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第一章 不遇の伯爵令嬢編

受け取って

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 ベアトリス様は、口元に微笑みさえ浮かべていた。けれどその眼差しの色は、あまりにも見覚えがあった。

(ああ、この人は私と同じ……諦めているんだ)

 こちらに視線を向けたベアトリス様の目が、大きく見開かれる。

「…貴女ってお優しいのね。他人のために涙を流せるなんて」
「違います……私はそんな、殊勝な人間じゃありません」

 言われて、また頬が濡れていた事に気付いた。
 サラに奪われ続けて、いつしか泣く事すら面倒になってしまっていたのに、直前までチャールズ様に泣かされていたものだから、涙腺が緩くなっているだけだ。

 悲しい…悔しい……それ以上に、腹立たしい。チャールズ様よりも殿下よりも、話を聞いている事しか出来ない自分が。

「ほら、おはなが出ていますからこれをお使いになって。淑女は身嗜みに気を配らないと」
「あ゛、あ゛り゛がどう゛ござい゛ま゛ず……グスッ」

 自分のハンカチを探すが、カーク殿下に小瓶を包むために持って行かれたのを思い出し、ベアトリス様が差し出したのをありがたくお借りする。ハンカチには真っ赤な薔薇の刺繍がしてあった。持ち物まで高貴な彼女らしいな。

「それ、わたくしが初めて完成させた時の物なの。出来はまだ拙いから恥ずかしいけれど、よかったらもらって下さる?」

 なんと、この出来で初めて? 私とは雲泥の差だ。これは絶対サラに盗られないようにしないと。
 ベアトリス様の心遣いに感激していると、呆れた声がせっかくの空気をぶち壊してきた。

「お涙頂戴は、もう済んだかな? 私が言うのも何だけど…君、他人の事情に首を突っ込んでいる場合じゃないだろう。ただでさえ面倒事に巻き込まれているんだから」
「…………」
「巻き込んだ張本人が言えた事じゃありませんわね」

 私は半目でじとっと声の主を見遣る。ベアトリス様のおっしゃる通り。私が言うのも何だけどって、本当にあんたが言うなって話だ。
 …今なら一発くらい殴っても許してもらえるかしら? 女性関係の数だけ修羅場も潜ってそうだし、穏便に済ますためにビンタを喰らうのにも慣れているだろう。生憎な事に私は非力で、思いっきり振りかぶっても「ペチッ」が関の山だけど。

「女の子を泣かせて、このままごめんの一言で済ますおつもり?」
「まさか、後日ちゃんとした分は用意するさ。
本当に悪かったよ。でも、君だっていい思いしただろ? 今日のところはこれしか出来ないけど、受け取ってくれ」

 良い笑顔でぎゅっと手を握りしめてきたので、広げてみれば。

 ――キャンディーが一個。

 …舐められてるなあ。

「これは素敵なプレゼントを。ぜひお返しをさせて下さい」

 普段は苦手な愛想笑いが、自然に出た。背後からベアトリス様の視線を感じたので、ダメ元で手を後ろに回して合図を送ってみる。

「いいよ、そんな気を使……ぐべっ!!」

 バキャッ!!

 チャールズ様の美しいお顔に、ベアトリス様からお借りした扇子がヒットする。さすがに歯を折るなんて芸当は無理だが、金具が掠ったのか唇から血を流していた。

「愛しのベアトリス様との(間接)キスです。お受け取りになって」
「……どうも」

 予想外だったのか、無理矢理笑みを取り繕うが、引き攣ってしまっている。
 あー、ほんの少しだけ溜飲が下がった。

 扇子の方は、パッキリ折れていた。私はそれを、ベアトリス様にお返しする……これ一本で一体いくらするんだろう。

「弁償致しますわ」
「面白いものが見れましたので、見物料としてそれも差し上げます」

 扇子を失ったベアトリス様は、代わりに手で口を覆って含み笑いしている。楽しんで頂けて何より。

「それでは、部外者はこの辺で去りますので。ごきげんよう」

 ぺこりとお辞儀してドアに手をかけると、彼女は見送りについてきた。

「貴女には借りが出来たわね」
「そんな、私は何も……結局、ベアトリス様への謝罪も引き出せませんでしたし」

 殴ってやったけど、あれだって私個人の鬱憤晴らしでしかない。カーク殿下に捨てられ、婚約が破棄される未来が見えてしまったベアトリス様は、これからどうするのだろう。気になって仕方がないが、悔しい事にチャールズ様の言う通り、私は他人でしかない。

「心配は無用よ。代わりに泣いてくれる方がいたから、わたくしは平気……
言ったでしょう? このまま大人しく『悪役令嬢』は引き受けないと。まったく……大体、わたくしなしでどうやって王太子候補でいるおつもりかしら」

 そう、カーク殿下は第二王子。王太子候補として有力なのは、第一王子が病弱なのとローズ侯爵家の後ろ盾があるからだ。娘を穢されれば侯爵だって黙っていないだろうし、一体何を考えているのか……まあ、私には関係がない。
 もう一度頭を下げて部屋を出る直前、ベアトリス様はそっと耳打ちする。

