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第42話
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部屋に入ると、太田先生がいつも通り「ようこそ」と暖かく迎えてくれた。
それだけで、少し気持ちが落ち着いた。
「わざわざ足を運んでもらってすまない。私は、精神科医の太田だ」
美香子と信一をソファに座らせ、太田先生はその向かい側のソファに腰掛けながら言った。
信一がソファから立ち上がり、深々と頭を下げる。
「初めまして、私、篠宮と言います。よろしくお願いします」
太田先生がほう、と感心しながら頷いているのが見えた。そしておもむろにソファから腰をあげた。
「どうぞ寛いでくれて構わない。コーヒーでいいかい?」
信一は相変わらず恐縮そう身を屈め
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
と頭を下げた。
美香子は、そっと信一の方を見た。
何かが違う。
そう感じた。
どんな時でも飄々と何でも軽々こなして、焦りや不安などを感じているのが想像もつかない信一が、今は強張った顔をして座っている。暖房の効いた暑くも寒くもない室内で、額にじんわりと汗をかいている。
緊張しているんだ。
美香子はそう気づくと、だんだん隣に座る彼がかわいく思えてきて、胸がキュンとなった。
「そんなにかしこまらなくても、大丈夫ですよ」
美香子が言うと、信一は困ったように微笑んだ。出くわしたことはないが、段ボールに入れて捨てられた子犬を見たような気持ちになって、美香子の心臓はさらに騒がしくなる。
こんな関係で出会わなければ。もし普通の恋人なら。
そんな想いが浮かんで、美香子は慌てて首を振った。
もし、こんな関係じゃなければ、カースト底辺の自分と上位の信一が恋人になんてなる未来なんてなかったはずだ。そもそも、そんな妄想をすることさえきっと許されていなかった。
太田先生が淹れたてのコーヒーの入ったカップをテーブルに置いて、改めてソファに座った。
「どうぞ。インスタントで申し訳ないが」
「すみません、いただきます」
信一がカップを手に取った。空中で湯気がゆらゆらと揺れている。
「ところで篠宮さん。きみは本田さんの恋人、ということで間違いはないかい」
太田先生が訊くと、信一は即座に「はい、そうです」と答えたあと、美香子の方を見た。
「少なくとも、僕はそのつもりです」
信一が目を細めて笑った。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
ああ、なんて幸せだろう、と美香子は泣きそうになった。
「僕の方からもよろしいでしょうか?太田先生は、その、美香子とはどういったご関係なんでしょうか」
美香子は思わず信一の方を見た。話の流れだとわかってはいるが、初めて、名前を「さん」を付けずに呼ばれたことにドキドキして、純粋に嬉しかった。
「ああ、申し訳ない。僕は、本田さんのお母さんの主治医だったんだ。それからたまに本田さんとここで話をしている」
「そうでしたか。彼女を支えてくださって、ありがとうございます」
信一がまた深く頭を下げる。美香子はそれを見て、心が痛んだ。
太田先生と知り合うまでの流れを信一に伝える話は、事前に打ち合わせをして決めていた。前世や沙織の話をこちらから出さないためである。
そこで、昨年までこの病院に入院していた美香子の母の主治医で知り合った、という設定にした。それが最も自然な出会いだと考えたからだ。
しかし、安易にそんな作り話をしてしまったことを、早速美香子は後悔していた。
「ごめんね、大変なときに支えてあげられなくて」
信一が顔を歪めて美香子の頭を撫でた。泣きそうな顔の彼を見て、美香子は罪悪感でいっぱいになっていた。
早く、必要な話を終わらせて、すぐにでもこの部屋を出たい。
美香子は信一の目を見れず、コーヒーに手を伸ばした。カップに触れると、もうぬるくなっていた。
それだけで、少し気持ちが落ち着いた。
「わざわざ足を運んでもらってすまない。私は、精神科医の太田だ」
美香子と信一をソファに座らせ、太田先生はその向かい側のソファに腰掛けながら言った。
信一がソファから立ち上がり、深々と頭を下げる。
「初めまして、私、篠宮と言います。よろしくお願いします」
太田先生がほう、と感心しながら頷いているのが見えた。そしておもむろにソファから腰をあげた。
「どうぞ寛いでくれて構わない。コーヒーでいいかい?」
信一は相変わらず恐縮そう身を屈め
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
と頭を下げた。
美香子は、そっと信一の方を見た。
何かが違う。
そう感じた。
どんな時でも飄々と何でも軽々こなして、焦りや不安などを感じているのが想像もつかない信一が、今は強張った顔をして座っている。暖房の効いた暑くも寒くもない室内で、額にじんわりと汗をかいている。
緊張しているんだ。
美香子はそう気づくと、だんだん隣に座る彼がかわいく思えてきて、胸がキュンとなった。
「そんなにかしこまらなくても、大丈夫ですよ」
美香子が言うと、信一は困ったように微笑んだ。出くわしたことはないが、段ボールに入れて捨てられた子犬を見たような気持ちになって、美香子の心臓はさらに騒がしくなる。
こんな関係で出会わなければ。もし普通の恋人なら。
そんな想いが浮かんで、美香子は慌てて首を振った。
もし、こんな関係じゃなければ、カースト底辺の自分と上位の信一が恋人になんてなる未来なんてなかったはずだ。そもそも、そんな妄想をすることさえきっと許されていなかった。
太田先生が淹れたてのコーヒーの入ったカップをテーブルに置いて、改めてソファに座った。
「どうぞ。インスタントで申し訳ないが」
「すみません、いただきます」
信一がカップを手に取った。空中で湯気がゆらゆらと揺れている。
「ところで篠宮さん。きみは本田さんの恋人、ということで間違いはないかい」
太田先生が訊くと、信一は即座に「はい、そうです」と答えたあと、美香子の方を見た。
「少なくとも、僕はそのつもりです」
信一が目を細めて笑った。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
ああ、なんて幸せだろう、と美香子は泣きそうになった。
「僕の方からもよろしいでしょうか?太田先生は、その、美香子とはどういったご関係なんでしょうか」
美香子は思わず信一の方を見た。話の流れだとわかってはいるが、初めて、名前を「さん」を付けずに呼ばれたことにドキドキして、純粋に嬉しかった。
「ああ、申し訳ない。僕は、本田さんのお母さんの主治医だったんだ。それからたまに本田さんとここで話をしている」
「そうでしたか。彼女を支えてくださって、ありがとうございます」
信一がまた深く頭を下げる。美香子はそれを見て、心が痛んだ。
太田先生と知り合うまでの流れを信一に伝える話は、事前に打ち合わせをして決めていた。前世や沙織の話をこちらから出さないためである。
そこで、昨年までこの病院に入院していた美香子の母の主治医で知り合った、という設定にした。それが最も自然な出会いだと考えたからだ。
しかし、安易にそんな作り話をしてしまったことを、早速美香子は後悔していた。
「ごめんね、大変なときに支えてあげられなくて」
信一が顔を歪めて美香子の頭を撫でた。泣きそうな顔の彼を見て、美香子は罪悪感でいっぱいになっていた。
早く、必要な話を終わらせて、すぐにでもこの部屋を出たい。
美香子は信一の目を見れず、コーヒーに手を伸ばした。カップに触れると、もうぬるくなっていた。
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