不満足氏名

音喜多子平

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後輩と、そして先輩との会話

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 どうせ明日と同じような平凡な授業が終わった。

 黒板を板書し、問題を解き、昼休みを終えると午前の出来事を再生するかのような時間を過ごした。

 変わった事と言えばクラスの担任が突如体調不良で早退し、代わりに来た教師の話が延々と長くなり最後のホームルームの時間がいつもの倍以上になった事くらいだった。

 けれども、昨日までとは違い今日は冬休みが明けてから初めての部活がある日だった。

 僕の在籍するこの高校の将棋部は、名のある大会に出るような実力者がいる訳でもないし、三度の飯より将棋を指すのが好きだというような愛好家が揃っている事もない。そもそも六畳半の部室に集うのは僕を含めても二人しかいない。四人が在籍していなければ廃部になってしまうため、友達に名前だけ貸してもらい細々と息をしている、そんな弱小以下の部活である。

 しかしながら、各学年に必ず一人は物好きがいるようで、年々一人が卒業し、一人が引退し、一人が進級と共に名誉無き部長になり、新入生が一人入部してくるという流れが奇跡的に続いている。そしていつしか、新部長が名前を貸してれる幽霊部員を探して来るのが、習わしになってしまったらしい。

 去年、つまりは僕が一年だった頃の世代はその伝統に少し例外があった。三年生の先輩がとうとう卒業するまで部室に入りびたり、二年の先輩が成績不振の為、親に強制的に塾に入れさせられてしまい、滅多に顔を見せなくなっていた。

 その時の三年だった先輩は古川先輩と言って、僕と同じく名前の変わるコースに入学していた人だった。色々と部室で話すことはあったが、お互いに名前が変わる事についての話題は口にしなかった。僕は母親に半ば無理やりに入学させられたことを口外したくはなかったし、古川先輩もついぞ名前に関しての話題を持ち出すことはなかった。

 ゴムなのか樹脂なのか分からないグランドは雪が解けた跡が点々と水たまりになって残っていた。そのグランドを囲んでいるフェンスを回り込み進む。その先の卒業しても名前の変わることのない、本当の意味での普通科クラスの校舎裏に部室棟がある。

 部室棟は山の斜面を均した場所に三階段になって立っている。上に登った先は草木がうっそうと茂る林になっており、段々の最上にある我が将棋部のある部室棟の屋根の上には山の木々の枝葉が伸びてきている。夏場はそれが日陰になっていくらか涼しくなるのだが、この時期は逆に日光を遮ってしまい熱と光が届かない。

 二段目の部室棟の脇には、普通科クラス用の購買部がある。僕はそこで小腹に入れるための菓子パンを一つ買った。

 部室棟の部屋の大半は物置と化している。運動部は精々が更衣室代わりとして使い、文化部であっても校舎から遠く何かと不便な部室棟を使うよりも使用許可を取って一般教室を使うところがほとんどだった。

 二階建ての部室棟には一棟につき、上下五つずつ合わせて十個の部室がある。目指すC棟からは将棋部を含め、登山部の部屋にしか明かりがついていなかった。この辺りは化粧崩れした雪が残っている。

「お疲れ。ごめん遅れた」

 カラリと、引き戸を引いて中に入る。普段から使っている分、将棋部室は他所の部屋に比べれば片付いている。将棋盤くらいしか特別な器具を必要としないので、当然と言えば当然だ。本棚には将棋に関する書籍が殆どだが、関係のない漫画や雑誌の類もある。中には僕が生まれる前に刊行されたものもあるので、貴重な文献と言えなくもない。

 近所の酒屋から調達してきた瓶ビールのP箱を土台に柔道場のお古の畳を置き、その上にゴザを敷いた手製の座敷には、僕を除けば唯一の現役部員にして後輩の長田凛久おさだりく胡坐あぐらをかき、プリントを見て悩んでいた。

 部屋の中は思ったよりも暖かかった。ストーブを付けてから大分時間が経っているようだ。

「お疲れ様です。全然大丈夫っすよ」

 そう執着のない返事が返ってきて一安心する。長田くんはかなり飄々とした人間だ。僕も他人の事を言えるほどではないが、彼はあまり表情を動かさず、のらりくらりとしている。かと言って遅鈍という事でもない。時折大人びて見えたかと思えば、子どもっぽい言動をすることもあり、身近な人間の中では特に掴み所がない。

