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32 接触(3) 思っていたよりずっと優しい

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 そうしていると、レイゾンは、白羽の片脚を一通り揉み終え、

「——ほら、反対も寄越せ」

 ズイと手を差し出してくる。白羽は恐縮しつつも——そしてやはり羞恥を感じつつも(だって普段他人に脚なんて差し出さない!)、軟膏に塗れたレイゾンの手にもう一方の脚も預けた。
 不安定な姿勢を支えるように枕を重ねて寄りかかると、さらに身体が楽になる。
 騎士に足を揉ませて、自分はまるで寝そべるような格好で……と、改めて思うと随分と不作法で、本当にいいのかなと不安になるが、レイゾンはなにも言わない。
 気にしていないのか、もしくは、この方が本当に彼もやりやすいのか……。
 だとすればいいが、「そういう態度」でいるのが当たり前の騏驥だと思われては心外だ。それは前の主が——ティエンが騏驥に「そういう態度」でいることをを許していたと思われかねない。
 ——そんなことはないのだから。

 けれど——。
 騏驥の命とも言うべき脚を、しかも疲労が溜まっていたところを、これほど心地よく触れられると、「きちんとしていなければ」という意思もとろけてしまいそうだ。

「んっ……」
 
 そして次の瞬間。どうやら、ひときわ疲れていた箇所らしい脛の部分を少し強めに揉まれたとき。その気持ちのよさに、思わず吐息混じりの声が溢れてしまった。

「!!!」

 白羽は慌てて口元を押さえる。
 
(気をつけていたはずなのに……)

 一気に頬が熱くなる。鼻にかかったような微かな声は、そんなつもりはなかったのにやけに生々しく——艶かしいような響きを湛えて部屋に響く。白羽はどんな顔をすればいいのかわからない。ちらりとレイゾンを見る。聞こえていませんようにと願いながら窺ったその横顔は、白羽の目にはさっきまでと変わらないように映る。

(よかった……)

 ほっと胸を撫で下ろした。
 心なしか、脚に触れる指に力が増した気がしたが、それはさして気にならない程度だ。むしろ気持ちがいい。丁度良い間と力加減で、手際よく、しかし丁寧に脚を揉んでくれるレイゾンの手つきに、白羽は我知らず見入ってしまう。

(何だか不思議だ……)

 自分とも、サンファともティエンの手とも違う、ゴツゴツとした男っぽい手。よく見れば、皮膚の色が変わっているところもある。怪我か胼胝たこの痕だろう。
 ほんの数日前までは、目にすることもなかった。
 以前——ずっと昔、踊り子として一座の皆と国のあちこちを廻っていた頃に見て以来かもしれない。仲間の中に、そして白羽を買った者の中に、こうした手の者がいた。もっとも、彼らは騎士のレイゾンとは違い、力仕事をしていた者たちだっけたれど。
 彼らは、今はなにをしているのだろう。レイゾンと似たような手をしていて、けれど決してこんな風に優しく触ることのなかった者たちは……。
 
(あれから、ずいぶん経った……)

 心地よさに身を任せながら、白羽は取りとめなく過去を想う。
 貴族ではない出自を気にしているレイゾンよりも、自分の方がよほど下賤な「どこの誰とも知れぬ身」だ。父母の顔さえ知らない。生まれた日も土地も。本当の歳すら。
 侍女に傅かれることも、こんなに柔らかな夜具に包まれて眠ることだって子供の頃は想像したこともなかった。

 だからティエンにはどれほど感謝しても、し足りない程の恩がある……。

 そんな彼がいなくなり、城に留まることもできなくなり……。それなのに、まだ生きているのが不思議だ。生に執着はないと思っていたのに……。

(案外そうでもなかったのだろうか。それとも、何か生きている意味があるのかな……)

 後を追うなと言われたから——死ぬなと言われたから生きている。
 そのつもりだった——けれど……。

 つらつらと考えるその耳に、いつしか、猫がニァニァと鳴く声が届いてくる。
 遠くから——近くから。
 部屋の中を巡ることに飽きて、側にやって来たのだろうか?
 どこにいるのだろう。確かめたいのに、どうしてか目が開かない。「おいで」と呼びたいのに声が出ない。瞼が重い。猫——猫に触れたい。名前も考えなければ。なのに——。
 レイゾンの手に触れられているのがあまりに気持ちがよくて、なにも考えられなくなってしまう。

 そう——レイゾン。新たな主。彼はどんな顔をしてあの猫をもらってきてくれたのだろう。どうやって連れて帰ったのだろう? 懐に入れて?それとも肩に乗せて?

「ふふ……」

 想像すると頰が綻ぶ。白羽は枕に顔を埋めて微笑んだ。彼があんなに可愛い猫を連れ帰ってきたなんて。
 部屋に広がっている甘い香り。もうどのくらい、彼はこうして脚を揉んでくれているだろう。治療とはいえ長すぎる。もう十分です——と言わなければ。もう十分です——ありがとうございます——あとはサンファに……。そう言わなければ。

 ああ——でも。

 白羽は心からの心地よさを覚えて熱い息を吐く。
 なんて心地いい。
 彼の手は、まるで特別な、大切な騏驥に触れるかのよう。
 そんな風に触れられれば、安堵して——心から安堵して何の心配もなくうっかり眠ってしまいそうになる。

(彼がわたしを嫌っていることも、ティエンさまを侮辱したことも事実で、なにも変わっていないのに……)

(だから、起きなければ。目を開けて……起きて……。でなければ彼になんと思われるか……)
 
 このまま眠ってしまうなんて——まさかそんなことあってはいけない……のに……。

 のに…………。

「ぅん…………」

 心地よさが、抗いきれぬほどの眠気を連れてくる。
 白羽は最後の抵抗のような——もしくは気持ちよさの吐露のような吐息混じりの小声を一言零したきり、夢の中に攫われてしまった。
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