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第二章 針の筵の婚約者編
不穏
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その日、屋敷は大変な騒ぎだった。
ウォルト公爵家は一代限り、跡継ぎなど存在しない。それでも生まれてきたのが男の子と言うのは、特別だったらしく。
それまで一度も部屋に入れなかった侍女の内、何人かがその時だけ入室できてしまった。私に許可を取り、恐る恐る、その小さな手や頬に触れてくる。目はまだ開かないが、髪はチャールズ様より真っ黒。同じ色で思い当たるのは、異世界人だった私の祖母だ。
「かわいい……!」
「旦那様によく似てらっしゃる」
まだ生まれたてで、猿のように真っ赤な顔をくしゃくしゃにしているのに、気を使ったのかそんな事を言ってくる。しかし、赤ん坊は防衛本能で無意識に庇護欲に訴えてくると聞く。きっと彼女たちの害意を消し去ったのも、そう言う事だろう。
私としては、どっちに似ているかなんてどうでもよかった。誰に似ようと、この子は世界一可愛いし、無事生まれてきてくれただけで嬉しいのだ。
(ああ、でも……これからが大変だな)
今は出産を乗り切った事で沸き立っているが、すぐに様々な勢力が手を伸ばしてくるだろう。いくらこの部屋にいれば安全だからと言っても、一生不自由を強いる事があってはならない。
私がこの子を守らなくては……たとえチャールズ様のお母君のように、命を懸ける事になっても。
(でもまあ、とりあえず今日だけは……何も考えたくないわ)
疲れた。お腹空いた。クララがレモン水を持ってきてくれたけど、彼女の軽食にと作ってもらったサンドウィッチが食べたい、猛烈に。
「そんな目でクララの昼飯を奪おうとしないで下さい。作ってから時間経っちまってるから味も落ちてるし、今から用意するんで、ちょっと待って……」
「私はそっちが欲しいのよ。お願いジャック」
(ああ……疲労でおかしくなってるのね。他人のものを欲しがるなんて、サラみたいだわ)
公爵夫人になる令嬢が卑しい真似はできないと思いつつも、空腹には抗えず、はしたなく手を伸ばしてしまう。そんな私に、クララは快くサンドウィッチを譲ってくれた。
「お嬢様はよく頑張りましたからね。こんなしなびたサンドウィッチでよければ、いくらでも召し上がって下さい! ジャック、あんたは早く付け合わせを持って来なさい!」
クララに怒鳴られ、ジャックはやれやれとキッチンに引っ込んだ。彼のお手製サンドウィッチは、愛情が込められていて、一仕事終えた後の空きっ腹には最高のご馳走だった。……その愛情は、私に向けられたものではないけれど。
お腹が満足すると、今度は眠気が襲ってくる。マミーが人払いをしてくれているのを目の端に捉えながら、私の瞼は重力に逆らえず下りていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
コン、コココン、コン。
ドアをノックする独特な音に、意識が浮上する。この叩き方は、リバージュ様の部下だ。
薄暗い部屋を見渡すと、ベビーベッドに寝かされた赤ん坊と、その柵にもたれかかって眠りこけるクララの姿があった。
(今、何時……嘘、もう真夜中近く!? こんな時間に何の用よ)
まだ疲れの残る体を叱咤して起き上がり、肩掛けを羽織ってドアを開けると、そこに立っていたのはメイドのエルシィだった。
「どうしたの? こんな夜更けに」
「奥様、旦那様がお戻りになられました」
エルシィにそう告げられて、私は首を傾げる。チャールズ様が? 出産に間に合わなかったのは、何かトラブルが起こったせいなんだろうが、こんな時間になるのならわざわざ無理して戻って来なくとも、明日にすればいい。だが、帰宅したのであれば出迎えないわけにはいかない。
「分かったわ。みんなを起こしてくるから」
「いいえ、旦那様は奥様とだけお会いしたいと仰っています」
私と? 二人きりで話がしたいのなら、この部屋でもできるし、実際何度かそうしてきた。何か、ここまで来られない事情でもあるのだろうか。
「馬車を用意しておりますので、どうぞこちらへ」
え、と反応するより前に手を引かれ、後ろでドアがバタンと閉じた。そこで、近くの窓から外の様子を知る事ができた。
いつからなのかは分からないが、大雨が降っている。雨粒が窓に叩き付けられ、遠くで雷も鳴っているようだ。これではチャールズ様は帰って来れないだろう。
……と言うか、チャールズ様を呼びに行ったのって、エルシィじゃなかったっけ? いくらリバージュ様直属のメイドだからと言って、チャールズ様が完全に信頼して言付けるのかと言う疑問が、ふと湧いた。彼なら例えば……マミーの息子でカーク殿下の乳兄弟の、スイング様あたりに頼むのではないかしら。しかも彼女一人だけ帰らせて、この大雨の中、私を連れ出そうとするなんて。
「エルシィ、待って。おかしいわ」
「……チッ」
不審に思って足を止めた私に舌打ちしたかと思うと、エルシィはいきなり布で口を鼻を塞いできた。抵抗する間もなく薬品の匂いがして、意識が薄れていく。
完全に油断していた。私はネメシス様に密かに反抗しているリバージュ様であれば、信頼できると思っていた。実際、従姉妹同士ではあるのだし、リバージュ様本人もそのつもりだったのだろう。その裏をかき、彼女の手駒として潜り込んだエルシィは、恐らく別の勢力の――