「さてと、冬休み前の続きする?」

「すみません、先にプリント書いちゃっていいですか?」

「何の?」

 どこから持ってきたかも知れない使い古しの教室机にカバンと上着を置いた。

 長田くんは指でペンを回しながら答えた。

「二年の選択授業と進路希望っす」

 そう言えばそんなものもあったなと、去年の今時分の自分の事を思い出す。それならば、じきに長田くんも改名に向けてあれこれと彼是と考え始めることだろう。彼も僕と同じく改名するコースの生徒であった。

「いいよ。並べとくから」

「うす」

 そう言って座敷に将棋盤を置き、スマートフォンに撮影した冬休み前の盤面通りに駒を並べ始めた。

 そこで微かな香水のような香りが鼻をかすめた。

「あれ? 何か良い匂いがしない?」

「…ちょっと引きました」

 見れば言う通り、長田くんは引きつった目をこちらに寄越していた。

「何でだよ」

「いや、残り香で誰か来てたか分かるって、引かないっすか」

「そう言っても仕方がないだろ。ていうか誰か来てたの?」

「はい。女の人が」

「先生?」

 今の将棋部に出入りする女性など、顧問の竹森先生しか思い浮かばない。それも年に一度あるかないかの頻度のはずだった。

 長田くんはすぐに否定した。

「いや、ここのOGって言ってましたよ。古川さんだったかな」

「古川先輩か」

 意外な人物の名前に驚いた。卒業生が部室に訪ねてくるなど今まで経験がない。

「はい。乙川先輩に会いに来たって言ってましたけど、来るのが遅いんで先生たちに会ってくるって出て行きました」

「何だろ? 指しに来たのかな?」

「人を?」

 包丁か短刀を腹に突き刺すような仕草をした。時たまこういう冗談染みた事を表情のない顔をしながら言うから戸惑う。

「将棋に決まってるでしょ」

「本当に将棋部だったんですね、あの人。何かイメージが違う」

 ああ、それは分かる。僕が一年で入った時も同じこと思った」

「日曜日には必ずケーキ焼いてそうなイメージです」

「ナニその分かるようで、分からない感想。でも正直、一年の時は結構ウキウキしながら部活してたな」

 去年までの部活の事を思い出す。仮にも男子高校生であるし、顔立ちの整っている女子の先輩と二人きりで部室に居れば、胸高鳴るのも仕方ない。とは言っても、一年の後半は何度指しても一勝もあげられないまま辛酸を舐めるのに忙しく、気もそぞろな事など考えもしなかった。

「あれ? ひょっとして今見たく二人きりで指してたんですか?」

「まあね。里村先輩は全然来なくなってたし」

「うわー」

 そう言って長田くんは、先ほど以上にこちらを貶めるように見てきた。

「何さ」

「美人の先輩と二人きりで将棋指すとかないわー」

「めちゃくちゃ強いけどね、あの人」

「そうなんですか?」

 へえ、と意外そうな声を上げた。確かに古川先輩は、どう見たって将棋を指すのが何よりも好きというような風貌には見えないので無理もないと思った。

「先輩、休み前の対局とかどうでもいいんで、戻ってきたらあの人と対局させてくださいよ」

「結構ひどい奴だね、長田君」

「いいじゃないっすか、乙川先輩とはいつでもできるんすから」

「ま、いいんじゃない。やってみれば」

「やべ、さっさと終わらしとこ」

「適当に書くなよ」

 生返事と共に、長田くんは二の足を踏みながらのペンを走らせた。僕は僕で菓子パンを齧りつつ、雑誌を見たりスマートフォンをいじったり詰め将棋をしながら時間を潰した。

 ◇

「遅いですね」

 長田くんのいう通り、古川先輩は中々部室に戻っては来なかった。僕が部室に到着してから一時間が経とうとしている。

 僕たちは先輩を待ちながら、結局は冬休み前に中断した将棋の続きを指していた。その最中、古川先輩のことを話した。思い出話から始まり、具体的な実力や得意な戦法、僕たちと同じく卒業と同時に名前が変わった人だということも教えた。

