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第二章 針の筵の婚約者編
食べてもいいのかしら
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恋人(?)を馬車で送らせた後、チャールズ様は私を食堂までエスコートした。彼女には物凄く睨まれたし、甘い空気をぶち壊してしまって居た堪れない。
「あの、チャ…公爵様はもうお食事は済んだのですよね? 私に付き合って頂かなくても」
「婚約者を放置するわけにはいかない。それに、客人が来る事を伝えなかった私の落ち度だ」
客人ね…
どうやらあの恋人(?)が押しかけたせいで急遽二人で夕食を取る羽目になったらしい。私にはその事も含め、伝えるよう侍女に命じたと言っていたが。
(ここの使用人すべてが、チャールズ様に従うわけじゃないみたいね)
私がここに来てから、不躾な視線の中に嫉妬を感じる。その多くはウォルト公爵の監視と言う使命を帯びているのだが、中には私情が混じっている者もいるのだ。特に若い女性は。
今までは浮き名を流す公爵様でも特定の相手はいなかったが、婚約者となるとそうはいかないのだろう。食事の呼び出しを無視する程度で済めばいいけれど、先を思えば胃が痛くなる。
「そう言えば、先程は二人の時間を邪魔する形になってしまい、申し訳ありません」
「二人の時間…? ああ、気にしなくていい。彼女はもう来る事はないから」
「…? ですが、お付き合いされているのでは?」
「君がいるのに、今まで通りふらふらしていられないからね。会うのは今日限り…と言う話をしていたんだ」
えっ、別れたの!? と言うか、もう軽い付き合いも全部しないつもりなの? 婚約したからってそこまで……まあこれからも堂々とそこらでいちゃつかれても困るけど。
そうか、あれは別れを惜しんでいたのか……道理であそこまで睨まれるわけだ。恨んでいるだろうなあ、別に愛し合ってくっついたのでもないのに。
「公爵様、そんな律儀に関係を清算されなくとも、私は構いませんよ。この婚約自体…」
続けようとした言葉は、シッと形の良い唇に指を当てたチャールズ様に遮られた。視線の先に、こちらの様子を窺っている使用人がいる。どうやら私を受け入れるに至った事情は内密にしなければならないようだ。
私が頷いてみせると、チャールズ様は優しい笑みを作った。
「公爵様なんて、そんな堅苦しくしなくともこれまで通りで構わないよ」
「マーゴットさんに怒られたんです。結婚前に馴れ馴れしくするなと」
そちらが良くても、私は余計な妬みは買いたくない。チャールズ様は納得したように「ああ…」と呟く。
「マーゴットはフェイス公爵家から派遣されている」
「フェイス…と言うと、アンジェラ=フェイス様のご実家ですか?」
うへぇ、あの家の回し者が侍女頭ですか。彼女みたいにいきなりお腹を殴ってきたりはしないにせよ、嫌がらせを黙認されるぐらいは覚悟しておいた方が良さそうだ。
チャールズ様はここが一番安全だと言っているけれど、果たして信じていいものか。
食堂では片付けが始まったものをもう一度用意させる事になり、侍女たちから迷惑そうな顔をされたが、チャールズ様から職務に怠慢な者は不要だと言われると、ころっと態度を変えてせかせか動き出した。
チャールズ様は既に夕食は済ませているので、ワインとおつまみのみ。私の方は結構豪華な見た目のメニューだった。
でも、これ……
「どうしたんだ、食欲がないのか?」
「いえ、あの…」
食欲は、ある。何なら空腹でもう倒れそうなくらい。だけど今の私は、これを食べてもいいのかしら?
