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第二章 針の筵の婚約者編

この屋敷で唯一

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 一階へ向かおうと部屋のドアを開けた時、そこから見えた玄関ではまさにジャックが荷物を手に出て行こうとするところだった。
 私は慌てて転がるように階段を駆け下りる。

「ちょっ、待ってジャック…まだ行かないでっ!」
「はあっ!?」

 見送りにいるのはロバートと料理長、そしてクララのみ。彼等は目を丸くして駆け寄る私を見守った。

「ぜえっ、ぜえ…っ」
「お前、何考えてんだ。妊婦が全力疾走なんて…」
「ああん!? てめぇが言うなションベン野郎!」

 私を責めるジャックの胸倉をクララが掴んでいる間に、息を整えながら言葉を紡ぐ。

「貴方に…、聞きたいっ事が…あるの…っ」
「聞きたい事……?」
「どうした、何を騒いでいる?」

 耳を近付けるジャックを逃がさないよう縋り付いた時、玄関での騒ぎを聞き付けてチャールズ様がこちらに歩いてきた。好都合だ。

「ジャック…私に出されたあのスープには、何が入っていたの?」
「何を今更……あれには俺の」
「そっちじゃなくて!」

 真剣な問いにもおどけて誤魔化そうとするジャックに、私は言葉を被せる。チャールズ様は何事かと私たちを見比べている。

「単刀直入に聞くわ。貴方は、スープに毒が盛られたのを見たのよね?」

 この場にいた全員が凍り付いた。ジャックは息を飲んで私を見つめている。まさか貴族の令嬢に、嫌がらせの真意を見抜かれていたとは思わなかったのだろう。
 ジャックが口を開こうとすると、その前に料理長が心外とばかりに怒鳴り付けた。

「失敬な! あのスープは私が作った物。無論、毒など入れておりません。同じ物を、公爵様やお客人も口にされております」
「そうだな……こう言う時のために食器は銀製にしてあるから、盛られたらすぐ分かる。一応調べてみたが、検出もされなかった」
「悪質ではありますが、ただのそいつの嫌がらせのようです……だからってお嬢様への仕打ちは許しませんけどっ!」

 チャールズ様とクララも料理長を援護する。
 そう、「毒」ではない。私はもう一度ジャックに向き直った。

「皆さんこう仰ってるけど。貴方はどうして『それが毒だと思った』の?」
「……分かんねぇ」

 その一言が、彼がスープに細工されたのを見た証明だった。

「厨房に入ってきたメイドが、慌ただしく準備するコックたちの目を盗んで、スープ皿に近付いて何かしていた。よくは見えなかったが、手に小さい瓶を…」
「ジャック、もういいだろう。毒などなかった、お前の見間違いだ。退職金はやるから、これ以上旦那様のお手を煩わせるな」

 ジャックの証言を遮り、ロバートがジャリッとお金が詰まった袋を投げ寄越す。ロバートは何かを知っている……あるいは彼が首謀者なのかもしれないが、このまま行かせてはジャックが消されてしまうかもしれない。
 それはチャールズ様も感じ取ったようだ。

「待て、そのメイドは誰だ? 小瓶が見つかれば恐らく…」
「無駄ですよ旦那……とっくに証拠隠滅されてるでしょう」

(小瓶…毒じゃない…私に飲ませなきゃいけない物……魔法の鍵の反応……チャールズ様の意向、あるいは使用人たちの……)

 私が情報の整理に集中している間に、ジャックはチャールズ様の制止を振り切り、受け取った袋を置いて出て行こうとする。

「ただの不良コックとして追い出されるだけで済んだものを、そちらの婚約者様が余計な真似してくれたおかげで、生きて出られそうになくなったんでね。
……まあ、信じてくれたのは嬉しかったよ。第二王子殿下に見出された時の事を思い出して、悪くなかった」
「ジャック、お前何を……?」
「チャールズの旦那、あんたの選択は間違ってない。絶対そいつの手を離すなよ。貴族はムカつく奴ばっかりだが、アイシャ様は他とは違う……」

 死地に赴くかのように笑顔を見せ、その手が扉に触れようとした時。

「――分かった!!」

 お腹から出した声が、玄関に響き渡る。
 全員が、私に注目していた。

「アイシャ嬢? 何が分かったんだ」
「チャールズ様、以前私に飲ませようとした魔法薬ポーション、ハロルド先生に返してしまいましたか?」
「い、いや……君が心変わりする可能性もあるから、しばらく預かっている」

 戸惑いつつも答えるチャールズ様に、私の予想は確信に変わる。

「今、ここに持って来て頂けませんか?」
「何…? だ、だが…」
「ジャックの処遇はその後でお願いします」

 私の目から有無を言わせぬ気迫を感じ取ったチャールズ様は、ジャックを一瞥するとすぐに二階に向け走り出した。

「クララはジャックが逃げないよう、押さえておいてくれる?」
「がってんです!」
「あ、あのーアイシャ様? これは一体…」

 クララの腕が首に回されて、何故か嬉しそうなジャック。チャールズ様が戻って来る間、彼を拘束しておかなくてはならない。そこへ手持ち無沙汰なロバートが名乗りを上げた。

「非力なクララではジャックを押さえ込めないでしょう。わたくしが交代致します」
「ダメよ、公爵様が仰っていたもの。この屋敷で唯一信用できるのはジャックだけだって」


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

 ハロルド先生から受け取った魔法薬ポーションは書斎にあったらしいが、何者かに盗まれていた。鍵はチャールズ様の他、ロバートもマスターキーを持っているが、必ずしも彼の仕業だと言い切れない。

