっていうのはね、例えば人を不幸にしたり傷つけたりするという意味もあるんだけれど、逆に幸せにしたり癒したりする性質も持っているの。ただ、その幸せにできる性質だけを取り出すことはできないから、区別も難しい。そして人間、善悪が混同されると悪いモノに見えることが多くって結局は忌避されてしまうのよ」

「呪いで人を幸せにするんですか?」

「想像はし難いかもしれないけれど、呪いっていうのは言ってしまえば、品物があってそれを品評することと、そこから生まれた評価そのものの事を言うのよ。そうね―――扇風機を想像してみて。名前の通り、あれ自体は羽を回して風を起こす只それだけの機械であって、それ以外の用途はないでしょう? 夏に使えば涼しくなるけれど、冬に使ったらどうなると思う?」

「寒くなると思います」

「じゃあ、初めて扇風機を見る人に良い印象を持ってもらうには、夏と冬のどちらに使うべきかしら?」

「そりゃあ、夏ですよ。冬に使ったら余計に寒くなるじゃないですか」

「そう。夏に使うというのがつまりは呪いの善い側面。熱さを和らげるっていうのが幸せって事ね。反対に冬に使うのが大多数の人がイメージする呪いの悪い側面。今、仁君が言ったみたいに寒さを助長することにしかならないでしょうから。ここで注目してほしいのは、扇風機自体はただ風を送っているだけだという事。ただスイッチを入れて風を起こしているだけなのに使う季節を変えるだけで、プラスマイナスのそれぞれ逆の印象を植え付けられるでしょ? そしてそれには人間の作為がある。これが呪いの第一段階ね」

「第二段階もあるんですか?」

「そう。ここからが恐ろしいのだけれど、人間っていうのはね、その初めて扇風機を使って得た感覚や感性がそのまま頭の中にインプットされて、初めて持った印象を変えられなくなってしまうの」

 どんどんと深みが増していく話だったので、僕は一旦区切った。

「えと、待ってください。整理します――――呪いっていうのは、品物を品評して評価を貰うその結果の事ですよね。今例えた扇風機の場合は使う季節を選んで、審査員に持ってもらえる印象を操作する、つまり良し悪しは別に実際に扇風機を使ってみるのが、所謂ところの『呪いをかける』ってことですよね? そしてそれが第一段階」

「理解が早くて助かるわ」

「それですみません。第二段階というのはどういうことですか?」

「今言った通り、多くの呪いは初めに使った季節とその時の印象が染み付いて取れなくなってしまうの。冬に扇風機で寒さを味わった人は夏になったとしても扇風機を見たくも無くなってしまい、夏に涼しさを理解した人は、例え必要になったとしても冬に扇風機を使う事はない。それどころか場合によっては冬に扇風機を使う人を非難し出すかもしれない。逆もまた然りね。ただ勿論、万人がそうだという訳ではないわよ? 例外を持ち出すと混乱するだろうから、ここでは控えるけど。要約すれば印象やイメージによって人の行動が制限されてしまうのが呪いってこと……例えがおかしいかもしれないけど、私の言いたいことは伝わったかしら?」

「……さっき名前が呪いって言ったのは、何となく分かったような気がします。具体的には説明できないですけど」

 そう言うと垣さんは安心したようだった。

「でも興味を持ってくれる人で良かったわ。受け付けない人は呪いなんて聞いただけで引いちゃうか、呪いなんて馬鹿げた話だって切り捨てて、話も聞いてくれないから」

「つまりそういう人は、呪いって言葉に呪われてるんですね」

 妙な言い方だったが要はそういう事だろう。かくいう僕自身も呪いという言葉を聞いただけで、宗教染みたうさん臭くて良くないものだと決めつけていた。いや、今も完全には払拭できてはいない。

