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【番外】離宮へ(23)
しおりを挟む刹那、ルゥイが、その場にいた全員が息を呑んだのがわかった。
畏怖と感嘆の気配が、漣のようにあたりに広がる。
シィンも僅かに目を見張った。
いつもそうだ。いつもそうなのだ。何度見ても、まだ慣れない。きっと一生、慣れることはないだろう。
この騏驥の雄々しさ——美しさ——素晴らしさには。
爽やかな午前の陽に映える輝くような栗毛は、赤味を帯びて燃えるようだ。
均整の取れた雄大な体躯。
大柄なのに、全く重そうな印象を与えない。伸びやかな四肢。背中のラインの見事さにはため息が出そうになる。引き締まって、けれど細くはない腹といい、ぱんと張り詰めたトモ(太腿)といい、蹄の角度といい、どれほど誉めても足りないほどだ。
見ているだけで、乗りたくてうずうずする。
この騏驥の——この素晴らしい騏驥の抜群の乗り心地を知っているのは自分だけなのだと、その興奮に全身が震えるようだ。
そんなシィンの傍で、ルゥイもまた魅入られたようにダンジァに目を向けている。
細部まではっきりと見ることはできなくとも、その大きさや迫力、騏驥が纏う気配の特殊さは伝わっているのだろう。
(やはりルゥイは……)
自分の想像が当たってるのではないかと、シィンが思ったとき。
ルゥイがふうっ……と長く息をつく。
そしてぎゅっと唇を噛み締めると、指先で目元を拭った。
「……ルゥイ……?」
どうしたのか、とシィンが声をかけると、
「悔しいです」
幼いとばかり思っていた弟は、大人びた声で言った。微かな声だ。けれどシィンは息を呑む。
いつもと違う声音。しかもそれを発したルゥイの目には涙が滲んでいたからだ。
ルゥイはダンジァを凝視したまま、頬を震わせる。
「……悔しいです。こんなに素晴らしい騏驥の姿を……はっきりと見られないことが……」
「……!」
ズキ……とシィンの胸が痛む。思わず顔を顰めると、それに気付いたのか、ルゥイは、あっ、というような顔を見せる。
そのまま身体ごとシィンに向いた。
「ち——違うのです、兄上。そういう意味ではないのです。ただ純粋に、良いものをしかと見られないことが残念で……。他意はありません。どうか気に病まれることのないよう……」
「…………」
だが、そう言われてもすぐに「わかった」とは言えない。
シィンがますます眉を寄せると、ルゥイがそっと近づいてくる。いつしか握りしめていた手に、静かにルゥイの手が添えられた。
「兄上、もう昔のことです。それに兄上のせいではありません。わたしは、なにも気にしていません」
「わたしは、ずっと覚えている。どれほど日が過ぎても、ずっと——」
食い縛った歯の隙間から搾り出すような声で、シィンは言った。
あんなことがなければ、ルゥイにも騎士としての未来があったはずだ。こんな風に離宮で暮らし続けるのではなく、もっと自由で明るい未来が。
それなのに——。
シィンは唇を噛む。
何度も何度も考えた。出来はしないとわかっていても、あの日に戻れれば、と。
「……兄上」
そんなシィンの耳に、ルゥイの声がした。彼の声も苦しさを含んでいる。
「きっとお辛そうな顔をなさっているのでしょう? どうか、そんな顔をなさらないでください。本当に、そんなつもりで言ったのではないのです。思わず口をついた言葉で兄上にそんな顔をされては、わたしも困ってしまいます」
「……」
「それに、騏驥に恨まれます」
どこか巫山戯るように言うルゥイに、シィンの身体からもようやく力が抜ける。
そうだ。
自分が後悔の素振りを見せれば、それこそがきっとルゥイを苦しめるだろう。
もう騎士にはなれないのだと、その度突きつけてしまうことになるのだから。
シィンはルゥイを見つめ返すと「わかった」と頷く。ルゥイの貌に笑みが広がった。
「騏驥の全てを見られないことは残念です。けれどその一方で、やはり馬の姿を見ることができてよかったと思っています。ありがとうございます、兄上。これが『赤』なのですね」
「……ああ」
「これが——兄上の騏驥なのですね」
うっとりとダンジァを見上げるルゥイに、シィンは再び「ああ」と頷く。
わたしの騏驥だ。
特別な、大切な、ただ一頭の。
「……ルゥイ」
シィンは、まだダンジァを見つめているルゥイに、そっと話しかけた。
こちらを向いた弟に、ゆっくりと続けた。
「お前も、騏驥とともにいたいと思うか」
「!」
視線の先の表情が強張る。