私の思考は、そこで途切れている。
ウォルト公爵家は一代限り、跡継ぎなど存在しない。それでも生まれてきたのが男の子と言うのは、特別だったらしく。
それまで一度も部屋に入れなかった侍女の内、何人かがその時だけ入室できてしまった。私に許可を取り、恐る恐る、その小さな手や頬に触れてくる。目はまだ開かないが、髪はチャールズ様より真っ黒。同じ色で思い当たるのは、異世界人だった私の祖母だ。
「かわいい……!」
「旦那様によく似てらっしゃる」
まだ生まれたてで、猿のように真っ赤な顔をくしゃくしゃにしているのに、気を使ったのかそんな事を言ってくる。しかし、赤ん坊は防衛本能で無意識に庇護欲に訴えてくると聞く。きっと彼女たちの害意を消し去ったのも、そう言う事だろう。
私としては、どっちに似ているかなんてどうでもよかった。誰に似ようと、この子は世界一可愛いし、無事生まれてきてくれただけで嬉しいのだ。
(ああ、でも……これからが大変だな)
今は出産を乗り切った事で沸き立っているが、すぐに様々な勢力が手を伸ばしてくるだろう。いくらこの部屋にいれば安全だからと言っても、一生不自由を強いる事があってはならない。
私がこの子を守らなくては……たとえチャールズ様のお母君のように、命を懸ける事になっても。
(でもまあ、とりあえず今日だけは……何も考えたくないわ)
疲れた。お腹空いた。クララがレモン水を持ってきてくれたけど、彼女の軽食にと作ってもらったサンドウィッチが食べたい、猛烈に。
「そんな目でクララの昼飯を奪おうとしないで下さい。作ってから時間経っちまってるから味も落ちてるし、今から用意するんで、ちょっと待って……」
「私はそっちが欲しいのよ。お願いジャック」
(ああ……疲労でおかしくなってるのね。他人のものを欲しがるなんて、サラみたいだわ)
公爵夫人になる令嬢が卑しい真似はできないと思いつつも、空腹には抗えず、はしたなく手を伸ばしてしまう。そんな私に、クララは快くサンドウィッチを譲ってくれた。
「お嬢様はよく頑張りましたからね。こんなしなびたサンドウィッチでよければ、いくらでも召し上がって下さい! ジャック、あんたは早く付け合わせを持って来なさい!」
クララに怒鳴られ、ジャックはやれやれとキッチンに引っ込んだ。彼のお手製サンドウィッチは、愛情が込められていて、一仕事終えた後の空きっ腹には最高のご馳走だった。……その愛情は、私に向けられたものではないけれど。
お腹が満足すると、今度は眠気が襲ってくる。マミーが人払いをしてくれているのを目の端に捉えながら、私の瞼は重力に逆らえず下りていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
コン、コココン、コン。
ドアをノックする独特な音に、意識が浮上する。この叩き方は、リバージュ様の部下だ。
薄暗い部屋を見渡すと、ベビーベッドに寝かされた赤ん坊と、その柵にもたれかかって眠りこけるクララの姿があった。
(今、何時……嘘、もう真夜中近く!? こんな時間に何の用よ)
まだ疲れの残る体を叱咤して起き上がり、肩掛けを羽織ってドアを開けると、そこに立っていたのはメイドのエルシィだった。
「どうしたの? こんな夜更けに」
「奥様、旦那様がお戻りになられました」
エルシィにそう告げられて、私は首を傾げる。チャールズ様が? 出産に間に合わなかったのは、何かトラブルが起こったせいなんだろうが、こんな時間になるのならわざわざ無理して戻って来なくとも、明日にすればいい。だが、帰宅したのであれば出迎えないわけにはいかない。
「分かったわ。みんなを起こしてくるから」
「いいえ、旦那様は奥様とだけお会いしたいと仰っています」
私と? 二人きりで話がしたいのなら、この部屋でもできるし、実際何度かそうしてきた。何か、ここまで来られない事情でもあるのだろうか。
「馬車を用意しておりますので、どうぞこちらへ」
え、と反応するより前に手を引かれ、後ろでドアがバタンと閉じた。そこで、近くの窓から外の様子を知る事ができた。
いつからなのかは分からないが、大雨が降っている。雨粒が窓に叩き付けられ、遠くで雷も鳴っているようだ。これではチャールズ様は帰って来れないだろう。
……と言うか、チャールズ様を呼びに行ったのって、エルシィじゃなかったっけ? いくらリバージュ様直属のメイドだからと言って、チャールズ様が完全に信頼して言付けるのかと言う疑問が、ふと湧いた。彼なら例えば……マミーの息子でカーク殿下の乳兄弟の、スイング様あたりに頼むのではないかしら。しかも彼女一人だけ帰らせて、この大雨の中、私を連れ出そうとするなんて。
「エルシィ、待って。おかしいわ」
「……チッ」
不審に思って足を止めた私に舌打ちしたかと思うと、エルシィはいきなり布で口を鼻を塞いできた。抵抗する間もなく薬品の匂いがして、意識が薄れていく。
完全に油断していた。私はネメシス様に密かに反抗しているリバージュ様であれば、信頼できると思っていた。実際、従姉妹同士ではあるのだし、リバージュ様本人もそのつもりだったのだろう。その裏をかき、彼女の手駒として潜り込んだエルシィは、恐らく別の勢力の――
私の思考は、そこで途切れている。
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