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第二章 針の筵の婚約者編

マタニティーブルー

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 次の日は瞼が腫れ上がって酷い事になっていたのと、顔を合わせ辛いのとで部屋にずっと引き籠っていた。聞けばチャールズ様も二日酔いで寝込んでいたとの事だが、さすがに夜は一緒に食事を取るようメイドが知らせに来たので、のろのろと準備する。

 その日の夕食は、鴨肉のソテーだった。チャールズ様の…そしていつの間にか、私の好物の。何だか今は、それが辛い。

「昨日、夜中に叫び声を上げながら屋敷内を疾走したと聞いたが」

 …やっぱり来たか、この話題。

「ご迷惑をおかけしました」
「虫でも出たのか? 何にせよ、今の時期に激しい運動は胎の子に響くから控えた方がいい」

 本当にね!
 それには答えず、黙々と食事を口にする。私から不穏な空気を感じ取ったチャールズ様は、しばらく迷う素振りを見せていたが、やがて再び訊ねてきた。

「…ひょっとして、迷惑をかけたのは私の方なのか? 恥ずかしい話だが飲み過ぎてしまって、パーティー後の記憶がまったくないんだ」

 皿にフォークを戻しながら、しばし迷う。これ言った方がいいのかしら。周りに使用人がいるし……でも今後の事を考えると、忠告した方がいいわよね。身の安全的な意味でも。

「……私はご厚意でここに居させて頂く以上、公爵様のお付き合いに口出しする権利はないと思っています」
「突然何だ?」
「ただ、昨晩のようにお酒やお休み中で正体を無くしている最中に、御令嬢と床を共にされるのは、お勧め致しません」

 言っててだんだん顔が赤くなってきているのが分かる。食事中にはしたない話題だったかも……だけど酔っ払って押し倒した上に、寝言でリリオルザ嬢の名前を口にしただなんて、はっきり言えない以上これが精一杯の忠告なのだ。
 案の定、チャールズ様は怪訝な顔で首を傾げた。

「今まで女性とベッドで眠った事など、一度もない」
「ええっ、そうなんですか!?」
「ああ、何をされるか分かったもんじゃないからな」

 思わず素で驚いてしまったが、女性の前で寝たりしないのなら、とりあえず気を付ければ問題ないだろう。昨日はスイング様の反応から、珍しく自棄酒に走ってしまったようだけれど……リリオルザ嬢が正式に殿下の愛人となった事が、そんなにショックだったのかしら。あの人たちの付き合いは昨日今日の事でもないのだし、本心はどうあれ整理をつけるべき段階はとっくに過ぎているのに。

(それとも……チャールズ様にとって問題なのは、私の方?)

 出産まで、あと一、二ヶ月と言うところまで迫っている。その後は私との結婚が待っているから、今まで抱え続けた想いを完全に吹っ切るために……

(けじめなんだろうけど、でもそれって……チャールズ様の中で、私はリリオルザ嬢を諦めさせる悪役なの?)

 お腹がチクチク痛んだ気がして、私は立ち上がる。いけない、暗い考えに沈んでしまっては、それこそお腹の子に悪い。食事を中断した私を驚いて見上げるチャールズ様に、食欲がないので失礼しますと断りを入れ、逃げるように部屋に戻った。

 ここは何者からも私を守る砦。子供のためにも、もうあれこれ悩んで考えたくない。大体最初の婚約からして、私は悪役だった。今回もそうだというだけ…。しかもルーカスと違って、今まで違う世界の人間であったチャールズ様なのだ。悲しいとか寂しいとか、そう言う次元ですらない、はずなのに……

「アイシャ、ここを開けてくれ。話がしたい」

 チャールズ様がドアをノックしてきた。やはり私の様子がおかしいのが気になったのだろう。好きでもない相手に律儀な御方だ。…そんなだから怖い令嬢も寄ってくるんだと思うけど。