「けど、それが分からないからこそこんなに問題視されているのよ―――ところで、何でこんなマニアックな話になったんでしたっけ?」

「妙な名前を付けるのは名付ける人間が名前の及ぼす影響や性質を知らないからって話からだったと思います」

「ああ、そうだったわね」

「で、その――名前が呪いってことを知らずに名前を考える親が増えてしまったって事で良いんですか?」

「端的に言えばそういう事ね」

 僕は今の話を聞いて何か思うことがあり、悩むように黙り込んでしまった。

 そんな僕の様子を見て、垣さんは問いかける。

「何か引っかかる?」

「呪いにプラスマイナスの両面があるってのが、今一つ分かりにくいですね。マイナス面なら呪いという言葉の想像通りなんですけど、プラスに働くのがイメージし辛いです」

「なら善い面に働くのがお祝いで、悪い面に働くのが呪いって考えてみたらどうかしら」

「お祝いですか?」

「ええ。祝うと呪うって、漢字で書くと似ているでしょ? 昔は同じ漢字だったからね」

 垣さんは言いながら、空に文字を書いた。

「そうなんですか?」

「ええ。きっと仁君みたいにプラスマイナス両面の区別がつかなくて分かれていったんだろうなって思うけど……あ、今までの話は全部、私の個人的な見解であって、公認命名士の共通認識って訳じゃないからね」

 そう釘を刺された。けれども色々な意味で簡単に吹聴できる話ではない。

「それはそれとして、具体的にはどういう状況になるんですか? 名前が呪いだって分からないと」

 垣さんはコーヒーを一口啜った。

「それを説明するにはもう一つ知ってもらわないといけない事があるわ――呪いっていうのは、それをかけた本人にもかかってしまう恐れがある。人を呪わば穴二つって言葉があるでしょう?」

「言葉としては知ってます」

「穴っていうのは墓穴のこと。つまりは人を呪ったらそれと同じくらいの効果が自分にも跳ね返ってくるというのを戒めている言葉なのよ」

「冬に扇風機を回したら、自分も風邪を引くかもしれないってことですか?」

「言ってしまえば、そういう事ね」

「それで、その扇風機の話が名前に置き換わると、どんなことが起こり得るんですか?」

「一番分かり易いのが、名付け親のコンプレックスやトラウマを克服させるために子供の名前を考える場合かしらね。これは意識の段階で良し悪しの区別が付けられないから難しいのだけれど」

「よく分からないんですが、それはさっきの話だと祝おうとしているんじゃないんですか?」

「目的としてはね。けれど言った通りほとんどの人が使い方も仕組みも理解していない。だから必然的に間違いが多くなる」

「祝っているはずが呪っている状況に陥っているんですか?」

「そうなるわ」

 一先ず会話の内容は理解できるが、実際の問題に置き換えるのが難しい。

 僕もコーヒーで口の中を潤した。砂糖は使っていなかったが、構わなかった。

「例えば?」

「例えば子供の名前に『正』という字を使うとするわね。この時、名付け親の意識が正しい生き方をしてほしいと意味を込めるのか、間違った生き方をしてはいけないからと意味を込めるのかでは、全く違う意味合いになってしまうの」

「そうですか? 意味合いとしては結局正しく生きてほしいってことになりませんか?」

「意味合いとしては確かに似通っているのだけれど、ここで人を呪わば穴二つって言葉を思い出して。子どもに正しさを求めるという事は、どういうこと?」

「自分にも正しさを求めるって事ですから、この場合は名付け親も正しさを求められるってことですか?」

「そう。自分の正しさを求められて、とどのつまり子供の育て方や教育方針にも滲み出てきてしまう。その時、どういう意味を込めて名前をつけたかが重要になる。『間違った生き方をしないように』って言葉には子どもが間違いを起こすことを前提としていたり、間違いや失敗を許さないって意思も見え隠れしている。厳格さだけで間違いを容認しないほど余裕がない心理状況が名付け親に宿っている。そんな人に育てられたとしたら? 上手くいけば品行方正な人間になるかも知れないけれど、呪いは善悪の両面を持っているからプラスの面が上手く機能しないと…」

「マイナスの面が働いて、ぐれたり反抗的な人間になる」

「すごい極論だけれどね。イメージは出来るでしょう?」

「…はい」

 僕は、その例え話に自分の現状と母親の事を思い浮かべていた。

「今の例え話は名付け親が「正しさ」を求めている場合の話だけど、最近の傾向として親が子供に一番求めているモノって何か分かるかしら?」

「何だろう―――『個性』とかですかね」

「正解。仁君、頭良いわね」

 褒められたことは嬉しかったが、それよりも話の続きを急かした。

「いや、それよりも『個性』が求められるとどうなるんです?」

「思うに子どもに個性を求める、その現代の傾向の負の側面が如実に表れたのが、つまりは不満足名称なのよ。不満足名称を細かく分類すると『人名にふさわしくない名前』、『日本人としてふさわしくない名前』、『当て字や分割読みをする読めない名前』、『漢字の使い方が不適切な名前』の四つがあるんだけれど、いずれも大多数に共通するのは個性的であるという点ね。じゃあ、何でこういった不満足氏名が生まれるかって理由なんだけど」

