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其の一の一 酒楼

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【前書き】
現在連載のものとは別のものが書きたくなったので、馬絡みで別連載です。
短めの連載予定です。






 ◇






「……帰ってよい」

 雅璃怜はそう言うと、手にしていた扇をひらめかして供をしていた従僕を下がらせた。
 目の前には、煌びやかな灯りに彩られた大きな酒楼がある。
 門の外にまで人々の騒ぎが聞こえてくる。酔客の声と白粉と料理の香り、軽やかな楽の音。
 享楽の坩堝だ。

 雅璃怜は扇の陰で柳眉を寄せる。
 いつ来ても煩い店だ。が、煩いということは同時に賑わっているということ。
 そう。この店は街で一番繁盛している酒楼——在魔楼なのだった。

「相変わらずふざけた名前だ……」

 雅璃怜は低く呟く。
 たまたまそれを聞きつけてしまった通りすがりの男は、扇の端からでも知れる雅璃怜の端麗な横顔に見惚れかけていたのも束の間、ビクリと身を竦ませてそそくさと去っていく。
 仙女かと思って近づいてみたら中身は蛇か蝎だったというところだろう。

 実際のところ、雅璃怜ほど初見とそれ以外とで評価の変わる者もいないと言われている。
 すらりと背が高く、仕立てのいい上品な長衣に包まれた細腰にしなやかな手足。流れる髪は乱れなく結い上げられていてもなおその艶の美しさが隠せないと評される見事な黒髪で、切れ長の形のいい双眸といい、低すぎず高すぎずの絶妙な高さの鼻といい、品の良さを窺わせる口元といい、どこをどう見ても「美形」としか言いようのない美しい容姿をしている彼は、窈窕たる雰囲気とも相まって男性でありながら深窓の令嬢を思わせる風情なのだ。
 そのため、彼を遠くから見ただけの者、もしくは初めて会う者は、きっと彼は心まで麗しく清らかなのだろうと考える。妄想する。
 それが大きな誤解なのだと気付かずに。

 だから、ある意味「見ているだけの者」もしくは「会ったのは一度きりの者」は非常な幸せ者で——。そうでないものは、皆例外なくこう言うのだ。
 ——騙された、と。

 そんな雅璃怜は少しの間その酒楼の様子を眺め——やがて、諦めたように小さく息をついて足を踏み入れる。
 
(こんな騒々しい場所、誰が好き好んで……)

 そうは思うものの、今夜はこなければならない理由ができてしまったのだ。
 流れるような足取りで楼内に入ると、早速、見知った顔の上用人が深く頭を垂れて挨拶してきた。

「これはこれは……お久しぶりでございます。今宵はまたどのような——」

 名を呼ばない躾の行き届き具合はさすがだ。が、それは雅璃怜にとっての百の不快を僅かに減少させる役割にしかならない。とにかく、さっさと仕事を終わらせて立ち去りたい。

はどこだ」

 だから雅璃怜はごく簡潔に問うた。端から茶にも酒にも食事にも興味はない。が、返答は期待していた中でもより悪いものだった。

「……申し訳ございません……。少々外しておりまして……」

「呼び戻せ」

「は……」

「至急に呼び戻せと言っているのだ」

「か、畏まりました」

 何度か顔を合わせているために、それなりに雅璃怜の性格を把握し始めている上用人は、言外の意を察して、慌てたように了解する。
 つまりは——”待っているから”という意を。
 彼が下がるや否や、

「……くそ……」

 雅璃怜は端整な顔を忌々しげに歪めてぼやいた。
 いないとは想定外だった。あの男、いつも閑なくせにどうして今夜に限って……。

 胸の中で文句を繰り返しながら、改めてざっと酒楼を眺める。街一番の規模を誇る酒楼だが、一階の卓は全て人で埋まっている。仕方なく二階へ上がるが、ここも満席だ。

 ……商売繁盛でなによりなことだ……。

 雅璃怜が軽く舌打ちした直後。
 どこからともなく用人たちが現れたかと思うと、まだ食事中の卓の客たちを追い払い始めた。もちろん文句が出る。が、その騒ぎは金の力か力技かであっという間に「なにもなかった」ことになり、あとには、再び綺麗に整えられた卓だけになった。
 
「さ、どうぞおかけくださいませ。すぐに皿を運ばせましょう」

「……」

「それとも奥の方がよろしかったでしょうか? であれば——」

「ここでいい」

 奥になど誰が行くか。
 そう思いながら、雅璃怜は空いた卓に腰を据える。やりすぎだろうと思ったが、だからこそ断る気はなく、厚意は受け取っておく。と、すぐさま茶が、酒が、料理の乗った皿が運ばれてくる。

