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後編 雨、塊(つちくれ)を破り

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「島君、ちゃんと起きなさい」

 と美人女教師が棘のある口調で叱った。
「はい! 先生の授業ならお金払ってでもちゃんと起きます!」

 乳井先生に叱られた島のその言葉にクラスのみんながくすくすと笑った。

 乳井先生の評判は結構好評で、授業も意外にも、と言うと失礼だが分かりやすく、島でなくても
「先生もうずっと化学の授業受け持っちゃってよ」
 と言いたいくらいには男子女子ともに人気だった。

 いつもならその輪の中に入り、いつもの日常とはちょっと違う(けれど根本的には同じな)他愛ない話に花を咲かせていたのだろうけど。
 今僕は別のことに夢中だった。

 桑原さんは雨の日しかグラウンドに来なかった。

 晴れていればサッカー部が使っているのだから当たり前だ。一度グラウンドに行ったのを島に見つかった。

「なんだ、お前サッカー部戻るのか」
 と、島に輝いた目で詰め寄られたが、上手く誤魔化して逃げ出した。

 雨の日になると桑原さんは必ずグラウンドにいた。

 彼女ももう僕が同じ空間にいるのは気づいているはずなのだが、彼女はいつも逃げるように立ち去って、あれっきり一度も会話をしていない。クラスでも話はしない。

 ちらりと僕は桑原さんをうかがった。変にぶぜんとした顔つきで桑原さんは授業を受けていて、見るからに退屈そうだった。あの雨の中、快活にラリーを続けている人間と同一人物とは思えない。

 少なくともあのグラウンドでは彼女は楽しそうだった。

 目を輝かせ、ラリーを続ける。桑原さんには何も聞ける筈がないのであんなにも毎日のように(遅い梅雨はまだ終わっていない)グラウンドで制服をびしょびしょに濡らす理由を僕は知らない。

「いつもいるよね」

 ある日、彼女は屋根(昔自転車置き場に使われていた)の下で雨を凌いでいる僕の近くでずぶ濡れの髪の毛を拭きながら話しかけた。

「うん、面白いから」
 何が、と彼女は言いかけたようだったが無理やりに口をつぐむ。

 ぱくん。

 そんな音がした。そしてそのまま小走りで自分の荷物を取りに行く。失言を恐れて離れていく彼女がなんだか少し可愛かった。

◆◆◆

「モアイみたいだ」
 不意に島がそんなことをつぶやいた。
「何が?」
「お前がだよ」
 島はびしり人差し指を立てる。
「なんか、仏頂面でさ。いつも焦点のあっていない目が、最近はさらに乱れてるぜ」

 言われてみると、確かに島の言うとおりだった。
 最近は桑原さんのことがいつも頭の八割は占めていて、他人から見れば、深刻な悩みを抱えている風に写るかもしれない。

「そうか。気のせいじゃないか」
「気のせいじゃねえよ。なんだ、なんか悩みでもあるのか」
 島はそう訊いてきた。
「あったらどうなんだ」
 質問に質問で返すのは失礼とか誰か言っていたっけな、などと考えながら僕は惚けて問う。
「俺が悩み聞いてやるよ」
 島は拳を握り締めて、自分の胸を叩く動作をした。妙に偉そうな態度だ。
「生憎だがお前に聞いてもらうような悩みは一つもないな」
「嘘をつけ。お前の顔に『僕は今悩んでいます』って書いてある」

 そりゃあ、思春期の男の子だぞ。

 桑原さんのことでなくても悩みなんて幾らでもある。勉強大変だな、とか弟が反抗するようになってきたな、とかごく平凡な日常的悩み。

 しかしここで、そういえば最近そういうことについて考えていないことに気づいた。

「悩みはあるけど、“お前に聞いてもらうような悩み”は一つもないってこと」
 どういう意味だよ、と島は笑った。

「つか、俺は真剣だぜ? マジでどんな悩みでも聞くよ」
「なら、言うかな」
「おう、言ってみろ」
「俺は乳井先生が学校を去らずに済むにはどうしたらいいか、それを模索してるんだよ」
「アホか……いや、それは深刻な悩みだな」

 島は急に難しい顔になる。
 その様子が可笑しくて噴出してしまった。

「そんなに真剣に考えるもんか?」
「お前が言ったんだろ」
 少し怒ったように顔を紅潮させて島は僕のこめかみを拳で小突く。
 痛え、と俺はくつくつと小刻みに息を漏らして笑う。
 島もそんな俺を見ると満足そうに笑った。

「ほら見ろ」

 島は僕の背中をバンと叩く。
 少しのけぞり、痛みに思わず背中をさすった。
「さっきより随分顔緩んだじゃねえか。悩みを吐き出したお陰だな」
「本当の悩みじゃないけどな」
「でも、こういうの大事だろ?」
 島はにこりと顔を歪めて笑顔を作る。別に何かに行き詰っているわけじゃないのに、なんとなく救われるような表情だった。

◆◆◆

 今日も桑原さんはグラウンドにいた。雨は降り続き、いつものように彼女の制服を濡らしている。

 いつもその濡れた制服をどう親に説明しているのだろうか、と疑問を持たないこともなかったが、そこまで大事な話であるようには思えず、ただ僕は無言を貫いていた。
 それは向こうも同じことでただ降りしきる雨の中、ラケットを振っている。