 垣さんはまたコーヒーを一口飲んだ。

「誰しもが口にするように、やっぱり時代が変わったというのが一番大きいのでしょうね。特に全体主義的な文化から個人主義に移行してきたということがとてもね」

「個人主義ですか?」

 また込み入った話になる予感がした。

「ええ。けれど日本って国そのものは、今言った通り全体主義的な文化も根強く残っているから余計に混乱している、というより矛盾を抱え込んで苦しんでいる――って私は感じているわ」

「申し訳ないんですけど、また例えてもらってもいいですか?」

「言い方は悪いけど、子どもを――いえ、人間を所有物と考える人が増えてきているという事かしら」

「所有物」

 思わずその単語だけを反復した。思い当たる節があった。というよりも思い当たる節しかなかった。僕は再び母の事を思い浮かべていた。

「昔は終身雇用が当たり前の社会だったけれど、今ではそんな企業は稀でしょう? それどころか就職氷河期とか派遣切りなんて当たり前に言われている。派遣切りなんて正しく人間を物扱いしているような名称で、憤りや寂しさや不安を感じる人は多い。けれど、これは資本主義の成果であって、実際に生活が豊かになっている訳だから、一概に悪いとは言えないわね。それで本題だけれど、親が子供を所有物扱いして名前を考えたらどうなるか―――子供の事を蔑ろにするようになる訳ではないわ、場合によってはより親身になる人もいる。ただ子どもとの関係が濃くなるの」

「濃くなるのは良い事ではないんですか?」

「悪いイメージを持たれている『呪い』にも良し悪しがあるように、何にでも同じことが言えるわ。ずるい言い方かもしれないけれど」

「という事は、関係が濃くなることの悪い側面があるってことですよね」

「そして、今は悪い側面が浮き彫りになっている訳ね」

「ぐ、具体的には?」

「再三言っているけれど、名前が呪いであるなら呪いの構造上、子どもに個性を求めるって事は、裏を返せば名付け親が自分自身に個性を求めていることになるの。そうなった場合、名付けという行為は自分の個性的センスを主張できる絶好のチャンスになる。難しくて煌びやかでジョークとウィットに富んでいればいるほど、そんな名前を考えた自分は個性的な人間だってことになる。仮に自分の理性が働いたとしても、自分の子供は一個人ではなく、所有物であると無意識的な認識があるとそのまま命名してしまう。不満足氏名をつけるのは名付け親に常識や創造力がない訳じゃなくて、そういう認識があるから―――というのが私なりの分析ね」

「けど周りの人間が止めたりは――っていうのはダメか。個人の問題になんだから口を出すなって言われるのがオチですね」

「そうね」

「ならそもそも、役所とかで止められないんですか?」

「難しいでしょうね。別に違法な事をしている訳ではないし。良心的な職員がいれば止めるかもしれないけれど、別の役所でなら受理されてしまうだろうし、そもそも止めない人の方が多いのよ。所詮は他人の事、揉めたりしたくないのが本音だからね」

 垣さんはため息を一つ洩らし、渋い顔になった。ひょっとしたら、かつて命名の事で悶着があったのかもしれない。

「でも、いくら何でも、読めない字だってことくらいわからないもんですか? 流石にそれは馬鹿すぎるかというか」

「もちろん、そこまで世間知らずだったり非常識な人達ばかりという訳じゃないわ。いくら個人的な問題と言っても、不満足名称がここまで社会的関心を集めて問題視されるようになったのは、世間が名前っていうのは公共的な性質を持っていると知っているからじゃないかしら、自覚無自覚は問わずね。だから本当の問題点は名前の公共性がなくなってきているからと思った方がいいかもしれない。そして、その背景には資本主義やコマーシャリズムの標準化がある。子供の名前が最初に呼ばれる環境は、実際には幼稚園や学校や病院が主で、子供の名前が読めずに批判の声が上がったりするんだけれど、保護者の立場からすれば自分たちはその施設を利用している、つまりはお客さんであるわけ。お客さんなら子供の名前が読めないのは店側が努力して改善すればいいと思う――ここがおかしいといえばその通りだけれど、今の日本の現状を鑑みれば店側の努力を当然と思ってしまうのは仕方ないわ。もしも店側が努力しなければお客さんが離れていくから、店側は努力せざるを得ない。こうして悪循環が生まれる。結果として不満足氏名に歯止めがかからなくなる―――ああ、これもね、私個人の見解だから」