 窓の外に見える景色は、既に薄暮を通り越して真っ暗になっていた。まさか帰ってしまったのだろうかと考え始めた時、それを払拭するように摩りガラスの向こう側に人影が見えた。人影は迷うことなく引き戸の前に立ち止まり、そしてカラカラとドアを開けた。

「お邪魔します。あ、乙川。やっと来たわね」

 ようやく古川先輩が戻ってきた。

 久しぶりに聞くその声は最後にあった日から変わってはいなかったが、見た目は記憶のそれと大分違っていた。キャンパスライフを謳歌する大学生の格好なのはその通りなのだが、髪は短くなり少し大人びて見えた。

「お疲れ様です」

「お疲れ」

 座敷から降りようとした僕を先輩はそのままで良いよ、と言って止めた。

「だいぶ遅かったですね」

「先生と大分盛り上がっちゃってね。はいこれ、差し入れ」

 古川先輩は、購買部の脇の自販機で買ったのであろうホットコーヒーを僕たちに手渡してきた。

「有難うございます。頂きます」

「えと、長田くんだったよね? 長田くんも遠慮しないでいいよ」

「うす。頂きます」

 三人で缶コーヒーを飲み、しばらくは近況報告に似た閑談が続いた。

 うまく会話が途切れたところで、ちょんちょんと肩を叩かれた。見ると長田くんが、さっきの話よろしくお願いします、と言わんばかりに手を合わせていた。

「あー、古川先輩」

「なに?」

「もしよかったら、一局どうですか? 長田くんと」

「いいの? 今対局してたでしょ?」

「大丈夫っす。一局お願いします」

「二人が良いんなら。私も久々にこの部室で指したくてさー」

 先輩の目の色が変わったのが見て取れた。

 僕たちとは違い、古川先輩の三度の飯より将棋を選ぶ性格なのは変わっていないようだった。そして座敷に上がるときに雑に靴を脱ぎ捨てる癖も変わっていなかった。

 先輩の代わりに僕が下に降り、椅子に腰かけて岡目を決め込んだ。

「乙川。長田くんは何枚か落とした方がいいの?」

「いえ、平手でお願いします」

 当の本人が質問に答えた。長田くんは勝率や公的な成績で言えば僕よりも上なので止めはしなかった。

 その返事に古川先輩は満足した様子だ。

「お、いいねぇ。じゃ振るよ」

「お願いします」

 振り駒の結果、長田くんが先手となり二人は対局を始めた。

 先ほど古川先輩は強いと言っていたせいか、僕と対局する時のように胡坐ではなく正座に居直って指している。

 盤に駒を置く小気味よい音とストーブの唸りだけが響いている。八手目が打たれたところで、長田くんはおもむろに聞いた。

「あの、古川先輩は対局中に喋っても平気な方ですか?」

「いいよ。おしゃべりは大好きだから」

「俺、ここの名前が変わった卒業生って人に初めて会ったんですけど、実際どうなんですか。名前が変わるって」

「苦労の連続で、名前を変えた事を後悔してる――」

「え?」

 と、声を出したのは長田くんではなくて僕の方だった。とは言っても長田くんも珍しく驚いたような顔をしている。

 先輩はそんな僕たちを他所目にあっけらかんと続けた。

「っていうのは冗談だけどね。実際は全然苦労はしていないよ。私は大学へ進学したんだけど、大学でできた友達は皆初対面だったし、今のサークルじゃ皆ニックネームとかで呼びあっているから下の名前を気にすることは滅多にないしね。前の名前で関わっていた人達も―――例えば親とか親戚もいい加減に慣れてくれたし。小中の友達には中々会う事もないし、高校の同級生は名前が変わったのは勿論知っているから困ることはないしね。それに、そもそもの話だけど、日常生活で下の名前で呼ばれる機会なんてそうそうないじゃない? ざっと思い返しても見ても、名前を変えて不便だと思ったことはないなぁ。初めの頃は色々と書類を書いたり出しに行くのが面倒だったけど」

 つらつらと答えてくれる中で貴重な事が聞けた。実際、今後の生活を考えると杞憂というか、色々と考える事は多いのが本音だった。名前を変えることに一切の不安がない奴は稀だろう。