レアステーキに牡蠣とサーモンのカルパッチョ、鳥レバーのテリーヌ、シーザーサラダ……チャールズ様が気を使って、食べられないなら自分のおつまみだけでもと言ってくれるが、それも生ハムチーズだった。
独学でよくは分からないが、妊婦に生肉やチーズっていいのだろうか……紅茶も良くはないと聞いたから、妊娠していると知ってからは控えているのだけど。
「アイシャ様のご実家、ゾーン伯爵領ではブランド牛に力を入れていると伺いまして、高級ステーキ肉を使用しております。お気に召しませんでしたか…?」
料理長が嫌味ったらしく聞いてくる。これ、わざと…? そこまで考慮しているのなら、夕食時に私を放置するはずがない。
チャールズ様は気付いていないのか、伯爵領の事情に興味を示した。
「ゾーン伯爵領と言えば、年末に野牛の大群の被害が酷いと聞いたが。よくブランド牛を守れたな」
「あ、はい。最初は伝染病やブランド牛の交配失敗、建物にぶつかるなど被害は深刻でした。特に死骸の処理は住民にも影響が出まして…」
「住民? 牛の病気が人にも感染したのか」
「いいえ、当時は穴を掘って埋めると言う方法を取っていたのです。けれど土の中で息を吹き返すのが何頭かいまして……それに地面が腐って大量に穴ぼこができ、そこから呻き声が聞こえるのです。おかげで住民がノイローゼになってしまったと」
「それは大変だったな……そうか、君の母上が教会に野牛の処理を働きかけたのは、そうした土地の腐敗を少しでも防ぐためだったのだな」
食事中に死骸の話をするのはどうかと思ったが、問われるままに私は答える。チャールズ様がお母様の功績について知っているのは驚きだった。あれは聖マリエール教の教えの一環としてこじつけで定着させたものだ。もちろん伯爵領でだけの風習と化していたので、他から見れば変わっているのかもしれないが。
私と婚約するにあたり、調べたのだろうか。下手したら父よりも詳しいかもしれない。
「はい、今や野牛の肉はブランド牛とは別に、伯爵領の名物となっています。年末にスープにして炊き出しを行う他、燻製など保存食も研究されていますし、牛脂を使った石鹸も……」
言いながらフォークを皿に近付けるふりをして弄ぶ。ここは食欲が出ないと言ってしまおうか。でもさっきから小さくお腹が鳴りっぱなしで、誤魔化すのに必死なのだ。断った瞬間グーッと大きい音を立ててしまったら、物凄く感じが悪い。どうしようか……
目を泳がせていると、視界にスープ皿が映った。香味野菜を使ったテールスープのようで、これなら食べられそうだ。と思った瞬間、ぎゅるるる…とお腹が鳴って顔が熱くなった。は、恥ずかしい…
「すまない、お喋りに夢中になってしまった。冷めない内に食べてくれ」
「は、はい…では」
スプーンに持ち替え、私はスープを掬う。唇に触れる直前、どこかで嗅いだような匂いがした。
(あれ? これって……)
ピカッ!
首を傾げた瞬間、胸元が赤く光った。
何事!? と慌ててチェーンを引っ張り出すと、鍵に嵌め込まれた魔石が光を放っていた。チャールズ様がガタリと立ち上がりかける。
「アイシャ嬢、その鍵は……」
「母の形見です。公爵様の、双鷹の剣と原理は同じかと」
魔法の鍵だと説明すると、食堂がざわついた。原因は分からないが、スープ皿を遠ざけると光は弱まった。他の皿に近付けても反応がない事から、スープに何かあるようだ。
「まさか、毒が…? しかし私がさっき飲んだ時は何とも……君、鍵が光る前に何かに気付いたようだったが」
「え…はい。食べる直前、思い出したのです。このスープの匂いをどこで嗅いだのか」
