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125 屋敷に戻って

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【白羽——帰途 半睡——うつつ】


 揺れていた。
 ——揺れている。

 漂うように身体が揺れている。全身が。ゆるゆると。
 けれど決して不快ではない感覚だ。波間を揺蕩っているような、そんな感覚。
 もしくは、ふわふわと宙で遊んでいるような。

 不快じゃない。でも——なんだか心許ない。
 縋るものを求めてもぞもぞと手を動かすと、なにかに触れる。温かい。
 ぎゅっと握ると、握り返された。強い力。でも痛くない。気持ちよくて安心できる強い力。心地よくて思わず小さく笑うと、優しく髪を撫でられた。
 その絶妙の力加減に、うっとりと息が零れる。

 
 言わなければならなかったことがあったはずだ。
 サンファのこと。彼女を罰さないように頼まなくては。
 それから事情の説明。
 謝罪。
 あとは——そう、御者に礼を伝えなければ。
 そしてやはり——謝罪。

 レイゾンさまへ——。

 迷惑をかけたことを、きちんと——。

 レイゾンさま……へ……。

 言いたかったことがあったはずだ。

 なのに、撫でられるたびにそれらは胸の中で溶けていく。
 白羽の手を掴む手はそれほど頼もしく、髪を撫でる手はそれほど心地よかった。




◇ ◇ ◇

【屋敷 レイゾン】


 気を失った白羽を抱きかかえて軒車に乗せると、共に屋敷へ戻り、すぐさま彼の部屋まで運ぶ。そのまま、そっと寝台に横たわらせた。
 
 工房の者には何も言わずに帰ってしまった形になるから、あとで遣いの者をやらなければならないだろう。突然店を飛び出してそのまま帰ってしまうなど、シャンには呆れられてしまったかもしない。
 半ば出来上がりつつあった鞭も、この分ではどうなることか。
 だがレイゾンにとっては白羽の方が大事だったのだ。 

 レイゾンは白羽を見下ろす。
 少しばかり顔が青白い気がするが、そこまで消耗してはいない……ようにも見える。が、どうだろうか。念のため医師を呼んだ方がいいのだろうか? まだ様子を見ていていいのだろうか。
 戻ってくるまでの軒車でも、彼は目を覚まさなかった。
 疲れすぎて眠っていたのかもしれない。当然だろう。不安な思いをさせてしまった。
 レイゾンの手をぎゅっと握りしめていた。少しだけ安堵したのは、髪を撫でてやると気持ちよさそうに息を零していたことだ。
 少なくとも苦痛は感じていなかったようだから、それだけはほっとする。

 しかし。

(しかし——だ)

 気になることがあった。
 レイゾンは自身の手を見つめる。白羽に触れていた手。ゆっくりとその手を開いては閉じ、閉じては開く。
 
 そして暫し考える。思い出しながら——思案する。
 
 だがわからない。
 レイゾンにとっては悪いことではないが……。

 白羽を見つめたまま、さてどうしたものかと考えていると、

「——申し訳ございませんでした」

 声がした。
 サンファだ。

 レイゾンとともに白羽に付き添って屋敷に——この部屋に戻ってきた彼女は、白羽の安静を確認したかと思うと、静かに跪き、そのまま額づく。

「どのような罰でも従う所存でございます」

 彼女の声は、自らの責任を果たせず主を危険にさらしてしまった辛さと苦しさに満ちている。責任感が強いが故の——白羽を大切に思っているが故の深い後悔。
 しかしレイゾンは彼女を責める気はなかった。もちろん、罰を与える気も。
 帰りの道中に経緯を聞いていたためもあるが……それだけではない。
 それよりも、確かめておきたいことがあった。

 レイゾンは小さく一つ咳払いすると、

「顔をあげろ」

 なるべく威圧感を与えないように配慮しつつ、サンファに言った。
 だが彼女はまだ顔をあげない。レイゾンは苦笑した。
 当初は彼女のことを、美しいが癖の強い、一筋縄ではいかない侍女だと煙たく思いもした。ここ最近は、レイゾンに対しても敵愾心を見せなくなっているが、実を言えば今でも少し苦手だ。ユゥは仲がよさそうで驚くが、きっと年が近いと通じるものもあるのだろうと思っている。
 そんなサンファだが、彼女の白羽への忠誠心は本物だ。それはずっと強く感じているから、好き好んで白羽を危険な目に遭わせたわけではないだろうことは察しがついている。
 いや、それ以上の理由で確認している。

 レイゾンは同じような声で、「顔をあげろ」と繰り返した。
 それでもまだ顔を上げないサンファに、静かに言葉を継ぐ。

「今回は何事もなかった。次から気をつければいい」

「——ですが——」

「それに、お前に少し尋ねたいこと……確かめたいことがある。なのにお前がそれでは話し辛い。顔をあげろ。そして俺の問いに応えろ」

「……」

 すると、レイゾンの言葉が気になったのか、サンファはそろそろと顔を上げる。だがまだ跪いたままだ。レイゾンは苦笑すると「立て」と命じた。

「白羽が目を覚ました時、お前がそんな格好ではまた倒れかねぬ。——立て」

「……は……」

 サンファは頷いてそっと立ち上がった。跪いた時同様に流れるような動きだ。少し人間離れしていると思うほどの。
 立ち上がったサンファを確認して、レイゾンは白羽に目を戻す。そして白羽を見つめたまま、改めてサンファに向けて口を開いた。

「……白羽のこの髪色だが……元に戻ったのは薬が切れたためか?」

「……おそらくは……。ですが……」

「『ですが』?」

「これほど早く効力が切れるとは思っておりませんでした。騏驥の医師に確認した上で量を調整して、随分効果を弱めたはずですが、それでも帰宅するまでは充分に続くはずだったのですが……」

「予想外だったというわけか」

「はい……。あの……それがなにか……」

「もう一つ」

 レイゾンは、今度はサンファを見て言った。

「この騏驥に、なにか特別な能力はあるか。俺に知らせていない、特別な力が」

「!?」

 サンファが目を丸くする。
 初めて見せる顔だ。彼女は普段は少し冷たく見える美貌を困惑の色に染めて「いいえ」と首を振った。

「ございません。その……レイゾンさまが仰られた『能力』というのがどのようなものかわかりませんが……。王城におりましたのでそれなりの立ち居振る舞いは当然お出来になりますが、それは騏驥としての特別の能力というわけでは……」

「そうか」

 レイゾンは再び白羽を見る。目を瞑っていても変わらぬ可憐な貌。ろくに馬の姿になっていなかった騏驥。駆けることの不得手な騏驥。そして今は声の出ない……。
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