「これは遺憾な。マスターキーを所持しているのはわたくしだけではございません。ウォルト公爵は王家から監視される事で生存を許される一族……言わば使用人全員が容疑者であり、全員に動機があるのです」
「何をバカな! 薬を盛ったメイドに聞けば分かる事だ」

 ジャックから厨房に忍び込んだメイドを聞き出したチャールズ様は尋問を行ったが、当人は自分の意思で行ったとしか答えなかった。

「だ、だって…今まで誰のものにもならなかった旦那様が、あんな小娘に……だから子供さえいなくなれば出て行ってくれると思って…!
旦那様がお好きなのはベアトリス様で、今回の婚約は迷惑がっていると、侍女たちはみんな噂してました!」

 小瓶の在処も魔法薬ポーションの効果も、何故か噂で耳にしていたらしい。ロバートの言う通り、使用人全員の私を追い出したいと言う思いが招いた結果なのだろう。怪しいと言う理由で探し出してもきりがなかった。
 こうなるとジャックが回りくどい方法に出たのも仕方ないのかもしれない。私を守ろうにも、彼一人の力ではすぐに潰されてしまう。けれどわざとクビになれば、カーク殿下が気付くだろう。嫌がらせで料理を穢すなど、ジャックにあるまじき行為なのだから。


 チャールズ様は私に謝罪しながら、真っ青になって項垂れていた。私を婚約者に迎えると決めておきながらも、堕胎薬やベアトリス様との噂をそのままにするなど、詰めの甘さで危うくお腹の子を殺すところだったのだ。

「すまなかった……まさか一介のメイドが主人の婚約者に対して、そこまでやれるとは。メイドは全員、入れ替える事にする」
「使用人全員、とはいかないのですか? 執事長によれば、誰にでも害される危険はあるようなのですが」
「そこは王家の意向で、下っ端連中を切るのが精一杯だ。ウォルト公爵は半分罪人のような存在だからな」

 公爵様、弱いな!
 この分だと物は盗み放題、毒は盛り放題、貞操狙い放題なんじゃないかしら。やっぱり他家に嫁いだ方がよかったんじゃ……と思わずにはいられない。

「ここは監視の目があるから私の口からは言えないが……近々カーク殿下が屋敷まで来られる事になっている。その時に詳細は聞けるだろう」
「えっ!」

 感情が顔に出てしまったのか、チャールズ様に苦笑された。嫌だな……どうせならベアトリス様にお会いしたいけれど、そっちはチャールズ様が嫌がるんだろうな。噂もあるから、ややこしくなるだろうし。

「とにかく今夜の事は、全面的に私の責任だ。君には何と詫びればいいか」
「……それなら一つお願いがあります」

 私はクララに押さえ付けられているジャックを連れて来てもらった。解放されるのに、彼は名残惜しそうな顔でクララを見ている……この状況で軽い人よね。

「公爵様、ジャックを私の専属料理人にして下さい」
「なっ、何を仰るだお嬢様! このイカれたションベン野郎にお嬢様のお食事を任せるだなんて!!」

 チャールズ様とジャックが言葉を失う中、クララが真っ赤になって憤慨する。うんまあ、気持ちは分かる。特にクララには毒見もさせてしまったからね。

「だけど彼が動かなければ、私は堕胎薬を飲まされるところだったのよ」
「お嬢様は好感のハードルが低過ぎますよ。こんな奴、粗野で下品で軽薄で……私は認めませんから!」
「やらかした俺が言うのも何だが、可愛い子ちゃんの言う通りだぜ。自分でも食べ物に対する冒涜だったって分かってる」

 終いにはジャック本人までもが説き伏せてくる。だけど周りが敵だらけの中、自分の何もかもを犠牲にしてでも守ろうとしてくれる…そんな貴重な仲間は確保しておくべきじゃない?

「じゃあ、償って。お腹の子が栄養付けられるような、貴方の信念が込められた最高の料理を食べさせてちょうだい」

 ぽかんとこちらを見つめてくるジャックに、私は赦しが伝わるよう笑みを浮かべた……直後。

 ぐぎゅるるるるる……

 うあああ…空気読んで私のお腹!
 私は笑顔を貼り付けたまま、赤面して蹲った。結局何も食べてなかったのよね……

「……仕方ない、ジャック。アイシャ嬢に何か作ってくれ」

 肩が震えてますよ公爵様。ムカッとしたわ…

「はあ…このお人好しどもめ。コーンと豆乳が残ってますから、それでパンケーキでも焼いてくるか」
「私はまだあんたを信用できない。お嬢様のお口に入るまで、しっかり見張らせてもらいますからね!」
「そりゃいい。顔面血だらけで今、鼻が利かないもんでね。味見は頼むよ可愛い子ちゃん」

 言い合いながら厨房に引っ込む二人を見送り、私は鍵を取り出した。あれほど眩しく光っていたのが、今ではすっかり鳴りを潜めている。

「あなたも、この子を守ってくれてありがとう」

 お腹を擦りながら鍵にキスする私を、チャールズ様は目を瞬かせて見ていた。

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