「今はお会いしたくありません」
「それなら、このままでいいから。私は昨日ひょっとして、その…意識のないまま、君をまた…?」

 してたら今頃、呑気に立ち話なんてできてませんがね。恐る恐る確認してくるチャールズ様に、声が固くならないよう気を付けながら返す。

「何もありません。お話する事など、何もないんです」
「何もなくても話した方が良いと、マックウォルト先生も言っていただろう。妊婦には理由もなく情緒不安定になる事があると。マタニティーブルーだったか」

 マタニティーブルー? 何だかよく分からない、不安で悲しくてぐちゃぐちゃのやり切れない気持ちは、妊娠のせいだと言うの?
 ……確かに、チャールズ様のような華やかで美しい人が殿下のお気に入りに横恋慕したからって、以前までの私なら「やだ、似合いそう」なんて無責任にも他人事で終わらせてたかもしれないわね。自分とお腹の子の身の安全が脅かされそうになったから、パニックに陥ってしまったけれど。それを除けば、私がチャールズ様の想い人に対して思い悩む必要などないのだ。そう考えるとかなり楽に……なりはしたが、今度は恥ずかしくなってきた。
 ドアを開けると、そこに立っていたチャールズ様は捨てられた仔犬のような目をしていて、いつか言われた時と逆だなと笑ってしまった。

「ご心配おかけしました。もう平気です」
「そうか、よかった……その、部屋に入れてはくれないだろうか。もし嫌われていないのなら」
「嫌いも何も。私が一番優先すべきは、この子ですから。公爵様が、この子だけは守って頂ければ」

 そう言ってお腹に手を当てると、チャールズ様が上から手を重ね、跪いてくるのでぎょっとした。ちょっとこの体勢、かなり恥ずかしいんですけど。

「チャールズ様……っ!?」
「自分が情けない。君をちゃんと守っているのは胎の子の方なのだから」
「公爵様には良くして頂いてます。私にはそれで充分です」
「アイシャ」

 立ち上がったチャールズ様に真剣に見つめられ、口説かれたような気分になって一歩下がりかけたが、逃がすまいと手をぎゅっと握られる。

「私は君の夫になるのだ。憂いとなるのなら、心に住まう女性ひとを忘れよう」
「そこまでして頂かなくて結構です」

 そう簡単に忘れられないから、お酒に逃げたんじゃない。無理矢理我慢なんてしてたら、いつか爆発しそうで怖い。素っ気なくしてしまったせいか、チャールズ様は途方に暮れたように眉を下げた。

「なら、せめて……私にできる事があれば言って欲しい」

 チャールズ様にできる事……彼では胎の子を守り切れない、と言うカーク殿下の台詞が頭を過ぎる。必ず守ると誓ったところで、限界はあるだろう。
 私だけを見てくれと言うのも違う。私たちの関係はそんなのじゃないし、気持ちの問題を言ってどうにかできるなら殿下がとっくにしているはずだ。

(私が、チャールズ様に望むもの……)

「……あの、できたら、でいいんです」
「言ってくれ」
「この子が生まれた時、一番に顔を見て欲しい……」

 親は自分ができなかった、してもらえなかった事を、子供に託すと聞く。私はお母様に愛してもらったけれど、お父様は見ようともしなかった。今となっては気にするだけ無駄だと諦めたけれど、私が母になる時は……両親揃ってこの世に迎え入れてあげたい。

「もちろん、公爵様のご都合もあるでしょうから無理にとは」
「分かった。用事があっても飛んで帰ってくる」

 予防線を張ろうとするのを遮り、チャールズ様は私の肩を抱き締めた。そのまま優しく唇を額に押し当てられて、思わず身を震わせる。

「一緒に会って告げよう。私たちが、お前の家族だと」

 嘘でもそう言い切ってくれた事に、胸の奥が強く締め付けられ、ポロリと涙が零れる。この、愛と錯覚しそうなほどの喜びが、妊娠特有の情緒不安定から来るものだとしても。

(大丈夫、ちゃんと分かってるから……もう少し、もう少しだけ)

 幸福感に、酔っていたかった。

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