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父親との会話
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それからは駅までの道のりがまるで瞬間移動でもしたかのように異様に早く感じられた。どういう道のりで来たかは覚えているのに歩いてきた記憶がない、そんな奇妙な感覚があった。
改札を抜けホームに辿り着くと、帰路とは反対方面の電車がきたところだった。勿論、行き先が違う電車だと気が付いてはいたが、思い切ってそれに乗り込む。今日は行くつもりではなかったが、あのやり取りのせいで父の顔が見たくなったのだ。
父は数年前に仕事を辞め、今では小さいながらも喫茶店を切り盛りしている。
元々趣味でコーヒーや紅茶に凝っていた人なので仕事を辞めたと聞いた時こそ驚きもしたが、喫茶店をすると知った時には驚かなかった。
父の店は地元では有名な大学の近くにある。だが、この街は都会とも田舎とも言えない半端な発展の仕方をしているので、大学の近くといえども主な交通機関が地下鉄程度しかなく、その上店を知っている人に連れられてようやく見つけられるような立地の場所にあるので、果たして繁盛しているのかどうかは知れない。少なくとも未だ息子が常連客になる程度のお客しかいないように思える。
駅に着くと地下鉄に乗り換えようかと少し悩んだ。歩いて行くには少し躊躇う距離だが、電車賃もバカにはできない。この街の地下鉄は偶に乗る高校生にとっては一考させるほど料金が高い。
そうして悩んだ挙句、結局は地下鉄を使うことにした。今日はお金よりも時間が惜しかった。
座席に座われない程度に混んでいた地下鉄を降り地上に出ると、雪が降っていた。積もりそうな雪ではなかったが、事と次第によっては帰りの電車が止まるかも知れないという懸念は生まれた。
地下鉄の出口から少し南に歩くと地方銀行の支店がある。その角を曲がると一方通行の路地になる。居酒屋、本屋、米屋、カレーショップ、ケーキ屋、民宿と店々が思い思いに立ち並んでいる。今では裏道扱いされているが、江戸時代にはこちらの方が本道だったらしい。それを知っていると並ぶ看板たちからは、ここを廃れさせてはならないというような得も言われぬような気配を感じる。
喫茶店までの道のりはとても静かだった。周りには住宅や大学もあるので、普段はもっとガヤガヤとしているのだが自動車が一台通ったきりそれ以上大きい音は耳に入らなかった。
突き当りの丁字路を右に曲がる。少し先に滅多には開かない古本屋があり、その真隣が父の店だ。
扉に掛かっている「OPEN」のプレートと店内から漏れる橙色の光を見て一安心する。父にはもう一つ趣味があり、それのせいで定休日でもない日に前触れなく店を休むことがある。
「いらっしゃい」
扉に付けられた鐘の音が店内に響くとカウンター越しに父さんの姿が見えた。
「よう、仁」
「ブレンド一つ」
「はいはい」
メニューを見るまでもなく、この店の最安のコーヒーを注文した。
入り口から見て窓際の一番奥の席が僕の定位置だ。この店が開業した当初から通っているのだが、未だかつてこの席に座れなかったことはない。
背負っていたリュックと脱いだコートを前の椅子に掛けてから座ると、一先ずと言わんばかりに父さんが水とおしぼりを出してきた。
「相変わらず暇そうだね」
「何言ってんだ、丁度いまお客が捌けたんだよ」
「ふうん」
「信じてないな。これでも、知る人ぞ知る名店と言われてるんだぞ、この店は」
「じゃあ僕はこの店を知らない人なんだね、きっと」
父さんはカウンターに戻り、ごそごそとキッチンで作業を始めた。
僕は隣にある本棚から、前に来た時に読みかけだった本を探し手に取った。