「はい」

 またも釘を刺される。が、言いふらそうにも言いふらせない。

「それに不満足氏名が問題視されているのは日本だけじゃないしね」

「そうなんですか?」

「アメリカやヨーロッパでも社会問題になっているわよ。あまり大事にはなってないけれどね。少子化と一緒でいずれは世界共通の社会問題になるかも知れないわね――けれど私は、日本の場合はもう少し込み入った理由があると思っているの。日本ならではのね」

「日本ならでは?」

「もっと正確に言えば日本語ならではかしらね。日本語の表記には大きく分けて三つあるでしょう? カタカナとひらがなと漢字の三つね。ここが味噌なんだけれど。日本語っていうのは日本古来のヤマトコトバと中国漢字の二つの言語が合わさって出来ている、いわばハイブリット言語なの。語感や発音に関してはヤマトコトバ由来の要素が多いんだけれど――言霊ってものは知ってるかしら」

「聞いたことは…」

「要するに私が『赤い』と言ったら、仁君は頭の中に赤色を思い浮かべる事ができるでしょう? 前の話を借りて言えば声を使って相手に呪いをかけてるんだけど分かるかしら」

「はい」

「じゃあこうしたら?」

 垣さんは適当な紙の裏に、ボールペンで大きく『赤』と一文字書いた。

 途端に脳内に赤色が滲むように再現された。

「頭の中には赤い色を思い浮かべられる?」

「はい。つまり目から入って来る呪いですよね?」

「ええ。字なんて只の鉛筆の線でしかないのに、同じように呪いをかけることができる。私は言霊に対して『あざたま』って勝手に呼んでるんだけれど」

「あざたま? ってどう書くんですか?」

 耳慣れない言葉にイメージが湧かなかった。垣さんは例によって紙の裏に丁寧な字で『字霊』と書いた。そう書いてもらったら、漠然とだが意味を理解したような気がした。つまりこの感覚が字霊なのだと思った。

「字から連想してしまう呪いってことですね」

 さっきまでの話と合わせて言えばつまりはそうだ。垣さんも肯定した。

「それでね。不満足氏名の四つの分類を述べたけれど、それの大多数はこの言霊と字霊の事を無視しているから起きているんだと、私は思っているわ。まず現代の名付けの特徴として語感や言葉の響きから名前を考える人がとても多い。まずこれが言霊の無視ね。この時点で『人名にふさわしくない名前』と『日本人としてはふさわしくない名前』が出来上がりやすい。そして次にその名前に無理矢理漢字を当てはめるから、最終的に『当て字や分割読みをする難読な名前』になってしまう、これは更に字霊の無視もしてしまっているわね。字霊を無視する名付けとしては、他にも悪とか凶とか未とか負の意味を持っている字を平気で使ってしまったりすることもあるし、組み合わせが熟語になってしまうと知らない場合もあるわ。これが『漢字の使い方が不適切な名前』になる。では、なぜこうなってしまうのか? これは名付け親が名付けは呪いってことを理解していない上、言霊も字霊も無視してしまっている理由の他に、先に言ったハイブリット言語である日本語特有の問題もある―――要するに日本語にはこう書かなければならない、こう読まなければならないっていう厳密なルールがないの。それはつまり幾らでも融通が利く創造性があるってこと。外国語をカタカナ語にして日本語の会話に混ぜてトークしたり、和製英語や新語や略語、若者ことばみたいに次々に言葉を作ることが他の言語に比べて容易い構造をしているのよね。だから、無理矢理な読ませ方であっても絶対に間違いとは言えないし、新語と同じようにいずれは慣れが出てくるわ。例えば航とか菜摘みたいな名前は昭和の初期から中期にかけてはでは、今でいう不満足氏名だったし。時間と共に受け入れられて、それが普通になって、更に個性を求めて新しい不満足氏名が生まれる」