ちょうどタイミング良く、野牛の処理の話をしていたからかもしれない。
伯爵領にいた頃、私はたまに妹と孤児院に慰問に出かけ、仕事を手伝っていた。サラは専ら子供たちと遊ぶ方を選んでいたけれど、私は汚れたシーツをシスターと洗濯していた。そこで使ったのが、領で作られている牛脂石鹸だった。その時の事が、何故かスープの匂いを嗅いだ時に思い浮かんだのだ。
「石鹸……このスープから、洗濯石鹸の匂いがします」
「あの、チャ…公爵様はもうお食事は済んだのですよね? 私に付き合って頂かなくても」
「婚約者を放置するわけにはいかない。それに、客人が来る事を伝えなかった私の落ち度だ」
客人ね…
どうやらあの恋人(?)が押しかけたせいで急遽二人で夕食を取る羽目になったらしい。私にはその事も含め、伝えるよう侍女に命じたと言っていたが。
(ここの使用人すべてが、チャールズ様に従うわけじゃないみたいね)
私がここに来てから、不躾な視線の中に嫉妬を感じる。その多くはウォルト公爵の監視と言う使命を帯びているのだが、中には私情が混じっている者もいるのだ。特に若い女性は。
今までは浮き名を流す公爵様でも特定の相手はいなかったが、婚約者となるとそうはいかないのだろう。食事の呼び出しを無視する程度で済めばいいけれど、先を思えば胃が痛くなる。
「そう言えば、先程は二人の時間を邪魔する形になってしまい、申し訳ありません」
「二人の時間…? ああ、気にしなくていい。彼女はもう来る事はないから」
「…? ですが、お付き合いされているのでは?」
「君がいるのに、今まで通りふらふらしていられないからね。会うのは今日限り…と言う話をしていたんだ」
えっ、別れたの!? と言うか、もう軽い付き合いも全部しないつもりなの? 婚約したからってそこまで……まあこれからも堂々とそこらでいちゃつかれても困るけど。
そうか、あれは別れを惜しんでいたのか……道理であそこまで睨まれるわけだ。恨んでいるだろうなあ、別に愛し合ってくっついたのでもないのに。
「公爵様、そんな律儀に関係を清算されなくとも、私は構いませんよ。この婚約自体…」
続けようとした言葉は、シッと形の良い唇に指を当てたチャールズ様に遮られた。視線の先に、こちらの様子を窺っている使用人がいる。どうやら私を受け入れるに至った事情は内密にしなければならないようだ。
私が頷いてみせると、チャールズ様は優しい笑みを作った。
「公爵様なんて、そんな堅苦しくしなくともこれまで通りで構わないよ」
「マーゴットさんに怒られたんです。結婚前に馴れ馴れしくするなと」
そちらが良くても、私は余計な妬みは買いたくない。チャールズ様は納得したように「ああ…」と呟く。
「マーゴットはフェイス公爵家から派遣されている」
「フェイス…と言うと、アンジェラ=フェイス様のご実家ですか?」
うへぇ、あの家の回し者が侍女頭ですか。彼女みたいにいきなりお腹を殴ってきたりはしないにせよ、嫌がらせを黙認されるぐらいは覚悟しておいた方が良さそうだ。
チャールズ様はここが一番安全だと言っているけれど、果たして信じていいものか。
食堂では片付けが始まったものをもう一度用意させる事になり、侍女たちから迷惑そうな顔をされたが、チャールズ様から職務に怠慢な者は不要だと言われると、ころっと態度を変えてせかせか動き出した。
チャールズ様は既に夕食は済ませているので、ワインとおつまみのみ。私の方は結構豪華な見た目のメニューだった。
でも、これ……
「どうしたんだ、食欲がないのか?」
「いえ、あの…」
食欲は、ある。何なら空腹でもう倒れそうなくらい。だけど今の私は、これを食べてもいいのかしら?
