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第二章 針の筵の婚約者編

貴女はお母様じゃない

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「大変だったわね、その……」
「……」

 ドアを前にして力なく笑うアンヌ様を、私は無言で見つめた。部屋に入るために彼女を押し退けるわけにも、招き入れるわけにもいかず。仕方なく言葉を続けるのを待つしかない。
 それにしても、大変だったって……わざわざ言う事? いつものサラの事ならあまりにも他人事過ぎるし、今回の件に関してならティアラ伯母様に先に言われてしまっている。

 アンヌ様はどこかおどおどして、人の機嫌を窺っていると言うのが私の印象だ。いつもと言うわけではないが、珍しくはっきり物を言う時も、それはそれでどこかずれているのだ。たまにはビシッと言おうとして空回りしていると言うか――

「……ごめんなさい」
「!?」

 考え事をしていると、アンヌ様に急に頭を下げられた。お父様が見たら、私が謝らせたと誤解されるのが面倒だ。もっとも、今は書斎で項垂れているんだけど。

「私が一番、今の貴女の状況を分かっているのに……何もしてあげられなくて」

 一番?
 その言葉に引っ掛かって首を傾げるが、アンヌ様の境遇を思い出して納得した。彼女もまた、望まぬ行為と妊娠によって結婚しているのだ。しかも愛人として囲われ、後妻になっても既に前妻の娘である私がいる。お互い様だが顔を合わせる度に気まずくてしょうがなかっただろう。

「今回に関しては、アンヌ様は無関係です。気にする必要はありません」
「そんなわけにはいかないわ! 私は貴女の…」
「今更です」

 思わず声に棘を含んでしまい、咳払いして誤魔化す。怯えた表情をされたけど、私は別に怒ってるわけじゃない。

「やっぱり、恨んでいるのね……カトリーヌ様がお亡くなりになってすぐ後妻に納まった私を」
「いいえ、それはまったく」

 むしろ父が無茶してすみませんと、こちらが謝る案件だと母から聞きましたが。

「だけどアイシャ様は、今もまだ私をお母様とは呼んでくれないでしょう?」
「だって私のお母様じゃないですから」

 そう言うとアンヌ様は泣きそうな顔をしたけれど、私は何も感じなかった。

 亡くなる前のお母様に、口を酸っぱくして言われた。アンヌ様はお父様に、かわいそうな人なのだから、恨んではダメよ、と。
 だから私はアンヌ様を恨んではいない。と、同時に「母」と認めてもいなかった。

「貴女はサラの母ではあるけれど、私の母だった事は一度もない」

 お姉さんなのだから我慢して、とは何度も言われてきた。半分だけだが血が繋がっているので、それは間違ってない。だけどサラに「お姉様を困らせないであげて」と注意した事はない。いつも私だけが、我慢させられていた。
 アンヌ様からすれば、主人の娘である私と実の娘のサラを、実の姉妹として扱おうと彼女なりに配慮したのだろうが、依怙贔屓するお父様と傍若無人な娘ほど私にとって害はなかったけれど、ただひたすら弱かった。

 一度でも私のために、私の母親でいてくれた事など――

「ごめんなさい…」

 私の思考を打ち切るように、また謝られる。何も悪い事をしていないなら、却って苛立つのでやめて欲しい。

「私の事はいくらでも恨んでいいから……サラは、嫌わないであげて」
「彼女の躾は、親である貴女とお父様の役目では?」
「お願い……あの娘なりにお姉様を慕っているのよ」

 前言撤回。アンヌ様もサラに負けず劣らず歪んだ思考の持ち主だった。好きだから、愛してると言えば人から奪い取ってもいいの? アンヌ様はどちらかと言えば被害者側なんだろうけど、気弱で押しに弱いから簡単に言い包められてきたんだろうなあ…

(……あ)

 ここで、気付いてしまった。私の、アンヌ様に対するもやもやした気持ち。恨んではいない。かわいそうだと思っている。ただ向き合っていると、理由の分からない苛立ちに苛まれるのだ。

「ごめんなさい、アンヌ様」
「アイシャ様…! サラは貴女のたった一人の妹で…」
「疲れたんです、もう。我慢するのもあの子のお姉様でいるのも」

 アンヌ様が目を丸くする。
 分かってしまった。私は辛い境遇も笑って乗り越えるお母様には似ていない。どちらかと言えば、目の前の――

「私はこれから、母親になります。貴女と同じく」

 そうだ、アンヌ様は私にそっくりだ。不幸に流されて、絶望に慣れて。奪われるまま受け入れて、諦めている。
 本当に嫌になるくらい、私たちは似ているのだ。

「でも私は、貴女にはならない。この子を、サラのようにはしない」

 似ているからこそ、嫌いだった。弱い自分の末路を見せ付けられているようで。だから、そんな親に甘やかされて増長しているサラも、ある意味被害者と言えた。

 彼女たちを、私は同情する。だけど大っ嫌いだ。そこは譲れない。

 アンヌ様が目元にハンカチを押し当て、鼻を啜った。それに構わず私は彼女を無理矢理下がらせてドアを開けた。

「嫌いになって欲しくないなら、母親としての務めを果たして、妹をまともな人間に躾けてあげて下さい。
……さようなら」

 最後は自嘲も込めて告げると、私は部屋に引っ込んでドアをバタンと閉めた。

 さようならアンヌ様。さようなら、弱い私。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 私が公爵家へ嫁ぐにあたり、持って行く物は極僅かだ。ゲラーデである鏡台と日記帳、さえないドレスと下着が数点、叔父様から戴いたカランコエの鉢植え……本は図書館で借りればいいし、日用雑貨も向こうで用意してくれると聞いた。

 荷造りが終わる頃、伯爵領からクララが戻って来た。本当は私が各所に挨拶に行きたかったのだけど、妊婦だからと止められ、彼女に代理を頼んだのだ。

「お帰りなさい。弟さんたちはどうだった?」
「寂しがっていましたが、手紙を出すと伝えましたから……あと、シスターから伝言を受け取っています」

 急な婚約に振り回す事になって、クララの兄弟たちにも申し訳ない事をしてしまった。せめて今後もゾーン伯爵領の孤児院へはクララを連れて行ってあげたい。
 シスターからは、聖マリエール教の経典から引用された、お決まりの言葉を頂いた。

 その試練は神の祝福、その祝福は神の試練だと。

 今日この日、私は初めて家族の元を離れた。それはずっと望んでいた事だけれど、先の見えない未来には今までにない不安もある。だけど今後、どれだけ過酷な運命が待っていようとも、少なくとも私から奪う相手はサラではなくなるのだ。

 今はそれだけで、私は解放された気分だった。

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