 いたちごっこね、と垣さんは締めくくった。

「それが日本語の持っている個性でしょうから」

 僕がそう感想を述べると垣さんの口角が明らかに上がったのが分かる。

「仁君は理解もしてくれる上に気の利いた返事もくれるから実に話し甲斐があるわ」

「そのうち、新しい漢字を考える人とかも出てきそうですね」

「否定はできないわ。名前として使用が認められている常用漢字は現在三千字あるけれど、それでも少ないって苦情を言う人はいるからね」

「解決策はないんですか?」

「難しいわね。けど危機感はあるんじゃないかしら? だからこそ、こういった改名制度が試験的に導入されたりもしている訳だし。けれど結局は名付け親の感性次第」

「そうですよね」

「でも仁君は大丈夫よ」

 根拠のないその言葉が、何故だか今日一番すんなりと僕の中に入ってきた。

「なんで、ですか?」

「感性に良し悪しとか普通も異常も言えないけど、私の名前をおかしいと感じるあなたの感性はやっぱり正しいと思うわ。何と言われようと何年経とうとも、私は私の名前を玩具にされているという思いを払拭できないもの。だから将来、仁君が名付け親になるとしても、きっときちんと子供のお祝いができるわよ」

「そうでしょうか…」

 チャイムがなった。特別進学コースの生徒は普通科の生徒より授業時間が多いためその授業の終わりを告げる鐘だった。そしてその間の時間が僕の面談の持ち時間だった。

 垣さんの話が面白くて時間を忘れてしまっていた。関係のない話しかしていない事に申し訳なくなった。

「すみません。時間が」

「いいえ、キチンと面接できたから大丈夫。きちんと仁君の名前は考えられるから安心して」

 そう言うが、とてもきちんとした面談だったとは思えなかった。先生の脱線した話を聞くだけで教科書を触りもしなかった授業のような、面白いが実りのない時間に思えた。

「交互に質問のはずだったのに、自分だけ聞きたいことを聞いてしまいました。すみません」

「かえって助かったわよ。質問されるのが一番教え易いの。仁君に少しでも名前のことに関心を持ってもらえたなら良かったし、不満足氏名を失くす解決策っていうのは、こうやって名前の理解を深めてもらうことかもしれないわ」

 垣さんは書類をまとめ始めた。

 僕もそれに合わせて帰り支度をする。人から名刺をもらったのは初めての事だったので、勝手が分からず、結局は自分の財布にしまうことにした。

 それから残っていたコーヒーを飲み干すと、一言お礼を言ってから退室した。

「ありがとうございました」

 仮に今のような面談で自分の名前を決められるとしたら、賛否両論が分かれると思う。しかし誰に何を言われても、僕の中には得も言われぬ安心感と満足感があった。

 今日は部活もなく、お使いも結局は頼まれなかったので時間があった。このまま帰る気になれず、どこかに寄り道して帰ろうと思い考えを巡らせる。校門を出る手前で閃きがあり、踵を返して図書室へ行くことにした。

 図書館は教員棟と呼ばれる、職員室や校長室が集まってできている建物の二階にある。北側にあるため、前の廊下は陽の光があまり当たらず暗く寂しい。放課後に来ると尚更だった。図書室の中には司書の先生と、生徒が数名だけしかいなかった。普段はあまり利用しないので、二、三人の利用者が多いのか少ないのかは分からない。

 閲覧用の机にカバンを置いてスペースを確保すると、入り口横にあった蔵書検索用のパソコンを使って名前に関しての本を探した。改名制度に指定されている高校の図書室だけあって、思った以上に専用の蔵書があった。一先ずタイトルで気に入った本の照会番号をメモしていった。だが実際に手に取って見ると、琴線に触れる内容の本は見つからなかった。それでも画数で見る姓名判断について書かれた本は、垣さんとの話につながる何かが有るような気がして、借りることにした。

 不意にある考えが過ぎり、また蔵書を検索した。

 呪い、とフリーワードで検索してみると、こちらも案外な数が揃っていて少し驚いた。例によって気になったタイトルを控える。こっちは読んでみたい本が三冊も見つかってしまったので苦笑した。

 それからは席について本を斜め読みしつつ、今日の面談の事を思い返していた。色々と発見あった。名前に対しての認識もそうであるが、そもそもああいう話を面白いと思ってしまった自分が意外だった。

 所謂ところのゲームや漫画の類は母に禁止されていて、家にはほとんど置いていない。父がいなくなってからはより拍車が掛かっている。テレビにしても基本はニュース番組ぐらいしか見ることが出来ない。バラエティの類はくだらないと一蹴されるか、勉強しろと小言を言われて強制的に消されてしまう。中学の時は、前の日の番組の話で盛り上がるクラスメイトが羨ましく見えた。有名人が傍にいなかったら、今よりももっと世間話に付いて行けなくなっていたと思う。