しかしそれは一瞬。ルゥイはすぐに「はい」と頷く。
シィンはそんな弟を見つめ返すと、小さく、しかし深く頷いた。
「……この数日のおまえの様子を見ていて、わたしも色々と考えさせられた。お前は、騏驥に対して鋭敏だ。並の騎士よりも、ずっと」
「…………」
「それは”血”ゆえかもしれぬな。お前もわたしと同じなのだから」
「……」
「兄としては、お前を危険な目に遭わせたくない。騏驥と接することは、お前の体調にとって決していいことではないことは確かだからだ。だが……」
シィンは改めてルゥイを見る。こちらを食い入るように見つめてくる弟を。
「だが、それでも騏驥を求めるお前の気持ちも判るつもりだ。そして——」
シィンは言葉を切る。僅かな間ののち、ひときわ真摯に続けた。
「そして、この国の王太子として、お前の存在を貴重なものだと思っている。騎士にはなれなくとも、騎乗はできなくとも、お前の存在は騏驥にとって良いものとなるだろう。ならばこのまま捨て置くわけにはいかぬ」
ルゥイの喉が、微かに上下する。
シィンは微笑んで続けた。
「お前の知識を、お前の騏驥への想いを活かせるよう、わたしの方で今後のことを手配しよう。まずは魔術師だ。お前の魔術力の安定のために、相性の良い者を探し出し、調整する必要がある……」
「——はい」
「だがゆっくりだ。あくまでお前の身体が一番なのだからな。何か異常があればすぐに止める」
「はい」
「母上が知ればお怒りになるだろうが……そのときはわたしのせいにすれば良い」
「そんなことはいたしません。わたしが、それを望むのですから」
はっきり言うと、ルゥイは嬉しそうに微笑む。
そしてシィンの前に片膝をついた。
「殿下のお心遣いに、深く感謝いたします」
そう言って頭を下げたルゥイをシィンはしばし見つめると、ややあって立つことを促す。
目が合うと、どちらからともなく微笑みが溢れた。
嬉しそうなルゥイを見ていると、思い切って言って良かったと思う。
(ルゥイはああいうが……母上はきっと烈火のようにお怒りになられるだろうな……)
それだけは少し心配だったが、構わない。
自分が怒られれば済むことだ。
ルゥイへの最後の”誕生日の贈り物”を終え、シィンはふっと息をつく。
城へ戻るために、ダンジァに人の姿に戻るように言おうとして——。
その姿を再度見た途端、ぐっと胸が熱くなった。
いつからそうだったのだろう?
シィンたちを見つめるダンジァの眼差しは、この上なく温かだったのだ。騏驥の、澄んだ大きな瞳。
彼は今、馬の姿だ。けれど伝わってくる。彼の心が。
離れていてもずっと気遣ってくれていた、彼の——。
「っ」
気づけば、シィンはダンジァに飛び乗っていた。
馬車の用意をしていた随身たちが目を丸くしているのが見える。他の者たちもだ。ルゥイ以外の全員が、呆気に取られたようにシィンを見つめている。
離宮から街中を通って城に戻るのに、まさか騏驥に騎乗するとは思っていなかったのだろう。
だがシィンは、もう降りる気はなかった。
乗ったまま手際よく、ダンジァに手綱をつけると、
「わたしは騏驥とともに先に城へ戻る。皆、ゆっくりと戻ってくるがいい」
騏驥の上からそう告げ、
「——ルゥイ、またな」
笑顔で言って、ダンジァを促す。
「またすぐにいらしてくださいね!」
ルゥイの跳ねるような声を背中に聞きながら、シィンはゆっくりとダンジァのスピードを上げる。
ここはまだ離宮の敷地内。最高速とまではいかなくとも、街中まではそれなりの速さで駆けられる。
思いのままに騏驥を走らせる覚えのある感覚に、ゾクゾクした。
ずっとずっと、彼に乗れていなかったのだ。
ずっと近くにいたのに、思うように触れ合えていなかった。もどかしかった。
「——ダン」
シィンは、手綱を通して彼の騏驥に話しかけた。
「このまま、なるべく早く城へ戻るぞ。なるべく早く戻って、昼食まではお前と二人きりになる。もう決めた。これ以上お前に触れられぬなど、耐えられぬ」
<はい。はい——シィンさま>
すると、声はすぐさま返ってくる。
彼もまた、それを望んでいたかのように。
笑みを深めたシィンの視界に、衣の端が映る。
一瞬でわからなかったが、母の着ていたものに似ている気がした。だが、こんなところにまで——散歩に?
まるでわざわざ見送ってくれたかのようだ。
シィンはしばし考え——僅かに笑む。
城に戻ったら、このこともダンジァに話してみようと思った。
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