とても一般的な喫茶店に置いてあるラインナップとは言い難いが、親子のせいか本の趣味が似通っているので、自分が読む分には色々と楽しみがある。
途中で切り上げたページを探して、本をパラパラ捲っていると不意に声を掛けられた。
「今日は何してたんだ?」
「今日から学校」
「あ、今日から始業か。どうだった?」
「別に。可もなく不可もなく」
「そうか」
「…けど」
僕はさっきの面談の事を思い出していた。愚痴を言いに来たわけではないが、口を開けば愚痴しか出てこない様な気がした。
「ん?」
「もう少しで仁って名前が変わっちゃうな」
結局、出てきたのはそんな台詞だった。
「ああ、そう言えばそうだな」
父さんはサービスのつもりか、大きめのサイズのカップを僕の前に置いた。ミルクを使わないで飲むことは知られているので、ソーサーの上には角砂糖だけがちょこんと乗っかっている。
「何か変な感じがする。名前が変わるって」
「そりゃあそうだろうな。嫌なのか」
「…分かんない。けど嬉しいとは思ってない」
「そっか」
父さんは苦笑いで応えた。
一体どう思っているのだろうか。今まではとても憚られたのだが、思い切って聞いてみたいとそう思った。
「父さんは…」
「ん?」
「父さんは嫌じゃない? 僕の名前が変わるって」
ほんの少しの間、無言で何かを考え込んでいた。そして、僕の荷物を隣にどけると正面に座った。
「複雑、の一言だな。少なくとも嬉しいとは思ってない」
僕は「そっか」と返事をした。
そして自分の中で、何かが勢いをつけてしまっているのに気が付いた。いっそのことと思う否やに声を出てしまった。
「あのさ、高校卒業したら聞こうと思ってたんだけどさ」
「何を?」
「父さんと母さんが離婚した理由」
「…」
今度の沈黙は長かった。
少なくとも僕には長く感じた。
やがてニヤリと笑った父さんが沈黙を破る。
「高校卒業したら言おうと思ってたんだけどな」
「嘘でしょ」
真面目な話で、悪ふざけのような言い方をするのはいつものことだ。僕はそつなく流した。
「聞きたいか」
僕は素直に頷く。
「母さんは何も教えてくれないからね」
「もしかして上手くいってないのか?」
怪訝そうな面持ちで尋ねられた。
ここに通っている間、一度も家庭の事は聞かれなかったので驚いた。やはりお互い意図的に話題に出さないようにしていたのだろう。
だから僕はそれを否定した。本当は最近になって思う事ばかりだったが、それは言いたくはなかった。
「そうじゃないよ。それこそ可もなく不可もなくって感じだよ。ただ単純に気になってさ。二人が離婚しなかったら多分ずっと仁のままだっただろうし」
「そうかもな。本当に悪い事をした、お前も巻き込んじまって」
「いいよ。謝られるのも飽きたし」
「けど、名前まで変えたいなんてアイツらしいなぁ。徹底的だ」
父さんは自虐的に笑い、僕は乾いた笑いが出た。
当然母さんは、父さんとっては愛やら何やらがあって結婚した相手なのだろうが、僕には神経質なヒステリーにしか思えない。母に喚かれ、父に説得させられたとはいえ、やはり父さんについて行けばよかったというのは未だに大きな後悔だった。
ともあれ、ここに来てまで母親の話をしたくはないのが本心でもある。長年の疑問が解決されるのを優先したい。
「それで? 高校卒業までは秘密なの?」
「そんな事はないが、説明が難しいな。俺としてみれば、いつの間にか離婚していたような感覚なんだ。言ってみれば、すれ違いってヤツだよ。仕事を頑張り過ぎた」
「けどそれは、僕たちのためじゃない」
「勿論そうなんだけどな。言うほど簡単な話でもないのさ。家にいる時間が…いや優子と話す時間が少なすぎたんだろうな、きっと。仁も滅多に遊びに連れて行ったりしなかった」