 そんな圧が圧し掛かっているせいか、将棋以外に興味を持ったのは久しぶりの事だった。

 その時、垣さんとの会話も思い起こされて、僕はもう一度、蔵書検索をかけた。

 打ち込んだ『個性』というたった二文字の単語に対して、またそこそこの数の本が該当結果として表示されている。例によってタイトルを控えてから探し始める。そして、二冊ほど自己啓発系の本を持ってきた。ちょうどその時、司書の事務員に閉館時間だと言われ、この二冊と先に持ってきていた三冊を合わせて借りることにした。姓名判断の本は粗方読んでも今一つ面白みがなかったので返却してしまった。

 この高校に入学して初めて図書室から本を借りた。通学カバンがトレーニンググッズになってしまった。次からは計画的に借りようと反省した。

 図書室を締め出されると、いよいよ大人しく家路についた。駅に着く少し手前で教室はまだ空いているのだから、何冊か置いてくればよかったと気が付いたが手遅れだった。

 日が暮れてもあまり寒くならず、風も吹かない天気だった。荷物が重くなっているからか、家に着く頃には少し背中が汗ばんでいた。

「ただいま」

 家に上がると、リビングには顔を出さず一直線に部屋に入った。カバンを置き、着替えようとしたところでノックが聞こえた。

「孝文、帰って来たの?」

「今着替えてる」

 そうは言ったが面倒事は早めに済ませるに越したことはないと、上着だけを脱いでドアを開けた。部屋も廊下も暖かくないのでちょっと後悔した。

「なに?」

「面談はどうだった?」

「まあ、想像してたような感じではなかったよ。結構面白かった」

「面白かったって、どういう事? 面接だったんでしょ」

 ちょっとした地雷を踏んでしまったと、すぐに今の発言を悔いた。

「面接もキチンとしたさ。ただ名前一つ取っても色々と考えさせられるなって、その人の話を聞いてそう思ったって意味だよ」

「あのね孝文、面談っていうのはその人の人となりだとか、性格とかを判断するためにやるものなんですよ。あなたがやってきたのは、ただのおしゃべり」

 その言葉で鼓動が一気に早く、激しくなるのを感じた。母には見えない側の手を固く握りしめ手の平に食い込む指先が痛く、鼻から吸って吐き出すだけの空気がとてつもなく熱かった。

「…」

「何か言いたいことがあるの?」

「いや、別に」

 心は煮えた油のようにドロドロと熱い何かが波打っている様な感覚だったが、頭の中は不思議と不気味なまでに冷静になっていた。だからなるべく、なるべく穏便かつ速やかにこの無駄な時間を終わらそうとだけ考えた。

「その面接をしたのはなんて人」

「さあ」

「面白い話をしてたのに、相手の名前も分からないなんて、本当に喋ってただけなの?」

 ため息交じりのつぶやきが、鼓膜を突き抜け容易く中に入ってきた。その瞬間、一つ前の冷静さが嘘のように吹き飛んでしまった。

 財布の中にしまっていた垣さんの名刺を取り出すと、まるで殴るかの勢いでそれを突き出した。

「ほら、この人だよ」

「この名刺は預かるわ。いいわね」

「なんでさ」

「もう必要ないでしょう」

「そうとは限らないだろう」

「じゃあいつ使うの」

「分からないけど」

「それは使わないのと同じよ」

「…」

 そう言われて、すぐさま反論が思い浮かばなかった自分に無性に腹が立った。

「もうすぐ志郎さんが帰って来るはずだから、それまで勉強でもしておきなさい」

 母は言い残すとすぐに戻って行った。

 それからは一瞬のうちに時が経ったように気が付けばベットの中にいた。夕飯を食べた記憶も、風呂に入った記憶もあるのに、実感だけがない。まるで記憶だけを後からインプットされた様な気持ちだった。

 どうしたっていい夢を見れそうにはなかったが、心中の名状しがたいわだかまりは眠ることが一番の解決策だと思った。

「…」

 しばらくは眠れなかった。あれこれと色々な事が勝手に頭の中を右往左往した。それだけ浮き沈みと喜びと怒りのギャップが激しい一日だった。だが、何かい寝返りを打ったかという事を数え始めると心に隙間が生まれたのか、いつしか眠りにつくことが出来たのだった。

 その日は荒唐無稽な夢を見た。

 しかし起きた後は、荒唐無稽な夢を見たということしか覚えていなかった。
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