 しかし先輩の弁は、言われれば尤もな事ばかりで少し肩の荷が下りた様な気がする。多分、長田くんもそれは同じだった。

「へえ。てか、そもそも変えたくなるくらい変なお名前だったんですか?」

「ううん。京都の〈京〉に香車の〈香〉って書いて京香っていう名前だったんだけど、別に普通の名前だよ。名前を変えたいと思ったのに、劇的な理由がある訳じゃないのよね。期待させていたら悪いんだけど」

「いえ――因みに劇的じゃなくても理由を聞いてもいいですか?」

「ふふふ。ぐいぐい聞いてくるじゃない。将棋の方もそんなおっかなびっくりじゃなくて、ぐいぐい来てくれれば楽しいのに」

「それとこれとは話が別ですんで」

 序盤は何をさておき守りに徹するのはいつもの長田くんのいつもの筋だ。けれども普段より更に用心深い印象を受けた。

 ただ、僕の関心は二人の将棋よりも話の方に傾いていた。

 古川先輩は答える。

「とは言われても、今言った通り、具体的な訳はないのよね。何となく名前を変えてみたかったというだけなんだけれど。それで腑に落ちないなら名前が変わった時に思い付いた決心を教えてあげよっか」

「名前が変わった時の決心?」

「うん。乙川は知っているけど、私は〈明日〉に〈花〉って書いて明日花という名前になったのよ。『きょうか、あすか』と洒落が利いてて個人的にはすごく気に入っているんだけど、それは余談ね。私の名前が新しく変わった時、私はね、変わらないでいようと思ったんだ」

「どういう意味ですか?」

 長田くんは手を止め、盤から先輩の方へ視線を動かした。

 僕も何か含みのあるような気がして、言葉の本意は分からなかった。

「言葉のまま。明日花になったところで、京香という名前で過ごしてきた過去や記憶が無くなっちゃう訳じゃないし、何と呼ばれたところで私は私のままでいようと決心したんだ」

 分かるようで分からない、けれども古川先輩の事を多少なり知っている人間に言わせれば実に彼女らしい考え方と言い方であると思った。

 要するに名前に人生を左右されたくないという話なのだろう。

「それは、古川先輩が前の自分を嫌いでないから思ったんでしょうね」

 か細い呟きが馬鹿に響いた気がした。

「うん? 何やら意味深だね?」

 先輩も小首を傾げている。

 長田くんは眉間に皺を寄せ一つ深い息を吐いた。将棋で押されているから出たため息ではなく、先輩の話を聞いて出たため息の様だった。

「長田くん、どうかした?」

「いえ、何でもないです」

「ああそうそう、名前が変わるで思い出した。今日は乙川に報告があってわざわざ来たんだった」

「? 何ですか、報告って」

「私、今度結婚することになった」

「は?」

 そう声を出したのは長田くんだ。僕は声すら出ないほど唖然としていた。絵に描いたような開いた口が塞がらない顔をしていた事だろう。

 先輩はニヨニヨといた顔をしたあと、クツクツと楽しそうに笑った。

「予想通りの顔が見れて満足、満足」

「冗談ですよね?」

 出てきたのはたった一言の言葉であるが、それを捻り出した脳裏には何十倍ものワードが交錯している。

「ううん、これは本当。名前が変わったばっかりだけど、今度は目出度く名字まで変わることになりましたー。まだ籍は入れていないんだけど、まあ年内中に私は古川明日香改め、八重樫明日香になっちゃいます」

「お、おめでとうございます?」

 思わず語尾が上がり、疑問形のようになってしまった。

「ありがとう」

「でも先輩まだ学生で、未成年ですよね?」

「相手はもう社会人だよ。それに私も今年二十歳になるから特に問題はないよ。勿論、双方の親に挨拶も済ませてあるから、そっちも心配なし。ウチはあまりそういう事に口うるさく拘る親じゃなかったから。流石にあと二年は学生だから子供は考えていないけれどさ」

「色々急ですね」

「まあ、かなり早い結婚だとは思う」

「なんか格好いいですね、古川先輩」

 僕も感じていた事を長田くんが代弁してくれた。やる事なす事が下手な男よりも男らしくて圧倒される。高校時代から少々破天荒な気はあったが、ここまで踏ん切りが良い人だとは思っていなかった。

「ふふふ、ありがとう。これでもう『古川京香』という名前の人間は、完全にいなくなっちゃう訳だけど、どうなるだろうね。私は変わらずに私のまま居られるのかどうか、とても楽しみなんだ――ああでも、そんな言い方だと好奇心ばかりが先走って愛が無いように聞こえちゃうな。誤解しないでね。当然、相手が好きだから結婚するんだからね」