しみじみと思い起こして、そんな事を言ってきた。確かに物心ついてから父さんに連れられてどこかに行ったというような記憶は然程ない。
「それにしちゃ、別に嫌いになったりしなかったけどね」
「そうだな。全然遊んでやれなかったのに、偶に一緒にいる時は懐いてくれたよ」
「何でだろう?」
「さあな。頑張ったって上手く歯車が合わない事もあれば、その逆もあるんだろう。今更こんな店開いて時間作ったって仕様がないのにな」
それで話は一旦打ち止めとなった。やけに抽象的な内容だったと思うが、そもそも二人の実子とはいえ、愛だ何だとういものは所詮他人に分かるような領分ではないのだろう。
父さんは「貰うぞ」と言って、僕が手を付けずにいた水を飲んだ。
僕も大して冷めていないコーヒーを飲むと違和感があった。頭の中で反芻していた普段のブレンドコーヒーの味と大分違ったからだ。
「あれ? 何か違う」
「分かるか? 新作なんだけど、味はどうだ?」
すかさず真相を明かされた。断りもなしに試作品を飲まされていた。
「コーヒーの味とかはよく分かんないけど、酸味が濃くって僕は好きかな」
「そうか。なら明日からメニューに乗せよう」
「実験台にしないでよ」
「まあまあ」
そう言って立ち上がり、また引っ込もうとした父さんを僕は制止させた。
「あのさ、もう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
「僕の名前を考えたのって父さんなんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「何で仁って名前を付けたの?」
「うーん、それにも色々と理由があるんだけれど」
考え込みながら、父さんはまた椅子に腰を掛けた。
頭の中で色々と整理しているのか、うんうんと唸っている姿が面白かった。
「仁って文字の成り立ちとか意味とかは知ってるか?」
「いや、全く。けど天皇家がよく使ってるよね」
「ああ、それもあるな。ま、そっちにあやかった訳じゃないけど。仁っていうのはな、思いやりとか思慮深いって意味があるのさ」
「へえ。つまり、そう言う人間になってほしいって事?」
良く聞くような理由だった。きっと最後の命名士との面談でも結局はそういう具合に名前が考えられるのだと思った。
「勿論、そういう意味も込めた。けど元はというとちょっと違うんだよ。犬江親兵衛仁って知ってるか?」
「え? イヌエ…何?」
聞きなれない名前に少し動揺した。
「犬江親兵衛仁」
「いや知らない。昔の侍とか?」
「半分正解だな」
「半分?」
「南総里見八犬伝って本は?」
「何かで聞いたことはあるけど」
「そうか。ちょっと待ってろ」
そう言うと、父さんは止める間もなく店を出て行った。
てっきりものの数分で戻って来るかと思いきや、コーヒーを飲み干すくらいの時間が経ってからようやく帰って来た。
「ほら、これだ」
そして上下巻に分かれた二冊の本を差し出した。
「なにこれ?」
「江戸時代の小説さ。尤も現代語訳だけど」
「この中にイヌエ何とかが出てくるの?」
「ああ、物語の後半は最早主人公だよ」
「ふうん」
いつまでも差し出してきていたので、興味本位で受け取る。パラパラとめくると偶然にも件の人物の名はすぐに見つかった。
「ああ、この人か。この人の名前から取ったんだ」
「俺が『仁』って言葉の意味を知ったのは、これがきっかけって話だ。仁義礼智信の五常って言って、それが備わっていると、より徳のある人間になるっていう儒教の考え方だ。孔子は知ってるだろ? 孔子はこの中で仁が最も大切だと教えてるんだよ」
「へえ」
思っていたよりも壮大な意味合いを込めてつけられた名前なんだなと実感した。けれども、それは父さんの一言ですぐさま霧消した。
「ま、どれもこれも後付けだけどな」
「後付けって…どういう意味?」