レアステーキに牡蠣とサーモンのカルパッチョ、鳥レバーのテリーヌ、シーザーサラダ……チャールズ様が気を使って、食べられないなら自分のおつまみだけでもと言ってくれるが、それも生ハムチーズだった。
独学でよくは分からないが、妊婦に生肉やチーズっていいのだろうか……紅茶も良くはないと聞いたから、妊娠していると知ってからは控えているのだけど。
「アイシャ様のご実家、ゾーン伯爵領ではブランド牛に力を入れていると伺いまして、高級ステーキ肉を使用しております。お気に召しませんでしたか…?」
料理長が嫌味ったらしく聞いてくる。これ、わざと…? そこまで考慮しているのなら、夕食時に私を放置するはずがない。
チャールズ様は気付いていないのか、伯爵領の事情に興味を示した。
「ゾーン伯爵領と言えば、年末に野牛の大群の被害が酷いと聞いたが。よくブランド牛を守れたな」
「あ、はい。最初は伝染病やブランド牛の交配失敗、建物にぶつかるなど被害は深刻でした。特に死骸の処理は住民にも影響が出まして…」
「住民? 牛の病気が人にも感染したのか」
「いいえ、当時は穴を掘って埋めると言う方法を取っていたのです。けれど土の中で息を吹き返すのが何頭かいまして……それに地面が腐って大量に穴ぼこができ、そこから呻き声が聞こえるのです。おかげで住民がノイローゼになってしまったと」
「それは大変だったな……そうか、君の母上が教会に野牛の処理を働きかけたのは、そうした土地の腐敗を少しでも防ぐためだったのだな」
食事中に死骸の話をするのはどうかと思ったが、問われるままに私は答える。チャールズ様がお母様の功績について知っているのは驚きだった。あれは聖マリエール教の教えの一環としてこじつけで定着させたものだ。もちろん伯爵領でだけの風習と化していたので、他から見れば変わっているのかもしれないが。
私と婚約するにあたり、調べたのだろうか。下手したら父よりも詳しいかもしれない。
「はい、今や野牛の肉はブランド牛とは別に、伯爵領の名物となっています。年末にスープにして炊き出しを行う他、燻製など保存食も研究されていますし、牛脂を使った石鹸も……」
言いながらフォークを皿に近付けるふりをして弄ぶ。ここは食欲が出ないと言ってしまおうか。でもさっきから小さくお腹が鳴りっぱなしで、誤魔化すのに必死なのだ。断った瞬間グーッと大きい音を立ててしまったら、物凄く感じが悪い。どうしようか……
目を泳がせていると、視界にスープ皿が映った。香味野菜を使ったテールスープのようで、これなら食べられそうだ。と思った瞬間、ぎゅるるる…とお腹が鳴って顔が熱くなった。は、恥ずかしい…
「すまない、お喋りに夢中になってしまった。冷めない内に食べてくれ」
「は、はい…では」
スプーンに持ち替え、私はスープを掬う。唇に触れる直前、どこかで嗅いだような匂いがした。
(あれ? これって……)
ピカッ!
首を傾げた瞬間、胸元が赤く光った。
何事!? と慌ててチェーンを引っ張り出すと、鍵に嵌め込まれた魔石が光を放っていた。チャールズ様がガタリと立ち上がりかける。
「アイシャ嬢、その鍵は……」
「母の形見です。公爵様の、双鷹の剣と原理は同じかと」
魔法の鍵だと説明すると、食堂がざわついた。原因は分からないが、スープ皿を遠ざけると光は弱まった。他の皿に近付けても反応がない事から、スープに何かあるようだ。
「まさか、毒が…? しかし私がさっき飲んだ時は何とも……君、鍵が光る前に何かに気付いたようだったが」
「え…はい。食べる直前、思い出したのです。このスープの匂いをどこで嗅いだのか」
ちょうどタイミング良く、野牛の処理の話をしていたからかもしれない。
伯爵領にいた頃、私はたまに妹と孤児院に慰問に出かけ、仕事を手伝っていた。サラは専ら子供たちと遊ぶ方を選んでいたけれど、私は汚れたシーツをシスターと洗濯していた。そこで使ったのが、領で作られている牛脂石鹸だった。その時の事が、何故かスープの匂いを嗅いだ時に思い浮かんだのだ。
「石鹸……このスープから、洗濯石鹸の匂いがします」
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