「何かもう、何も言えないです」

 誤解するしない以前にまだ先輩の話を頭で理解できても、心で理解できていない気がした。それだけ唐突過ぎる話だ。

 そしてこちらの気などお構いなしに先輩は唐突に話題を変えたのだった。

「ところで、長田くんは何で名前を変えたいの?」

 少し沈黙があった。三秒にも満たない間であったのだが、長田くんの雰囲気が変わったせいか、僕にはもっともっと長い時間に感じられた。

「…さっきの話と絡めるなら古川先輩とは逆です。俺は自分を変えたいから、その為に名前を変えたくて入学しました」

「詳しく聞いても大丈夫?」

 先輩は声のトーンと顔を元に戻して聞き入った。

「俺、小学生の時、いじめられてたんすよ。中学も同じ小学校から入学した奴らが殆どなんで、始めのうちは同じだったかな。あ、でも漫画みたいなエグイいじめじゃなかったですよ? 今もそう変わんないすけど、陰キャそのものみたいな奴だったんで、友達もいなくて。けど――こっちは漫画みたいな話ですけど、中一の時に名人戦に出たら三位になっちゃって」

「凄いじゃん」

 僕は知っている事実なので驚きはしなった。むしろ長田くんの過去の話の方にひどく衝撃を受けていた。

「まあ、それからちょっと自信を持てたんです」

「周りの目も変わったでしょ?」

「そうかも知れないです。いや、最初は自慢する友達もいなかったですけど。一応、学校が大々的に報告してくれましたんで、話かけられる事は増えましたねでもその後もイジメられていたのは自分の中で尾を引いていたんで、結構悩んだりしたんですよ。ウチの中学、将棋部がなかったから将棋の事で話せる友達もいないし、その後に他の大会は行けてもベスト16とかが精々で―――それでも凄いって励まされたりもしたんですが、やっぱり自分が好きになれなくて。しかも逆に下手に目立ったせいで一度だけ、結構酷い事言われたんす。その時は本当に死のうかと思ったこともあります」

 先輩は黙っている。僕は言葉が出ないでいる。

 色々と問題のある日々を過ごしてはいるが、死んでしまいたいと思ったことはまだない。

「ま、死んでないので今こうやって将棋を指してる訳ですが。で、それからも色々考えてみて名前を変えれば、ひょっとしたら少しでも変われるんじゃないかと思ったんす」

「なるほどね」

「けどやっぱり、名前が変わったくらいじゃ、劇的に人生が変わったりはしないっすよねー」

 いつもの長田くんの調子に戻った。そして失礼します、と一礼して足を崩した。

「さっき言ったのは飽くまで私個人の話だから、実際どうなのかは分からないよ」

「古川先輩の話を聞いても、結局は自分次第って月並みな結論ですよ、変わるにしても変わらないにしても」

「それはそうだろうと思うね」

 そこから長田くんは黙々と将棋に集中した。先輩もそれに合わせて口を利かずにいた。二人が喋らないのであれば、僕が声を出す道理がない。部室は久しく八十一マスの世界に収縮した。

 しばらくして沈黙を破ったのは、長田くんの「負けました」という声だった。

 先輩も辛勝だったようで、大きく息を吐いた。

「高校生の大会に出たりはしないの? 団体戦は無理だろうけど」

「入部したばかりの頃は出たいと思ってましたけど、この部室でダラダラ指すのが妙に楽しいんですよ」

「私も乙川も全く興味がなかったからね、そういうのは」

「延々とここで将棋指してましたね」

「懐かしい」

「そう言えば、乙川先輩の名前を変えたい理由って何なんですか?」

「え?」

 不意打ちを喰らった。

 確かに二人が名前を変えたい理由やらを話していればこちらに話題が飛び火する可能性はあったのに失念していた。途端に自分のこの高校に入学した理由が恥ずかしくなり、焦りが生まれた。そうでなくとも他人には秘密にしておきたかった。特に二人の話を聞いた後では尚更だった。