「そういう徳のある人間とか、犬江親兵衛仁みたいな豪傑になってほしいとか思って付けたんじゃないって意味だ」
「じゃあ、どうしてさ」
「よく覚えてない」
「はあ? 自分で考えたんでしょ」
何か揶揄われているのかと思った。実際、そう思われても仕方がないほど間の抜けた理由だろう。
「そうなんだけどな」
父さんは急に物々しく、語り始めた。
「仁が生まれた時は、俺は出産に立ち会えなかったんだ。産まれましたって電話で聞かされて、急いで病院に行って。その向かう途中だったか病院で仁の顔見た時だったか、仁って文字が浮かんだんだ」
「そんな理由?」
「それが一番の理由と言えば理由だな。だから迷ったのは仁にもう一文字か二文字付けるかどうかってのを考えただけで、仁って字を使うのは、俺の中で決定だったんだよ。で、しばらく考えたんだけど結局仁の一文字になった。おしまい」
ニカリと笑って勝手に話が終わってしまった。しかしながら僕は僕で、妙な納得感が芽生えてしまい更に聞くこともしなかった。
「そっか。何かもっと深い意味があるんだと思ってた」
「がっかりか」
「いや特に」
「そっか、良かった」
「けど、読みは? マサシにすれば良かったのに」
「仁って一文字だけだったら、ヒトシって読む方が一般的かなって思ったんだ。里見八犬伝は有名な本だけど、読んだことのある日本人は少ないだろうから」
「ふうん」
父さんはテーブルの上の食器類をトレーに乗せると片付け始めた。
そして、カウンターに引っ込むと「軽く食べるだろ」と言ってサンドイッチを作ってくれた。
「ああそうだ、俺も仁に聞きたいことがあるんだ」
ベーコンの焼ける香ばしい香りと共に父さんの声が僕に届く。
「何さ?」
「今まで仁って名前でどうだった? 嫌だったか?」
その質問は、まるでバースデーケーキの蝋燭を吹き消した後のような、静かな寂しさを伴っているように感じた。
それに感化されないうちに、僕は即答する。
「いや、そう思ったことはないよ」
「なら俺は一安心だ」
しばらくして出てきたサンドイッチは、軽食というにはあまりにボリューム満点な大きさだった。
改札を抜けホームに辿り着くと、帰路とは反対方面の電車がきたところだった。勿論、行き先が違う電車だと気が付いてはいたが、思い切ってそれに乗り込む。今日は行くつもりではなかったが、あのやり取りのせいで父の顔が見たくなったのだ。
父は数年前に仕事を辞め、今では小さいながらも喫茶店を切り盛りしている。
元々趣味でコーヒーや紅茶に凝っていた人なので仕事を辞めたと聞いた時こそ驚きもしたが、喫茶店をすると知った時には驚かなかった。
父の店は地元では有名な大学の近くにある。だが、この街は都会とも田舎とも言えない半端な発展の仕方をしているので、大学の近くといえども主な交通機関が地下鉄程度しかなく、その上店を知っている人に連れられてようやく見つけられるような立地の場所にあるので、果たして繁盛しているのかどうかは知れない。少なくとも未だ息子が常連客になる程度のお客しかいないように思える。
駅に着くと地下鉄に乗り換えようかと少し悩んだ。歩いて行くには少し躊躇う距離だが、電車賃もバカにはできない。この街の地下鉄は偶に乗る高校生にとっては一考させるほど料金が高い。
そうして悩んだ挙句、結局は地下鉄を使うことにした。今日はお金よりも時間が惜しかった。
座席に座われない程度に混んでいた地下鉄を降り地上に出ると、雪が降っていた。積もりそうな雪ではなかったが、事と次第によっては帰りの電車が止まるかも知れないという懸念は生まれた。
