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第7話 なみだの理由

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「そう。そんなことがあったんだ……」
 陽が音楽室に来たその日から数日が立ったある日の放課後。
 一組の前のろう下で、わたしはあの日にあった出来事を唯一の親友と呼べる友達に話した。
「まーた姫香があばれたのね! ほんっとうに、こりないんだから!」
 そう言ってほおをふくらませるのは、五年三組の佐藤菜々子だ。
 学年では比かく的身長の高いわたしよりも、さらに十センチほど背が高い。
 すらっとした体形にショートパンツから見える色白の細い足は、まるで雑誌のモデルさんのよう。
 そんな菜々子とは、幼稚園以来からの長い付き合いになる。
 だから、わたしの発表会に出たくない事情も、すべて知っている。
 始業式のあの日は、菜々子は風邪で学校をお休みしていた。
「ねえ、それで……。菜々子は『パガニーニの少年』って、知ってる?」
「うーん、聞いたことないなぁ。そもそも、あたしはチェロだし、発表会の日程もちがうから見たことはないけど」
 そう。菜々子はわたしと姫香ちゃんと同じ音楽教室に通うチェロ奏者なのだ。
 チェロはバイオリンよりも低い音を出す楽器。
 正確に言うと、バイオリンとチェロの間にビオラという、バイオリンよりもほんの少し大きい楽器がある。
 でもチェロは、そのビオラよりも一回りくらい大きい。
 だから、演奏するときはイスに座ってチェロを床に立てかけなければいけない。
 話をもどすと、菜々子は真崎先生の推せんもあって五年生で弦楽クラブの部長をつとめることになった。
 これは三月の終業式のときに、弦楽クラブが招集されて発表があったことだ。
 菜々子の演奏がすばらしいのは言うまでもない。
 コンクールで賞を取ることも多く、前は『天才小学生チェリスト』という見出しで音楽雑誌にのっていたこともあった。
 その上、彼女は責任感が強くて、部員をまとめあげる能力にたけている。
 なによりも、人から信頼されていて人望も厚い。
 太陽のように明るい菜々子から、わたしはいつも元気をもらっているのだ。
「でも、気になるね。陽くんは、どうしてバイオリンをやらなくなったんだろう」
「……わからない」
 演奏には、人の心が宿ると聞いたことがある。陽の演奏は力強く、かつ繊細で圧倒された。でも、彼の奏でる音は……なんと言えばいいのだろう。
 あんまりうまく表現できないけれど、聴いていて胸がしめつけられるような感じ。
 悲しみ、という感情が一番しっくりとくるかもしれない。
「まあ、それはおいておいて……。千里、姫香の言うことなんて無視しな。発表会なんて無理に出る必要なんてないんだから」
「う、うん――」
 シャラン、と鈴の音がわたしの声をさえぎった。もしかして、この音って――。
(……ああ。まずいことになった)
「あーら。ごきげんよう、佐藤なんとかさん」
 うすいピンクのランドセル。
 ランドセルの脇についている鈴と、キラキラのキーホルダー。
 そのランドセルの持ち主――姫香ちゃんが、仁王立ちでうで組みをして立っていた。
 姫香ちゃんは、わたしを横目でギロリとにらみつける。
「……っ」
 数日前の出来事がフラッシュバックして、わたしは菜々子のかげにかくれた。
「あら。うじ虫さんもいっしょなの? まあいいわ。わたくしがなんですって?」
「あんたねぇ……っ!」
「菜々子!」
 わたしが止める前に、菜々子は姫香ちゃんの前へと動き出していた。
「千里を傷つけておいて、ごめんなさいの一言もないわけ!? あと、いいかげん人の名前くらい覚えなさいよ!」
「この学年に佐藤はわたくし一人で十分ですわ。他人の名前なんて覚えているヒマはないの。バイオリンとピアノのレッスンでいそがしいのよ」
 息をつくひまもなく、言い合いをする二人。もうこうなった以上、だれにも止められない。二人は元から犬猿の仲。学校でも、音楽教室でも、それは有名なことだ。
 それに加えて、姫香ちゃんは弦楽クラブの部長に選ばれた菜々子のことをよく思っていない。
「相変わらず、世間知らずなおじょうさまね!」
「世間知らず? ……わたくしの家系をご存じなくて?」
 姫香ちゃんはずい、と菜々子に顔を近づけた。
「わたくしの佐藤姓は、あなたたち平民とはちがうわ! わたくしのおじい様は日本を代表する有名な会社『正見商事』の社長ですのよ!? 世間知らずは、あなたのほうでしょう?」
(……もう、やめてよ……)
 じわり、と目になみだがたまる。
 二人のけんかを止めることのできない自分が情けない。
 すべては、自分が悪いのだ。
 そこに、トンと足音がろう下にひびいた。
 ハッとして顔を見上げると、そこにいたのは見覚えのある人だった。
「……なあ。それって、おまえのおじいさんがすごいのであって、おまえはなにかすごいのか?」
 いやみのない口調でそう言ったのは、ランドセルを背負った陽だ。
「くっ……!」
 姫香ちゃんは陽を見ると、ギリと歯ぎしりした。
「ぬすみ聞きとは、はしたないわ!」
「いや。これだけでかい声出してれば、だれだって聞こえるだろ」
 陽は困ったように頭をかく。
「それに、おれは純粋に気になって質問しただけだけど……」
 その平然とした様子に、姫香ちゃんのいかりに拍車がかかった。
「弦楽クラブでもないくせに、バイオリンがひけるからって調子に乗らないでもらえるかしら!?」
「調子に乗ったつもりはないけど、そう見えたのなら謝る」
「……っ! なによ!」
 姫香ちゃんはろう下のゆかをバンと強く足でける。
 そして、菜々子の後ろにかくれるわたしをにらんだ。
「ねえ、うじ虫さん。そこの赤ランドセルには女の子であることがバレちゃったけど、今いっしょに公園でサッカーをしている人たちには打ち明けるのかしら?」
「……!」
 心ぞうが、ドクンとはね上がった。
 打ち明ける――それは、自分の本当の性別のことだと、すぐにわかった。
 姫香ちゃんはつづけて言う。
「その人たちに、あなたの本当の性別がバレるのも時間の問題ね。……そもそも、どうして男子になる必要があるのか、わたくしには理解できないけれど」
「……え? そっ、それは……」
 だって、しょうがないよ。
 わたしの好きになるものは、みんな男の子向けなんだから。
 でも、わたしは女の子に生まれてしまった。
 だから、男の子にならないと「女の子なのに」と否定される。
 それなら、性別を変えるしかないじゃん。

 ―――あれ?

(わたし、なにか大きなかんちがいをしている……?)
 視界に入った、赤いランドセルを背負った陽を見て思った。
 陽は、最初から男の子だった。赤色が好きな、男の子だったのだ。
 転校してきた日、みんなの前ではっきりとそう答えていたじゃないか。
 ぽろぽろと、ゆかになみだが落ちる。
「千里!? こんのぉおおおっ、姫香!」
 菜々子が姫香につかみかかりそうになるのを、陽が止めてくれた。
 ……ああ。確か、あの瞬間もわたし、泣いていたっけ。
 そうか、あのとき――
 陽がクラスの男子にどうして赤いランドセルかと質問されていたとき。
 性別にこだわらず、好きな色をつらぬく陽がかがやいて見えた。
 わたしにできないことを、平然とやってのける陽がまぶしかった。
 それがくやしくて、わたしは泣いたんだ。
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