「何が面白いの」

 今日もラリーを終えると桑原さんは僕に寄ってきた。
 このブレザーを脱いだら、下のYシャツは透けているんだろうな、なんて島のようなことを考えていたので、何か自分の罪をとがめられたような気になって、一瞬だけ戸惑った。
 そのままではあらぬことを口走りそうだったので少し落ち着いてから答える。

「なんだろう。別にそれということもない」
「何それ」
「だからどうとも言えないんだよ。ほら、前も言ったろ? 感慨にふけってるんだよ」
「答えになってないけど」
「じゃあ、桑原さんは?」
 少しむっとして、僕は訊き返した。
 その反応は想像していなかったのか、それとも単に考えていないだけなのか、一分ほど桑原さんはだんまりを決め込む。

 その際、一瞬だけ彼女の顔にあたる雨が蒸発したかに見えた。

「課題が意識された時は解決策が存在する」

「何それ?」
「カール・マルクス。ドイツの哲学者だか経済学者だかの言葉」
 言ってから、彼女は口をヘの字に曲げ、額に皺を集めるというなんとも奇妙な表情になる。その仕草の意味が分からず僕は無言で首を傾げた。

「なんていうか、毎日が退屈なんだよね」

 彼女は僕の顔をしかと見つめてそんなことを言う。それからふっきれたのか彼女はほぼ一息でそれに言葉を続ける。

「中学の頃はなんか毎日楽しかったのに。高校になってから生活がマンネリ化して」

 桑原さんが語るのは、どこかで聞いたことのある話だった。

「そこから抜け出したくて。でも大きなことはできなくて。それが嫌でさ」

 僕は桑原さんの唇を見つめていた。
 桑原さんの言っていることは、僕も毎朝電車で考えていることで。

「せめてもの人生への復讐に日常と違うことをやってみようって」

「それがこのラリー?」
「そう」
 真面目に語る桑原さんには申し訳ないが僕は思わずにやけてしまった。
 桑原さんはそれが気に食わないのか小声で、けれど刺すような口調で「何?」と腕を組む。

「似てるなあと思って」

 桑原さんは首を傾げる。
 納得したように僕は頷く。ようやく得心した。

 桑原さんも僕と同じなのだ。

 今まで順風満帆に楽しい人生を歩んできたのが、大人になりかけて、毎日が同じように過ぎてしまうことが気に喰わないのだ。

 退屈という怪物を倒して、その先に進みたいのだ。
 ただその怪物は大きすぎて少したじろいでしまう。

◆◆◆

 手初めに僕はグラウンドに赴いた。いつもと違う晴れの日だ。
 結局今僕がすることもいつものマンネリ生活への反抗には違いない。

 その次の日の放課後はまるで誰かがはかったかのように雨だった。
 思わず頬を緩めてしまう。

「雨に濡れるのってロマンチックだと思わない?」

 彼女は呟く。とても弱弱しい声で。僕の隣に彼女は安心したかのように座る。

「だから制服?」
「まあ、それも」
 桑原さんは軽快に口にした。

「それに濡れた方がもっと変わると思って」

「世界が?」
 桑原さんは首を縦にふる。
「親も何か言ってくれるかな、って。ま、母親はわたしのこと、気遣っているつもりか無視してたけど」
「そうか」
 僕は素っ気なく答えた。

「そういえば俺、部活入ったよ」

「へえ」
 向かう彼女も素っ気なさそうだった。
 今は僕も彼女も他人に構う余裕はない。

「結局そんな反抗したって何も変わんないんだよな」
 僕は嘆く。けれど、桑原さんはキョトンとした表情だった。どうもその言葉に得心がいかないらしい。

「変わったよ」

 濡れた髪をタオルで覆って、何を言ってるの? と言わんばかりだ。

「今こうして芹沢君と話してる」

「その通りだね」
 それはちょっとした収穫だ。
「でも安い言葉だ」
「そうかもしれない」
「そういえば」

 何故だか急に僕は今日の化学の時間の島を思い出した。
『乳井先生もう実習終わりなんだな。くそう、あの神々しい乳を拝めなくなるなんて惜しいぜ』
 と、島は本気で悔しがっていた。
 あまりにも沈んでいて、見ていられなかったので、僕はコーヒーを一杯島に奢ってやった。

「クラス中で落胆が音を立てて湧いてたよね。特に男子『はあー』とか『ええー』とか言う声が一杯」

「俺も言ってたしね」
 あれは男子生徒の夢の教師だろう。
「結局学園ドラマは演じられなかったな」

「簡単に演じられるものじゃないよ」

 言葉に含蓄があった。そんなこと僕だってよく身に染みている。

「話戻るけど部活はどうするの」

 僕は一瞬答えに詰まるが、迷うほどのことでもないな、と気づく。
「さあ別に。楽しくやれればいいや」

「……ふーん」

 何かが劇的に変わらなくても、気持ちの問題で今やっていることの意味は変えられる。そうやって日常を歩むことは非日常を望む以上に、実は刺激的なのかもしれない。

「明日も来てよね」
「え?」

 桑原さんはまた逃げるようにして、ラケットを手にして雨の中、彼女はグラウンドに走った。
 しばらくして、パコーンというもはや耳に馴染んだいつもの音が聞こえてくる。

 天気予報では明日は晴れ。遅い梅雨ももうそろそろ終わりを告げそうだ。

 僕はそれを頭の中で繰り返す。
 それはまるで物語のように。
 歯車が動き出すかのように。

 とても日常の音がした。
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