地下鉄の出口から少し南に歩くと地方銀行の支店がある。その角を曲がると一方通行の路地になる。居酒屋、本屋、米屋、カレーショップ、ケーキ屋、民宿と店々が思い思いに立ち並んでいる。今では裏道扱いされているが、江戸時代にはこちらの方が本道だったらしい。それを知っていると並ぶ看板たちからは、ここを廃れさせてはならないというような得も言われぬような気配を感じる。
喫茶店までの道のりはとても静かだった。周りには住宅や大学もあるので、普段はもっとガヤガヤとしているのだが自動車が一台通ったきりそれ以上大きい音は耳に入らなかった。
突き当りの丁字路を右に曲がる。少し先に滅多には開かない古本屋があり、その真隣が父の店だ。
扉に掛かっている「OPEN」のプレートと店内から漏れる橙色の光を見て一安心する。父にはもう一つ趣味があり、それのせいで定休日でもない日に前触れなく店を休むことがある。
「いらっしゃい」
扉に付けられた鐘の音が店内に響くとカウンター越しに父さんの姿が見えた。
「よう、仁」
「ブレンド一つ」
「はいはい」
メニューを見るまでもなく、この店の最安のコーヒーを注文した。
入り口から見て窓際の一番奥の席が僕の定位置だ。この店が開業した当初から通っているのだが、未だかつてこの席に座れなかったことはない。
背負っていたリュックと脱いだコートを前の椅子に掛けてから座ると、一先ずと言わんばかりに父さんが水とおしぼりを出してきた。
「相変わらず暇そうだね」
「何言ってんだ、丁度いまお客が捌けたんだよ」
「ふうん」
「信じてないな。これでも、知る人ぞ知る名店と言われてるんだぞ、この店は」
「じゃあ僕はこの店を知らない人なんだね、きっと」
父さんはカウンターに戻り、ごそごそとキッチンで作業を始めた。
僕は隣にある本棚から、前に来た時に読みかけだった本を探し手に取った。
とても一般的な喫茶店に置いてあるラインナップとは言い難いが、親子のせいか本の趣味が似通っているので、自分が読む分には色々と楽しみがある。
途中で切り上げたページを探して、本をパラパラ捲っていると不意に声を掛けられた。
「今日は何してたんだ?」
「今日から学校」
「あ、今日から始業か。どうだった?」
「別に。可もなく不可もなく」
「そうか」
「…けど」
僕はさっきの面談の事を思い出していた。愚痴を言いに来たわけではないが、口を開けば愚痴しか出てこない様な気がした。
「ん?」
「もう少しで仁って名前が変わっちゃうな」
結局、出てきたのはそんな台詞だった。
「ああ、そう言えばそうだな」
父さんはサービスのつもりか、大きめのサイズのカップを僕の前に置いた。ミルクを使わないで飲むことは知られているので、ソーサーの上には角砂糖だけがちょこんと乗っかっている。
「何か変な感じがする。名前が変わるって」
「そりゃあそうだろうな。嫌なのか」
「…分かんない。けど嬉しいとは思ってない」
「そっか」
父さんは苦笑いで応えた。
一体どう思っているのだろうか。今まではとても憚られたのだが、思い切って聞いてみたいとそう思った。
「父さんは…」
「ん?」
「父さんは嫌じゃない? 僕の名前が変わるって」
ほんの少しの間、無言で何かを考え込んでいた。そして、僕の荷物を隣にどけると正面に座った。
「複雑、の一言だな。少なくとも嬉しいとは思ってない」
僕は「そっか」と返事をした。
そして自分の中で、何かが勢いをつけてしまっているのに気が付いた。いっそのことと思う否やに声を出てしまった。
「あのさ、高校卒業したら聞こうと思ってたんだけどさ」
「何を?」
「父さんと母さんが離婚した理由」
「…」
今度の沈黙は長かった。
少なくとも僕には長く感じた。
やがてニヤリと笑った父さんが沈黙を破る。
「高校卒業したら言おうと思ってたんだけどな」
「嘘でしょ」
真面目な話で、悪ふざけのような言い方をするのはいつものことだ。僕はそつなく流した。
「聞きたいか」
僕は素直に頷く。
「母さんは何も教えてくれないからね」