「そういえば私も聞いたことがなかったな。将棋と試験前に勉強以外の話題を持ち出した覚えがないよ」

「僕も大した理由はないですよ」

「二人とも言ったんすから、先輩も教えてくださいよ」

「て言われても、長田くんみたいに明確な理由はないし、古川先輩と同じだよ――何となく。だからと言って、自分のままでいるみたいな立派な理由もないんだけど」

 必至に焦りを取り繕い答えると僕は無理矢理笑った。聞かれて困る質問をされたり、こういう場合の時は笑うって誤魔化すに限る。それが通用しなくなれば、不満足そうにあしらう。僕が経験則で知っている方法はこの二つしかない。

 けれども奥の手は使わずに済んだ。二人とも苦笑いで納得してくれた。

「そうなの? 乙川のことだから尤もらしい理由があると思ってたんだけど――なら、この話は終わりにして一局どう?」

「お願いします」

 有難く申し出を飲んだ。先輩と一局指したかったのも本当だし、このまま誤魔化し切りたいのも本音だった。

 何故か張り切ってしまい、僕も同じく平手で指した。今度の対局は先の勝負とは対極で一切の会話がなく、大局もあまり盛り上がらず、あっという間に僕の負けという形で決着した。

「さて、二人はこの後急いでる?」

「いえ、僕は何もないです」

 チラリと長田くんに目線を送った。

「俺もないっす」

 二人の言質を取ると古川先輩は満足そうに言った。

「よーし、じゃあ私の結婚のお祝いに何か奢ってあげましょう」

「……お祝いなら僕らが奢るのでは?」

「後輩に奢るのが先輩でしょ」

「はあ」

「さあ二人とも、さっさと下校の準備をしろー」

 そそくさと先輩に急かされるままに部室を後にした。

 外は既に日が完全に落ちていた。部室棟側は電灯が少ないので、暗く危ない。何よりも気味が悪い。草木の揺れるザワザワした音が聞こえていたが、不思議と風は感じなかった。

 時間も時間だったので夕飯を食べに行くということはすぐに決まったが、どの店にするかは中々決まらなかった。

 三人で歩きながら相談し、校門を出たところで「らりほう亭」という近所の弁当屋に行くことになった。濃い味付け、量の多いおかず、そして何よりも安いとう理由で近隣の学校に通う学生たちの御用達の店だ。有名人に教えられ、何回か付き合って買いに来たことがある。僕は細身であるが食は太い方であり、長田くんは、それこそ痩せの大食いという言葉が似合うほどよく食べるので問題ない。

 らりほう亭は店内にも食事スペースがある。暖かい弁当でもわざわざ冬空の下で食べる選択をする訳も無く、他に客もいなかったので三人で腰かけた。待っている間、古川先輩は実は初めてこの店を使うのだと話してきた。高校在学中は何かとタイミングが合わなかったらしい。なので、実際に出てきた弁当を目の当たりにすると、あまりの量の多さにケタケタと笑ったのだった。

 僕は電車で通学しており、先輩はバス、長田くんは徒歩と行き先も交通手段もバラバラだったので、らりほう亭を出ると思い思いに帰路についた。

 途中までは久しぶりに古川先輩に会え、みんなで食事をした楽しさの余韻に浸っていたが次第に気持ちが鬱屈していった。

 先輩は生活がこれ以上ない程充実していて羨ましかった。

 後輩は思っている以上に色々な経験を鑑みて、この高校を選んでいた。

 嫌でも今の自分の状況と比べてしまい、情けなく恥ずかしい気持ちになっていった。そしてそれが呼び水となってしまい、どんどん同世代の友人たちと自分とを見比べてしまった。

 有名人は剣道で全国大会に出場できるくらいの実力者だし、若山さんは部活動に生徒会を掛け持ちしつつ、学年でもトップに入るくらい頭が良い。

 それに比べて……。

 人付き合いを避けるのは、そうやって自分や他人に比較されて、情けなく、みすぼらしくなりたくないからなのかもしれない。知らず知らずにそう思っているとすれば、友人が少ないのも頷ける。

 周りがとても眩しく見える。

 僕には人に誇れるような実績も、個性も、そして何より目標がない。だからこの目には普段が変わり映えしないように映るのだろう。

 駅で降りると、例によって雪が降り始めていた。

 この嫌な気持ちの上にも降り積もって、何もかも見えなくしてくれないかな、などと柄にもない事を考えながら、重い足を動かしていた。
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