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15 新しい場所で 目覚めは良くない。心も身体も。

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  ◇   ◇   ◇



 穏やかな日だった。
 柔らかな陽が差し込む昼下がり。
 
 あれは、そう——。
 騏驥になって、まだ日が浅かったころだ。
 身体の変化に戸惑い、習慣の変化に慣れず、馬に変わったり人に変わったりの変化も上手くいかず、私が人知れずその練習をしていたころ。
 何度やっても思い通りにならず、焦ったさと悔しさに泣きそうになっていると、不意にティエン様が姿を見せたのだ。
 
 裸で庭に立ち竦む私に、そっと自身の上衣を着せ掛けてくれると、

『焦らずとも良い』

 微笑んで抱き寄せてくれた。綺麗な衣が汚れるのにも構わずに。

『そのうち慣れる。だが慣れずとも良い。私はお前がお前であるならどんな姿でも何であっても愛しいと思っているのだ』

 優しい声でそう言って。

 それはまるで、良い騏驥でなければここにはいられないと——貴い騎士である彼の側にはいられないと、不安になっていた私を護ってくれるかのような、そんな声だった。
 そして彼は、私の手を取った。馬の姿から人の姿に変わったばかりで、まだ泥だらけのその手を、ふわりと包むように。

 花の香りがしていた。陽の降る中、彼は淡く微笑んで言った。

『残念なことに……私にはさして取り柄がないのだ。だからあいにく、お前にも渡せるものもなにもない……。ただ……せめて……』

 温かな手が重ねられて、それだけでとても幸せになった。
 嬉しくて微笑むと、彼もゆるりと笑む。好きだった貌だ。
 他の誰よりも、何よりも。
 大好きだった貌——。
 大好き?

「……さ、ま……」

 呼んでいるのに、声が出ない。
 面影がどんどん薄くなっていく。遠くなっていく。どうして。
 どうして。
 呼んでいるのに。
 こんなに呼んでいるのに。
 どうして届かないのか。
 どうして声が出ないのか。
 どうして。

「——ティ……さ、ま……」 

 いない。
 どうして。
 どこへ?
 ずっと側に置いてくださると言っていたのに。それなのに。

「……ティエ……っ……さま……」

 探したいのに動けない。動かない。
 彼の元に駆け寄っていくためのこの足はどうしてこんなに重たいのか。あの人が愛してくれたこの脚。軽やかさはまるで鳥のようだと、まるで羽のようだと。そう言って——。

「……っ……ティエンさま……っ!」

 ………………。

 自分の声で目が覚めた。
 長く息を止めていたかのような動悸が全身を駆け巡っている。

 寝台の上、白羽は、額に、背に汗の感触を感じながらゼエゼエと大きく息を継いだ。
 目に映る天蓋は、どうしてかふわふわと揺れている。
 否。視界がじわりと滲んでいるのだ。
 ——涙のせいで。

「っ……」

 大きく息を継ぐと、目尻に溜まっていた雫がこめかみを伝って零れ落ちる。庭へ続く大きな窓越し、部屋に差し込んでくる朝の光の美しさが切なくて、逃げるように片腕で目元を覆った。

 違う。
 違うのだ。何もかも。
 ここは城内とは違う。別宮とは違う。亡き人を想って居続けたあの場所とは何もかも違っている。
 こうして横たわっている夜具の心地も、部屋の香りも壁や床を照らす朝陽の気配も——空気すら。
 何もかも。
 
 全てが変わってしまったのだ。
 あの人に、もう会えないように。

 白羽は唇を噛む。また目の奥が熱くなる。 
 いつまでこんな悲しい思いをしながら目覚めなければならないのだろう。
 城を出されて——城を出て、もう一週間。
 なのに、毎朝同じような夢を見て泣いてしまうとは……。
 これでは、ティエンを喪った時に戻ってしまったかのようだ。
 あれからもう四年経っているのに……。

 置いてくるつもりだった宝玉や衣——ティエンから贈られたものがシィンの気遣いによってこの屋敷に運び込まれたためだろうか。だから里心がついてしまっているのだろうか。それとも、この屋敷からでは、城の廟を訪れることさえできないことが、逆に彼への想いをつのらせてしまっているのだろうか……。

 時間が経って、悲しみも落ち着いたと思っていた。喪に服すうちに、悼む気持ちはゆるやかに寂しさに変わったのだと。
 けれど、そうではなかったようだ。
 まだ。

 まだ——忘れられない。
 忘れられない。
 何かのはずみで、こんなにも思い出してしまうのだ。
 例えばそう——ここはあまりにも、今までと何もかも違っている、そんなことまでがきっかけとなって。

(忘れられない……忘れたくない……。忘れない……)

 忘れるはずもない。
 今も、自分はティエンのものだ。

 ややあって、白羽は目元から腕を離す。
 涙もようやくおさまったようだ。赤くならないように気をつけながら夜着の袖口で目尻を拭う。涙の残った顔など見せれば、サンファに心配をかけてしまうだろう。
 朝の調教前。そろそろ彼女がやってくる時間だ。

 白羽はゆっくりと身体を起こして——。

「!? ……痛っ……!!」

 全身の節々に感じる痛みに、思わずきつく眉根を寄せた。
 さっきとは違う意味で、目に涙が滲んでくる。

「痛ぁ……」

 息をひそめ、改めてそろそろと半身を起こす。ただそれだけのことにやたらと時間がかかってしまう。
 背中、肩、腕、肘、背中、腰……。脚も全てだ。節という節、筋肉という筋肉がこわばっているような引き攣っているような痛みに苛まれている。
 身じろぐのも一苦労だ。
 全ての動きがギクシャクしてしまう。

(これがコズミか……)

 言葉だけは聞いていたが、今までの自分は経験した事のなかった痛みだ。馬が疲労した時に起こる筋肉痛。
 初体験だから比較できないけれど……これは結構酷いほうなのではないだろうか……?

 昨日までは「気のせいだろう」と思っていた身体のあちこちの痛み。だが、これはもう間違いない。この数日、慣れない調教を施されているせいで、全身がコズんでいるのだ。
 眠ってもとれないほどに疲労が溜まって……。

「困ったな……」

 白羽は眉を下げ、なんとか身体が回復しないものかと、自分で自分の手足を揉んでみる。だが気休めにしかならないようだ。相変わらず身体のあちこちが、昨日までの過度の運動の反動で悲鳴を上げている。
 この状態で、これからの朝の調教で走れるだろうか。いや、その前に馬の姿に変われるだろうか? サンファが馬装してくれる間、ちゃんと立っていられるだろうか……。

(でもやらないと……)

 騏驥にとっても騎士にとっても朝の調教は大切な時間だ。特に、この屋敷に来て初めて調教らしい調教をされている白羽にとっては尚更だった。

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