「もしかして上手くいってないのか?」
怪訝そうな面持ちで尋ねられた。
ここに通っている間、一度も家庭の事は聞かれなかったので驚いた。やはりお互い意図的に話題に出さないようにしていたのだろう。
だから僕はそれを否定した。本当は最近になって思う事ばかりだったが、それは言いたくはなかった。
「そうじゃないよ。それこそ可もなく不可もなくって感じだよ。ただ単純に気になってさ。二人が離婚しなかったら多分ずっと仁のままだっただろうし」
「そうかもな。本当に悪い事をした、お前も巻き込んじまって」
「いいよ。謝られるのも飽きたし」
「けど、名前まで変えたいなんてアイツらしいなぁ。徹底的だ」
父さんは自虐的に笑い、僕は乾いた笑いが出た。
当然母さんは、父さんとっては愛やら何やらがあって結婚した相手なのだろうが、僕には神経質なヒステリーにしか思えない。母に喚かれ、父に説得させられたとはいえ、やはり父さんについて行けばよかったというのは未だに大きな後悔だった。
ともあれ、ここに来てまで母親の話をしたくはないのが本心でもある。長年の疑問が解決されるのを優先したい。
「それで? 高校卒業までは秘密なの?」
「そんな事はないが、説明が難しいな。俺としてみれば、いつの間にか離婚していたような感覚なんだ。言ってみれば、すれ違いってヤツだよ。仕事を頑張り過ぎた」
「けどそれは、僕たちのためじゃない」
「勿論そうなんだけどな。言うほど簡単な話でもないのさ。家にいる時間が…いや優子と話す時間が少なすぎたんだろうな、きっと。仁も滅多に遊びに連れて行ったりしなかった」
しみじみと思い起こして、そんな事を言ってきた。確かに物心ついてから父さんに連れられてどこかに行ったというような記憶は然程ない。
「それにしちゃ、別に嫌いになったりしなかったけどね」
「そうだな。全然遊んでやれなかったのに、偶に一緒にいる時は懐いてくれたよ」
「何でだろう?」
「さあな。頑張ったって上手く歯車が合わない事もあれば、その逆もあるんだろう。今更こんな店開いて時間作ったって仕様がないのにな」
それで話は一旦打ち止めとなった。やけに抽象的な内容だったと思うが、そもそも二人の実子とはいえ、愛だ何だとういものは所詮他人に分かるような領分ではないのだろう。
父さんは「貰うぞ」と言って、僕が手を付けずにいた水を飲んだ。
僕も大して冷めていないコーヒーを飲むと違和感があった。頭の中で反芻していた普段のブレンドコーヒーの味と大分違ったからだ。
「あれ? 何か違う」
「分かるか? 新作なんだけど、味はどうだ?」
すかさず真相を明かされた。断りもなしに試作品を飲まされていた。
「コーヒーの味とかはよく分かんないけど、酸味が濃くって僕は好きかな」
「そうか。なら明日からメニューに乗せよう」
「実験台にしないでよ」
「まあまあ」
そう言って立ち上がり、また引っ込もうとした父さんを僕は制止させた。
「あのさ、もう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
「僕の名前を考えたのって父さんなんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「何で仁って名前を付けたの?」
「うーん、それにも色々と理由があるんだけれど」
考え込みながら、父さんはまた椅子に腰を掛けた。
頭の中で色々と整理しているのか、うんうんと唸っている姿が面白かった。
「仁って文字の成り立ちとか意味とかは知ってるか?」
「いや、全く。けど天皇家がよく使ってるよね」
「ああ、それもあるな。ま、そっちにあやかった訳じゃないけど。仁っていうのはな、思いやりとか思慮深いって意味があるのさ」
「へえ。つまり、そう言う人間になってほしいって事?」