「不要だ」

 下げろ、と雅璃怜は視線で示したが、用人も女用人もぶるぶると首を振る。一人が、おずおずと説明した。

「楼主より、雅璃怜さまがお越しの際は、絶対に失礼のないようにと仰せつかっておりますので……。その……」

「…………」

 雅璃怜は事の次第を理解すると、一層眉を寄せる。が、「わかった」と女用人を追い払った。
 要するに、彼女ら/彼らはここの主から言われているのだ。雅璃怜を卓につかせておきながら、何も出さないような真似は絶対にするな——本人が何といおうが豪華な食事でもてなせ、と。

(そんな気遣いをするぐらいなら空けるなと言うのだ)

 まったく、と顔を顰めている間にも、皿は次から次へと運ばれてくる。
 しかも雅璃怜の好物ばかりだ。どれも美味しそうに、そして美しく盛り付けられている。だが手を付ける気にはなれず、仕方なく、茶を適当に飲んだ。美味い。癪に障る。それよりまだなのかあの男は。

 こうして閑な時間ができてしまうと、ここへ来てしまったことへの後悔が改めてじわりとこみ上げてくる。
 今からでも帰るべきではないだろうか。帰りたい。いやしかし……。
 逡巡しながら、こんな場所にしてはそれなりに巧みで趣のある楽の音をなんとなく聞いていると、背後に人の気配を感じる。
「ようやく戻ってきたのか」と思って振り返り、雅璃怜は強く眉根を寄せた。
 そこには、対面する予定の男とは似ても似つかない、見た目の悪い男がいたのだった。

「おーやぁ……? こんなところに美人が隠れていたとはァ」

 酒臭い息。呂律の回っていない声。どろりと濁った眼。
 実際のところはそれなりの外見だしそれなりに金のかかった格好をしている男だ。が、酒癖の悪さで全てが台無しだ。
 鬱陶しい。
 雅璃怜は外面を取り繕う気もなく、思い切り顔を顰めると、扇で顔を隠す。ただでさえ待たされていらいらし始めているのだ。こんな男の相手などする気はない。
 と、男はムっとした声で言った。

「なんだァ、その態度は。一人で寂しそうにしているから、哀れに思って話しかけてやったものを。ほら、付き合ってやるから酌をしろ」

「…………」

 雅璃怜の胸の中で怒りがますます高まっていく。こんな男の声を聞かされるぐらいなら犬猫相手にしていたほうがまだましだ。

(だからこんなところに来たくなかったのだ)
(しかも待たされて……)

 雅璃怜の怒りは、今や目の前の男に対してのものと、待ち人に対してのものの両方になっている。
 目の前の酔客にとっては不幸だった。
 雅璃怜は、秀麗としか言いようのない貌にこの上なく冷淡な表情を浮かべると、刺すような目で男を一瞥する。直後、フイと素っ気なく顔を逸らした。口をきくのも煩わしい。

 と、男は一瞬ぽかんとしたのち、逆上するかのように声を荒らげた。

「おい! お前!」

 言うなり、鼻息荒く卓の上の酒器を取ると、殆ど仰向くようにして直接に酒を呷る。そしてその酒器をズィと雅璃怜に突きつけてきた。

「ぼうっとしていないで注げ! 酌をさせてやる」

「…………」

「さっさとしろ! この礼儀知らずが!」

 そんな礼儀は知らぬ。
 雅璃怜は微動だにせず男を無視する。
 騒ぎに気付いた用人の一人が慌てて駆け寄ってきたかと思うと、男を雅璃怜から引き離そうとする。
 が、すっかり酔っている男はそれを振り払い、さらに雅璃怜に近づいてくる。

「おい! 聞こえないのか!? わたしを誰だと思ってるんだ!?」
「お客さま、他のお客さまの迷惑になりますので……」

 用人は雅璃怜を守ろうとするが、男は「煩い!」と叫ぶように声を上げると、引き離そうとする用人たちと小競り合いを始める。そうしているうちに一層興奮してきたのだろう。さらに酒を呷ると、ますます酒臭い息を吐く。雅璃怜は扇の陰で大きく顔を顰めた。

 お前が誰かなど知ったことか。
 やはりさっさと帰るべきだった。

「お客さま!」

 用人が困惑極まったような上ずった声を上げる。そうしているうち、何かが落ちる音がする。割れる音がする。二階の他の客もざわつき始めている。一階から、何事かと見上げている客がいる。ただ一人、すっかり酔った男だけが執拗に雅璃怜に絡み続ける。

「注げと言っているだろう。さっさと言う通りにせねば——」

 呂律の回らなくなっている舌で、さらに言いかけた時。

「——言う通りにせねば——なんだ? わたしが代わりに聞こう。是非聞きたいものだな。言ってみるがいい」

 低く静かな——しかし張りのある、威圧感に満ちた声がしたかと思うと、パシャパシャと何かが零れるような音がした。

  



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