「お祖母様にはに関わるなと言われてきたけれど……困った事があれば力になるわ。だってわたくしたちは……」

 ボソボソと告げられた事実に、思わず彼女を凝視する。

「ご存じだったんですか」
「まあ、これでも王妃候補ですし、身内の事くらいは…ね? では機会があれば、また」

 パタン、とドアが閉められ、私は衛兵に馬車まで案内された。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 屋敷に戻ると、メイドのクララが玄関口で待っていた。使用人はほぼすべてがサラの味方で私は無視されているので、出迎えも彼女一人だ。
 私にもちゃんと護衛か、エスコートがついていれば今頃……いや、考えても無駄だ。今は無事帰って来れた事だけ喜んでおこう。

「すぐに入浴の支度を――そのドレスはどうされました?」
「ああこれ? 汚してしまったから借りたのよ。洗濯しておいて」

 ドレスが替わっている事に気付いたクララから目を逸らしながら、汚れ物の袋を差し出す。出来れば父に見つかる前に部屋に戻りたい。

「お帰りなさい、お姉様!」

 そこへバタバタとサラが階段を駆け下りてきた。…よりによって面倒な。

「パーティーは楽しかった? いいなぁ、私も行きたかったわ。ルーカスにエスコートしてもらって、ダンスを踊るの……あら? お姉様、ドレス…」
「そう言えば、お土産があるの!」

 サラに突っ込まれる前に言葉を遮ると、私はポケットからベアトリス様に戴いた物を取り出す。

「なぁに、それ? 折れた扇子に使用済みハンカチって……ゴミじゃない。
あと一つは……飴玉?」
「それは、チャールズ様から」
「えっ! チャールズ様って、カーク殿下の双鷹そうようの従者! 超絶美形って噂の!? どうしてお姉様なんかに!」

 お姉様『なんか』で悪かったわね。あと婚約者がいるのに目、キラキラさせて……少しは自重してほしい。

「ねえねえ! チャールズ様ってどんな御方?」
「噂に聞いていた通りよ」

 色んな意味で。

 サラは白い包みのキャンディーを色んな角度から眺めている。市販のキャンディーはもっとカラフルなイメージあったんだけど、これ、どこのメーカーかしら?

「お姉様、チャールズ様にお声をかけていただいたの! 一体どうゆう経緯で? ひょっとして、エスコート役がいないのを同情して踊ってくださったのかしら」
「踊ってないわ」

 あれが躍りだなんて下品なジョークを言うつもりはない。

「ざっくり言えば、犬に噛まれたお詫びとでも言うか……」
「パーティー会場に犬がいたの!? それでお姉様、ドレスが……まあいいわ。これ、もらっていい?」

 あんな説明で納得してくれたらしい。まあ私とチャールズ様にロマンスが始まるなんて、天地が引っ繰り返ってもないでしょうからね。犬に噛まれた、それ以上でもそれ以下でもない。

「こんなのが良いの? 私は別にいらないけど」
「ゴミなんかより、チャールズ様からの愛が欲しいの」

 飴玉一個って、安い愛だな。そしてルーカスの立場は……
 突っ込みたい所は多かったが、私はもう疲労が限界に来ていて、一刻も早く部屋に戻りたかった。

「じゃあ、あげるわ。私はもう休むから……おやすみ、サラ」

 後ろで「うえっ、何これ甘くない!」と漏らしている妹をその場に残し、私はクララにお風呂に入れてもらった。


 ネグリジェに着替えた後、習慣にしている日記帳を開く。生きていた頃の母から譲り受けた物だ。新しいページにペンを走らせるが……極度の眠気で頭がろくに働かない。

 あまりにも衝撃的な事が次から次に起きるものだから、呆気に取られるばかりで、状況に流される以外何も出来なかった。
 慎ましく暮らしていれば遭遇し得ない出来事で、これらに比べればルーカスに婚約破棄されてエスコートもなしで壁の花になっていた事なんて、どうでもよくなってしまう。

(…まあ、出来れば彼等には二度と関わりたくないわね)

 双鷹そうようの儀において美しい主従愛を見せた二人がクズだった事には、少なからずショックを受けた。五年前の私の感動を返してほしい。唯一僥倖と呼べるのはベアトリス様と思わぬ縁が出来た事だが、今はただ何も考えず、泥のように眠りたい。今日はひたすら疲れた。疲れてしまった。

 私は書き進めるのを諦め、パタンと日記帳を閉じた。

(ベアトリス様のご厚意は嬉しいけれど、お言葉だけありがたく頂戴します。
さようなら、王子様御一行。私はトラブルとは無縁にひっそり生きていきます)

 私は毛布の中で祈ると、意識が闇に沈んでいった。
 けれど、そんな私を嘲笑うかのように、事態は急展開していくのだった。


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