良く聞くような理由だった。きっと最後の命名士との面談でも結局はそういう具合に名前が考えられるのだと思った。
「勿論、そういう意味も込めた。けど元はというとちょっと違うんだよ。犬江親兵衛仁って知ってるか?」
「え? イヌエ…何?」
聞きなれない名前に少し動揺した。
「犬江親兵衛仁」
「いや知らない。昔の侍とか?」
「半分正解だな」
「半分?」
「南総里見八犬伝って本は?」
「何かで聞いたことはあるけど」
「そうか。ちょっと待ってろ」
そう言うと、父さんは止める間もなく店を出て行った。
てっきりものの数分で戻って来るかと思いきや、コーヒーを飲み干すくらいの時間が経ってからようやく帰って来た。
「ほら、これだ」
そして上下巻に分かれた二冊の本を差し出した。
「なにこれ?」
「江戸時代の小説さ。尤も現代語訳だけど」
「この中にイヌエ何とかが出てくるの?」
「ああ、物語の後半は最早主人公だよ」
「ふうん」
いつまでも差し出してきていたので、興味本位で受け取る。パラパラとめくると偶然にも件の人物の名はすぐに見つかった。
「ああ、この人か。この人の名前から取ったんだ」
「俺が『仁』って言葉の意味を知ったのは、これがきっかけって話だ。仁義礼智信の五常って言って、それが備わっていると、より徳のある人間になるっていう儒教の考え方だ。孔子は知ってるだろ? 孔子はこの中で仁が最も大切だと教えてるんだよ」
「へえ」
思っていたよりも壮大な意味合いを込めてつけられた名前なんだなと実感した。けれども、それは父さんの一言ですぐさま霧消した。
「ま、どれもこれも後付けだけどな」
「後付けって…どういう意味?」
「そういう徳のある人間とか、犬江親兵衛仁みたいな豪傑になってほしいとか思って付けたんじゃないって意味だ」
「じゃあ、どうしてさ」
「よく覚えてない」
「はあ? 自分で考えたんでしょ」
何か揶揄われているのかと思った。実際、そう思われても仕方がないほど間の抜けた理由だろう。
「そうなんだけどな」
父さんは急に物々しく、語り始めた。
「仁が生まれた時は、俺は出産に立ち会えなかったんだ。産まれましたって電話で聞かされて、急いで病院に行って。その向かう途中だったか病院で仁の顔見た時だったか、仁って文字が浮かんだんだ」
「そんな理由?」
「それが一番の理由と言えば理由だな。だから迷ったのは仁にもう一文字か二文字付けるかどうかってのを考えただけで、仁って字を使うのは、俺の中で決定だったんだよ。で、しばらく考えたんだけど結局仁の一文字になった。おしまい」
ニカリと笑って勝手に話が終わってしまった。しかしながら僕は僕で、妙な納得感が芽生えてしまい更に聞くこともしなかった。
「そっか。何かもっと深い意味があるんだと思ってた」
「がっかりか」
「いや特に」
「そっか、良かった」
「けど、読みは? マサシにすれば良かったのに」
「仁って一文字だけだったら、ヒトシって読む方が一般的かなって思ったんだ。里見八犬伝は有名な本だけど、読んだことのある日本人は少ないだろうから」
「ふうん」
父さんはテーブルの上の食器類をトレーに乗せると片付け始めた。
そして、カウンターに引っ込むと「軽く食べるだろ」と言ってサンドイッチを作ってくれた。
「ああそうだ、俺も仁に聞きたいことがあるんだ」
ベーコンの焼ける香ばしい香りと共に父さんの声が僕に届く。
「何さ?」
「今まで仁って名前でどうだった? 嫌だったか?」
その質問は、まるでバースデーケーキの蝋燭を吹き消した後のような、静かな寂しさを伴っているように感じた。
それに感化されないうちに、僕は即答する。
「いや、そう思ったことはないよ」
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